プレシャストーン22

『えぇ──皆さま! たぁいへん長らくお待たせ致しましったっ』
キーン、という耳障りな音に混じり、明るく弾けるような女性の声が盛大なアナウンスが始まった。
絶妙のタイミングの語り口調、飽きさせずに聴衆を惹きつけるその声はまるで競馬の実況のようだとは思ったが、
なるほど、あとから聞けば武術大会の実況をこなした魔界のプロアナウンサーの仕事ということだ。
魔界は清々しい晴れ……とはいかないのが常で、この日も例に漏れず、雷がないだけましな曇天だった。
前日のうちに霊界で手続きと術式を施し、蔵馬によって魔界に連れてこられたは、
今回は初っ端から体調を崩して朝まで寝込む羽目に陥った。
人間界・霊界・魔界それぞれの次元越えを以前と同じ感覚でしかとらえていなかったは、
慣れない体験による疲労に対して完全な無防備状態だった。
彼が心配そうに介抱を続けてくれた光景が、脳裏にちらちら、おぼろげによみがえる。
そのたびには、いつも周りを囲んでいてくれる皆に迷惑をかけたことが申し訳なくて、
居たたまれなさに苛まれ続けながらベッドの中に縮こまっていた。
時間の過ぎるのが恐ろしく遅く思われた。
ドレスやもろもろがちゃんと花嫁に渡ったかどうかもわからないまま、
不安な朝はを責めるようにゆっくりゆっくりと、それでも容赦なくやってくる。
心も体もあまり休まったような気持ちはしなかったが、
起きあがってみれば魔界の空気に幾分馴染んだような感覚が肩にすっと落ちてきた。
部屋を見回すと、以前蔵馬が一緒になって選んでくれたドレスがきちんと用意されているのが目に入る。
こんなふうにドレスアップするのは、それこそいとこの結婚式以来だ。
の身のまわりに起こっている摩訶不思議なできごとのすべてを思えば、
お伽話のお姫様よろしくのドレスを纏うことくらいなんてことないのだろうが、なにか気恥ずかしい思いが拭えない。
なんとなく俯き加減になってしまうまぶたの裏に、ぽんと浮かぶのは蔵馬の顔だった。
(……蔵馬に見られちゃうから、恥ずかしいんだ)
いつもの自分ではない自分を、またひとつ彼の前にさらすことが。
躊躇いながらも真新しいそのドレスに袖を通し、髪をいじったりメイクをしたりしているうちに時間はすぐに過ぎてしまう。
ノックの音がして蔵馬が迎えに来た頃には、の支度はすっかり済んでいた。
彼はまず心配そうに眉をひそめる。
「体調は? 大丈夫?」
「うん、今は……」
「実行委員のほうでちいさいけど控え室をいくつか用意してるんだ。
 そこをひとつ用にとってあるから、出番まで休んでいるといいよ」
「うん……」
ごく当たり前に、ふつうに返事をして、ははたと思い当たる。
「出番まで?」
「うん。出番まで」
「……なんの出番? 私は衣装係だけでしょ?」
「うん……スピーチ?」
一瞬の間。
「スピーチぃ!? 聞いてないよ!!」
「オレも昨日知ったんだよ。まぁ、純粋に人間界から参加するのは君くらいだし、
 魔界と人間界の親睦のためにというのもまったくの嘘ではないから。
 ……昨日一応幽助が来て話していったけど、記憶に残っていないね?
 仕方ないか、ずっと具合悪そうだったからね」
幽助にとっては都合がよかったのだろう、体調を崩して朦朧とした意識の人間に話を吹き込むというのは。
食事の時間などが比較的しっかり目を覚ましていた時間もそばにいたのに、
幽助はあえてそのときにこの話をすることを避けていたように思えなくもない。
「無理だよ……!」
「うーん、出番直前にいきなり頼む恰好になったことは申し訳ないんだけど……」
「だって……いったい何を言えば……」
続いたの言葉に、蔵馬は目をぱちくりとさせた。
(おや、意外だ)
無理と言いつつ、の思考はしっかりとスピーチを行う方向に向かっている。
ひたすら引っ込むかと思っていた蔵馬の予想は外れた。
ささやかだが、また新たなの一面が見えたような心地で、彼はふっと笑う。
「短くていいんだよ、一言で。おめでとう、末長く、そんな感じで」
「う、……わかった」
思えば相当長いこと連れ添ってきている妖怪夫婦に向かってこれ以上末長くというのも
どうなのだろうとは訝しく思うが、長く続けば続くほどいいものなのだから、深く考える必要はないかと開き直った。
それにしてもよく考えれば、メインの会場になる場所というものをいまだに見せてもらっていない。
魔界にもテレビ局があるそうで、その撮影隊が随所にいるからとも聞かされている。
人間界からの親善大使という躯が言った例えを使うなら、のスピーチは魔界中にテレビ放映されることになる。
の想像力では恐らくはかり得ないほど広大だという魔界全土に。
東京ドームが何個分だとか、そんな話で片がつくものではない。
はたと気付くと、心臓のメータがびくんと一瞬跳ね上がる。
人間界でもごく普通に暮らしてきたがそんな大舞台に慣れているわけがない。
できれば目立たず引っ込んだ立場をずっと保っていたいし、
華やかなパーティーの場だからといってヒロインになどなれなくてもいい、日陰の花で構わない。
の仕事は「衣装係」で、力も時間も費やして作業に取り組み満足のいく作品が出来上がったけれど、
主役はそれを着る誰かであって、服そのものでも本人でもなくていいはずだ。
おめでとうをひとこと言うくらいならともかく、いつの間に自分の立場がそんなに大きくなってしまっていたのか。
短くて構わないと蔵馬は言ったが、今になって目眩がしそうだ。
こうなったら本当に一言ですませてしまえと、はもう投げやり気味になって心を決めた。
会場付近の控え室へを案内してきたあと、言葉少なになってしまったを気遣い、
蔵馬はこまごまと世話を焼こうとしてくれた。
急に緊張に意識を持っていかれてしまったには礼を言う余裕というものがない。
それを悟ってか、彼はあまり騒ぎ立てないほうが賢明だろうとじっと一緒に待つ姿勢をとった。
どうせ今の自分にできることなど、そろそろ時間だよとに余命宣告をするくらいのものなのだし、と諦め気味に考える。
(余命といっては大げさか)
頭の中でひとりでやりとりをして、彼はそれとなく腕時計に目を走らせる。
思ったより時間が過ぎていた。
(ああ……待つ暇すらなかった)
蔵馬の責任ではなかったが、なんとなく申し訳なさを感じてしまう。
(お気の毒ですが、あと数分もたないかと)
蔵馬はふっと息をつくと、立ち上がった。
さん。お仕事です」
「は……も、もう?」
「うん。悪いね」
座って数分も経たないうちには立ち上がることになった。
控え室を出て、味も素っ気もない廊下を歩いていく。
結婚式、サプライズパーティーの会場というにはあんまり飾り気がなさすぎる。
人間界のどこかでもこんな印象を受ける建物に入ったことがあるぞとは思った。
しばらく思いを巡らせ、市民球場ではないかと気がついた。
脳裏に浮かぶのは、廊下の突き当たりの扉、そこを出て正面を見下ろした先の巨大な円形のスタジアム。
左右にはぐるりとベンチが並ぶ観覧席が囲んでいる。
しかし、結婚式の会場でそれはちょっとお粗末じゃないか。
考えを打ち消しただが、しばらく歩いたあとで見事にそれが裏切られたことを知る。
巨大なステージに巨大なモニタ、野球グラウンドに相当するものこそないがぐるりと囲んだ観客席。
結婚式場やパーティー会場といった雰囲気はかすかも見当たらない。
会場を隙間なく埋める妖怪変化はの見慣れた人間型のものばかりではなく、
見るからに恐ろしい風貌の妖怪も多くいて、一瞬ぞっと血の気が引いた。
ただ見る限りでは、誰も彼もがお祭り騒ぎを邪気なく楽しんでいる様子だ。
仮装パーティーの名で告知されたためか、誰もが奇妙に人間の姿を真似たらしい格好をしており、
努力したのだろうところを申し訳ないことだが、それが大っ変不似合いである。
席に座ってじっとしているのでもなく、行ったり来たりを会場中が繰り返しているため、
その入り乱れ様は半端なものではない。
会場中にうっすらとした酒の匂いが漂っており、それがいちばんの異常だと思う。
ステージはやたらと高さがあり、舞台袖に設置された階段をのぼって上がるらしい。
その階段下に待機しているには当然ステージ上の様子は伺えず、
わずかに見えるモニタも光の反射がきつすぎるようで、何が映っているのかよく見えない。
「そろそろ呼ばれるから、頑張ってきて。上までは一緒に行くけど」
上、とはステージ上のことだ。
ライトがあたり、カメラが向けられ、視線が集中する。
「笑っちゃう……見て、指先震えてるの」
本当は笑えるようなゆとりもなかったが、これ以上張りつめた空気になってはが困る。
蔵馬がそうやって笑ってくれたらと思ったが、彼はふっと微笑んだだけだった。
「大丈夫だよ」
いったい何を思ったのか、彼はの震える指先を自分の手でそっと握りしめた。
「大丈夫」
こわがりの子どもに母親がするような仕草だったが、指先にかぁっと熱が宿る。
ぼやけていた聴力がいきなり戻ったように冴え冴えと、の名前がコールされた。
会場中の騒がしさがほんの少し止み、ステージ上に注目が集まったらしいのは、
「人間界の」「人間の」という紹介のせいだろう。
「さ、行くよ」
蔵馬が先に立ってステージを目指し、はすごすごとそのあとについて階段を登った。
視界が開けたときのなんとも言えない感情をは忘れることはないだろう。
怒声だか罵声だかもわからない大声があがるが、蔵馬に言わせれば彼らなりの歓声なのだという話だ。
あとからそれを聞かされ、野蛮でゴメンねと冗談めかして言われて脱力してしまっただが、
それを知らなかったそのときは妖怪達から向けられる慣れぬ注目に身を縮めてしまっていた。
蔵馬が手を握ってくれた「大丈夫」のおまじないも効いたような気はしない。
すぐそばにはずっとステージ上にいたらしい幽助や、
魔界に滞在していたゴールデン・ウィーク中にしょっちゅう顔を合わせた妖怪たちが勢揃いしていた。
「ほら、大丈夫」
蔵馬に背中を押されて、はぎこちなく舞台中央に向かって歩き出した。
アナウンサーらしい女の子の妖怪がいて、どうぞ、とマイクを手渡してくれた。
彼女が愛嬌のある笑みをにこっと向けてくれたことが、直前になってを勇気づけてくれた。
マイクを握りしめて正面を向いて、一瞬ライトの光には怯んだ。
しかしその眩しさのおかげか、客席の様子は明確には見えなかった。
思ったほど視線を感じる場所じゃなかったと、は土壇場でやっと安心して、口を開いた。
『ええと……衣装係をやらせてもらいました。おめでとうございます……』
言いながら、祝いを述べるべき相手を目にしていないことに気がついては視線を巡らせた。
がのぼってきたのとは逆手のステージ上に、彼らは友人達と一緒に立っていた。
の視線はそこに吸い寄せられたまま動かなくなってしまった。
この計画に巻き込まれてから、信じられない光景ならこれでもかというほど目にしてきた。
それでも……それでも、奇跡を目にしたと思ったのは、これが初めてだった。
ひと針ひと針を縫いつけた記憶がさぁっと瞬時に甦る。
願いを込めたサムシング・ブルーの刺繍。
デザイン画が紛失したこともあった。
被服室でひたすら作業をし続けて、日が暮れたことに気がつかなかったりもした。
思うさまロック・ミシンを走らせたこと。
少しずつかたちを成していく布のかたまり。
睡眠時間を詰め、作業とテスト勉強とを交互にやりつづけ、当然睡眠不足に陥った。
針で頬を突いたこともあった……
身体をいじめ抜くようにして作業に没頭し続けて、好きだからという気持ちがなければ苦しくて仕方なかったはずだ。
いや、好きだからこそ苦しかったこともあったかもしれない。
時間をかけ、持てる情熱のすべてを傾けて作り上げたそれが、ちゃんと役割を果たして、そこにあった。
の視線の先にいる彼女はとても、きれいだった。
そもそも孤光にウエディング・ドレスを着せようなんて誰が考えたんだと、彼らが話題にしたことがあった。
戦うことが日常の彼女を知っていれば確かにそう思うかもしれないし、もちらっと同意しないでもなかった。
スカートの丈を短めにしたおかげで印象が大人しくなりすぎず、溌剌と明るい彼女によく似合っている。
ヴェールをちょっと邪魔そうにしているがそれだけで、
確かに花嫁さんの格好でありながら妙にかしこまった感じには見えない。
小さなブーケを片手に持って、楽しそうに周囲と話している。
煙鬼はときどき、誰も気付かないような一瞬、目が覚めたような微笑みを妻に向ける。
ほら、と棗がを指さし、がじっと視線を注いでいることに孤光はやっと気がついた。
ブーケを振り上げ、満面の笑みを浮かべてに手を振る。
やってくれたね、あんたたち、と言いたげなのは、この計画の全貌をやっと知らされたからなのだろう。
瞬間、はマイクを取り落としてしまった。
足から力が抜けてしゃがみ込んでしまう。
様子を伺っていた蔵馬たちは、ここにきて体調不良がぶり返したかと慌ててに駆け寄ってきた。
! ……下がろう」
の身体を支えようとして、蔵馬は気がついた。
はしゃくり上げて泣いていた。
……」
呆気にとられた彼の耳には、何か言おうとしても嗚咽に飲み込まれて言葉にならない、の苦しいうめきだけが届いた。
その場はさすがプロのアナウンサー、小兎の機転で誤魔化され、
彼らに抱え込まれるようにしてはステージを降り、すぐさま控え室へと戻ることになった。




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