プレシャストーン 29

は十時になるわずか前に彼に連絡を寄越した。
ディスプレイに登録し直したばかりのの名前、番号が表示される。
どれくらいぶりだろうか、心が浮き立つのがわかる。
打ち上げの賑やかな様子が電話の奥から聞こえてきて、
このまま自分に付き合わせるのは申し訳ないような気がすると思う。
しかし自身がそうしたいというのだから遠慮する必要はない、と自分に言い聞かせた。
しかし、一度そうやって開き直ったにも関わらず、
彼は彼女が姿を見せるまでのあいだ、往生際悪く何度も心配を蒸し返してしまった。
それでもがバラの花束を重そうに抱え、お待たせ、と息を切らして駆けてきたのを見ると、
自分の欲のほうが勝ってしまう。
二年もの歳月を挟み、手遅れかもしれないという不安は常にあったが、
もう少し共有できるものがあってもいいんじゃないかと彼は思った。
人間界での二年は、自分で思ってもないほど長い時間だったりもするのだ。
はにこにこと、彼の前に立ち止まった。
「ごめんね、ビール一杯だけ付き合ってきた」
「いや、オレは平気だけど……なんだか悪いな」
一応は本音を口にしてみるが、は打ち上げ会にまったく未練を示さなかった。
「いいのいいの。私のほうこそごめんね、遅い時間まで」
「そちらこそ、お疲れさま」
おなか空いてるんじゃない、と彼が問うと、は大げさにぺこぺこ、と答えた。
「さっき、知ってる店に聞いてみたんだけど、この時間でも席あけてくれるって言っていたから。
 ちょっと歩くけどいいよね」
「うん! もう、開演前って緊張して食欲わかなくって!
 でもほら、気力も体力も使うから、無理にでもちょっとは食べて。
 食べ過ぎると衣装入らないなーって思ってたけど、心配しなくてもあんまり食べられなかった」
終わったらほんとにぺこぺこだよと、はまるで冗談のようにそう言った。
店までの道を歩くあいだ、はそうしてずっと興奮状態で話し続け、彼はそれに相槌を打つ。
彼にはよくわからない業界の話ではあったが、自身の話と思うと興味もわいた。
彼女はマシンガンのように言葉を吐き続けていたが、ふと視線を巡らせて聞いた。
「このへん、お店あったっけ」
「意表をつく自信はあるよ」
「南野くんの知ってるお店って、なんか、すごい高級そうな」
「なんなんだろう、そのイメージ……普通のサラリーマンだって言ったでしょう。
 いまから行くのはね……すごく庶民的というか、親しみやすいところだと思うな」
ほら、あそこと彼が示したのは、店でもなんでもない。
「お、来たな。よぉ蔵馬! 、らっしゃい」
ラーメン屋台だった。
「幽助くん! えーびっくりした! なに、ここで働いてるの?」
「働いてるも何も。オレの屋台だぜ、これ」
彼は胸を張って見せた。
「味は一級品。保証するよ」
蔵馬がそう言い、は頷くと出された椅子に腰掛けた。
他の客はいない。
幽助がラーメンをつくる間、はまたショーの準備期間の話を続けた。
「本職のモデルさんが講演に来てね、モデル歩きの練習とかもしたの!
 こう、足をね、爪先のほうからスッスッて出して歩くの。
 体重は後ろ足に残さないで前足前足って持っていってね、お尻とおなかは両方引っ込めてね、
 背筋はのばすけど肩が上がっちゃいけないの、肩胛骨を下げるんだって。身体がカチコチだよ」
「へぇ…ドレスを引きずってそれをやったら、重かったんじゃない?」
「ううん、あれ、軽い素材使ったから。すっごい材料吟味したんだよ! いちばん大変だったのってそこかも」
「二年前に行ったあの店?」
「そうそう。いろんな布を試して、わざと洗濯してくたくたにしたりとかいろんな実験して。
 ティッシュペーパーでやろうとしたのはさすがに仲間に止められたけど」
あははとは笑い声を立てた。
「でもねー。着ようと思ったらもうなんでも着られるよね。ファッションって面白いねー」
「なんだ、オメーやっぱまだやってんのか」
幽助が麺の湯を切りながら口を挟んだ。
「うん、あのあと服飾系の専門学校に進んだの。ちゃんと勉強して、今日卒業公演が終わったところ」
「今時期やるんか、卒業公演なのによ。クリスマスだぞ」
「今じゃないとダメなんだよね、ホントは今でもぎりぎりきついんだから。
 今後はホントに、就職準備にみんなかかりきりになるんだ」
はため息をつき、水のグラスに口を付けた。
蔵馬はそこでやっと口を挟む隙を得る。
は就職先、決まったの?」
「一応、内定は出てる……迷ってるけど。
 ちゃんと服飾系の企業に決まったから、文句は言ったら贅沢なんだけどね。
 決まらないでバイト生活になる子もいるだろうし」
就職の状況がかなり厳しいというのはどこの学校も同じらしい。
企業名を聞いたが、蔵馬も幽助も特に思い当たらず、目を見合わせる。
「どういう仕事するところ?」
「うん、洋服を扱ってて、デザインから販売まで全部部門持ってるところだよ。
 新人をいつもいっぱい採ってくれる企業だから、お情け枠とも言うかも……結構有名なメーカだよ。
 デザイン部門のほうに入れてもらえたんだけど、まだわかんないな。
 最初から自分のデザインがそのまま商品化したら逆にダメだもん」
これからも日々勉強とは言った。
ヘイ、お待ちと幽助がラーメン丼をふたつ並べる。
「わ、おいしそ! 私屋台でラーメンって初めて!」
「病みつきになんぜ」
「いただきまーす! 熱っつー!」
ファッション・ショーのテンションをそのまま持ち越したようなの様子はひどく明るかった。
ビール一杯分の酔いが回っているせいかもしれない。
そこに更に幽助が酒を一杯奢って出してくれ、のいい気分は持続している。
しばらくはラーメンをすすりながら、話題は幽助も交えて世間話に流れていく。
あらかた食べ終えた頃になって、蔵馬はまた少し話題をに戻す。
「……、就職先って、どこ?」
「さっき言わなかった?」
「いや、場所」
「場所? 県内だよ」
「ここから通うの?」
「うん、電車で二十分くらいだし、駅からもそんなに歩かないから。引っ越しもしないで済むかなー」
専門学校に入学してからは実家を出て、友人と部屋をシェアしているのだとは言った。
「その友達が、地元のほうに就職決まりそうなの。まだ正式な内定じゃないらしいんだけど。
 でも十中八九って感じだから、決まったら今の部屋出て地元に戻るんじゃないかな。そしたらホントに一人暮らし」
「女の一人暮らしかよ。気をつけろよ」
「ね、最近物騒だもんね。でも、このあとルームメイト見つけるのも難しそうだからさー」
幽助がからかうように、こいつならどうだと蔵馬を指さした。
蔵馬は少し困ったような顔で笑う。
「南野くん? ウチくる? ミシンの音に耐えられる? 四六時中やってていいなら、部屋あるよ。
 六畳洋間、クローゼットあり。お風呂とトイレは別〜」
「……本気にするよ」
「おいでおいで。自立したくなったらいつでも」
と幽助は声をあげて笑い、蔵馬も付き合うように笑みを浮かべた。
まるで腹のさぐり合いのような会話だと彼は思った。
幽助だけが、この話を冗談だと思っているだろう。
もしこの冗談が実現したなら、それはそれでハッピーエンドのはずだから好都合だと、
二年前にも蔵馬ととを見て知っている彼なら少しは考えているかもしれない。
その思惑の外で、当の本人達は自分の気持ちを台詞の端はしやアクセントに滲ませながら、その実相手の出方を伺っている。
言うなら言って。
今なら受け入れると言っているのがわかるでしょう、と。
そうして、相手が何か決定的な言葉を口にするのを、お互いに待ち望んでいるのだ。
恋愛が駆け引きになると、途端にどこかが息苦しい。
打算も計算も恋のうちというのが間違いでないとしても、蔵馬にとってそれは好ましい状況ではなかった。
は、どう思っているのだろう。
クリスマス・イヴに夜遅くまで付き合ってくれたことを幽助に感謝し、二人は屋台をあとにした。
帰路はうって変わって会話のない静かな道行きとなった。
何も言い交わしはしなかったが、二人の足は自然と駅のほうへ向かっていた。
国道の上を通る歩道橋を渡る。
途中、息苦しさに彼が視線を逸らした先に、皿屋敷遊園地の観覧車のイルミネーションが見えた。
イヴとクリスマス当日だけ、観覧車の夜間ライトアップをするのだと何かで報じていたことを彼は思いだした。
そのイルミネーションが、唐突にふっと消えた。
一瞬停電かと彼は思ったが、眼下に見える国道に添って点々と並ぶ街灯はあかりを灯したままだった。
「日付が変わったんだね」
さっきまでの彼女とは思えないような静かな声が彼の耳に届いた。
その声以外の音を、静寂が奪っていったように聞こえた。
目立ってあかりを投げていた観覧車が闇のうちに沈み、心なしかあたりが暗さを増したと彼は思う。
そらしていた視線を戻した。
は、彼が贈った花束の中に顔を埋めるように、俯いていた。
「……私、二年前、高校生だったとき……南野くんのこと、好きだったんだよ」
国道を流れていく車のライトも、身体の自由を奪っていくような肌を刺す寒さも、彼は一瞬のうちに忘れた。
時間が止まったと、思った。



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