プレシャストーン 28

興奮さめやらぬとはこういう状況のことだと南野秀一は思った。
ショーが終わったあとのロビーの熱は、開演前のそれとは比にならない。
誰もがそこここで立ち話をしており、出演者だったらしい学生も今はもう解禁なのか姿を見せて、
見に来ていた家族や友人とはしゃいでいる様子が見られた。
彼はその場に溶け込まないようなやや引いた目で遠巻きにそれを眺めていたが、
自分にもこのショーを見たことでなんらかの熱が宿ったことは明らかだと認めた。
ロビーがどんどん人で埋まっていくので、自分は邪魔になるかと彼は早々に退散することにする。
今は無人でパンフレットのあまりだけが静かに並んでいる受付の横を通り、
ガラス張りのドアから外へ出ようとしたそのとき、誰かの声が彼を呼び止めた。
「南野くん!」
驚いて振り返る。
振り返ったのは彼一人ではなかったのがそれでわかったが、声のあるじはだった。
あのドレス姿のままでロビーへ飛び出してきたのである。
手にはあのバラの花を数本、抱えたまま。
赤い顔をして息を切らし、ドレスの裾を片手にたくし上げて走ってくる。
「ちょっと、そんな格好で……!」
「ごめん、話したくて! 来てくれたんだね!」
彼女は彼のすぐ前までやってきてやっと立ち止まり、呼吸を整えるとにこっと笑った。
「久しぶり! すぐわかったよ、南野くんあんまり変わんないみたい!」
偉業を達成した直後だからか、は興奮気味の声でまくし立てるようにそう言った。
彼は苦笑して答える。
会えたら何を話そうか、なんて迷いもなかったわけではないのだが、
唐突に勢いよく現れた彼女を前に、そんな迷いも飛び失せてしまった。
「舞台に上がってるときは、客席に目もくれなかったじゃない?」
「え、結構見えるもんだよ? 相変わらず髪長いんだね!」
彼女は指をのばして彼の髪の裾に触れた。
「お花、ありがとう。すごいびっくりした。ちょうどね、楽屋で小道具のブーケがどっか行っちゃったとこだったの!」
使っちゃってゴメンねと彼女はしかし悪気なさそうに笑ってみせる。
そこまで少々呆気にとられていた彼の中で、記憶の中の彼女と目の前のとのあいだのブレが少しずつ薄まり始めた。
二年前には表に出すことを躊躇っていた情熱を、いま彼女はしっかりと身にまとっている、そういうことなのだと理解する。
「ね、どうだった? これ、私がメインでデザインしたの!」
彼女はひらひらと翻る裾をつまんで見せた。
「二年前とは変わったなと思ったよ」
「そりゃ変わるよ! あのときの支離滅裂な感じ、学校で勉強してホント身にしみたもん」
からからと笑うを、彼はじっと見つめた。
彼女の基本的なところは変わりなく懐かしく思われる。
「……きれいだったよ。本当に」
「やだー! でもありがとう!」
は彼の腕をばしばしと叩きながら恥ずかしそうに笑った。
新しい彼女の顔もいくつか知ったような気がした。
ただのクラスメイト、よりも少しだけ親しかった相手。
ただのクラスメイトにしては、ちょっと特別が過ぎてしまったひとりだ。
ブレが重なって、ああ、彼女だと思ったはずなのに、知らない彼女の顔が次々と彼の前に現れる。
どう反応したらいいか、珍しく彼の判断は鈍っていた。
やっと何か言いかけて口を開こうとしたとき、友人らしい学生が遠くからを呼んだ。
は振り返って大声で叫び返す。
「待って! 今行く」
彼は言おうとした言葉──意味のある言葉ではなかっただろう、自分でもよくわからなかった──を仕方なく飲み込んだ。
「今日は打ち上げなんかがあるんでしょ?」
「うん、このあと撤去作業やって、盛大に飲み会がね! でも、久しぶりだから南野くんと話したいな」
はその言葉の裏になんの意図も隠してはいなかっただろう。
それなのに、彼はそこに何らか隠れた思いがあると思いたかった。
そのまま思い違いをしていたいと、そう思ってしまった。
「南野くんはこのあとは?」
「なにもないよ」
「イヴなのに」
「だから、特別なことをしたじゃないか? ファッション・ショーなんて滅多なことでお目にかかれはしないでしょ」
「そりゃそうだ」
は嬉しそうに、誇らしそうにくしゃっとした笑みを浮かべた。
後ろでを呼んだ学生達が、こちらに近寄ってきながらあれが花束の贈り主かと噂話をしているのが聞こえた。
「ねー、打ち上げって何時からだっけ」
は友人達を振り返って聞いた。
九時半、と答えが返る。
「あ、それじゃ遅くなっちゃうな……」
残念そうにが彼に向き直ったので、彼は何気なく、構わない、待ってるよと言ってしまった。
「でも、南野くんって社会人だよね? 明日、一応平日だよ」
「そう、普通のサラリーマンやってるけど」
「似合わなっ! へーんなの!」
「失礼だな……」
ごめんごめんとまた謝るに、友人達は途中で打ち上げを抜ければとすすめている。
「南野くん、九時半過ぎまで待ってくれたりする? ちょっとだけお茶しようよ」
「いいよ」
そんな遅い時間まで開いている喫茶店やらカフェやらがこのあたりにあったかどうかは疑問だったが、
はそんな細かいことにいまは思い至らないようで、構わずに続けた。
「あ、じゃあ南野くん、携帯番号教えて。私携帯換えたんだ」
「知ってるよ。連絡がとれなくなっていたからね」
「あ、連絡してくれたんだ? ごめんね」
ドレスのどこに隠し持っていたのか、彼には見覚えのない携帯電話を取り出すと慣れた手つきで赤外線通信を終え、
は撤去作業のためにさっさと戻っていってしまった。
彼女が去ってしまえば、彼がこれ以上ここにいる理由はなくなる。
会場をあとにして、冷え込む道を歩きながら彼は息をついた。
思わせぶりのような、自然体のような……しかし、の振る舞いにはどこにもわざとらしさがなかった。
もちろん、彼を前に彼女がなにかを装ってみせる理由などあるわけがないが、
二年前の彼女が時折見せていた、彼に対して物思うような視線はきれいさっぱりかき消えてしまっていた。
彼は自覚し、その途端にうなだれた。
自分が彼女に本当に期待していたのは、恐らくこのことだったのだ。
あの当時は自分の感情がどこにあるのかもそれほど把握できていなかったし、
わからないところでどうということもなかった。
が自分から行動しようとは思わないタイプなのだとは薄々感づいていた上、
それなら自分がと彼自身が行動する気を起こしたりもしなかった。
そうして彼が、自分の感情が曖昧なところで宙ぶらりんに揺れているままでも平気だったのは、
彼女のほうが彼を見つめていてくれることを彼自身よく知っていたからだ。
夢を自覚してしまったあとのは、いつでもその視線を彼に注いでいてくれるわけではなかった。
それでも、たとえ互いの間に実際の距離が開いてしまっても、
彼女の気持ちまで自分から離れていくとはなぜか思っていなかったし、
自分さえその気になればいつでもどうにでもなると、きっとどこかで高を括っていたのだろう。
二年前、彼女が彼に対して抱いていたのは明確な愛情ではなかったかもしれないが、
それが好意だということは間違いがなかったはずだ。
そして彼はそれを自覚していた。
あなたが好きだと彼女自身が明言したわけではなかったのに、自惚れに近い思いがあったのだ。
これまでにそうやって、自分から離れていったひとがいなかったから。
離れてしまうことが惜しまれるひとに、出逢ったことがなかったからだ。
二年を経て、その根拠のない安心、思い込みが、唐突に消えてしまったのを彼は知った。
いきなり階段を踏み外してバランスを崩すような感覚だ。
足取りはお世辞にも軽いとは言えない。
(立場が逆転してしまったな……)
その考え方も自惚れかもしれない。
ぼんやりと彼は空を仰いだ。
わずかに星がちらつく夜空。
雲のない日は冷え込みがひどいというが、今夜がそのとおりだった。
寒さのためか、指先の動きがぎこちない。
携帯電話をコートのポケットから引き出そうとして、指がもつれ、アスファルトの上に落としてしまった。
拾い上げようとしてかがみ込み、ストラップをつまもうとして力が入らず、また落とす。
彼は指先と携帯電話とを、じっと見つめた。
思うとおりにいかないもどかしさ……
笑い話のようだと苦い息をつく。
彼は生まれて初めての片思いの味を噛みしめた。



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