プレシャストーン25.5

人間は人間なりに大変だったと痛感するには充分な二年間を南野秀一は思い返していた。
あとひと月もすればこの一年も幕を引く。
魔界ではいらない遠慮が人間界では呆れるほど必要だったりする。
職場を離れても、仕事で関係した相手とばったり出会ったらそこに会社絡みの立場が生まれる。
失礼やら粗相やらをしでかさないために人々はみんな他人との距離を測り続け。
メジャーが身体にぐるぐる巻き付いているようで何かしら窮屈だ。
彼はまだ実家で家族と生活を共にしており、会社へも義父と一緒に通い続けていたが、
そろそろこのやさしい呪縛を抜け出してみるという冒険もいいかもしれないと思い始めていた。
もちろん、経験のかさなら半端ではない彼のこと、他人との距離を正しくとるための目測を誤るわけもなし、
遠慮の程度も客観的に理解しているし、今更家を出ることも冒険と言うほどのことではない。
ただ単に、彼のあり続けたその家庭は居心地が良かったのである。
親の立場にある人たちは、ときどき彼の恋愛問題が気にかかるらしい。
それとなく遠回しにいろいろ聞かれるのに空とぼけて答えてみせる裏で、苦笑を噛み殺すことも増えた。
(クリスマスを一緒に過ごす相手なんて、いませんよ、欲してもいないし)
黙っていれば誘いは寄ってくるものだ。
ただ人間界の会社の云々……は根から打ち解けた集いにはなり得ないと彼は思っているので、
すでに来た忘年会の誘いは丁重にお断りした。
魔界から、人間界にいる友人から、それぞれコンタクトもあった。
基本は家族と一緒の和やかなクリスマス。
だいたい、クリスマスと言いながらその本質すら知らずにお祭りだけをしているに過ぎない。
一人でなにもしないでいてもそれは、構わないわけだ。
雰囲気に流されてケーキくらいは食べたいなと思ってしまうのは、民族の性だろう、きっと。
人間の中でもお気楽極楽、悪く言えばことなかれ主義に近いあたりに、彼は生まれ直してしまったわけだ。
ひとり、それもいいかもしれない、と彼は自分の漠然とした案に頷いた。
家族のいる家で一人にはしてもらえないだろうから、外へ出ることを考えるべきか。
彼は思考を巡らせた。
ひとりで贅沢に時間を使う日、というのを自分なりのクリスマスの定義としようと彼は考えた。
退社が早かったため、今日は少し時間がある。
およそひと月後、一年間の自分へのご褒美とでも言うべき贅沢な時間のため、いまから準備をしておこうと彼は思う。
ちょうど先日、待っていた作家の良作が文庫で発売されたはずだとひらめく。
寄り道のコースが出来、彼は焦らすように時間をかけて帰路をのばしていった。

珍しく雪が降った。
つもるわけのないうっすらとした粉雪は、夜の色に浮かび上がるといやに幻想的で気分を煽る。
生活感と庶民臭さに満ちた商店街や繁華街、電車やバスの中、住宅の群すらも今や視界を彩るアクセサリのようだ。
冬の不思議に加えクリスマスの暗示。
誰もがそろそろ浮き足立って、財布の紐をゆるめ出す。
不景気の噂は一体どこへ行ったというのか。
のんびりと歩いて、頬にチラチラと降りる雪の冷たさを楽しみつつ、南野秀一はやっと家へ辿り着いた。
入りかけて、ポストに郵便物が入りっぱなしであることに気がつく。
義弟が寒さに耐えきれず走って帰宅し、見落としたのだろう。
アッサリと想像のついた光景にふっと笑い、彼はポストからダイレクト・メールをつまみ上げた。
冷えた空気の中にずっと置かれたせいで、紙が冷えている。
光沢のある表面は、暖房の近くにでも置いておけば結露するのではないか。
くだらない想像を楽しみつつ、彼は何気なくそのダイレクト・メールをヒョイと眺めた。
途端、タイミングの良さにふっと吹きだしてしまう。
洋裁で使う人型の立体、トルソの写真だ。
それも、まるでヨーロッパの趣味の良いアンティークのようで、
太いワイヤをアール・ヌーヴォー風に美しく組み上げてつくられている。
人型に変形した鳥かごのようにも見え、独特の雰囲気があって面白い。
その写真が変わっているのは、トルソにひと巻き、メジャーが絡んでいることだった。
先程の連想とのつながりは噂をすれば影、の如し。
採寸用のやわらかい素材で出来ているあれだ。
レンズ視界の左の外からメジャーはのびてきて、トルソを一周からめとり、右の外へ消えていく。
メジャーのあり方だけみれば、警察が事件現場に張り巡らす、立入禁止の黄色いテープのようだった。
ひっくり返して、宛名を見る──パソコンを使って印刷したらしい活字、南野秀一様。
トルソにもメジャーにもご縁はないなと思いながら、また写真の面を眺める。
アルファベットでロゴが入っている。
(……ファッ、ション、ショー)
彼はじっと、散漫な思考回路のまま、感慨なくダイレクトメールを見つめた。

   12月24日・25日
   昼の部・14時開場、14時半時開演
   夜の部・18時開場、18時半開演
   (24日は、夜の部のみ開演いたします)
   ファクトリー・ホール
   入場料・大学生以上1500円
   (高校生以下の方は無料)

ダイレクト・メールだけを見る分には思い当たることがさっぱりないが、
はがきの隅に黒サインペンで走り書きしたような文字があり、それが彼に語りかけていた。

   御招待!
   専門学校の卒業記念ショーです。
   恩人には成果を見て欲しいなと思って!
   時間があったら、覗いてみてください。
   チケ代はかかりません〜
   

「ああ!」
合点がいって思わず声が漏れた。
、彼女だ。
いつの間にか携帯電話の番号もメールアドレスも無効になっていてさっぱり連絡の取れなくなった相手。
ちょっと特別な距離の取り方をしていたクラスメイトだ。
彼女の進路は率直で感心させられたと、南野秀一は思い返した。
(そうか、二年って……)
短期大学や専門学校の単位は二年で修了する。
夢に向かって突っ走ることを決めて二年、はまた卒業シーズンを迎えているということだ。
当然ひとつ終わればすぐ次となるのが面倒な世の中だから、彼女も次の進路を考えてはいることだろう。
久しぶりに会ってみたかった。
ダイレクト・メールの文面が放つ「恩人」という文字の神々しいオーラにはほど遠い自覚だが、
きっかけがあのプロジェクトだったことには間違いないだろう。
あのあと自分の知らないところで魔界絡みのトラブルが彼女を襲ってはいなかったかも少々気にかかった。
奇しくも日程はクリスマス・イヴとクリスマス当日。
(立派な予定が出来たじゃないか)
ファッション・ショーの場に男が一人で足を運ぶというイメージはあまり沸いてこなかったが、
きっと彼女の作品を舞台の上で見ることができるのだろう。
ファクトリー・ホールは都心に出て駅から十数分歩いたあたりにある。
自宅や職場よりは幽助宅や桑原宅あたりに近く、
毎年見上げるような巨大な樅の木を飾り上げることでよく知られている場所だ。
二年ものあいだ会っていない人物に会いに行く、ただのクラスメイトなら興味のかけらも持たないだろうが、
彼の内心はすでに前向きに当日の行動予定に移り始めていた。
家に入り、リビングへ落ち着いたところへ、義弟が不思議そうな目を向けてきた。
秀兄ぃ、なんか楽しそうだねと言われ、
ああ、まぁねと答える言葉の曖昧さをかき消すように、彼の表情は晴々としていた。




back   close   next