長の年月04


ひたすらに暗く、風が呻くように巻き上げて、ざわめく森は生きて呼吸をしているように耳元で心地悪く囁く。

夜の森の底に赤い月の欠片が落ちたように、光が灯っている。

彼はそこにいる、まるで何の変化もないように。

幽助と飛影は彼の家を訪れたあと、旧癌陀羅へは戻らずに樹海の中に佇んでいた。

彼らの目の前には、そこだけ不自然なほど咲き誇るバラの茂み。

良く知った妖気がそこを支配している。

彼が彼の妻のために、樹海のあちこちに人間界の植物を持ち込んだことは知っていた。

ここもそのひとつだろうか。

樹海の中の蔵馬との痕跡をただひたすら追っていた幽助と飛影だが、

最後に辿り着いたこのバラの茂みの他は、ことごとく枯れ滅んでいた。

なにをおいても愛し慈しんだ妻のための花を、彼が枯らすことがあるか?

つい二日ほど前に蔵馬に会ったときのことを、幽助は思い返していた。

  
「………が……っているからね」

悪戯に吹いた風が、蔵馬の言葉を掻き消した。

  
「………が……っているからね」

聞こえるようで、届かないようで。

彼の唇がどんな言葉を発したのかを、幽助はやっと知った。

  が眠っているからね。

「………くそ………!!」

悔しそうに唇を噛みしめる幽助に、表情を変えない飛影。

いつの間に。

いったいいつの間に、こんなことになってしまったのか。

種族のあいだに横たわる大きな壁を、彼は禁断に手を染めてまで越えてしまったのか。

「…行くぞ」

飛影は一言置いたきり黙って踵を返した。

幽助はまだ俯いてきつく拳を握りしめたまま立ち尽くしていたが。

やがて、諦めたようにバラの茂みに背を向けた。

彼の気配は樹海中に満ち満ちているようだったが、赤い光を灯すその家の窓からは特に強く漂ってくる。

少し迷ったように、ノックをしようとした幽助の手が震えた。

「………」

彼と彼女との問題のはずだ。

なにを言えるというのか。

持ち上げた手を降ろそうとする幽助に、飛影が呟いた。

「やれ」

「…飛影」

「おまえがやれ。いつもそうしてきただろう」

「………けどよ」

「…あいつはこうでもしないと助けて欲しいなどと口が裂けても言わないだろう」

「……」

「自分でもどうすることもできないのさ…悪い癖だ」

肩越しに振り返ると、飛影はただまっすぐに幽助を見返してくる。

彼も絶対に言いはしないのだ。

あいつを救ってやれ、などとは。

幽助はまたまっすぐ前を見た。

ドアを、叩く。

返事はない。

「…蔵馬」

耳のいい彼には聞こえているはずだし、ふたりの妖気は隠し仰せるほど脆弱なものではなかった。

恐らくはずっと樹海をうろうろとしていたことすら、彼は知っているはずだ。

知っていて邪魔をしなかったのだ。

恐る恐る、幽助はドアを開けた。

きぃ、と木の扉が軋む。

不自然なほど明るくてあたたかで、家庭的に見えるその部屋に、そこに住むふたりの姿はない。

蔵馬の妖気だけが、ここにいるということを語っている。

住人のいない部屋はそれでも生活の通りに動いていて、見つめるほどに不気味さがいや増していく。

「…おい、蔵馬…」

言葉を紡ぐことすら絶え絶えと、幽助は絞り出すようにもう一度呼んだ。

やはり、返事はない。

勝手に家へ入ればまたがどこからか出てきて、不法侵入者は強制排除…などと言うのかもしれない。

そう思ったが、部屋の中程まで入り込んでもは姿を見せず、蔵馬もふたりを迎えたりしない。

幽助と飛影とは、一瞬目を見合わせるが…それだけでお互いの思惑を理解したように、

同じ部屋を目指して歩き始めた。

ふたりで住むには過ぎるくらい広い家の中の、一番奥。

彼らが寝室として使っているらしい部屋だった。

ドアは半開きになっていて、照明が落とされていることが伺える。

けれど、蔵馬はそこにいる。

そこにいて、じっとしていることが、ふたりにはよくわかった。

またしばらく躊躇ったあと、幽助はそっと…ドアを押した。

ゆっくりと、勿体つけるように開かれていくドアの奥に、

ベッドの上に横たわると、そのそばに跪いている蔵馬とがいた。

彼は背を向けたまま、こちらを振り返ろうとはしない。

「………」

声をかけることができない。

蔵馬の背はただ、そこにそうして、そうあるようにとだけ告げている。

部屋の中に一歩踏み入って、幽助と飛影とはそのまま動くことすら出来なくなってしまった。

目を閉じておだやかな表情で眠り続けるは、若くて美しい姿のままだ。

眠り姫のお伽話のように、口づければそのまま魔法が解けるように目を醒ますかもしれない、

そんなふうに思えるほどだった。

けれど現実は物語のように美しいばかりではないし、真実の愛にばかり甘くはない。

訪れるいつかを描く前に幕は引かれ、舞台ははねて、役者は去った。

客すらも幕の向こうを忘れた今も、彼は立ち続けていた。

舞台の上に、たったひとり。

「………邪念樹って、覚えている?」

蔵馬は低い声で問うた。

ふたりの答えを待たずに、彼は続きを口にした。

「寄生する相手に幻覚を見せておびき寄せ、とりついた相手が死ぬまで離さない」

彼は一度、ふたりも見ている前でそれを使って敵を片づけたことがあった。

「あんなおぞましいものもねぇ、植物だから」

支配するのも難しくはないんだよ。

彼はやっと半分、ふたりを振り返る。

寒気がするくらい、その顔に生気はなかった。

「それは偶然だった」

蔵馬は奥底に渦巻く痛みを今もなお隠しながら、淡々と話し続ける。

様々な植物を暇に飽かせて品種改良してみたり、遺伝子の構造をいじったりしていた頃があった。

ただの遊びで、気まぐれだった。

だから、なにをどうしてこんなものが出来上がったのかは覚えていない。

「体内に入り込んで外観に変化を及ぼすことなく寄生するんだ。

 邪念樹が元から持つ作用がいくつか消えた代わりなのかはわからないが…

 極端に熱に弱いという特徴が出た」

幽助ははっとして息をのむ。

が驚いた拍子に、ポットに入った熱湯を腕にかぶった。

重傷かもしれないが、火傷を負うだけで済むはずのことに蔵馬は異常なほど狼狽えていた。

「ちょっと熱めの風呂に入るくらいで簡単に枯れるんだ。

 彼女の体温は約31.4度…常に冬眠しているような状態にあった」

眠るの頬を指で撫でる。

その仕草は、その昔に見た彼のものとなんの変わりもないというのに。

「オレの妖気に反応して、の態度を取り戻す。

 オレが離れているあいだは、邪魔なものや敵とみなされるものを自分で判断して攻撃する。

 …そういう、『プログラム』…だった」

幽助と飛影がよく知るが今もそこに、なんの変わりもなく横たわっている。

けれどそれは明らかにではない、別の、ものだ。

「…別に、必要だったわけじゃない。遊びでできた突然変異体だった。それが…」

蔵馬は言葉を切った。

張り付いたような無表情が歪む。

その目に薄く涙が浮かんでいる。

「…は、ノイローゼになりかけていたんだ。

 自分の身の上だけに時間が過ぎていく、それが刻まれる、そのことに」

蔵馬とのあいだに育まれた愛情が老いるわけではない、それはわかっていたはずなのに。

蔵馬はそこに立ち止まっていて、はただ、流れのままに流される。

いつしか知人の前にも姿を見せることをは嫌うようになった。

そうして、彼らは人目を避けるように、樹海の奥の途絶えた集落に移り住んだ。

「オレはそんなことは関係ない、構わないと言い続けて彼女を落ち着かせようとした。

 …けれど、にとっては関係ない出来事でも、構わないで済むことでもなかったんだ。

 オレはその気持ちを、尊重してやることが出来なかった」

君は君でいいとだけ言い続けた。

の望みは、自分が自分でいいという、自然のまま、それだけではなかった。

自分から確実に失われていくもの、若さや美しさといったものを手放すことを恐れた。

そうして訪れた、悪夢の夜。

は…自分で自分に、『あれ』を寄生させたんだ」

蔵馬が一瞬目を離した、その隙に。

蔵馬が気付いたときには、にはすでにの意識が残っていなかった。

植物が宿って目を見開いたは、自分の支配者が命令を下すのを待っていた。

「…壊そうと思った」

涙が頬を伝って、落ちた。

震える声は、それでもなおも紡ぐ。

「…できなかったんだ…の姿で、の声で、オレを待っているんだ」

そのときから、気が遠くなるような嘘が、現実のすべてを塗り固めて色を変えていった。

自分のやったことに嘘をつき、自分の言葉に嘘をつき、かつての仲間に嘘をつき、

の姿に嘘をつき、自分の愛に嘘をついた。

そうして。

「気がついたら、自分でもどうしようもないところまで来てしまっていたんだ…

 の魂にさよならを言うこともできないまま」

「………」

苦しそうに唇を引き結んで、幽助は目をそらした。

飛影は微動だにせず、蔵馬との様子をただ見つめ続けている。

は何事もなかったように眠っている。

彼がそうしてまで守ろうとした美しいお伽話が、少しずつ剥落し始めていた。

の気持ちを、わかってあげられなかった。

 オレはオレの綺麗事ばかり並べて、の言うことをやわらかに否定し続けていたんだ。

 若さや美しさに執着することも、にとっては真実だったのに」

愛する者の言葉に背を向けてしまったことに、蔵馬は今も傷ついていた。

は苦しんで、悩んで、結果…意識を失ってまで時間を止めて彼のそばに居続けることを望んだ。

が最後にオレに言った言葉、まだ覚えている…『蔵馬はわかったふりしかしてくれない』と」

愛する人に愛される姿のままでいたい、その望みをはそうして叶えてしまった。

こんなことは自分の望むことじゃない。

そう思いながら、蔵馬にはそれでもを壊すことなど出来なかった。

「許せないんだ…

 ここにいるのはじゃない、の意志じゃないとわかっているのに、手を離せなかった…

 オレ自身が、知らぬふりをして、目を閉じくちを閉じていた、それが」

の死を受け入れたくはなかった。

こんなかたちで。

こんな理由で。

わかってあげることもできないまま。

耳元をくすぐるようなの笑い声が、おぼろげによみがえった。

花が開くような微笑みも、そこにいるだけで頑なな空気などとかしてしまう穏やかな雰囲気も。

なにもかもを、昨日のことのように思い出せるのに…すべて嘘にしてしまった。

蔵馬は声も立てずに涙を流しながら、ぼんやりとの横顔を眺めている。

暗い部屋に、月明かりだけが薄く射し込んでいる。

幽助と飛影は、ただ立ち尽くしたままふたりの姿を見守っていた。

海の底のように押し黙った空気が横たわり、誰も何も言わず、動かない。

しばらくして、蔵馬は静かに、ふたりのほうに向き直った。

「…看取ってやってくれないか」

「………え?」

「…の、…緩慢な、死を」

ふたりは目を見開いた。

蔵馬はつらそうな顔をしないように、きつく唇を噛んだままふたりを睨んでいる。

(蔵馬、頼むよ、もう…)

これ以上自分を騙さないでくれよ。

そう言いたげな幽助に、たぶん蔵馬は気付いていたが…のほうを振り返り、ベッドの端に腰掛けた。

「…お別れだよ、…」

今度こそ、手を離す。

わがままのために君にまで嘘をついてごめん。

君自身のことをわかってあげられなくてごめん。

…今も、本当はわからないから、こんなところまで来てしまった。

自分自身を失ってまで自分の時間を止めることが、君にとっての真実だったのかな。

手を離して、時間が過ぎて、そうしたら、わかる日が来るのだろうか。

許して欲しい。

弱いオレのことを。

すべてを偶然のせいにして忘れようとしたことを。

でもどうか、これだけは覚えていて。

これだけは真実だから、今も昔も、これからも、もう二度と逢うことがなくても本当だから、どうか

「…愛してるよ」

二度と目覚めることのない恋人に、最後のキスを。

お伽話の最後に口づけで目を覚ました姫君は、幕が引かれた舞台の上でいつか眠りについただろう。

見守る者の去ったあとに、その眠りが安らかなものであったかどうかを知るすべはない。

の内側を支配していた それ から、彼の妖気が徐々に抜けてゆくのが幽助と飛影にもわかった。

緩慢な死を。

やがて横たわるの身体からなんの気配も感じられなくなっても、三人ともそこを動くことはなかった。

まだ夜は明けなかった。



あの日からひと月。

今日も新政府会議が招集されて、躯たちは百足を走らせ癌陀羅へ向かっているところだった。

樹海の奥から戻ってきた飛影を問いただし、躯はことの成り行きを知った。

一部始終を簡単に説明されて、躯は信じがたいように眉を顰めた。

見届けたあと、蔵馬ととをそのままそこにそっとしておいて、幽助と飛影は魔界都市へ戻った。

蔵馬ととを知っている者たちは一様に驚き、悲しみ、悔いて、祈った。

悲劇に幕が落ちても、世界はそんなこと知る由もないと言わんばかりに巡り続けている。

がいても、いなくても。

魔界は今日だって平和だと、曇り空のあいだを走り抜ける稲妻を眺めながら幽助は思う。

今日の会議も、ただ定例なだけだ。

世界は上手く回っているから、わざわざ会議で取り上げるほどの問題もトラブルもない。

うまくいかなければ力で解決する、魔界ではそれがまかり通る。

シンプルこの上ない秩序たる無秩序、そこに口を挟む余地はなく、

ただ殺伐としているようにときどき思うようになった。

言ったところでどうにもならないし、どうするつもりもないのだが。

「浦飯。ずいぶん早いな」

会議場にまず着いた黄泉は、幽助の姿を認めて声をかけた。

会議室正面ドアの前、廊下に面した大きなガラス窓から幽助は外を眺めていた。

この魔界都市のどこかにも、あんなにぎりぎりの愛があるのだろうか。

「あー。早く来ても早く終わるモンじゃねーのにな」

面倒くせぇなどと言ってくしゃりと笑う幽助に、黄泉も口の端で笑った。

「なー。またトーナメントやろうぜ。そろそろもう一回くらいオメーと当たるかもしんねーし」

「そうだな。大会と手合わせとではまた違った味があるからな」

それにしても王位についてひと月足らずで政府を放り出す気かと、黄泉は苦笑する。

「面白そうだな。何の話だ?」

幽助と黄泉が振り返った先に、やっと到着した躯と飛影とが立っていた。

「そういや躯と当たったことねーよな、トーナメント」

「あ? ああ、そういえばそうか…」

それも面白いかもなと躯が実は無関心に言うそばで、飛影は幽助をにらみつける。

「…ふざけたことを…死ぬぞ」

「ジョーダンだって! 本気にすんな飛影、妬いてんのか?」

「…死ぬか? 貴様」

旧知の間柄で何十回と繰り返されたやりとりだ。

なだれ込むように会議室へ移動して、めいめいが好きな席に座る。

上も下もない、幽助はまた手近な席にどかりと腰を下ろす。

日常が戻りつつあった。

心のどこかに、むずがゆい引っかかりを残したまま。

メンバーも徐々に揃い、一応体裁上会議は始まった。

人間界との共存を目指してずいぶんと経っているが、実際にはずいぶん遅々として進んでいない。

人間の意識を変えていくことは難しい。

ただでさえ話し合いなどという手段に解決策など見つからないと最初から諦めて臨んでいる連中だ、

始まって十分も経たぬうちに会議はたちまち行き詰まる。

「あーもー、面倒くせー!!」

まず最初に匙を投げたのは幽助で、どかりと足をテーブルに載せる。

それを窘める者もいないのだから、場は自然とやりたい放題になってくる。

「会議なんてもういい、飛影、外出よーぜ。久々に全力で暴れてー」

「…フン…貴様も魔界のやり方に順応したようだな」

「おうよ」

ふたりが立ち上がったのを合図に、会議はお開きと場の空気が緩みに緩んだ、そのとき。

思いもかけず、会議室の正面ドアが開いた。

「………!!」

皆が一様に息をのむ。

「…やぁ。遅れたかな」

「蔵馬…!!」

それきり、誰も声を出すこともできない。

蔵馬は一同を見回したが、平然としたように見えた顔が決まり悪そうに曇った。

「会議中じゃなかったの? どういう状況なんだか…」

「あ、いや、これは」

幽助は誤魔化すようにあははと笑った。

「…ま、君らしいけどね。他のメンバーにしても、デスクに向かって書類と格闘するタイプではないし」

「…それは貴様の仕事だ」

「そう言うと思ったよ」

蔵馬は呆れたように息をついた。

「協力しますよ、国王陛下。それとも、もう政治には飽きた?」

「あったりめーだろ! 何回やっても面白くもなんともねーよ」

いつも通りに振る舞う幽助に、蔵馬は本当は少しほっとして、笑った。

結局会議はそのまま流れてしまい、メンバーは好き勝手に散ってしまった。

会議室の外、大きなガラスの窓から魔界都市を見下ろしながら、幽助に飛影、蔵馬は黙って立っていた。

「…もう大丈夫なのか」

「………」

遠慮がちに聞いた幽助に、蔵馬は表情を変えず、目線を動かすこともせずにいる。

「…言いたくねーなら」

「…いや」

そうじゃない、と蔵馬は呟いた。

「あのあと…は人間界に埋葬したよ。彼女は、人間だから、ね」

「…そ、か」

幽助が蔵馬をまっすぐに見ることも出来ずに黙り込んだきり、また沈黙が訪れる。

飛影は黙って、一歩離れたところに立っているが…蔵馬を気にかけていることはわかる。

長い付き合いも伊達じゃない、そういうことだ。

「…ありがとう」

「あ?」

「…ありがとう、って」

蔵馬は薄く微笑みながら、横目で幽助を見やる。

「…礼言われるようなことは、オレはなんも…」

「いいんだよ。意味がわからなくてもね」

オレがわかっていればそれでいいんだよ。

そう言って、彼はまた魔界都市へと視線を戻す。

「久しぶりだけど、ここは変わらないんだな」

「そーだなー…まぁ、あちこちの国にいた奴らがだいぶ混じって暮らすようになったかな」

「そうか…」

その中にまだ、人間はいないけれど。

時期が早すぎたとか、種族が違うとか、そんなことを今悔いてもどうしようもない。

なにもかも過ぎた、今残るすべては記憶の欠片だ。

「…やるんじゃなかったの?」

「あ?」

「手合わせ」

なにか企むような笑みを、蔵馬はふたりに向ける。

「オレも混ぜてよ。…久々に、身体を動かしてみたいし」

「…お、おぉ」

「…隠遁生活でなまっているとは言わせんぞ…」

「もちろん。売った喧嘩で手を抜いてどうするの」

にっこりと笑うその顔は、昔から変わらない…蔵馬の笑顔だった。

「ふたりももちろん、本気でね。手を抜いたら怒るよ」

「あったりめーだろ! 行くぜ!!」

幽助はわくわくしながら、階下へ続く階段に向かい走り始める。

飛影もフン、などと言いつつちょっと軽い足取りでそのあとを追った。

微笑みながら蔵馬は、彼らの背を眺めて。

また窓の外へ視線を戻した。

君のいない世界で、なにもなかったような生活に戻って笑っている、でも忘れたわけじゃないんだ。

稲妻が走り、空と地とを一瞬光で引き結び、消え失せる。

今は見えなくても、かつてそこに確かにあったもの。

…かつてそこに確かにあったのに、今はもう…手の届かないもの。

君がいなくても、

君が忘れても、

オレが覚えているから。

だからおやすみ、オレのわがままに付き合ったぶん、よく眠れるといいけれど。

恐い夢から守ってあげるすべも、今は見つからないみたいだ、それでも。

身の内に宿る愛だけは、今も本当だから。

まるで変わらないように、変わり続けている世界を、街を見下ろしながら、

蔵馬はを思った。

二度と巡らない長の年月、永遠の愛情。

どこにも平等に永遠は存在しないけれど、この愛は失われない。

なにやってんだ蔵馬、早く来い、置いてっちまうぞ、

幽助が遠くで呼ぶ声に 今行くから と答えて。

戻らない今に背を向けて、蔵馬は前を向き、目線を上げる。

を置いて、否応なく先へ行くけれど、この愛だけは置いていかない。

蔵馬はゆっくりと一歩を踏み出し、歩き出した。

遠ざかる足音が先へと続く仄明るい闇へ消えていった。


── 長の年月



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