パラレル006 政略結婚の王様とお姫様


長らく対立を続け、いつの世の王の時代も戦に明け暮れてきた、隣り合った国同士があった。

一方の国は切れ者と名高い跡継ぎが新王となり、それまでの圧政を退けて国は次第に栄え始めた。

もう一方の国は年老いた王が病を患い、国は衰退の一途を辿っている。

老王には王妃の忘れ形見の美しい姫君がひとりいた。

王のただ一つの心配は、可愛い一人娘のゆく末。

死を前にして王の頭に浮かんだのは、隣国の若き新王の姿だった。

姫君を隣国の王妃として嫁がせることができれば、長らく裂かれた民族はまたひとつにとけあい、

国はまとまり、姫君自身も不自由なく一生を送ることができる。

戦うことに疲れた老王と大臣たちは、姫君に断りなくこの縁談を良策としてまとめ上げ、

隣国の新王に申し入れてしまった。

当の姫君本人がそのことを知ったのは、新王が縁談を承諾し、二国揃って婚礼の準備に取りかかった頃だった。

敵国に嫁ぐなどと、人質に差しだされるも同然。

姫君は慌てて父王に泣きついたが、王家に生まれたもののさだめと言われれば抗う余地はない。

姫君が花嫁衣装を合わせたところを見たあとで、老王は静かに息を引き取った。

丸一年かけての婚礼準備は整いつつあったが、老王の喪に服す意も込め、

婚礼はできるだけ質素に行われることとなった。

それでも、長い戦いの歴史に幕が下りるとなると、人々の安堵は計り知れない。

祝福と祭の熱気が二国中に高まり続けていた。

(きっと恐い人だわ。粗野で、乱暴で…)

戦争に明け暮れた国の王子だったのだから。

姫君は自分のことを棚に上げてそう考えた。

姫君は争いがいちばん嫌いだった。

自分が成人したあかつきには、必ず戦争を終結させようと固く誓っていたのだ。

それが、思いも寄らないかたちで成就されてしまった。

(これも、その手段のひとつ…?)

まったく自分の意に添わない方法、政略結婚。

それでも姫君は、人々が安心して暮らせるようになるのならどんなことにも耐えるという覚悟を決めた。

締めつける帯に息もままならない状態で、くらくらとしながら姫君は考えを巡らせる。

何か考えていなければ、不安のあまり泣き出してしまいそうだった。

長くて退屈で堅苦しいいくつもの儀式を越えて、姫君はやっと控えの間で休むことを許された。

それも、婚礼の儀までのほんの少しのあいだだ。

花嫁衣装に身を包んだままで、休まるどころの話ではなかったが。

甘く、きつい花の香りがする茶を振る舞われたが、呼吸困難に陥りかけている姫君には苦痛だった。

それでも、きりりとした冷たさだけはありがたい。

ほっと息をつくと、どうも部屋の外が妙に騒がしいことに気づく。

侍女たちの慌てふためいた声が聞こえた。

「おやめください、姫様はお休み中でございます!」

「陛下!!」

「王が自分の妃に会って何が悪い? そこをどけ」

冷たい口調の声が、厚い扉を隔ててもはっきりと姫君の耳に届いた。

思わず身体をこわばらせる。

ばん、と勢いよく扉が開かれ、見たことのない顔が数人部屋になだれ込んできた。

先陣を切って入ってきたのは、赤い長い髪が目を引く青年だ。

彼は雑多な部屋の中をくるりと見回して、改めて気がついたように姫君に目を留める。

つかつかと近寄ってくると、目の前で立ち止まり…品定めをするように姫君を眺めた。

「…ふーん」

一言漏らす。

これほどまでに無礼な振る舞いを受けたことがなかった姫君は、カッとなって青年をにらみ返した。

「無礼ではありませんか!」

いきなり怒鳴られて、青年はきょとんとしてしまった。

数瞬後、にこりともせずに彼は口を開いた。

「失礼。威勢がいいね、姫君。名は」

結婚相手の名前も知らないのかと問いつめたかったが、押し殺して耐え抜いた。

「…と、申します」

か。わかった」

「あなたが、蔵馬様ですか」

「そうだよ」

それだけ言うと、彼はくるりと背を向けて扉のほうへ戻っていった。

一緒に入ってきた面々も物珍しげに姫君…を眺めていたのだが、先程の一喝に少なからず臆した様子だった。

「なんだ蔵馬、もういいのか? 花嫁さんとのご対面は」

「いいよ、もう済んだ。行こうか」

振り返りもせずに部屋を出ていく。

蔵馬と一緒にやってきた青年たちのほうがむしろ名残惜しげにのほうをちらちらと見ながら、

ためらうように部屋を辞した。

(………!! なんて人なの!!)

煮えくり返る怒りを静めるのが精一杯で、は唇を噛みしめた。

一気に感情が高まったせいで、望みもしないのに涙が溢れてくる。

「…姫様、お気を静かに…」

「なんという無礼な真似を…おいたわしい、姫様…」

侍女たちがを落ち着かせようと口々に言うのだが、なんの慰めにもなりはしなかった。

婚礼の儀、は赤い目を誤魔化すこともできずに蔵馬の横に立った。

誓言をするだけで誓いのキスも何もなかったが、にはそれが幸いに思えた。

まだおさまらない怒りと呼吸困難とに、ただ思考を奪われる。

(…息ができない…)

頭がくらくらするのもそろそろ耐え難い。

先程蔵馬と一緒に控えの間を訪れた面々や、恐らく他にも友人たちと思われる人々が大勢ふたりを取り囲んだ。

祝いの言葉もなにも、もう耳に入ってこない。

「………!?」

蔵馬が慌てた声で呼んだのが聞こえ、世界が反転し…は意識を手放した。



「帯を締めすぎていたせいだ」

「女って大変だな…いろいろ」

「…もう少し様子を見るよ」

「ああ、目ェ覚ましたら教えてくれな」

「…明日の朝にね」

「おう。…まだ襲うなよ?」

「………」

「わ、悪い悪いっ! じゃな!」

ぼんやりと、覚醒しきっていないの耳にそんな会話が届いた。

まどろみのままに視線を巡らせると、薄暗い部屋にわずかに灯りが射し込んでいる。

光を部屋の中へ呼び込んでいる扉の向こう側とこちら側とにひとりずつ誰かが立っているが、

話が済んだらしくふたりは別れて扉は閉められた。

部屋にただ薄暗さと静けさが戻る。

室内に残ったひとりは、足音を立てぬよう配慮しながらの眠るベッドのほうへと歩み寄ってきた。

蔵馬だ。

はまだぼんやりとしたまま、また目を閉じる。

そのまま眠りに引き込まれてしまいそうだった。

彼はベッドのそばに椅子をひとつ引き寄せて、そこに座った。

じっと、眠るを見つめている。

彼は何をしているのだろうとは思った。

意識はまだはっきりとはしてこない。

永遠のように思われる長い時間がそのまま過ぎたように思われたが…ほんの数分経ったかどうか。

蔵馬はふいに立ち上がると、に覆い被さるようにベッドに手をついて、の唇にキスを落とそうとした。

さすがにの意識ははっきりと覚醒したが、身体がこわばって寝たふりのまま動けない。

あとほんの少しで唇に触れる、蔵馬はそこでためらったように逡巡し…離れてしまう。

唇を避けて額にそっとキスをすると、悩ましげに息をついて、ぱっとベッドから離れた。

そして、くるりと背を向けると部屋から出ていってしまった。

扉が閉まる音がしてしばらく、はやっと目を開けた。

(…………蔵馬…?)

先程の無礼千万な彼からは想像もつかない行動、とびきり優しいキスに、は混乱してしまった。

乱暴で粗野な、争い好きのと想像していて、その通りだと認識していた夫に、まったく違う表情を見てしまった。

もしかしたら恐いだけの人ではないかもしれない、のだろうか。

翌日、は一日ベッドで休んでいることを許された。

朝の少し遅い時間に軽い食事を済ませると、蔵馬が部屋を訪れた。

昨夜のことを思いだしては戸惑ったが、蔵馬は婚礼の儀の前に会ったときと同じ、冷たい視線でを見下ろした。

「体調は」

「…悪くありません」

「そうか」

会話が続かない。

は気まずさに目を伏せた。

蔵馬の態度は変わらず、ベッドにかろうじて起きあがっている状態のをまだ品定めするようにじろじろと見ている。

「今日は一日休んでいるように」

「…はい」

「オレは執務室にいる」

何かあったら呼べとだけ言い置いて、彼はまたすたすたと早足で部屋を出ていった。

(…やっぱり、失礼な人よ)

おはようの一言もなければ、大丈夫かと聞くこともしなかった。

これが生涯をともにする相手かと思うと、不安はますます募るばかりだった。

仮初めでも愛情を抱くことができればいいと、心底にわずかに抱いていた希望まで砕かれてしまった。

この先どうなってしまうのか、わからずに消え入りそうになる。

ゆっくりと過ぎてゆく時間に不安を取り払うこともできず、は無理矢理眠ろうとすることしかできなかった。

そうして目覚めたのは昼食の頃。

起きあがってふと目をそらすと、見事なバラの花が飾られていることに初めて気がついた。

「きれい」

何気なく呟くと、侍女たちが嬉しそうに目を見合わせる。

様、それは蔵馬様からのお見舞いですわ」

「え?」

「蔵馬様は植物を専門に学ばれた方ですから…」

「そのバラは新しく品種改良されたものだそうですわ」

「咲かせるのが難しい花を、すべて惜しげもなく切っておしまいになって」

「でも、」

「長旅のお疲れもあるでしょうし、少しでも様のお気が休まればとのご配慮です」

「なんてお優しい旦那様でしょう」

に反論の余地も与えずに侍女たちがうっとりとそう言うのに、

は信じられない思いで大輪のバラの花を見やる。

柔らかな紅色の花びらは愛らしくて、確かにの心を惹きつける。

けれど、これまでの彼の態度から、そんなことをするなどと想像もつかなかった。

食事のあとでまた現れた蔵馬に、は思いきってそのことを問うてみた。

「…侍女たちが喋ったな」

「いけませんか?」

「別に」

蔵馬はふいとそっぽを向いた。

とりつくしまもないその様子にまた気まずさばかりが募って、は黙ってうつむくより他なかった。

「…バラは嫌いか」

「え?」

「嫌なら処分しろ」

「いいえ…花はみんな好きです。ありがとうございます」

蔵馬と目を合わせることもできないまま、は礼を述べた。

蔵馬はそれに答えもせず、何かあったら呼べと先程と同じように言い置いて部屋を出ていった。

(…何を考えているの?)

出会って一日目ではあるが、どんな人物であるのかがまったくつかめない相手だった。

それからというもの、が眠って起きると傍らに花が増えていた。

色も種類も様々。

日にちが過ぎて、見舞いという名目が通用しないほどが回復しても、必ず花は枕元に届けられた。

侍女たちはまたうっとりと、蔵馬が自分の手で育てた花を惜しげなくばっさり切って、

自分の手で届けに来るのだと語って聞かせた。

は一度もその場面に遭遇したことがないために、いまいちその話を信じることができない。

(…でも、あの人…園芸が趣味なの??)

かなり意外だった。

の祖国…とはいっても、今は二国が統一されてひとつの国となった。

敵国へ嫁いだ身という意識はあっても、の祖国にいることに違いはない。

幼い頃を過ごした懐かしいあの城では、姫君が土をいじることは許されなかった。

床に落としたものを拾うために屈むことも咎められた。

本一冊を持つことすら重いからと侍女が引き受けた。

それが、王家の一員の、今となっては大国をまとめ上げる立場にいる国王が好んで土いじりをするとは?

それもいまいち想像のつかないだった。

(…意外と、普通の人なのかしら)

友人が多いことも知った。

はまだまともに話したこともなかったが、いつも誰かしらに囲まれている。

王をはじめ、政治に直接携わるのがみな年若い友人たちであるらしかった。

それも、老いた父親と長く城に仕える大臣たちで政治を執る様子ばかり見てきたには

にわかには信じがたい光景だった。

その友人たちと一緒にいるときだけは、蔵馬も年相応らしい笑顔を見せるというのに、

に対する態度はいつまでも頑ななままだ。

(…でも、冷たい人だわ)

友人たちにするように、自分にもちょっとくらいにっこりしてくれればいいのに。

(そうしたら、ちょっとなら好きになれるのに…)

無意識にそう思ったあとで、好きになれるのにという言葉に自分で驚いた。

放っておかれて冷たく突き放されて、寂しいと思う気持ちは自覚していた。

それの反動なのだろうか?

はその冷たい人にすがりたい気持ちを抱き始めているらしかった。

(…誰でもいいから、気持ちを許せる相手ができればいいのに…)

そう思いながら、はただ無為に日々を過ごさざるを得なかった。

寂しさと不安とが重なる日々に、それが身体に影響したのだろうか。

はまた体調を崩して伏せることが多くなった。

枕元には相変わらず花が増え続けている。

仕事に忙しい蔵馬とはほとんど会う時間がなかったため、は枕元に花が増えたのを見ては夫の存在を知るのだった。

ある日、うとうととしていたの耳に、蔵馬の怒声が響いた。

驚いて起きあがると、隣室で騒ぎが起きているらしい。

様、そのままでおいでください」

「今蔵馬様がおいでになりますから…」

侍女たちがそう言ってを留めたが、尋常ではない騒動に不安をかき立てられてじっとしてはいられない。

立ち上がったが聞いたのは、耳を疑うような言葉だった。

「その女を捕らえろ。オレが直接刑を下してやる、有り難く思え」

「…!!」

は思わず隣室へ駆け寄った。

様!」

「お待ちください、様…!!」

侍女たちの悲鳴に、蔵馬は寝室のほうを振り返った。

青い顔をしたが、扉の一歩奥に立っている。

「何を、何をなさるおつもりですか!?」

「…寝ていなさい」

「嫌です」

蔵馬の足元に、捕らえられてひれ伏す格好の侍女がひとり。

彼女を押さえつけるのは蔵馬の友人たちだった。

「乱暴なことはしないでください」

「…わかっていないようだな」

「わかっていないのはあなたのほうです!」

は怯まずに蔵馬をにらみつけた。

友人一同はハラハラしながらふたりのにらみ合いの様子を伺っている。

様! 御慈悲を…!!」

押さえつけられた侍女が叫んだ。

「テメー、この期に及んで…!」

更にきつく押さえつけようとするのを見て、は悲鳴に近い声を上げる。

「やめて、離してあげて!」

は侍女に駆け寄って、彼女から皆の拘束を解こうとした。

、離れろ!」

蔵馬が慌てて止めに入る。

混乱のさなか、侍女の拘束が緩んだのが見えた。

起きあがって姿勢を立て直した侍女の手に、光るものが握られている。

「………!!」

覚悟、と叫ぶのが聞こえた。

悲鳴と叫び声、振りかざされた鋭利な短刀、切っ先はまっすぐにの心臓を狙い、

それを押さえつけようと伸びる幾多の頑強な腕、はとっさにきつく目を閉じた。

暗闇に飲まれる瞬間、赤い血がパッと飛ぶのが見えた。

………沈黙。

痛みを感じなかった。

はおそるおそる、ゆっくりと目を開ける。

どこにもなにも、怪我など負っていない。

緊張したその身体を、蔵馬がかばうようにきつく抱きしめていた。

左の腕に血がにじんでいる。

「蔵馬、大丈夫か?」

「ああ、かすっただけだ…大したことはないよ」

彼はを抱きしめたままで、後ろからかかった声に目線だけ振り返る。

捕らえられた侍女を示す。

「…そいつの処分はあとで決める、どこかに入れといて」

先程の勢いはとうに削がれ、ぐったりと力の抜けたような侍女を引きずるようにして、

友人たちは皆部屋を去った。

蔵馬は扉が閉まるまで見届けると、ほっと安心した息をつく。

一部始終を見ていた侍女たちが力無くぺたりと床に座り込んだ。

「………」

「…

痛いほどを抱きしめていた腕がやっとゆるめられた。

「怪我は? どこか痛まないか」

力無くは首を横に振る。

わけもわからずにぼろぼろと涙がこぼれた。

蔵馬はそれを見て一瞬ぎょっとしたように身じろいだが、やがてちいさく安堵したような息をつく。

「………よかった」

そう言った口元が優しく微笑んでいるように見えた。

涙のせいで錯覚しているとは思えない。

状況が状況だというのに、蔵馬が初めてに笑いかけてくれたというそのことだけで、の胸はひどく高鳴った。

「あ、あなたが、怪我を…」

「ああ、ちょっと引っかけただけだから…気にしないで」

そう言うと、困ったような顔をしての顔をのぞき込む。

「恐い思いをさせたね…」

優しい声でそう言うと、そっと溢れる涙に口づけた。

「泣かないで…もう大丈夫だから」

慈しむような仕草で、を包み込むように抱きしめてくる。

夢だろうかとつい思ってしまうほど、蔵馬の豹変ぶりは信じられない。

「とにかくまず君はベッドに戻ろう、あまり動き回るといけない」

怪我をした腕をかばうこともなく、蔵馬は軽々と妻の身体を抱き上げる。

一瞬怯えてしがみつこうとするに、またふっと微笑みを向けた。

侍女たちもやっと我に返って、寝室へ向かう蔵馬のあとについてくる。

の身体を気遣うようにして、蔵馬はベッドに彼女を横たえてやった。

「…眠れそう?」

シーツをの肩までちゃんとかけてやりながら、蔵馬は心配そうに問うた。

「…なにがあったのですか…?」

「うん…あとで、落ち着いたら話すよ」

蔵馬は少し苦しげな様子だったが、なだめるように言葉を濁した。

そっと指を伸ばすと、の髪を優しく撫でる。

「…執務室にいるからね。何かあったら、すぐに呼んで」

以前同じ意味のセリフを聞いたはずだ。

どういうことなのかわからずに、はただ唇を噛みしめて小さく頷いた。

会話がそうして途切れてから数瞬、蔵馬はまた逡巡したように立ち尽くす。

なにか覚悟を決めたような顔でベッドに手をついて、の唇にキスを落とそうとする。

嫁いできたその日の、倒れたあの夜をは思い返す。

同じように身体は緊張してこわばった。

あとほんの少しで触れ合う、そんな距離で蔵馬はまたためらって…離れてしまう。

そうしてまた唇をそれて、頬に優しく口づけると身を翻して早足で去った。

部屋を出る間際に侍女たちになにやら言い含めるのみで、のほうを振り返りもしない。

やがて足音が遠ざかっても、はまったく事情を飲み込めずに混乱するばかりだった。

その夜。

やっと眠りにつけそうなくらいには落ち着いてうとうととし始めたに一礼し、侍女たちは部屋を下がる。

薄暗い闇が漂う部屋に、しばらくしてからノックの音が響いた。

返事を出来ずにぼんやりと扉を見つめていると、やがてゆっくり遠慮がちに開き始める。

足音を忍ばせ、蔵馬が寝室へ入ってきた。

ゆっくりとベッドに近づいてくると、の様子を伺いながら端に腰を下ろす。

「…眠ってる…?」

小声で聞いてきた。

は声も出せないまま、かろうじて首を横に振った。

「落ち着いた?」

「…はい」

「…脅かしてしまったね」

先程の騒動を思い出して、は目を伏せる。

「…あの」

思い切ったような口調で、蔵馬は改まってにそう言った。

「…ここで休んでもいいかな」

緊張した面もちなのが、暗闇の中にも見て取れた。

どう答えていいかわからない。

戸惑って目線を彷徨わせるのが精一杯だった。

「なにも、その…しないから」

を安心させようと言葉を探しているようだったが、うまい言い方を見つけられないのだろう。

蔵馬は困ったように俯いた。

「…君が嫌だというなら、いいんだ」

結婚したその夜にが倒れて以来、蔵馬は一度もこの寝室で眠ったことはなかった。

自身もずっと伏せりがちだったせいもあるかもしれないが、

これまで蔵馬がどこで休んでいるのかなどと考えてもみなかった。

「…これから先も、…君が嫌がることはなにもしないから。だから、」

震えるのを押さえつけたような、頑なな声がどうにか言葉を紡ぐ。

「だから、…怯えないで、ほしい」

はまだ、どう答えていいかわからない。

蔵馬がなにを考えているのか、それすらもまだわからなかった。

「今までが、乱暴すぎたから」

気まずさを誤魔化すように、手を組んだり離したりを繰り返す。

は黙って、彼の言葉を待った。

「…………」

言葉に詰まって、かたく握りしめた手元に目線を落とす。

今までに見た、あの冷たい彼と同じ人だとは思えないほどだ。

蔵馬はになにを言いたいのだろう。

はゆっくりとベッドの上に起きあがった。

蔵馬がまだ気まずそうに目線だけをに寄越す。

また手元に視線を落とし、吐息混じりに告げた。

「…好きだよ」

「……え?」

「花嫁の控えの間に座っている君を見たときから、ずっと好きだったよ」

「う、嘘…?」

「本当、だよ…わかってもらえなくても、」

それだけ言うと、ついに耐えきれなくなったのか、蔵馬は立ち上がってに背を向ける。

「…おやすみ。いい夢を」

それだけ言うと、肩越しに精一杯の笑みを残して蔵馬は部屋を出ていってしまった。

は自分の耳を疑った。

蔵馬からの突然の告白は、これまでのなにもかもを裏切ったようだった。

結婚の儀に、花嫁の控えの間で、初めて会ったあのときから。

あの不躾な態度はなんだったの?

そのあとも、ずっと、いままでも、…

思えば思うほど、彼という人がわからない。

生まれて初めて男性から恋心を告げられたことに、の心臓はそれでも鼓動を跳ね上げる。

(ここで休んでもいいか、って言ったのに)

ろくに答えることもしなかった。

をかばって負ったあの怪我の具合すら記憶から飛んでしまっていた。

政略結婚、敵国の王の娘との、意に添わない結婚。

疎まれているとばかり思っていたのに。

それでも思い返せば、彼は毎日の枕元に花を届けてくれていたはずだ。

が眠っているあいだに、いつの間にか。

の唇にキスをしようとしてためらって、そのまま頬や額にそれた彼の唇。

今になって、過去の彼の不可解な行動が少しずつわかり始めてきた。

ずっと好きだったという、その言葉の意味も。

翌朝目覚めると、それを待っていたかのようなタイミングで蔵馬が訪れた。

その手に、柔らかな色合いの花束をさげて。

「………あ、えと…」

昨夜のやりとりを思い出して、はなにを言っていいかわからずに俯いてしまった。

「…お、はよう」

蔵馬もぎこちなくそう言った。

「…よく眠れた?」

「はい…」

「そうか…よかった」

そう言うと、ベッドの傍らの花瓶に自分の手で花を活けようとする。

「あの、お花…」

「…しつこいかな」

「え?」

「…花はみんな好きだって言ったから…」

がなんの意図もなく口にした言葉を、蔵馬はちゃんと覚えていたのだ。

「…ほかに、なにを贈ったら喜んでもらえるかわからなくて」

照れを隠すように、の目を直視することもなく、蔵馬は黙々と花と向き合い続けた。

「あ、の、…ありがとう」

頬が火照るのがわかって、も顔を上げることが出来ない。

蔵馬はそんな妻の様子を横目で見つめて、はにかんだような笑みを浮かべた。

その日、蔵馬は執務には出ずにずっとその部屋にいた。

優しい目でを見つめ、いたわるような声で、言葉を選んで話をする。

「…この国にもまだいくつも問題はあって」

低い声で、蔵馬はそう切り出した。

「先代の国王を信奉する部下もまだたくさんいるんだ…戦うことで国を育てようとするような」

「……」

「それじゃあ進歩がない、歴史を繰り返すだけだから…」

王位を継いだら、必ず争いを終わらせようと決めていた。

蔵馬はが思っていたことと同じ言葉を口にした。

「だから、…君がオレの妻になることに反対した者も、想像以上に多くいるんだ」

昨夜捕らえられたあの侍女は、現在の王政に反対を唱える派閥の手先だったという。

それでが狙われていたのだった。

「…君のことは、君が嫁いでくる前からちょっと知っていたんだ。

 建国記念日かなにかで城の前庭を国民に解放したでしょう、あのとき」

王族である蔵馬を含む数名が、その中に偵察に紛れ込んでいたというのだ。

確かに建国記念日のことは記憶に残っているだが、さすがにそれには目を丸くした。

「父君と一緒に城のテラスに立った君を、そのときに見ているんだ。

 敵国のお姫様だから、きっと言葉を交わすことすら出来ないだろうと思っていた…」

想っても叶うことのないと最初からわかっている、そんな恋だと。

それが、数年も経たないうちに当の姫君との縁談が舞い込んだ。

政治的問題があるから考慮をと口先では言いながら、蔵馬の気持ちはすでに決まってしまっていた。

「…嬉しかったんだよ、とても…だけど、反対派閥を強引に押し切っての結婚だった。

 君をオレが守ればいいと、そう思っていたけど…オレ自身に刺客を放つ奴らが出てきて」

気持ちのままに素直にを愛したら、まで巻き込んでしまう。

密かに想い続けてやっと娶った花嫁を、そんな恐い目に遭わせたくはなかった。

「君に冷たくあたったのは…そういうこと」

ごめん、と絞り出すように蔵馬は言った。

冷たい目で射るように見据え、心ない言葉を吐いて背を向ける、

愛する妻をそうして傷つけていることを知りながら、どうすることもできなかった。

巻き込んで誰かの手にかかって死なせてしまうよりはマシだと誤魔化すように自分に言い聞かせ続けて。

「もう、いいのですか」

「?」

蔵馬は不思議そうにを見つめる。

「何もかも解決したから、こうしてお話ししてくださるのでしょう…?」

「……うー、ん…まぁ、たぶん…」

言葉を濁す、気まずそうに目もそらしてしまう。

「問題のすべてが解決したわけじゃないんだけど…まだオレを付け狙っている奴はいるし、

 君にも危害が及ぶかもしれない、わかっていたんだけど…」

苦しげに言葉を切って。

「もう我慢しきれなかったんだ…愛しているのにそう言えないことには」

彼はまたごめん、と言った。

ごめん、オレのわがままだよ、と。

「…第一印象から最悪だぞって、みんなにもずいぶん責められたよ」

平気なふりで、わざと距離をつくることには貢献するだろうと答えた。

その裏でその言葉がずっと引っかかっていた。

きっと、いつか何もかもが丸く収まって、堂々とに愛を告げられる日が来たとしても。

は自分に対して心を開いてなどくれないだろう、と。

「…時間がかかってもいいんだ。少しずつ、君に謝ることが出来たらと、思ってる」

「…………」

蔵馬は少しわざとらしい仕草で時計を探して、ああもうこんな時間か、と呟いた。

席を立つ口実を探しているようだった。

「さすがに丸一日仕事をさぼるわけにもいかないから、もう行くよ。

 …邪魔をしたね。ゆっくり休んで」

ベッドの上に起きあがっているを半ば強引に横たえる。

「…私、そんな重病人じゃありません」

「君自身が君の身体のことを知らないだけだよ…もうちょっと安静にしていて」

意味深なセリフを口にしたことを蔵馬はたちまち後悔した顔をするが、

はあえて問いつめることをしなかった。

これまでのことに自分を責めようとしている蔵馬を、これ以上追いつめることはしたくなかった。

まだ少し躊躇いがちな指でそっとの髪を撫で、背を向けようとするのをは呼び止める。

蔵馬は驚いたような、けれど嬉しいのを押し殺しているような…そんな顔で振り向いた。

「あの、あの、……」

「…なに?」

「…蔵馬様は、」

「…様付け、やめない?」

「でも」

「名前で呼んでくれたら、嬉しい」

そう言って微笑んだ顔が、少しすまなさそうに見えた。

「…では、あの、蔵馬、は…」

自分の口から出たその名が身に火をつけたようにには思えた、身体中が熱い。

「いままで、どこで休んでおられたのですか?」

「…………夜寝るときってこと?」

頷いてみせると、蔵馬はしばらく黙り込んで。

「…とにかくやれるだけ仕事を片付けたら夜中まで時間が潰せる」

「………」

「そのあと幽助たちがちょっと酔い加減で呼びに来るからついて行って」

「……」

「それから、談話室とかで喋るだけ喋って」

「…」

「大抵そのままそこで寝てる、ソファに横になって」

ひとこと言う度にの顔色がさぁっと引いていくのに蔵馬は冷や汗をかいていた。

「…ごめんなさい、私…」

「いや、いいんだ、のせいじゃない」

少し慌てたように蔵馬は言った。

「…オレは結婚する前からのことを知っていたからいいけど…

 は知らない男のところへ無理矢理、人質に取られるように嫁がされたんだから」

寂しそうに微笑んだ。

「敵国の中枢にいきなりひとりで放り込まれて、頼る相手なんて夫のオレしかいないはずなのに。

 当のオレ本人はひどい仕打ちをし続けて、を苦しめた…」

はちいさく首を横に振る。

蔵馬はそれを見て、またふっと微笑んだ。

「だから、…最初から夫婦になろうとは思わないことにしたんだ。

 結婚したあとにお互いに初恋をしても、いいと思うんだ」

自分でもかなり恥ずかしいセリフを吐いた自覚があったのだろう、

蔵馬は赤くなってふと横を向いてしまう。

「…つまり、その」

言葉を継ごうとして詰まってしまう蔵馬に、はクスリと笑いを漏らす。

蔵馬はまた少し驚いたようにに目線を戻した。

「…やっと笑ってもらえた」

本当に心底嬉しそうに、蔵馬はに笑いかける。

「…君がいいと言うまで、ずっと待つよ」

何年でもと蔵馬は少しこわばった声で言うと、そわそわしたようにまた背を向けようとする。

「…蔵馬」

部屋を出ようとする蔵馬を、はまた呼び止めた。

「では、毎日、お仕事に出る前、逢いに来てくださる…?」

唐突なデートの誘いを受けたように、蔵馬は赤い顔でぽかんとを見つめ返す。

「…お忙しいのなら、いいの」

「いや、大丈夫…」

来るよ、そう言うと、蔵馬は早足で部屋を出ていった。

次の間に控えている年寄った侍女たち…恐らく子ども時代からの蔵馬のことを見知っている老嬢たちが、

まぁ陛下、嬉しそうにどうなすったの、様と良いことでもありました、

などとからかい口調で言っているのが聞こえた。

それにかすれた声でうるさいな、と答えるのが聞こえると、

なんだか可笑しくなってしまっても漏れる笑いをとどめることなどできなかった。


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