「………ねぇ、幽助。」
「あ?」
堅苦しい会議が思いも寄らない話題のおかげでずいぶん軽い雰囲気に終わって、
やっと四角い執務室から解放された面々は城の広大な庭に出て
さてひと暴れするかなどと張り切っているところだった。
「…オレ今どんな顔してる?」
若くして国王の座に着いた友人にそう問われて、幽助はちょっと冷や汗をかきつつ。
「あ──…アレだ…つまり」
「うん」
「死ぬほど嬉しくてニタァと笑いたいところを必死で我慢してるっつー顔」
「…御丁寧にどうも…」
言われなくてもわかっていたが、自分は今確実に嬉しいんだと若き王は思う。
友人たちがじゃれ合っているところに乱入すべく走り出した幽助を見送りつつ、
複雑な事情をいくつも抱えた国王、という自分の立場を少し恨めしく思う蔵馬だ。



政略結婚の王様とお姫様 王様編



王位を継いだ蔵馬がまず初めにしたことは、政治を直接執る人間を総入れ替えすることだった。
新しく若い考え方を持つ者を選ぼうとすると、
どうしても自分の友人たちや便宜上の直属の部下たちを選ぶ結果になった。
ほんの数人、蔵馬をよく知る老臣たちに協力を仰ぐことにはしたものの、
古い大臣たちが気を悪くしても仕方ないとは思った。
昔から決めていたことだった──自分の手で争いは終わらせねばならない。
政治の中枢ががらりと生まれ変わったところで、考慮すべき問題はひとつ。
もういつの王の頃からかわからないくらい長い間、戦争を続けてきた隣国との和解だ。
王位を継ぐ前から、実際に行動に移すときにどうしたらいいのか、
事前調査が必要と蔵馬は考えていた。
王位と一緒に受け継いだ因縁の根拠など、今の王は知らないはずだ。
民俗の融和などとほざいているが、そんなセリフは国土拡大という本音の隠れ蓑に過ぎない。
私利私欲のための争いの理由はただの後付けなのだから。
とにかく相手を知る必要がある──なぜ争うのか。
そうして蔵馬は独断で、信頼のおける友人たちを数人動員して隣国に潜り込んだ。
建国記念日、国を挙げての祭の最中には、城の前庭を国民に一般開放するという情報は得ていた。
熱狂する国民たちに混じって、蔵馬たちは城のテラスに立つ老王の姿を見上げた。
「へー。アレが敵の王様か」
「…老獪な印象だね」
外観から判断するのは危険だとわかったうえで言ってみる。
執務室にいるときは、それは厳めしい顔つきでものを述べるだろう、その姿がありありと想像できた。
たしかに、王としての威厳なら申し分ない、争い続けても国民は従い続けるだろう。
国民たちを射るような視線で眺める王に、背後に控えていた大臣らしい男が声をかける。
もちろん、何を言っているのかは聞こえはしないのだが。
王は呼ばれた方を振り向き、先程までの威厳がどこへ行ったかというように嬉しそうに表情を崩す。
それだけで国民たちには何が起こるのかがわかったらしい、熱狂の声は更にテンションを上げていく。
「な、なんだってんだよ!!」
すぐ隣に立つ幽助がそう叫ぶ…叫ばなければ、この距離でも会話が成り立たないほどだ。
王はにこにことしたままで、振り向いた方へ手を伸べた。
王にそっと手を引かれてテラスに招かれたのは、まだ少し幼さの残る少女だった。
国民たちの熱気は最高潮だ。
口々に叫ぶ、様、姫…それで彼らは、あの少女がこの国の王女であることを知る。
父王はそれこそ壊れ物でも扱うようにそっと、愛おしい一人娘を国民の前へ導いた。
「あれが、姫…」
蔵馬が呟いた一言は、誰の耳にも届かなかっただろう。
王妃の忘れ形見で、大切に大切に育てられている姫がひとりいる。
王位継承権を第一位で持つ、王のあとに残る唯一の王族。
争いを終わらせるために隣国と協議を持つことがあれば、
恐らくその王女と、王女の夫になった貴族の男か誰か…つまりは入り婿で王位を継ぐ男だが…
ともやり合うことになるかもしれない、そういう覚悟があったのだ。
姫君は二言三言、父王と言葉を交わしたあと、国民のほうへ視線を落とす。
にっこりと微笑んで手を振った。
国民がそれだけでまたどっとわいた。
「すげーな、手ェ振っただけでこれだけの人間を動かすんだぜ、あの子」
幽助が耳元でそう言った。
蔵馬にも同感だった、恐らく国民には老王以上に慕われているに違いない。
父王に大事に育てられ、城中の人間と国民たちとの愛情を一身に受ける姫君に、
あろうことか自分まで惹きつけられようとしていることに蔵馬は気付いた。
(…考えるな…! 敵国の王の娘だぞ)
想うだけ無駄だと蔵馬は唇を噛みしめた。
隣国との争いが事実上終結を迎えるまでには、思うよりも時間がかかることを蔵馬は見越していた。
和解を経て穏やかにあの姫君と会うことが出来るまで、十数年はかかるはずだ。
国を治める者同士、良い関係を築く以上に自分と彼女との関係はあり得ないと蔵馬は決めつける。
それでも、感情はコントロールなど出来る代物ではない。
思わぬところで自らに植え付けられた種を、蔵馬は知らぬふりで見過ごすことしかできなかった。
その偵察から数年ののち、蔵馬は先代から王位を継いだ。
争うことをよしとしないその政治の取り組みに、国民たちの支持は集まった。
先代の王に心酔していた老いた貴族たちばかりが、現在の王政にひどい反発を繰り返した。
新しい政策がひとつ施行されるたびに妨害工作が起きる。
視察のために城下に降りたときに、街の真ん中で鉛弾が肩をかすめることすらあった。
その程度の妨害にしてやられるほどヤワじゃないという自覚もあったし、
事実その通りではあったが、ストレスになることは否めなかった。
同じように政治に関わっているおかげで仲間たちまでもがとばっちりを受ける。
幽助がいつまでも螢子との関係を進展させないのも、
今のうちは螢子を危険に巻き込む可能性が高いから、という配慮のせいだろう。
それでもあとに引くことは出来ない、自分はもう始めてしまった。
そうして続く執務室での会議に、ある日奇妙な知らせが舞い込んだ。
いつもは時間に律儀な老大臣のひとりが、
ずいぶんと遅刻したうえにひどく取り乱した様子で執務室に駆け込んできた。
隣国が寄越したという手紙を見せられる。
目を疑った。
あのときテラスに立った老王は今病床にいて、死のあとにひとり残される姫君の身をただ案じている。
国王と大臣たちの考えでは、姫君を蔵馬の手に委ねたい。
長く続いた対立が終わりを迎え、国はやっとひとつに解け合う、政治上のメリットも多い。
「…信用できるのか?」
胡散臭そうに飛影がそう聞いてきたのだが、彼の場合とりあえずまず信じる前に疑うのが信条だ。
そしてそれは彼が今まで生きてきた中で身をもって学んだ事柄だった。
気が遠くなるくらい長い時間を争い続けてきた敵国の唐突な申し出に、
どんな罠があるかはわからない、そう言いたいのだろうと蔵馬は察した。
「…そう、慎重であらねばならない。考慮を重ねる必要がある」
蔵馬はかろうじて、落ち着いた声で言うことが出来た。
その内心で跳ね上がる鼓動を必死で押さえつけていることを、
悟っている者がいるかどうかなんてことが、実はいちばん気がかりだった。
「…でもよ、それってつまり、姫さんを蔵馬のヨメにどうかって話だろ?」
オメーはそれでいいのかよと聞いてくる桑原の気遣いが何となく嬉しかった。
彼はまず、政治より友人本人のことを真っ先に心配してくれる。
「バッカ桑原、蔵馬はいーんだよ…」
蔵馬の内心をばっちり悟っていた幽助がにやにやしながら言うのだが、それは横目で睨んで黙らせておく。
あの城のテラスに立ったに釘付けになっていたことを、隣で見ていた幽助は知っている。
叶うはずがないと思った恋が、こんなかたちで成就するかもしれないとは?
わき上がる歓喜の思いを隠し仰せただろうかと、蔵馬は会議のあとで幽助に問うた…
自分は今、どんな顔をしているのか、と。
結果、幽助だけでなくほぼ全員が蔵馬の表情を読めてしまっていたことをあとで知らされて、
蔵馬は結構なショックを受けた。
普段は何を考えているのかまったく手の内を見せない蔵馬が相手なだけに、
皆も密かにずいぶんと喜んだらしい。
政治上望ましい展開があるだろうという理由で蔵馬が隣国の申し出を受け入れると言ったときの、
皆の何かもの言いたげな目だけは、蔵馬は一生忘れることが出来ないだろう。
そうして丸一年もの歳月をかけて、姫を蔵馬の花嫁として迎え入れる準備が整えられた。
父親や長く親しんだ城を離れ、ついこの間まで戦争をしていた相手国に嫁ぐ。
城を出て長い旅をして、辿り着いた先では人々の好奇の目線を浴びながら、
かったるい儀式をいくつも越えなければならない。
ひとりの知人もいない場所で生活していかなければならない。
王妃のつとめとばかり、跡継ぎをという声に急かされたりもして。
の境遇を思うだけで、一応は他人事ながら胸焼けがしそうな蔵馬だ。
ベッドに突っ伏して考えを巡らせる。
国王夫妻の寝室なんてものも新しく用意されてしまっているので、
この寝室とももうすぐお別れかななどとぼんやりと思う。
本当は儀式なんて二の次でもいい、がやってきたらまずゆっくりと休ませてやりたいと思った。
実際にに会ったら、上手く話が出来るだろうか?
よく考えたら、これはいわゆる政略結婚というやつで。
自分にはたしかにに恋する感情があるというのに、
直接好きだと言ったわけでも、プロポーズをしたわけでもない。
婚約を承諾して間もなく、
が見知らぬ男との結婚を嫌がって父王に泣きついたという噂も聞いていた。
それを聞いたときは、胸が潰れそうになったものだ。
怯えなくてもいいと、まずわかってもらわなければ。
出来る限り優しくして、大事に守ってやろう、ちょっと気恥ずかしいけれど、愛してあげたい、
そう思った矢先だった。
皆で集まっての茶会だったはずが、酎が持ち込んだ酒のおかげで酒盛りになりつつあるときだった。
丸いスポンジをチョコレートで包んだような菓子があった。
何気なく蔵馬がそれをつまんで口にしたのだが、のどに通す前に激しく咳き込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ…」
苦笑気味に言った幽助ははっとする。
蔵馬の口の端から血が流れていた。
「おい…!!」
急に空気が張りつめた。
口に含んだものを吐き出して、蔵馬は呆然と呟く。
「…………針だ」
残った菓子を暴いてみると、ひとつ残らず刃物の欠片や金属片、針などが詰め込まれていた。
それをきっかけに、蔵馬ととの結婚に反対する者という新たな反発者がいることを彼らは知った。
針だったり鉛弾だったりならしかし、まだ単純な方だった。
厄介なのは、食事に毒が盛られている可能性だった。
そんなこともあるかもしれない、という噂が流れただけだったが、警戒せざるを得なくなる。
体内に消化されたあとは毒素のあとが消えてしまうという毒薬が存在するのだ。
たまたま専門に学んでいた植物学が、不本意ながら大いに役立った。
「…幽助」
ある日、蔵馬はぽつりと言った。
「んだよ、かしこまって」
「今更なんだって感じだけど」
「あ?」
「君が螢子ちゃんと距離を保っている理由、実感した気がするよ」
「…あー、………そか」
「…こんな状態でを迎えるのは不安だな…」
珍しく弱音らしい言葉を吐いた蔵馬に、うまい慰めが出来ないことが悔やまれる幽助だ。
けれど蔵馬にとっては、幽助がそうして話を聞いてくれるというだけで救いだった。
「オレが守れば済むって問題じゃなさそうだ…」
を少しでも、標的にされることから遠ざけなければならない。
考えに考えた末に蔵馬が出した結論は、
かたちだけの夫婦である自分ととのあいだには、実際の関わりはなにひとつない──
そう、反発者たちに思いこませることだった。
意図的にとのあいだに距離を作る必要があった。
敵を騙すにはまず味方から、などという言葉は一蹴してしまいたい。
を守るためにを傷つけなければならないことに、蔵馬はただ重い気持ちを抱く。
怯えなくていいよ、ずっと君が好きだった、だから大丈夫…と伝えるはずだったのに。
ただでさえそうして沈みがちだった蔵馬の内心に、
隣国の王が雲隠れしたという知らせが拍車をかけた。
唯一の肉親を失って天涯孤独になったは、
嫁いだ先で唯一頼れるはずの夫にも冷たい仕打ちを受けるのだ。
やりきれない思いで、それでも蔵馬は婚約を破棄しよう、と言い出すことが出来なかった。
密かに想い続けた姫君にやっと逢える、それも花嫁として迎えることが出来る。
もはやその感情に逆らうのは不可能だ。
守るために距離をとるのは今じゃなくていい、を迎えてからでいい。
身勝手なのは承知だ。
花嫁一行が隣国の城を出てから一週間ほど、国境を越えてはやっと城まで辿り着いた。
国王と花嫁とが対面するのは結婚式の中でという決まりが一応はあった。
司祭長に導かれて国王の前に立った花嫁が、ヴェールを上げたその時が初対面という伝統だ。
その通りになるだろうという蔵馬たちの思惑は外れる。
いくつかの儀式を終えた花嫁が控えの間で休んでいる頃、蔵馬に知らせが入った。
についてきた幾人もの侍女のうちひとりが、針入りの菓子を飲み込んだというのだ。
気付いたときには花嫁の控えの間に早足で向かっていた。
「蔵馬! いーのかよ…!!」
「…オレだって結婚式くらいは何事もなく済んで欲しいと思ってたよ!」
怒りを含んだ答えが返って、あとについてゆく幽助たちは黙り込むより他はなかった。
事件は花嫁本人には知らされていないらしい。
伝統にのっとっての結婚式となるはずが、突然現れた国王に侍女たちは慌てふためいた。
蔵馬は彼女らにとって、自分たちの美しい姫君が「きっと粗野で乱暴な男だ」と恐れている相手なのだ。
そんなことはないと姫君を安心させるのも彼女らの役割だったのだが、
礼に反して花嫁の間に踏み込もうとする蔵馬に、姫君の不安は的中してしまったと思わざるを得ない。
「おやめください、姫様はお休み中でございます!」
「陛下!!」
ここからが気の遠くなるような嘘の積み重ねの始まりだ。
「王が自分の妃に会って何が悪い? そこをどけ」
冷たく言い放つのは思ったよりも簡単で、それが胸中をえぐるようにざわりとした感情をわき起こす。
心配な顔をしてはいけない、どんなに感情がに向かって傾いていても。
勢いよく開いた扉の先に、雑多なものに紛れて、あんなにも焦がれた相手がいた。
だ。
彼の花嫁。
真っ白な衣装に身を包み、輝かんばかりの美しさがあふれて見える。
もう手を伸ばせば届く距離にいるのに、触れることすら叶わない。
明らかに怯えて硬い表情のに、優しく微笑みかけることが許されればどんなにいいかと思った。
の手元には花茶のグラスが置いてあって、蔵馬はふとそれに目を留める。
つい足がのほうへ向いた。
茶に毒素が混じってはいなかっただろうか?
不躾なほどに彼女の全身を観察してしまう…異常はないようでほっとしたのと同時に、
自分のために花嫁衣装を身につけているに今更ながらに気付く。
この場できれいだよとたった一言言えたら。
去来する思いが入り交じり、息をつくようにふぅん、と声が漏れる。
途端、怯えた目で蔵馬を見上げていたが、キッと彼をにらみつけた。
「無礼ではありませんか!」
蔵馬は純粋にただ驚いて目を丸くしてしまった。
あのテラスで見たとき、こうして目の前に花嫁衣装を着て座っている姿、
そんなものからはいきなり目をつり上げて怒鳴るなんてことは想像できなかった。
父王から王族としての誇りや気高さはしっかりと受け継いでいるようだ。
微笑ましく思えてしまって笑いたかったのだがそれも許されない。
表情も崩さずに言った。
「失礼。威勢がいいね、姫君。名は」
名前などとうに知っている、それこそ出逢う前からのことは知っていたのだ。
「…と、申します」
か。わかった」
「あなたが、蔵馬様ですか」
「そうだよ」
これ以上と対しているとボロが出そうで、蔵馬は踵を返すと幽助たちのいる方へ戻る。
幽助が心なしか引きつった顔で、もういいのかと聞いてきた。
彼にしては上手いフォローだと内心で思う。
もうこの大芝居は始まってしまった、恋いこがれる相手に微笑むことさえできない。
もう済んだ、と答えながら、やりきれない思いだけは押し殺せなかった。
控えの間を出た蔵馬に、くっついてやってきた皆から文句が投げかけられる。
「第一印象最悪だぜ、いーのかよ」
「…彼女を守るためだ。間接的に、だけどね。
 意図的に距離をとるためになら、最初から嫌われておくことは貢献するだろう」
最初から嫌われておく、という自分から出た言葉に蔵馬は傷ついた。
きっと今頃、控えの間で花嫁は涙にくれている。
いつか何もかも全ての問題が片づいて、やっとに触れることを許される日が来たとしても、
は今日からのことを忘れはしないはずだ。
愛しても、結局は報われない。
敵対する者同士でいることと、側にいながら背を向けられること、どちらがマシだったろう。
考えても仕方ないことすらを、思わずにはいられなかった。
婚礼の儀、蔵馬の目の前でヴェールを上げたはやはり泣きはらした目をしていた。
誓言をたて、お互いをつまとすると声に出して述べたが、の声は震えて聞こえた。
信じられるものが何もないという嘘を知らしめてしまったことを、蔵馬は悔いた。
人々に囲まれて祝福の言葉を聞きながら、ただ横に立つ花嫁のことばかりが気にかかる。
そんな素振りを、しかし蔵馬は見せもしなかった。
気付いていたのは、彼に親しい者たちだけだっただろう。
青い顔をして、それでも微笑もうとするが痛ましくて仕方がない。
早く休ませてやりたいと思った矢先、の身体がぐらりと傾いだ。
「!!」
、ととっさに叫ぶことが止められなかった。
倒れ伏そうとする花嫁を抱き留める…血の気が引いて肌が青白い、呼吸の感覚が短く、ちいさい。
瞬時に蔵馬は判断を下し、人の目など気にかける余裕もなくを抱え上げると
いちばん距離の近い寝台のある部屋を探す。
蔵馬を追ってついてきた中に医術の心得のあるぼたんがいるのがありがたかった。
「ぼたん、任せていい?」
「いいよ、ほら男衆は外に出て出て!」
内側から閉められた扉を黙ったままで蔵馬は見つめる。
婚約が決まってから旅を経て今まで、はどれだけの不安にさいなまれながらいたことか。
国のためと割り切って嫁いできた先で、夫になる相手にまで冷たい態度で接せられて、
この先どうしていいかなんて見えもしなかったに違いない。
視線を落とした先に見えたのは、自分の右手の指にはまっている指輪だった。
普段は装飾品なんて邪魔なだけだったが、今日という日にこれをつけないわけにはいかなかった。
国王の証である、王家の紋の刻まれたそれを外すと床に放り投げた。
「…くそ…! くれてやるこんなもの!」
自分の立場が、そうしてやってきたことが、今になってまでも苦しめている。
背を向けて足早に去る蔵馬を、しばらくは誰も追うことができなかった。


夜になって、桑原がを抱えて国王夫妻の寝室までやってきた。
やり場のない怒りをどう押し殺していいかもわからないままでただ部屋にいた蔵馬にを引き渡す。
ベッドに寝かせるのを手伝いながら、彼は何も言わなかったが、
なんとなく蔵馬には彼の言いたいことが聞こえた気がした。
桑原と入れ違いに幽助がやってきて、返す、と渡されたものが先程放り投げた指輪だった。
「…あげる」
「いらね」
普段なら遠慮しとく、などと言いそうなところだがはっきりと断られてしまった。
渋々受け取る、指輪にしてはずしりと重いそれは、王たる者が負う責任の重さだ。
「…帯を締めすぎていたせいだ」
たぶん、と言うと、女って大変だなと返ってきた。
薄暗い部屋の奥、ベッドの上で眠るを眺めながら。
「…もう少し様子を見るよ」
「ああ、目ェ覚ましたら教えてくれな」
「…明日の朝にね」
やっと少し、幽助に対しても笑い返すことができて自分でほっとする。
幽助も悪戯っぽい目で蔵馬を見やると、まだ襲うなよなどと言ってくる。
黙り込んだ蔵馬を怒っていると見たのだろう、焦ったように幽助は部屋を去った。
別に、怒っていたわけではなかったのだ。
抱きしめることができるならそうしたかった。
触れたくても触れられないのだ。
眠るのほうを振り向くと、ベッドの側まで近づいてみる。
眠っているようだ。
薄暗い中に顔色まではうかがえないが、呼吸は楽そうに思えた。
ほっとして息をつく。
椅子を引き寄せるとそこに座って、眠る花嫁をじっと眺めた。
あのテラスの上に立った彼女よりは、それは少し大人びてはいる。
まるで所有物のような言い方で好ましくは思えなかったが、
やっと自分のものになったんだと蔵馬はぼんやりと思った。
手の中で自分の指に戻すことのできない指輪を転がしながら考える。
やり方がまずかったのだろうか?
政治面でのことで手一杯で、政略結婚という方法で国をまとめようとは考えてもいなかった。
最初から国の中も外も友好的に、争いをおさめるようにことをすすめていたら?
そうしたら、自分とは最初から睦まじい夫婦になることができたのだろうか。
恥じらう花嫁に口づけをして、この腕に抱くこともできたのか?
思うだけ虚しい、蔵馬は目を伏せた。
いつかはいつかやってくるだろう、けれどに心から微笑んでもらえるとは思えない。
もう手遅れなのではという思いが拭えない。
安らかな呼吸と美しく整えられた肌、そこに伏せられた長い睫毛。
悔いたとしても、もう過ぎてしまったことはやり直せない。
あとはただを守るだけだ。
表面上はまるでを裏切り続けているかのように。
今は閉じられたその瞳に見つめられることに焦がれていた。
けれど、愛情に満ちた目で見つめてもらえることはきっとないだろうから。
(今だけ、赦して)
立ち上がると、眠るに唇を寄せようとする。
あと少しで触れる…そこで躊躇って、離れてしまった。
無抵抗のに触れるのは簡単だ。
力でねじ伏せることもまた。
けれど、それでは意味がなかった。
振り向いてなどもらえないことをわかっていながら、
が許してくれるときまで待ちたいと思ってしまった。
唇を避けて額にそっとキスをする。
疲れただろうね。
オレのことが恐いかな。
…大丈夫、今日は、ここでは休まないから。
訪れている夢が、穏やかなものだといいけれど。
ついたため息が目に見えるとしたら、憂いたっぷりの暗い色だったに違いない。
本当は、そばにいて守っているから安心しておやすみ…と言いたかった。
思えば思うほど離れがたくて、断ち切るように蔵馬はぱっとベッドから離れると、足早に部屋を出た。
幽助たちがまだ宴会騒ぎをしているのに混じって、沈む気持ちを誤魔化しながら夜を明かした。
翌日、きっとはまだ疲れているだろうと考えた蔵馬は、一日休んでいるようにと侍女を通じてに伝えた。
結婚式の余韻はまだ国中に残っていて、明るいうちからあちこちで宴会は続いているし、
幽助たちもまだ元気で飲み比べなどしようとしている。
今日は仕事はあってないようなものだろうなと見当をつけた。
ほとんど昼近くなってからの様子を見にこっそり部屋を訪れる。
自分の寝室でもあるはずのそこがずいぶん敷居が高く思われた。
控えの間に、長く蔵馬たちに仕えてきた侍女たちと、が連れてきた侍女たちがまばらに待機していた。
馴染みの老嬢たちと一緒にいてくれたらしいぼたんとは喜んで蔵馬を迎えてくれたのだが、
に対してまず無礼な態度をとった蔵馬を、の侍女たちは警戒している様子だった。
「…の様子はどう?」
「うん、今さっき起きてね、ちゃんとごはんも食べたよ」
「…食欲はあるみたい?」
「そうさねぇ…ちょっと少食かも?」
でもまぁいいとこのお嬢さんだからさとぼたんは苦笑している。
「ほらっ、会ってってやんなって!」
「いや、いいって!!」
蔵馬の背をぐいぐいと寝室のほうへ押しつけるぼたんに蔵馬は抵抗しようとするが、
会いたい気持ちも嘘ではないので力は入らない、それを見て老嬢たちがくすくすと笑っている。
仕事にばかり懸命だった可愛い王様が恋に落ちたことを知って、
蔵馬をからかって遊ぶという老嬢たちの楽しみがここ一年で増えていた。
会議では自分の意見を譲らない蔵馬も、この老嬢たちに口で勝つことはできなかったりする。
いまだに若様だとか坊っちゃまだとかと呼ばれても一言も言い返せない蔵馬だった。
「まぁまぁ、あんなに照れなすって、お可愛らしい」
「仕事一筋だった若様を一目で惹きつけてしまわれるなんて、まぁ様のお美しいことといったら」
このやりとりで、蔵馬を警戒していた侍女たちが呆気にとられてしまったのは言うまでもない。
ドアに腕を突っ張ってまで悪あがきを続ける蔵馬に、
ぼたんが往生際が悪いよっ、男らしくない、と発破をかける。
ばしんと背中を叩かれて、蔵馬は仕方なく寝室のドアを開けた。
はまだ少し白い顔をして、ベッドの上にどうにか起きあがっている状態だった。
朝の日差しの中に、細い体の線が浮き出ているように見える。
後ろから隙あらば覗こうとしているぼたんたちを追いやるようにドアを閉め切った。
は虚ろそうな目で蔵馬を見上げた。
これが、自分がにとった態度の報酬だ。
「体調は」
「…悪くありません」
「そうか」
冷たい口調はあまり難しくはなかった。
意図的に笑ってはいけない、と思えば自然とそういう声が出る。
会話が途切れて、はやり場なく目を伏せる。
「今日は一日休んでいるように」
「…はい」
「オレは執務室にいる。何かあったら呼べ」
もっとなにか言えることがあるはずだと蔵馬は思う。
気持ちにだけただまかせてしまったら、慈しみに満ちた言葉がすらすらと出るだろう。
距離を取ることなど必要ないのではないか?
守ればいい。
ふと脳裏をかすめたその考えに、蔵馬は頷くことができないのだ。
逡巡もほんの一時のこと。
たまらなくなってしまう前に、蔵馬はさっさとに背を向けて部屋を出た。
硬い表情で部屋から出てきた蔵馬を、事情を知っているぼたんだけが少し心配そうに迎えた。
「…大丈夫なのかい?」
「ああ、まぁ、ね」
「…嘘が下手だね」
苦笑されて、蔵馬は参ったというように肩をすくめる。
「今は、オレじゃダメなんだ。…のこと、頼むよぼたん」
「おっけ、任せときなって」
蔵馬を元気づけるためだろうか、わざとらしいくらい明るくぼたんは笑ってくれる。
皆が口には出さないけれど気を使ってくれている、それがただ蔵馬にとってありがたかった。
幽助たちが騒いでいる場へ戻ってみれば、皆もうすでに出来上がっていてまともに話の通じる状態ではなかった。
気晴らしになるかどうか、蔵馬は庭に散歩に出てみることにする。
そういえば、このところ世話を怠りがちだった温室はどうなっているだろう。
蔵馬が自分以外の者の出入りを禁じている、ガラス張りの広い温室が庭の奥にあるのだ。
そこは完全なる趣味の場で、温室と言えないくらいの広さがあり、
四季に関係なくなんらかの花が咲き誇っている。
土いじりをするなど王にあるまじきと、そんなことまで糾弾のネタにされたこともあったが過去の話だ。
ちょうど紅色のバラの花が開いていた。
薄ぼんやりと見せてあげたい、という言葉が浮かんで、しばらくしてからやっと実感として思い当たる。
見せてあげたい。
誰の出入りも禁じているこの場所に、だったら招き入れてもいいなと少し思っていた蔵馬だ。
花を嫌う女性がいるだろうかと不安も一瞬よぎったが、
自分が世話をしてやっと開いたバラの花を蔵馬は惜しげなくばっさりと切ってしまった。
今はをこの場所へ連れてくることはできないだろうから、と。
自分が側にいられない代わりに、見舞いになればいいと蔵馬は思った。
優しく振る舞ってあげることができない代わりに、の心を慰めることができればいい。
もう一度に会う度胸は持ち合わせていなくて、蔵馬は控えの間に遠慮がちに踏み入った。
ぼたんと老嬢たちはすでにおらず、が連れてきた侍女たちだけが荷物を解いたり
部屋を整理したりとこまごま立ち働いている。
彼女らは王の姿を認めると、なにやら不思議そうな顔を見合わせている。
戦好きの乱暴者と想像していた相手がつい先程見せたなにとはなしに情けない姿に、
少し蔵馬に対する印象が変わったらしかった。
「…あの、に…長旅に儀式の連続で疲れていると思って」
うまく言葉が繋がらず、蔵馬は非常に気まずい思いをした。
侍女たちはなんだかおかしそうに蔵馬を見ているのだ。
「…少しでも、気持ちが安らいだらと」
王の抱えているバラの花束は、あまり見ることのない美しい紅色の花びらだった。
彼の表情はまるで、恋い焦がれる相手に求愛するような。
侍女たちはこのほんの一分足らずで、蔵馬のに対する本心を悟ってしまったらしい。
ひとりがしずしずと進み出て、様に代わって、と花束を受け取った。
「…彼女、花は嫌いかな?」
少し赤い顔で侍女たちにそう問うた彼は、聞き及んでいる年齢よりもずっと幼く見えた。
侍女たちが自分のことのように嬉しそうに、様もきっとお喜びになられます…と言ったのを聞いて、
蔵馬はやっと少し安心することができた。
なんだかずいぶん思い切った行動に出てしまった気がして、
部屋を出たあとも蔵馬の気持ちの高ぶりがおさまることはなかった。
酔いつぶれた友人たちは話し相手にならないし、不思議と腹も空かなければしかし退屈にも陥らない。
ただ妙にのどだけが渇いて仕方なかったのだが。
仕事など手に着かないし、読みかけの本はと思っても文章がまったく頭に入ってこない。
数時間の間悶々とし続けたあとで蔵馬はとうとう諦めて、ここは素直になろうとまたの部屋へ向かう。
対面すれば親しげに言葉を交わすことはできないけれど、
体調が悪くないかどうか気にかかったし…花を気に入ってくれていればいいけれど、
それが実は一番知りたいことだった。
幽助や桑原がそれぞれ意中の相手に何を贈るかと困っているのを他人事と眺めていたことはあったが、
いざ自分のこととなるとこれ以上ない難問に思えてくるのだから不思議だ。
要は、一目惚れだ。
のことは本当はなにひとつ知らない。
なにが好きなのか、どんなことをしたら喜んでくれるのか…さっぱり見当もつかなかった。
控えの間に待機している侍女たちはもう蔵馬の訪れに抵抗感を持っていないようだった。
ちょうど食事を終えたところだからとすぐに寝室に通してもらえて、蔵馬は拍子抜けしてしまう。
先程のような乾いたやりとりのあと、はかなり躊躇った様子でなにか言いたげにしている。
気になって仕方のない蔵馬だったが、聞き出すこともできずにただ黙っていると…
が傍らに活けられたバラの花を視線で示し、その花は、蔵馬様が、と問うた。
いきなり鼓動が跳ね上がることに蔵馬は心の奥底では割と冷静に驚いた。
「…侍女たちが喋ったな」
「いけませんか?」
「別に」
伝わることを期待していたから、いけなくはない、まったく全然。
こみ上げる嬉しさが顔に出る気がして、誤魔化すように蔵馬はふいとそっぽを向いた。
自分でもああ、またと思うのだ。
がつまらなさそうな顔で俯いたのが蔵馬の不安を煽る。
「…バラは嫌いか」
え、と聞き返すに、半ば投げやりに嫌なら処分しろと言い捨てる。
は少しムキになったような口調で即座に答えた。
「いいえ…花はみんな好きです。ありがとうございます」
花はみんな好き。
恐らくにとっては些細な一言が、蔵馬の耳に心地よく響いた。
とりあえず間違った選択ではなかったことに心の底から安堵を覚える。
照れ隠しに、蔵馬にはもう部屋を去る以外の選択肢は残っていなかった。
控えの間に戻るとぼたんがちょうどやってきたところで、
目が合うなり蔵馬はぺたりとその場にしゃがみ込んでしまった。
「ちょいと蔵馬…なにやってんだいあんたは」
「いや…大したことないんだけど」
一緒にしゃがみ込んでよしよしなんて頭を撫でられてしまうが、突っ込む余裕も蔵馬にはなかった。
「…良かった。嬉しい」
小声でそう言った彼に、ぼたんはきょとんとした視線を投げるよりほかはない。
なにかとうまくいくようなことがあったのだろうか。
しかし策を重んじる蔵馬の性格でそれは考えられないと、ぼたんはすぐその考えをうち消した。
それから毎日毎朝、蔵馬はまず温室へ立ち寄っては見頃の花をばっさり切って、
の部屋へ届けるようになった。
ほかに喜んでもらえることなどわからないし、花は好きだと本人の口からこれ以上ない確実な保証が出た。
表だって愛情を示すことが許されないならせめてという思いもあるのだ。
「うへぇ…すげーすっきり」
温室の入り口から中を覗き込んで、幽助が呆気にとられたようにそう言った。
中にいて蔵馬は、今日は白いスプレーバラが咲いたので、それを切っていたところだった。
「あんな手間暇かけてつくった温室なのによくもまぁここまで潔く…」
あちこち咲き盛りの花がごっそり失われて茎の切り口だけが覗く緑ばかり。
花の部分は膨大な量のはずだが、すべての寝室に届けられている。
「…ほかにできることがないんだ」
そう言う蔵馬はなんだか拗ねたような子どものような顔をしていて、
こいつもこんな顔するのかと幽助は新たな彼の一面を見た気持ちだ。
「…そろそろ見舞いなんて言い訳も通用しねーだろ」
「そう、なんだよね」
困った、と言いながら花を切る手が休むことはない。
「…確かに旅の疲れがひと月もふた月も残るなんてことはないし…問題だな」
「もっといい理由あるだろ。そろそろプレゼントだっつって贈ったっていいんじゃねーか?」
政治のために自分の愛情を犠牲にし続ける蔵馬に、幽助もいい加減焦れったいものを感じていた。
好きなら好きと言っちまえと何度も発破をかけたのだが、のらりくらりと逃れられてしまう。
危ない目に遭うことになっても守ればいいと、幽助ははっきりそういう考えを持っている。
それでも螢子との仲がまださして変わりないのはなぜだろうと、蔵馬も疑問は持っているのだが。
「それももっともだけど、そういうことじゃなくて…」
蔵馬の手がぴたりと止まる。
「ひと月もふた月もたった今でも、が体調を崩したままなのがおかしいって言ってるんだ」
ストレスかなにか、と蔵馬は口の中で呟いた。
最初の一週間と少しほどでは回復して、城の中を歩き回るくらいは普通にできていたのだ。
それが、今になってまた床に伏せる日々が続いている。
仕事に忙しいという言い訳でと直接顔を合わせることは避けるようにしている…
会うたびにが蔵馬に距離を感じていることを悟るのがつらかったのだ。
自分でし向けたこととはいえ、不本意なのだから。
ぼたんや噂好きの老嬢たちにからかわれるのは苦手だが、この上なく信頼は置ける。
の様子を気をつけて見ていてもらってはいるが、なにか体調を崩す原因になるようなことといえば…
皆無といってよいほど見あたらないのだ。
「もっと神経質に気遣った方がいいのかも。医師の診察を一度きちんと受けさせるか…」
またバラの花を切り落としながら、蔵馬はまだ落ち着いた様子でそう言った。
このところは平和だ。
が嫁いでくる前はおちおち眠ってもいられないほどの警戒が必要だったが、
今は誰に狙われるだのなんだのという下手な心配は必要なかった。
それはそれでいい、しかし、蔵馬ととの結婚の前とあととで、これほどまでに様子が一転するものだろうか。
いちど儀式をすべて終えてしまえば反対派閥が諦め黙り込むとでもいうのだろうか。
そんなはずは、ない。
今は相手も策を練っているか…蔵馬たちにそれと知られずに行動に移しているのか。
「嵐の前の静けさだと思わないか」
「あ? なにがだ」
「…平和すぎて。個人的には、嫌いじゃないけどね…静かなのも」
腕に束になったバラを抱え直し、温室の入り口に佇むままの幽助に歩み寄る。
「オレも実は似たようなタチだからわかるけれど」
いったん言葉を切って。
「邪魔なものが堂々とそこにあったとしたら、それを中途半端に片づけたいとは思わないんだ。
 やるなら徹底的にやる…二度と刃向かう気など起こさない程に」
冷たい緑の目に見据えられて、長年の知り合いではあるが幽助は思わずぞくりと身を震わせる。
力わざでならたぶん負けないだろうと思う相手に、ときどきこうも気圧される。
呆然としたままの幽助の横を通り過ぎ、蔵馬は一歩温室から出る。
ガラスの壁の外は少し涼しくて、新鮮な風が吹いていた。
「あれだけつけ狙われていたものが、今になって引っ込むとは思えないんだよ」
「あ、ああ」
幽助はやっと振り向いて、そう応じた。
の食事に針や金属が混じっていたなんて報告は受けていないけど…
 あとの残らない毒薬が…少しずつ体を蝕んでいく程度に混じっていたとしたら、誰がそれに気付くだろうか」
背を向けたまま蔵馬が呟いた言葉に、幽助ははっとした。
毒が混じっている可能性──という噂が、いつだったかまことしやかに流れたはずだった。
悪意の矛先が、蔵馬よりも警戒が薄く知識も乏しいであろうに先に向けられていたとしたら。
が今になっても体調を崩し伏せたままでいることも、そう仮説を立てれば一応のつじつまは合うのだ。
「…調べた方がいいぜ、確かに最近オレらの周りは静かすぎるかもしれねー」
「うん…すぐにでも」
歩き始めながら、彼は呟くようにでも、と言った。
でも、できるだけ自身には知らせたくないんだ、そんな恐ろしいことを。


それから、蔵馬の行動は迅速だった。
の身体に影響しそうなものはなんでも、秘密裏にしかし徹底的に調べた。
食事はもちろん、入浴に使うもの、髪の香油、香水、化粧品、薬。
ほとんど寝たきりに近い状態のが部屋から出ることはなかったから、
あまりめかし込んだりすることもなかったのだが…櫛や髪飾り、宝飾品に至るまですべてに調査の手が入った。
や侍女たちに気付かれないようにそれらを調べるのは難しいかとも思われたが、
食事と薬の時間以外はは大抵眠っていて、思ったほど困難ではなかった。
蔵馬は自分が贈った花々にまで、実は毒素が含まれていなかったかと疑ってかかる。
その徹底ぶりには幽助たちも少々呆気にとられるほどだった。
しかしそうまでして調べたすべてから、毒素と呼べる有害な物質は検出されなかったのだった。
「…考え過ぎだったのかな」
控えの間から続いているいくつかの小さな部屋のうちのひとつ、衣装室に立ち入って、
蔵馬はぽつりとそう漏らす。
場所が場所なだけに、普段なら夫といえど男性が踏み入ることのできる部屋ではないが、
今だけは話は別だ。
それでも幽助たちにここまで入ってきてもらうのはちょっと抵抗があったので、
彼らには遊びに集まった振りをして控えの間に待機してもらっている。
一応は蔵馬とと二人の居住空間ということになっているので、
蔵馬の友人たちが控えの間に集まることにそれほど違和感はなかった。
もう何度目かになる調査をまた繰り返しながら、何の成果も得られないことに蔵馬はため息をつく。
気持ちよく晴れた午後で、が元気でいたら本当はお茶の時間に庭にでも連れ出してやりたいところだと思う。
そんなふうに睦まじく接することができるのもいつの未来の話か。
とにかくなにか確固たる証拠が見つかり、反対派閥を一網打尽にすることができない限り、
そんなビジョンは夢以外の何ものにもなりはしない。
やはり手がかりらしいものが得られないままで衣装室を出て控えの間に戻ろうとドアを少し開いたとき、
の身の周りでは見かけたことのない侍女がひとり、盆にティーカップを載せて目の前を過ぎた。
ドアの隙間の向こうにいる蔵馬に、その侍女が気付いている様子はない。
なにか、普段ならとるに足らないようなちいさな予感がよぎった。
ざわりと肌が粟立つ。
薄暗い衣装室の中から、その侍女の動向を目で追った。
幽助たちは控えの間のソファ周囲に陣取って談笑している最中で、その侍女に気を配る様子はない。
の眠る寝室へのドアをほとほととノックする。
中からドアを開けたの侍女たちが応じる。
ティーカップを渡しながら、その侍女が言ったひとこと──蔵馬様からの、という言葉がはっきり耳に残った。
自分からに遣わしたものなど、花以外になにひとつないはずだ。
衣装室のドアを力任せに蹴り開けた。
振り返った幽助たちは、蔵馬の形相に思わず息をのんだ。
「貴様が下手人か…!」
あくまでも静かな声がどうしようもないほどの怒りをたたえて呟くように言う。
「その女を捕らえろ…」
呆気にとられたまま、幽助たちはそれでも立ち上がる。
否でも応でも空気を伝い来る緊迫感に悟るしかなかった…やっとしっぽがつかめたのだと。
幽助たちが力ずくでその侍女を捕らえ床に押さえつけ、
ぼたんはの侍女たちをかばうように寝室のドアを閉ざしてしまった。
取り落とされた盆と一緒にティーカップがたたきつけられて割れ、
こぼれた液体はかすかな薬品臭を絨毯にまき散らした。
「オレが直接刑を下してやる、有り難く思え」
蔵馬の口から出ようなどと誰もが思えないようなセリフを聞いて、皆背筋が凍る思いを抱く。
もう他のなにもかもが目に入らず耳に届かないような忘我の状態で、
蔵馬はさてどうしてくれようかと侍女を見下ろした。
いいザマだ…オレの妻を亡き者にしようとしたその罪は重い。
重苦しい愉悦すら覚えながら、口を開こうとしたそのとき。
様!」
「お待ちください、様…!!」
侍女たちの悲鳴、という名前が蔵馬を現実へと引きずり戻した。
寝室のほうを振り返ると、青い顔をしたが、扉の一歩奥に立っている。
「何を、何をなさるおつもりですか!?」
眠っていたと思ったが無理もない、これだけの騒ぎなのだからと蔵馬は冷静だ。
「…寝ていなさい」
「嫌です」
が初めて、自分に対してはっきりと意志を述べた。
それも、反発の意志…蔵馬にずっと怯え続けてきた彼女が見せた感情だった。
結婚の儀のとき、無礼ではないかと怒鳴られたことを、蔵馬はなぜかふと懐かしいくらいに思い出した。
「乱暴なことはしないでください」
どうにかしてをなだめなければと蔵馬は計算したが、まだ嘘はつき続けなければならない。
これ以上のショックをに与える必要はない。
「…わかっていないようだな」
冷たさを装って言い放つ蔵馬を、幽助たちがハラハラとした様子で見守っている。
「わかっていないのはあなたのほうです!」
怯まずに反論して蔵馬をにらみつけるに、一同も驚いている様子だった。
様! 御慈悲を…!!」
押さえつけられた侍女が叫んだ。
事情を知らないにすがろうとするその侍女を、皆が更にきつく押さえつけようとする。
はやめて、と悲鳴に近い声を上げた。
侍女をかばおうとが駆け寄る。
混乱のさなか、どさくさに紛れて侍女の拘束が…緩んだ。
まずい、と思ったそのときには、振り上げられた女の腕が刃物を握っている。
、…離れろ!」
蔵馬の声に、彼らは即座に反応した。
無我夢中でただを守らなければと、蔵馬の意志が身体に命じている。
左の腕にわずかな痛みと熱が走るのを感じた。
しばしの沈黙のあと、蔵馬はやっと我に返る。
は蔵馬の腕の中に守られて、…呆然としていた。
「蔵馬、大丈夫か?」
「ああ、かすっただけだ…大したことはないよ」
幽助に聞かれて、蔵馬は肩越しに目線だけ振り返りながら少し笑ってみせる。
捕らえられた侍女を示し、処分はあとで決めるからと伝える。
皆にその侍女を連れ出してもらって、とにかくの目の前から不安の種を取り去ってしまいたかった。
彼らが去り、ドアが閉まると、一部始終を見ていた侍女たちが力無くぺたりと床に座り込んだ。
身じろぎもしないを見下ろす。
「…
蔵馬はゆっくりと、を抱きしめていた腕をやっとゆるめた。
「怪我は? どこか痛まないか」
まだ呆然としているのは精神的なショックのせいだろう。
力無くは首を横に振り…その目から唐突に、ぼろぼろと涙がこぼれだす。
怪我はないと言っているのに痛みでもするのかと蔵馬は一瞬で混乱に陥るが、
少ししてやっとが安心できたのだと悟った。
命が助かったことをやっと実感として知ったのだろう。
そう、は助かった──守ることができた。
「………よかった」
口元が緩むのをとどめることができるほど、今の蔵馬はある意味で冷静ではなかった。
ただが無事で目の前にいること、それが今の彼のすべてだ。
「あ、あなたが、怪我を…」
が震える唇で言葉を継いだ。
左腕をちょっと見やる…刃物の切っ先がかすめただけだった。
心配などいらない、この程度でを守ることが出来たのだから、勲章ではないか。
ちょっと引っかけただけだからと、無意識にもを安心させたくて少し微笑みが浮かぶ。
「恐い思いをさせたね…」
今までにないくらい優しい声でそう言って、そっと溢れる涙に口づけた。
「泣かないで…もう大丈夫だから」
そっと、が怯えることがないようにとやさしくその身体を抱きしめた。
結婚式の時に倒れたを抱きかかえて以来の距離だったが…は確かにかなり痩せたように思った。
その細い身体が毒物に蝕まれていたということは、少し離れた床の上に転がるティーカップ、
こぼれた液体から立ち上る薄い薬品臭からも明らかだ。
「とにかくまず君はベッドに戻ろう、あまり動き回るといけない」
の身体をそのまま抱き上げて立ち上がり、寝室へ踏み入った。
抱き上げられて一瞬、は高さに怯えたのか蔵馬にぎゅっとしがみついた。
ただそれだけの仕草が愛らしくて、愛おしくて、溶けていくような気持ちを覚えてしまう。
自然と浮かぶ笑みに一瞬はっとしたのだが、もう、いいのだ。
を守るためにと距離を取り、自分を苦しめる時間は今やっと終わりを迎えようとしている。
をベッドに横たえてやり眠れそうかと訪ねると、は不安そうに蔵馬を見上げながら
なにがあったのかと聞いてきた。
君を狙っていた者たちがいて──そんなことを、本人に聞かせたくはなかった。
少なくとも、今は。
適当に言葉を濁し、執務室にいるからとの髪をそっと撫でた。
蔵馬はこんなふうにに触れるのは初めてだった。
指先から伝わるの体温に、くすぐったいようななにかが身体を走り抜ける気がした。
はそっと目を伏せ、ちいさくこくりと頷いた。
会話が途切れて、蔵馬の無意識に近いところで今なら…という声がした。
今なら。
たった数瞬考え込むあいだ、蔵馬はベッドの側に立ちつくしていたが。
気付いたときには、身体が動いていた。
結婚式のあの夜に、躊躇って離れてしまったキスを。
もう一度いまの唇にキスを贈ろうとして、どうしてか…また躊躇ってしまった。
の身体がこわばったのを感じたのだった。
まだ怖がられているかも知れない。
は事情を何一つ知らない。
蔵馬は唇が触れる前に少し離れて、頬にやさしいキスを落とした。
少しずつでいいから、オレを感じて欲しい。
すぐに愛情に変わらなくてもいい。
万感の思いも一瞬のキスでどれほど伝わるものかは定かではない。
の頬に触れた瞬間、蔵馬の内側にどぉっと照れやら恥ずかしさやらがこみ上げて我に返り、
の顔をもう一度見つめる間もなくさっさと身を翻し、早足でずんずんとドアへ向かう。
蔵馬ととのあいだにだけ起きた感情の波がわからない侍女たちは
本当にキスシーンを目撃してしまったものと思って部屋の隅でちいさくなっていたのだが、
去り際に蔵馬に「をちゃんと休ませるように」と言い含められてしゃっきりと背筋を伸ばした。
蔵馬がずっと冷たい態度をとるように見せかける裏での様子を気にかけていたことを
侍女たちは見て知ってはいたのだが、その真実の理由がやっとわかったような気がして目を見合わせる。
すべては命に関わる危険からを遠ざけるためと思い当たれば、
愛情を押し殺してまで自分たちの姫君を守っていた蔵馬にどうしようもないほどの感謝の念がこみ上げる。
足音が去ったあとでもは事情がわからずに少し不安そうな顔をしていたが、
早く姫君が蔵馬の愛情に気がついてくれればいいと、侍女たちは今度は切に願うのだった。
その夜。
蔵馬の言うとおりにをどうにか休ませなければと侍女たちは努力したのだが、
唐突にことが起こりすぎた興奮、毒素によって衰弱しきった身体への疲労と負担、
なによりも生まれて初めて味わった死への恐怖では眠りにつくことなど出来ていなかった。
日が落ちた頃にやっと少し食欲が戻り、果物など口にして、はやっとうとうととし始めた。
寝室のあかりを落とすと、侍女たちは姫君の眠りの妨げにならぬよう配慮して部屋を辞した。
控えの間にいて騒ぎの後始末などを済ませたあと、躊躇ったようなノックの音がした。
緊張した面もちの国王がそっと部屋へ入って来た。
「…は? 眠った?」
心配そうに問うた王に、侍女たちはやっと落ち着かれたようですと控えめに答えた。
今の今まで、刺客となった女を問いつめてあらいざらい吐かせて反対派閥の黒幕を突き止め、
その処分と対応とにかかりきりになっていた蔵馬だった。
が嫁いできた当初からずっと張りつめていた緊張が初めて少しとけかけて、
それが逆に戸惑いのようになってしまっているのだった。
どことなくぎくしゃくした動作で寝室のドアに辿り着いた蔵馬は、一応そっとドアをノックしてみる。
返事はなかったが、彼は遠慮がちに薄暗い部屋の中へと滑り込んだ。
あかりの落ちた部屋の中、ベッドに横たわっては目を閉じている。
その美しい姿が、ろうそくの小さな炎にちらちらと照らされておぼろげに浮かび上がる。
起こさないように神経質なくらい気遣いながら、蔵馬はベッドの裾にそっと腰を下ろした。
「…眠ってる…?」
小声で聞いてみると、思いがけずはちいさく首を横に振った。
起こしてしまったかもしれないと思いながら、落ち着いた、と聞いてみた。
は頼りない声で、それでもはい、と答えた。
「…脅かしてしまったね」
先程の騒動よりもむしろ、自分の態度が手のひらを返したように豹変したことに
は驚いているのではないかと蔵馬は思った。
もうなにを偽る必要もないのだ。
それが奇妙に感じられるのは何故だろうか。
「…あの」
思い切って言ってみたものの、これから告げる言葉にがやっぱり怯えてしまうのではという不安は拭えない。
けれど、望むのなら自分から少しずつ歩み寄ることをしなければならないのだ。
「…ここで休んでもいいかな」
が淡い闇の奥で、緊張して目を見開いたのがわかった。
それだけで答えがノーであることはわかるのだ。
けれど今言えることを伝えてしまわなければと蔵馬の内心は焦る。
は迷うように視線を漂わせた。
「なにも、その…しないから」
うまく言葉が繋がらなかった。
すべて丸く収まったら伝えたい言葉があると、これまでずっと考え続けてきたというのに。
ばつが悪くて蔵馬は少し俯き加減に、君が嫌だというならいいんだと付け加えた。
今はとにかく、怯えなくてもいいんだということを知ってもらいたかった。
「…これから先も、…君が嫌がることはなにもしないから。だから、だから…怯えないで、ほしい」
はなにか言いたそうにしているが、それでもとても口を開くような様子には見えない。
になにか言われることは、今の蔵馬にとっては計り知れない恐怖にも似ていた。
嫌い、恐い、嘘つき、乱暴者、そんなセリフが投げつけられそうで恐かった。
意図してそう振る舞っていたのだからそう思われていて当然だった。
けれどやっと本心で接することを試みている今、これまでの誤解を解いていかなければならない。
言い訳をするように蔵馬はつぶやいた。
「今までが、乱暴すぎたから」
沈黙する空気がひたすら重くて、蔵馬は誤魔化すように手を組んだり離したりを繰り返した。
はまだなにを答える気配も見せないが、ゆっくりとベッドに起きあがった。
身体を動かしても平気だろうかと案じて目を上げるが、
の視線とまっすぐに絡み合った途端に身体中が金縛りにあうような感覚に囚われる。
もうどうにでもなれと、覚悟した言葉は吐息混じりに口をついて出た。
「…好きだよ」
「……え?」
「花嫁の控えの間に座っている君を見たときから、ずっと好きだったよ」
「う、嘘…?」
「本当、だよ…わかってもらえなくても、」
それだけ言うと、もうこの場にいるのがしのびなくなってしまって、蔵馬は立ち上がってに背を向けた。
「…おやすみ。いい夢を」
肩越しに振り返ってちょっと微笑むのが精一杯だった。
それでも、に笑いかけることが出来る当たり前を幸せなことだと心から思える。
数年越しの片思いの末にやっと吐き出した告白を受けて、はとまどっているだろう。
部屋を出て、挨拶をする侍女たちに目をくれる余裕すらないままに
廊下を早足で行きすぎながら、先程からの自分の行動がすべて失態に思えてしまって、
蔵馬は喚きながら耳を塞いでわけのわからない様子で歩いた。
どこをどう歩いたのか、談話室に辿り着くと幽助たちが皆お疲れさん会などと称して
いつも通りに飲み会を開催していたので、これ幸いとそこに混じって夜を明かすことにした。
表面上は騒ぎながらも、のことを考えないときなど一瞬たりとも訪れはしなかったのだが。
一晩が過ぎて、浅い眠りから覚めた蔵馬は簡単に着替えを済ませるとすぐに温室へ向かった。
に花を贈るようになってからの習慣のようなものだった。
いい加減温室は丸裸と言ってもよいくらいの惨めな姿をさらしており、
またこれからの季節に咲く花を丹精してやらなければと庭師ならげっそりしそうな様子だが、
蔵馬はこの結果に満足していた。
ただ、この広い温室の花をほとんど残らずに捧げてしまったということで、
逆にしつこすぎやしなかったかと自問する羽目に陥っている。
他に贈り物を考えるセンスもないのかと自分で突っ込みたいほどだった。
まだ咲いている残り少ない花をまた惜しげもなく切り取って、蔵馬はの寝室を訪れた。
はちょうど目覚めて起きあがったところだった。
蔵馬と目が合うなりの頬はぱっと赤く染まった。
「………あ、えと…」
なにか言おうとしては恥ずかしそうに俯いてしまう。
昨夜の自分の言動を蔵馬は思いだしてまた鼓動が高鳴るのを感じたが、
かろうじておはようと挨拶することは出来た。
「…よく眠れた?」
「はい…」
「そうか…よかった」
ベッドの傍らに持ってきた花を活けようとすると、はおずおずといった様子で口を開く。
「あの、お花…」
予想していた言葉が向けられるかと、蔵馬は先手をとってしつこいかなと聞いてみる。
意に反してはなんのことだかわからないとでも言いたげに、え、と首を傾げた。
「…花はみんな好きだって言ったから…ほかに、なにを贈ったら喜んでもらえるかわからなくて」
が何の気なしに告げた一言で温室すべて丸裸にしてしまった自分は笑いものだなと
蔵馬は内心自分に呆れてもいるのだが、は赤い顔で俯いて、小さな声でありがとうと呟いた。
望んでいた声を初めてから聞いた。
まだを直視は出来なくて、横目で様子をチラと見つめる。
口元に浮かぶ笑みをこらえるなど無理に等しい。
今日は休暇だと、蔵馬は勝手に決めてしまった。
職務には出ずに日がな一日と話をして過ごした。
もっとのことを知りたいと、当たり前の欲求をやっと言動に出すことができた。
まだ本調子でないにそうして無理ばかりさせるわけにもいかないと言っては時折横たわらせてやり、
のどに通りやすい食事や果物を用意したり、その気配り具合には侍女たちも舌を巻いた。
ほんの少し、やっとのことで打ちとけかかったとき、蔵馬は意を決してに説明を始めた。
あの騒動の発端──自分がに一目惚れをしたその経緯から今に至るまでのすべてを。
話し終えて、はしばらく黙っていたが…ふいに蔵馬に問うた。
「もう、いいのですか」
「?」
「何もかも解決したから、こうしてお話ししてくださるのでしょう…?」
「……うー、ん…まぁ、たぶん…」
とりあえず明らかにを狙うだろう要因は排除できたと言える。
しかし、上に立つものが人々からの批判を受けるのは当然の風潮とも言える。
それがどの程度自分たちの身を危険にさらすことになるのか、まだ具体像がすべてつかめたとは言い難かった。
「問題のすべてが解決したわけじゃないんだけど…まだオレを付け狙っている奴はいるし、
 君にも危害が及ぶかもしれない、わかっていたんだけど…」
一瞬蔵馬は言葉を飲み込んだ。
「もう我慢しきれなかったんだ…愛しているのにそう言えないことには」
彼はわがままだよと呟いた。
「…時間がかかってもいいんだ。少しずつ、君に謝ることが出来たらと、思ってる」
「…………」
そろそろいたたまれなくなってきた蔵馬は、はっきりと場所をわかっている時計を
わざと探す仕草で辺りを見回し、席を立つ口実にもうこんな時間かと言った。
「さすがに丸一日仕事をさぼるわけにもいかないから、もう行くよ。
 …邪魔をしたね。ゆっくり休んで」
またベッドの上に起きあがっていたを半ば強引に横たえてやる。
細い肩が手の中におさまってしまうような。
守らなければと、それだけで蔵馬は新たに誓いを抱く。
「…私、そんな重病人じゃありません」
少し不満そうに言ったに蔵馬は君自身が君の身体のことを知らないだけだと思わせぶりに答えてしまった。
これ以上心配を与えてどうするのかと青ざめるのが自分でもわかったが、
はそれ以上のことを聞いてこようとはしなかった。
また何度でも会いに来ることが今度こそは確かに許されているのだろうに、
蔵馬は離れ難そうにそっとの髪を撫でた。
慈しみに溢れたその指先が、ほんの少し緊張していた。
背を向けようとすると、に呼び止められる。
「あの、あの、……」
「…なに?」
「…蔵馬様は、」
「…様付け、やめない?」
「でも」
名前で呼んでくれたら嬉しい、そう言うとは改まった様子で蔵馬は、
と口にして、途端に真っ赤になってしまった。
初々しいその様子に愛おしさはつのるばかりだ。
「いままで、どこで休んでおられたのですか?」
ちょっと想定外だった問いに、蔵馬は表情を変えずに考え込んだ。
「…………夜寝るときってこと?」
は小さく頷いてみせる。
「…とにかくやれるだけ仕事を片付けたら夜中まで時間が潰せる」
「………」
「そのあと幽助たちがちょっと酔い加減で呼びに来るからついて行って」
「……」
「それから、談話室とかで喋るだけ喋って」
「…」
「大抵そのままそこで寝てる、ソファに横になって」
これ以上言ったらまずいと蔵馬は言い終わったあとで気がついた。
は青ざめてごめんなさいと呟いた。
「いや、いいんだ、のせいじゃない。
 …オレは結婚する前からのことを知っていたからいいけど…
 は知らない男のところへ無理矢理、人質に取られるように嫁がされたんだから」
婚約を望むという手紙を受け取ったときのことを蔵馬は思い出した。
「敵国の中枢にいきなりひとりで放り込まれて、頼る相手なんて夫のオレしかいないはずなのに。
 当のオレ本人はひどい仕打ちをし続けて、を苦しめた…」
ちいさく首を横に振るを見て、蔵馬はまたふっと微笑んだ。
「だから、…最初から夫婦になろうとは思わないことにしたんだ。
 結婚したあとにお互いに初恋をしても、いいと思うんだ」
言ったあとで蔵馬は自分のセリフの意味するところにはたと気がついて赤くなる。
「…つまり、その」
言葉を継ごうとしても詰まってうまく言えずにいると、はクスリと笑いを漏らした。
「…やっと笑ってもらえた」
結婚してからどれくらい経っただろうか。
目の前で微笑んでくれたのは初めてで、蔵馬は胸の内にきりりとした痛みが走るような感動を覚えた。
「…君がいいと言うまで、ずっと待つよ…何年でも」
また部屋を出ようとすると、がまた蔵馬を呼び止めた。
「では、毎日、お仕事に出る前、逢いに来てくださる…?」
唐突な申し出に声が出ず、蔵馬は不自然なくらい長いことぽかんと立ちつくしてしまった。
は気まずそうに俯いて、お忙しいのならいいのと呟いた。
「いや、大丈夫…来るよ」
それ以上自然に会話を交わすのは無理そうで、蔵馬はとにかく部屋を出た。
次の間に控えている老嬢たちが嬉しそうにそれを待ち受けていて、ここぞとばかりにからかいの言葉を浴びせる。
「まぁ陛下、嬉しそうにどうなすったの」
様と良いことでもありました?」
「…うるさいな! もう…」
お見通しと言おうか、ただのそばにいられただけでよかった。
口元がほころぶのを止めるのも困難だ。
幼い頃から見守ってきた少年が、大切な人を見つけて愛し合う喜びを知ったのを見ては、
老嬢たちは嬉しそうに目配せをして噂をしあう。
くすくすと笑っている老嬢たちを背に、しかし蔵馬もただ訪れた幸せを噛みしめていた。
仕事に身が入るかどうかは定かでない。
夜にまた会ったときはなにを話そうか。
花の次にはなにを贈ろうか。
少しずつ、やっとのことで縮まり始めたお互いの距離を、蔵馬は今度こそ真実大切に守ろうと誓う。
そうしてが自分のことを愛してくれたらいいと願った。


by the way...   close   epilogue