プレシャストーン 31

長かった夜の余韻が、いまもまだ続いている──
そんな心地で、彼は眠りから覚めた。
何年をも過ごしてきた自室が、真新しい白紙に描かれた風景のようによそよそしい雰囲気に感じた。
昨日出かけたときにはそこに居慣れた自分だったものが、帰宅したときには変化を帯びていた。
そのためだろう、まるでお前のことなど他人事だからと言わんばかり、空気がひしひしと圧し迫ってくるのは。
このぎこちなさに、いつ肌が馴染むだろうか。
昨夜自分の内に訪れたはずの“変化”が、まるで当たり前のできごとになったら──だろうか?
思い返しても、どこか物語めいたような時間が雪のように舞い降りてはつもり、
そのまま彼の胸の奥にちいさなわだかまりを残した。
自分に対して抱いているそのかたまりも、もう一度彼女に会ったらあっけなくとけてしまうだろう。
あのあと、二人ともがほとんど会話をしないまま、手を繋いで駅までの道を歩いた。
人のいない電車の中で寄り添いあって座り、彼は彼女が降りる駅で一緒に降りた。
ただ、なんとなく、離れたくないと思った。
片方の腕に花束を抱え、もう一方の手を彼女の手と繋ぎ、しんと静まり返った道を辿る。
彼女の家の前まで送り、帰ろうとすると、上がっていくかと彼女は問うた。
友人と一緒に住んでいるその部屋で何があろうはずもなく、
ただ彼女も純粋に、離れたくないと思ってくれていたのだろう。
それがわかると彼はただ嬉しかった。
とどまらずに帰るかわりに、夜が明け、彼が仕事を終えた夕方にまた会う約束をした。
どちらもそれ以上、告白らしい告白もしなかったのに、お互いの気持ちはすっかりそばに寄り添ってしまっていた。
彼の姿が曲がり角の奥に消えるまで彼女はアパートの前に立ったまま彼を見送った。
彼は少し名残惜しそうに、彼女を振り返って控えめに手を振った。
彼女がそれに応えて手を振ったとき、彼に向けられたとけるような笑みが、彼の脳裏に焼き付いたままいまも離れない。
いつもと変わらないはずの朝も、妙に清々しく、あっさりと彼にまつわりつき、離れていく。
クリスマスのせい、ではないと思う。
夕方には約束がある。
彼女も待ってくれているはずだ。
いつもなら少々憂鬱な、仕事へ向けて自分を切り替えていく慌ただしい朝のひとときも、決して嫌なものではなくなっている。
携帯電話が鳴った。
昨日知ったばかりの新しい番号からだ。
「……もしもし?」
『あ、……おはよう』
躊躇いがちな声は、昨夜会ったばかりのときのあのテンションからは考えもつかなかった。
しかし思い返せば、高校時代の彼女はどちらかというとこういう物静かな印象のほうが強い。
同じものを目指す人間に混じったり協力したり競争したりで、彼女も少し変わったのだろう。
「おはよう。……約束は夕方だよ」
『うん……あの、用事は、ないんだ』
忙しいときにごめん、と彼女は申し訳なさそうに付け足した。
声が聞きたかったのというお決まりのセリフは出てこない。
そんなことも言えない、思い切り恥じらった空気が電話から耳に流れてくる。
いやに新鮮な感じだ。
「……今日は? ショーが終わったあとも授業?」
『ううん、今日は休み……シェアしてる友達が一旦実家に帰るのに早朝の電車に乗るから、見送ったとこ……』
“いま、私、家にひとりなの。”
同じ意味の言葉を発したことを彼女は気付いているのだろうか。
このセリフが昨夜出ていたら、彼の感情もほんの少しは揺らいだかもしれない。
ふーん、と相槌を打ち、彼は携帯電話を肩で押さえつつ器用にスーツを着込んだ。
ネクタイをしめて、かばんとコートを抱えて部屋を出る。
この清々しさ、新鮮さのおかげで、彼女は謝ってくれたが気持ちの忙しい朝ではない。
「そう。昨夜遅かったし、夕方まで少し休んでおくんだよ」
『うん。もう少し寝る……』
「仕事、年末で少し混んでいるんだけど……早めに終わるようにするから」
『いいよ、無理しないで』
まだ魔界の仕事もしてるんじゃないのと彼女は聞いてきた。
またしても、あふれんばかりの心配と遠慮と申し訳のなさのニュアンス。
“魔界”という語にふれ、今更ながら彼は、
が秘密にすることのひとつ少なくて済む相手だったことを思い出した。
「魔界ね……うん、なかなか抜けられなくてね。
 一応、人間界での生活がメインということにしてあるから、あくまでも手伝い程度のつもりでいるんだけど」
『そうもいかないんでしょ、実際には?』
「まぁね。年末年始の休みのあいだも何日かあっちに滞在することになりそうで」
『大変だね……』
「久しぶりに一緒に行こうか?」
『え、……どうしよう』
迷うというより断り方がわからないという声だったので、彼はそれ以上魔界の話をするのをやめた。
「一度は体調悪くしたしね、全然無理強いしないけど、その気があるなら言ってくれれば。
 今、部屋でしょう?」
『うん』
「ベランダがあるよね?」
唐突な彼の問いには怪訝そうにしばらく黙ったが、躊躇いがちに あるよ と答えた。
「そっちを見てて」
『……なんで?』
意味がわからないまま、はベランダのほうを振り向き、そちらに歩み寄った。
「今、」
ばさ、とベランダに何か大きな影が落ちた、と思った。
鳥か、どこかの木々の葉か──考えがまとまらないの目は、その瞬間に信じがたい光景を認めた。
「今、行くから。ほら」
手すりの上に、彼が見事に着地したところだった。
「や。おはよう」
ガラス戸の向こうで彼はにこっと笑って、携帯電話を持たない方の手をひらひらとふった。
は両手で電話を持ったままで硬直している。
それを手から取り落としそうになるのを慌てて握り直す。
「あ、危ないよ……!!」
電話とガラス戸の向こうからと、二重の声を彼は聞いた。
は慌ててガラス戸の鍵を開けようとベランダへ殺到した。
七階建てアパートの六階という事実にの思考の大部分が飛んでしまったようで、
自分がまだ起きたままの寝間着姿であることにも、
冬の空気をいきなり部屋に入れればすぐに冷えることにも思い当たらないらしい。
「降りて! はやく」
必死の顔でベランダに出てきて彼を引き入れようとするは、
彼がじっと気持ちを込めて見つめていることにどうにも気がついてくれない。
何事もなかったかのように手すりの上に座った彼をは躊躇なく中に招き入れようとする。
では、必死の君に甘えてと彼は内心でだけ断りを入れ、はやくはやくと急かす彼女を抱き寄せるとその唇を唐突にふさいだ。
声も息も瞬時にぴたとやんでしまった。
ほんの少し触れるだけのキスをしてすぐに離れると、彼女の涙目と視線が絡む。
「びっくりした? ごめんね」
はしばらく何も言えずに固まっていたが、やがて唇を噛みしめて彼の腕の中で困ったように目を伏せた。
「……に、人間界で人間離れしたことしたら、ダメなんじゃない……」
「目撃者がいなければ大丈夫だよ。ひとり見ていた人がいるけど……」
なにか企むように、彼はをひたと見つめた。
「口封じ」
人差し指を立てて、の唇に当てた。
の頬にまた熱がのぼるのを待たず、彼はもう一度唇を重ねる。
「脅かして悪かったね。ちょっと浮かれているみたいだ」
悪気なく彼は笑い、それでもつられて笑ってくれたらいいなと思ったが、は拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
彼に一言も声をかけず、家の中に入ってしまう。
「怒ってるね? お付き合い初日でケンカか」
参ったなと彼は言ったが、その声はあまり困ってはいなかった。
どうしたら寄り添うことを許された恋人の怒りを攻略できるだろうと、楽しげにすら聞こえる。
は八つ当たりのような大げさな素振りで場を誤魔化しながら、椅子に引っかけてあったカーディガンを羽織った。
彼がベランダのガラス戸を閉めるあいだに、で寝室らしい部屋のドアを閉める。
「……いきなり来るなんて」
「電話してくれたのが、自分でも思いも寄らないほど嬉しくて。ずっと連絡が取れなかったんだから」
彼は抱えてきたコートとかばんを床にそっと置いた。
「……ここからこのまま仕事に行くの?」
「近所に噂が立ったら面倒だろうから、ちゃんと目立たないように配慮しますよ」
「それはいいけど……」
背を向けたままだったが、肩越しにチラと彼を振り返った。
「朝ごはんは?」
「抜いて来ちゃったんだ。そんなこと聞いてくれたら、期待してしまうけど」
「……大したものはできないよ」
「いいよ。嬉しい」
キッチンに立とうとするに彼は歩み寄って、手伝うよと声をかけた。
部屋に入れてもらって数分、まともに向き合っていないと上手く距離が縮まるかと彼はじりじり、様子見をしている。
「南野くんて、こんな、ケーハクだったっけ……」
いきなりのキスから、まだ機嫌を損ねているらしい。
「ケーハク、ね……マイナス点だったみたいだね?」
「……ていうか」
の声がいきなり聞き取りがたいほど小さくなった。
「南野くんが最初の彼氏なんだもん……」
俯き加減に彼のほうを向こうとしないは、耳まで真っ赤になってしまっている。
言われて、彼はきょとんとするばかりだ。
最初の彼氏。
「……それは、ファーストキスが味気ないシチュエーションで申し訳なかったね?」
彼は彼なりに謙遜してそう聞いた。
自分としては朝食を抜いて出社前であることもかえりみずに会いにやってきたことで、
充分な愛情を示しているつもりなのだ。
……というのも、後付けの言い訳かもしれない。
朝いちばんに電話が来た、嬉しかった、それだけで身体はもう動いていた気がする。
「……別に」
の返事はまだ素っ気ない。
彼は一歩彼女のそばに寄り、その身体を抱き寄せようとしたが、すんでの所で躊躇って手を引いてしまった。
こんなふうに思うのは初めてだ、と静かに驚く。
大切だから、好きな人だから、……簡単に触れてはいけないような気がした。
少し考えてみたあとで、彼は肩越しに彼女の顔を覗き込むように、少しだけかがんで言ってみた。
「ごめんね、脅かして。でも、声を聞いたら、会いたくなったんだ」
は赤い顔をして、気難しそうな目でまっすぐどこかを睨みながら、じっとその声を聞いていた。
「たぶんすごく、会いたかったんだよ。
 朝目を覚ましたときにはもう、のことを考えてたよ。
 昨日の夜に別れたあとも、きっとのことばかり考えてた」
二年間ずっと、に会いたかったよ。
耳慣れない恋する言葉に、は息が詰まるような思いがした。
二年前、今よりももっと単純に彼を好きだったような気がするあの頃から、が欲しがっていた言葉のはずだった。
それなのに、どうしてか今のの心は、彼の言葉を素直に受け入れようとしてくれない。
頑ななその心は、まるで他人のもののようだった。
嬉しいのは嘘ではなかったが、なんだか遠い、対岸のできごとのようで。
の内心はじょじょに戸惑いで埋め尽くされていった。
なんと答えたらいいものかわからなくなって、言葉が出ずに沈黙ばかり長引くことが息苦しく、
彼に申し訳なくて──は焦りながら唇を噛みしめた。
そのの焦りを彼も敏感に感じ取ったようだった、それがわかってしまって、はまた申し訳なく思う。
焦って焦って、どうにかしなくてはと必死で彼を見返すと、
恐らく彼はが知る限りいちばん神妙そうな、困り果てて焦ったような顔をしていた。
彼もどうやら、の反応を待つ以外のことができなかったらしい。
は必死で口を開いた。
「ご、ごめんね」
咄嗟に謝る言葉が出る。
「ごめん、あのね、ちょっと待ってね、なんていうか」
上手く言葉が繋がってくれない。
息が詰まって、のどが乾いて、寝起きのせいもあったかもしれないが、低くて可愛くない声ばかり出るのが恥ずかしい。
は必死で、どうにかまともに聞こえる声が出るように願いながら言った。
「ごめんね、あの、今のなしにして」
「なしって」
彼が少しだけ口元で笑った。
それだけで緊張した空気があらかた崩れてしまう。
笑顔がいちばんの武器なのだと、どこのアルバイト先でも聞いたことを思い返す。
彼が笑うのなら、武器は武器でも最終兵器だろう。
先に落ち着きを取り戻したらしい、彼がふと息をついて、言った。
「いや、浮かれていたとはいえ、朝早くにベランダから不法侵入というのは、本当に失礼だったよね、そこは謝ります」
「あの、いや、うん、あのね……」
「機嫌直して?」
「あのね……」
「うん」
静かに見つめてくる目とまっすぐに視線が絡んで、はまた言葉を失った。
(すごい、この人の目、今私だけを見てる)
頭の中が真っ白になる。
「……ごめん、何言いたいか忘れた」
「こら。ちょっと」
「待って、最初からやり直そうね」
「えぇ、どこから? ベランダからもう一回入ってくる?」
「あ、じゃあ、私電話するね」
やっと互いに軽口が叩けるくらいに緊張がほぐれて、ふたりは声をあげて笑い合った。
ひとしきり笑ったあとで、じゃあコーヒーいれるね、とはまたキッチンへ向き直る。
その後ろ姿を見送る恰好で、彼はすぐそばの椅子を引き寄せると遠慮気味に浅く腰掛けた。
ふと思い当たって、口を開く。
「……あのさ、サン」
「え?」
はごく自然に、振り返った。
「よく考えたら、オレも彼女いたことなくて……今まで」
聞いては、振り返ったそのままの恰好で絶句した。
そして、かなり長いこと黙ったあとで、
「嘘」
「あー、信用ないな、なんで?」
「絶っっっ対、嘘!」
「ホントですって」
「嘘だあ!」
「なんでそこまで頑なに否定するの」
彼は困って肩をすくめた。
確かに、人間界に生まれ直すよりも以前のことを問われれば、説明も言い訳がましくなるかもしれない。
それでも、本気の恋愛感情を抱いたことはなかったような気がするのだ。
仲間や家族に対する、似たような感情にはいくつか覚えがあるにせよ。
「オレはもう妖狐時代を合わせて何百年と生きているけど、それで今やっと初恋ってことだよ。
 しかもは恋愛がいちばん大事って人じゃないと思うし、先行きがちょっと不安だ、簡単に見捨てられそう」
「そ、そんなこと」
「あるある」
否定しづらかったらしく、は口をぱくぱくさせるばかりで、反論の言葉は返ってこなかった。
「ああもう、頑張ろう、初恋は叶わないなんて定説は覆してやらないと」
まともに相手をしていられなくなったのか、は何も言い返さずにのろのろと彼に背を向けてしまった。
ちょっと大袈裟すぎただろうか、ふざけすぎただろうかと、彼はくすっと笑った。
コーヒーを沸かす音、卵を焼く音、トースターがじりじりと時間を刻んでゆく音、
が立てる生活の音に、彼はただ感慨深く耳を傾けた。
「……幸せなんだなあ」
しみじみとした声色で彼が呟いたのに、はまた肩越しに振り返った。
彼はのほうを見つめているわけではなかった。
彼の思うところある対岸へ、ぼんやりと視線を投げているのかもしれない。
端整な横顔に、ベランダから差し込んでくるうっすらとした朝日が、逆光気味にかげを落とす。
「幸せなことなんだね、好きな人がいるということは……こんなに長く生きてきて、オレは今までほとんど知らなかった」
「南野くん」
「なんでもないことなんだけどな……取るに足りないような、さ。
 ちょっと電話するとか、メールするとか、約束するとか……
 一日の予定の中に、その人のためを思って一分でも二分でも時間を作るみたいなことが。
 こんなにささやかなことなんだけど」
信じられないくらい、と彼は呟いた。
薄くかげった彼の横顔から、その目元の表情はうかがえなかった。
けれど、本当に信じられないことのようだった、彼の声が少しだけ震えた。
気づかない振りをしていることが親切なんだろうかとは思ったが、人のことを言えない自分に気づく。
聞きながら、目尻に涙がにじんでいた。
「びっくりするよね。というか、びっくりしたよ実際。どうやらオレは、まだ恋愛で泣けるらしい」
案外ちょろいな、と彼らしくない砕けた言葉が出る。
きっと彼は、この空気を笑って明るくして欲しいんだろうなと思って、はくすっと笑い声を立てた。
人を好きになることの特別、両思いの特別、けれどその特別を包み込んでいる日常の風景。
変わりばえしないかもしれない日々の巡りを、愛おしい目でひとつひとつ、改めて見つめる。
毎日はこんなに、こんなにも、優しく自分を取り巻いていただろうか。
「南野くん、コーヒー、お砂糖とミルクどうする?」
「ああ……ブラックにしようかな……目を覚まさないと」
言葉の意味がよく飲み込めず、は首を傾げた。
「このふわふわ浮いた状態のままで出勤したら、絶対なにか想像もつかないような凡ミスをする。
 そんなことは許されない」
それが社会人のプライドなのか、彼自身の性格のためなのかはよくわからなかったが、
ははいはいと聞いてやることにする。
何百年を生きているという妖怪も、可愛らしかったり単純だったりするところがあるのだからおもしろい。
マグカップにコーヒーをなみなみと注いで、彼の座っているそばまで歩み寄ると、はいどうぞと手渡した。
どうも、と改まった様子で受け取る彼の指先に、ごく自然にの指が触れる。
「困るよね」
「なにが?」
「こんなことに動揺してるよ。ほら見て、指ちょっと震えてる」
「うわあ」
「ちょっと信じられない。なんだろうこれは。オレの身に起こっていることなの、本当に?」
「大丈夫、私もおんなじ」
誤魔化すように、震えが止まってくれないかなと思いながら、は両の手を握ったり開いたりして見せた。
「すごいよね。初恋の破壊力」
「すごいね、両思いのね」
「オレ恋愛のせいでそのうち死ねるんじゃないかな」
「それは困るよ……」
苦笑いをするを、彼はやっとまともに見上げた。
「なに?」
「……機嫌直った?」
「うん」
「……よかった。これで心おきなく仕事に行ける」
彼が心底安心した顔をしたので、もなんだか空気が抜けたようにふっと、軽く笑ってしまった。
人間界だとか、霊界だとか、魔界だとか、とてつもなく広い世界をまたにかける彼なのに、
いまこんなちいさなことが一大事だなんて。
緊張も不機嫌も困惑も、すべてがやっととけて消えていった。
お互いのあいだにじっと横たわっていたぎこちなさ、二年間でできてしまった違和感が、
ぴたりと閉じた朝だった。




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