プレシャストーン 30

本当だよ。
第二ボタンも、大事に持ってるよ。
お守りなの。
二年前は、サムシング・フォーのひとつのつもりで、ポプリ袋をヴェールにつけたでしょ。
同じように、今回のはあのボタンをお守りにつけたの。
二年間ずっと自分のこと考えて頑張ったよ。
携帯電話のメモリも、携帯換えたからじゃなくて、自分で消したの。
きっといい思い出になると思ってた。
でも、頭の中のどこかでは、南野くんのこと、忘れてなかったの。
卒業記念のショーをやるって、担当セクションがウエディング・ドレスに決まったとき、二年前のことを思い出したの。
ドレスが完成したとき、南野くんに会わなくちゃって思った……
高校に問い合わせて、卒業生の名簿で南野くんの家の住所まで調べたの。
すごいでしょ、そんなことまでできちゃうって。
私、高校生の時は、憧れてるだけで幸せだって、ホントに思ってたんだよ。
それなのに。

はささやくようにそう言う間、一度も目を上げなかった。
走っていく車のライトが煌々と周囲を照らしていくなかで、の姿は逆光を浴びて美しく暗闇に浮き上がった。
は、手の届かない舞台の上にいるわけではない。
彼は、何を言っていいのかを迷った。
自分から言い出せなかったことに少し罪悪感を感じ、から言い出してくれたことに安心感を見出した。
たとえば力勝負なら相手にもならない、“戦い”など日々に思い当たりもしない、
か弱い人間の女一人を相手取って、何も行動を起こさなかったことで自分を卑怯だと思ったのは初めてだった。
「……なんか、ね、あの……」
は困ったように笑いながら、弱々しい声で続けた。
場の空気に耐えられなくなり、沈黙をかき混ぜようとしたのだろう。
本当は、彼がなにか言ってくれるのを待っていたのかもしれなかった。
「二年も経ってるんだって、わかってるけど……
 こうやって話してるうちに、伝えておかなくちゃって思ったの。
 ……きっと、過去のことになっちゃった気持ちなら、言うのが恐くないからって。
 南野くんがなにか、つらいこと言っても、今の自分の失恋じゃないからって」
ずるいよねとは言って、笑った。
純白の花びらの向こうで、は泣きそうな顔をしていた。
今度こその言葉はここで途切れたのだ。
彼の言葉を待っている。
蔵馬はしばらく、何も言わずにの姿を見つめた。

ずるいのは、オレのほうなんだ。
探るように言葉の糸を絡めては罠を張って、君が堕ちてくるのを待っているんだ。
ひた隠しにしているつもりの本音が、本当は露見していることにも知らぬふりをして。
自分がなにか言えばそれが君を傷つけるからと言い訳をつくって、自分をも騙すんだ。
オレがなにか言うのを待っている君の前で、ただ口をつぐんで沈黙を紡ぎ、君を苦しめている。
きっと、少しくらい痛い思いをさせるとしても、曖昧にしてしまうよりは優しいんだろう。
オレはたぶん、優しくなんかなくたっていいと、どこかで本気で思っている。
自分から何か言って君に拒まれるよりは、黙って押し殺した方が傷つかずに済むと思っている。
曖昧でも居心地が良いのなら、それでいいんだと。
今の君との距離感が、いまだ心地よいものだとオレは再会からこの数時間で知ってしまった。
良くならないかわりに悪くもならない、だからこの関係を崩したくないと、甘えたことを考えている。
褒められたことではないとわかっている。
けれどオレは、奥に隠れた自分の感情をそのまま外に出すすべを知らない。

何を言っていいかもわからないまま、それでも彼の口からは、ありがとうという一言が漏れた。
は初めて、バラの花の向こうで目を上げた。
涙で潤んだ目が、まっすぐに彼を見つめていた。
口元は隠れたままだったが、微笑んだのがわかった。
緊張の糸は、なかなか切れてはくれない。
しばらくそのまま見つめあったあとで、彼のほうから先に、行こうかと歩き始めた。
彼女の気配が少し、残念そうに揺らいだのがわかった。
歩き出さない彼女を、彼は数歩先で振り返った。
彼女は何かに戸惑っていた。
思うとおりにいかないもどかしさ。
二年間自分自身にだけ、その夢にだけ恋していたに唐突に戻ってきた片思いの感覚は、容赦なく彼女の胸を締めつけた。
過去の告白だったはずなのに、どうしていま、こんなに苦しいのだろう。
一歩を歩き出すことのできないが、身体も感情も精一杯なのだと彼はなんとなく悟った。
決心は呆気なかった。
彼はそのとき、彼の称賛の的であったはずの怜悧明晰な思考を放棄した。
何も考えず、感情に身体のコントロールをまかせてしまった彼は、泣き出しそうな彼女のそばへ歩いて戻り、
彼女の抱えるバラの花束を自分の腕に引き受けようとする。
彼女の腕は頑なに花束を放したがらなかった。
茎を折らぬよう、花をつぶさぬように気遣っていたその腕は、
花束を奪われる瞬間、愛し子を手放すのを不安がるように空を掻いた。
やがて彼の腕にかかる重みが、彼を少し、責めていた。
茎を折らぬよう、花をつぶさぬように。
花が相手なら簡単なことなのに。
彼は、あいた腕でやっと彼女に触れた。
花束を抱きしめるように、片腕でその身体をそっと抱き寄せた。
腕の中で彼女が声もなく涙をこぼしたのがわかった。
なにか言おうとしたが、彼は少し躊躇ったあとで、結局口をとじてしまった。
何も言わなくても、通じるものもあるのだ。



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