「…御自慢の温室と伺っていました」

「うん」

かなり回復したの手を引いて、蔵馬は庭の温室へやってきていた。

ガラス張りの広大な温室には緑が生い茂るばかりで、花らしい花など見えもしない。

「花盛りの一時期がちょうど過ぎたんだよ。これからまた次の時期が来る」

ほら、と示された先には視線を巡らせる。

よく見れば細い茎の先に新しい葉がついて、小さなつぼみが膨らみ始めていた。



政略結婚の王様とお姫様   エピローグ



「温室には花ばかりだけどね、奥庭には実のなる木もあるよ。食べられるやつ」

「くだものの木ですか?」

「うん、子どもの頃はよくみんなで木に登って実をもいで食べたな」

はくすくすと楽しそうに笑った。

「蔵馬…この温室、時期が過ぎただけでこんな状態にはならないでしょう?」

「うーん…まぁ…そう…なんだけど…」

蔵馬は苦虫を噛みつぶしたような顔でしぶしぶ認めた。

が伏せていた間の見舞いとして届けられた花々は元はこの温室に咲き誇っていたに違いないのだ。

「せっかくお手間をかけて育てたお花だったでしょうに…」

「いいんだよ。それに…他にできることがなかったから」

蔵馬はを見下ろして微笑んだ。

の身体からは毒素がようやく抜けて、やっと健康を取り戻しつつある状態だ。

少しずつ城内を歩き回ることから始め、天気の良い日は庭に出て風にあたってみたりもする。

他の誰も入ることを許されていないという温室に、蔵馬は躊躇いなく妻を招き入れた。

「…今はこんなだけどね。花が咲いている時期はそれは素晴らしいんだよ。信じて」

「ええ、届けてくださったお花はどれもとても素敵でしたもの」

もうほとんどがドライフラワーになってしまった今となっては記憶の内に咲くばかりの花々だ。

「私、ここに入ってもいいのですか?」

「いいよ。だけ特別」

そう言った蔵馬にはにっこりしてみせると、繋いでいた手を見下ろした。

「植物のお世話がお上手な方のことを、みどりのゆびを持っていると言いますね」

「ああ、聞いたことあるな」

は嬉しそうに蔵馬の指をそっと撫でた。

結婚してからやっと半年。

ゆるやかにゆっくり時間をかけて、ふたりは結婚したあとの「初恋」をしている頃だった。

まだ大輪の花は咲かず、実もならず。

夜更けまで雑談をしながら一緒に眠るようにはなったものの、

まだの体調を気遣って、蔵馬は花嫁の身体に指一本すら触れることをしていない。

手を繋ぐことだけはやっと自然にできるようになってきて、

つい蔵馬がそれを忘れて歩こうとするとはちょっと拗ねたように立ち止まってしまうのだった。

開け放たれたままの温室の扉から、外の風が吹き込んできた。

ちょうど二人が歩いていたそばに細い蔓が伸びた植物があり、

それが風に煽られてひらひらと揺れると、の髪をひとすじ絡め取ってしまった。

「あ、」

振り返ろうとしても髪を引っぱられてしまって身動きがとれないに、

蔵馬は気付いてふっと笑うと、じっとしてと言ってそばに寄った。

蔓に絡まったひとすじの髪をそっとほどきにかかる。

が痛い思いをしないように細心の注意を払いながら。

一方のは蔓につかまえられたままで蔵馬が髪をほどいてくれるのを待っている。

ぴくりとも動けないような状態だが、俯き加減にじっとしているとはたと気がついた──

まるで蔵馬に抱きしめられているような状態だった。

一緒のベッドで眠るようになっても彼はの身体を抱きしめてくることすらしないし、

ちょっと髪を撫でたり手に触れたりする程度で手を引っ込めてしまう。

額と頬とにくれた以外に、一度たりともキスをしてくれもしない。

本当はは、もっとそばに来て欲しい…とか、もっと触れてみて欲しい、なんて思っているのに、

彼の気遣いを無にしたくなくてそれを口にすることが出来なかった。

もっとも、完全なる健康体でいようとも、そんなことをねだるのは恥ずかしいに決まっている。

こんなにそばに寄り添って立つのは初めてで、は気がつくなり緊張して身体をこわばらせてしまった。

蔵馬がそれに気付かなければいいと思ったが、彼は気遣わしげに「痛かった?」と問うてきた。

髪を引っぱってしまったらしいのだが、はそんなことにちっとも気付かなかった。

(ああ、もっと、私の髪を絡めたままでいて)

何の花が咲くのかもわからないその蔓のひと枝には密かに願いを込めた。

蔓が絡まり続ける間は、それが無意識でも、こんなにも恋しい人のそばにいることが出来る。

自分の口からはとても言えない。

抱きしめて。

キスして。

蔵馬。

なかなかほどけてくれない蔓にいい加減いらいらしていた蔵馬は、

いっそぶちんとちぎってしまうかとまで考えたが思いとどまった。

胸元に額を寄せて俯いているは、少し赤い顔をしているように見える。

気がついているのだろうかと蔵馬は思う。

が眠っているベッドにそっと入るとき、何度理性が外れそうになったかわからない。

ただ、たぶん花が咲く時期が自然と巡るのと同じように、に触れるにも自然とそんなときが来るのだろう。

そしてこれまではその時期ではなかった、だからよけいに手を触れることを自分に禁じたのだった。

ある程度の距離をそうして保ってきたとの間がこんなにも縮まった。

風の悪戯か、蔓の仕業か、そんなものを装って今こそ時期が巡ったのだろうか。

髪に触れているこの指を背に回しただけでを抱きしめることが出来る。

すっかり仲が打ちとけた今、に触れることを躊躇う理由に体調を気遣ってなどと言うのは

いかにも言い訳めいている。

本当はまだが怯えてしまうのではないかと恐れている自分を蔵馬は知っている。

今どんなに親しかろうとも、出逢った最初に蔵馬がにとった態度はひどいものだった。

それが蔵馬にとっては不本意なものだったとしても、が受けた印象は嘘ではなかったのだから。

キスをしようとしてとどまったあのとき、の身体が一瞬びくりとこわばったことを蔵馬は今でも覚えている。

あんなふうに怯えられるのが恐かった。

──否。

「あ…ほどけた、やっと」

髪を引っぱり続けていた蔦がぱたりと落ちた。

「よかった、髪…そんなに崩れていないみたいだ」

せっかくきれいにしたんだからと蔵馬はを見下ろして笑って見せた。

今となっては、もう少し絡まったままでいてくれてもよかった気がする。

意図的にもたもたしてみたのに、割と簡単にほどけてしまった。

に寄り添って立っていられる口実が失せてしまったではないか。

少し残念に思っていると、もなんだか名残惜しそうにふっと息をついた。

「…ありがとう」

なんとなく不機嫌そうな色を孕んだ声だった。

は肩越しに振り返り、自分の髪を絡め取った蔦を見下ろした。

少し切なそうなその視線を横から眺めて、蔵馬はふっと気がついた──も同じことを考えていたのだ。

もう少し、つかまえていてくれたら。

もう少し、そばにいることが出来たのに。

気がついて、蔵馬はわき上がる笑みと嬉しさをこらえることが出来なかった。

「…口実がなくちゃそばにいられないって、変だよね」

控えめににそう言ってみると、はびっくりしたように振り返った。

「え?」

「蔓に感謝しなきゃ」

「………」

「…抱きしめてもいい?」

は赤い顔で蔵馬を見上げたっきり、どう答えていいかわからずにひたすら黙り込んだ。

蔵馬はの返事を待たず、少しぎこちなくその背に腕を回して、ほそい身体を包み込んだ。

今こうして抱きしめ合ったら、脈打つ鼓動の速さがにそっくり伝わってしまうだろうけれど…

そう思いながら。

、…好きだよ」

耳元で熱っぽく囁かれた言葉に、はちいさく何度か頷いた。

男性にしては華奢に見える彼のその腕は、が思っていたよりもずっと逞しく力強かった。

耳まで届きそうな心臓の音に耐えながら、は蔵馬に抱きしめられるままに目を閉じた。

が身じろぎもせずにいてくれることに蔵馬は安堵の息をもらす。

抱きしめ返す勇気までは出ないようで、はおずおずとその細い指で蔵馬のシャツの裾を軽く握りしめた。

それだけで胸を貫くような甘苦い痛みを感じる。

恐かったのは怯えられることじゃない。

怯えられて、そうして拒否されて自分が傷つくのが恐かったんだ。

そのことに気がついた一瞬、蔵馬はもう迷ってはいけないと自分をさとした。

抱きしめていた腕をゆるめると、はまだ蔵馬と目を合わせることが出来ないままに、熱を孕んだ息をついた。

額に、頬にキスを落とす。

にもなにか予感があったのかもしれない。

ほんの一瞬視線が絡んだあとで、はゆっくりと目を閉じた。

わき上がる感情に身体中むず痒いような思いをしながら、蔵馬はの唇にそっと優しいキスを贈った。

たった一瞬のその触れあいだけでの目には涙が浮かんでいた。

は慌てて俯くと涙を拭う。

「…ごめんなさい…びっくりしちゃった…」

少し焦ったような明るい口調が愛らしくて、蔵馬はまたを大切そうに抱き寄せた。

「大事にする…オレの花嫁さん」

自分で言った台詞が妙に気恥ずかしくてふっと笑いを漏らすと、も蔵馬の腕の中でくすくすと笑った。

まだキスをするにも躊躇いのある距離は、また時間をかけて少しずつ縮まっていくだろう。

ガラスの温室にまた花が咲き誇る頃には、二人の間にも大輪の花が咲いているかもしれない。


end.


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