プレシャストーン20

うとうととまどろんでいるうちに、の現実世界へ戻ってきてしまっていた。
眠って、目が覚めて、自分の部屋にいる。
眠っている間に、魔界から人間界へ戻るという難しいらしい部分は蔵馬たちの手で終えられてしまったのだろう。
お伽話でしかないような世界を見聞きしたというそのことは、眠って目を覚ますという行為を経て
人間界という場所を認識したにとっては、それこそ夢物語でしかなかったような錯覚にも思える。
にそれがすべて現実に起きたことだったということを証明してくれるのは、
残る作業もあとわずかとなったウエディングドレスだけだった。
学校へ行って、彼のことを蔵馬と呼ぶことはたぶん許されないのだろう。
魔界にいてもは彼のことを蔵馬とはほとんど呼べなかった。
それはたとえば、友達から恋人になったばかりのお互いを名前で呼び捨ててみようかと照れて躊躇うような、
そんな思いがあったからだった。
恋人でも何でもない自分が、無条件でそれを許された気持ちは少々複雑だ。
滞っていたテスト勉強のことを思い出したが、身体が疲れているのがじわじわと感じられ、手を着ける気が起こらない。
(……でも……)
の内側でなにかが覆されようとしていた。
考えることが多すぎると、は思った。

さすがに長期休暇あけのようなブランクは学校の中に満ちてはいなかった。
それなのにひとりが長い長い時間を超えたあとのような感覚をぬぐい去れないままでいて、
まるで時差ボケが起きているようだった。
各教科で示し合わせたように抜き打ちテストがあり、
基本問題にだけはなんとか答えられたが応用問題は全滅と自信のある回答を提出した。
の周りにいるのはみんな人間で、それは当たり前のはずで、これまでのならそんなことを疑問に思うわけもない。
魔界に行って帰ってきたあとで、の持っていた感覚や印象やさまざまな感情がことごとく塗り替えられ、
日常だと思っていた風景や環境に違和感を感じ始めてしまうようになっていた。
なんのかわりもなく過ぎていく普通の学生生活が、さぁっと色褪せたように感じた。
こんなに物足りない気のする時間だっただろうか。
唯一色がついて見えるのは、南野秀一……蔵馬の姿だけだった。
ゴールデン・ウィーク以後の彼との打ち合わせは自然と勉強会へと移行していき、
場所は被服室から図書室、教室へと移った。
そろそろ完成に近いドレスを持ち歩いてあちこちで作業するのはつらいので、
は家で大部分の作業を進めることに決め、
最低限学校へ持っていくのはまだドレス本体に縫いつけていないパーツ部分の布地や裁縫道具のみに絞ってしまった。
小道具もいろいろあるのだ。
なめらかな光沢ある表面のパンプスに、ちいさなコサージュでもくっつけてみようかなと企んでいたり。
パールのビーズを透明のテグスに通すか、銀色のワイヤに通すか、わざと色の糸を使ってみようかと楽しく悩んだり。
ティアラにしようか帽子にしようか、ヴェールをどうしようかと改めてクロッキー・ブックを開いたり。
サムシング・フォーのうち古いもの、に関しては蔵馬と幽助たち、魔界の面々に任せることにした。
新しいものなら、自分の手で作り出したもろもろがすべて新しいのだから充分だろう。
青いものも早い段階で仕込んでしまったし、あとは借りたもの。
悩みに悩んで、は両親の部屋に忍び込んで、母のタンスをそっとのぞいてみた。
宝箱のような引き出しがひとつあるのだ。
子どもの頃に見せてもらって以来、この引き出しはの憧れがたくさん詰まった特別な引き出しになった。
レースのハンカチがいくつかと、鏡台などに置いてあるものとは格が違うらしい大切な手鏡。
ふわっと、香水のような化粧品のようなやわらかな香りが漂った。
絹のスカーフと、上品な手袋が奥から出てくる。
茶道で使うような袱紗と袱紗入れは以前見たことがあって、確か母の祖母から譲られたものだと言っていた。
ひとつひとつ、大切にしまい込まれた品を眺めていると、なにかヒントになりそうな気がしてくる。
サムシング・ボロウ、借りたもの……
、なにしてるの」
唐突に母親本人が顔を出したので、はびくりと過剰反応を示してしまった。
「大事な引き出しを勝手にあけて。あんた、子ども?」
「……ごめんなさい」
文字通り叱られた子どもらしくしょげて見せるが、母親は別に機嫌を損ねた様子を見せはしなかった。
「昔っからこの引き出し見るの好きだったわねぇ。あら、懐かしい」
引き出し探索に母親本人が加わってしまった。
も知らないエピソードが披露される。
袱紗と袱紗入れを贈ってくれた母の祖母のこと、絹のスカーフは手染めの品であること、
レースのハンカチはそれぞれ大切な人から贈られた品であること。
尽きない思い出話には素直に耳を傾けた。
結婚してが生まれて、主婦をやっている母親にも、もちろん若い娘時代というのはあったわけだ。
自分には遠い話にしか思えないが、両親が出逢ったのは今のと同じくらいの年頃、高校時代だと聞いたことがある。
もしかしたら自身が気付いていないだけで、の周りにも将来の伴侶になる相手がいるのかもしれない。
思い浮かぶ相手がひとりいたが、自分の想像を鵜呑みにしてしまえば自惚れが過ぎる気がして打ち消した。
引き出しの奥の奥から、母親はことに大切そうに何かをすくい上げた。
「なに? それ」
問うと、母親は意味ありげににっと笑った。
「誕生日にね。お父さんが何が欲しいかって聞くから」
出逢って恋人同士になってから、誕生日の贈りもののリクエストを請われた。
母はそれで、半ば冗談のつもりで、「年齢の数のバラの花束がほしい」と言ってのけたのだという。
二十歳は過ぎてたかしらと母は呟いた。
「それで? お父さんは?」
「くれたわよ。でもやっぱり恥ずかしかったみたいで、なかなか花屋に入れなくて、
 お店の前を行ったり来たりしてたんだって」
母親はおかしそうに笑いだしたが、嬉しそうな、幸せそうな笑みを浮かべていた。
何も言われなかったけれど、にはよくわかった。
きっとそのとき、若かった頃の母は思ったのだ。
もしかしたら、この人と結婚するのかもしれない……と。
ほんの一瞬のそんな予感が、本当になることはある。
「でね、花は枯れちゃうしもったいなくて、咲き盛りを過ぎたらドライフラワーにしたのね。
 でもドライフラワーも置いておいたらホコリかぶっちゃうじゃない」
母はそういうところのある人だ。
「だから花びらだけ残して乾燥させて、自分で布買ってきて袋つくってね、ポプリ袋にしてみたの」
ほら、と母親は先程すくい上げたものをに示して見せた。
片手の上に軽々と載っている小さな袋はチュールを重ねて作られていて、中が透けて見えた。
「へー! じゃあこの中身、そのときのバラの花なの!」
「そう。メモリアルよ」
冗談めかして母親はそう言ったが、心底そう思っているに違いない。
(サムシング・ボロウ…これだ……!)
「お母さん! これ貸して!!」
「はぁ? やだよ」
身も蓋もなかった。
「お願い! お守りにするの!!」
「なんのお守り? テストには効力ないよ」
「ち、違くて…」
どう説明すればいいのかは一瞬言葉に詰まる。
知人の結婚式があって、というところだけ言えばいいのだが、
何があるのかと問われてまずの頭に思い返されるのは魔界のこと、人間外の新郎新婦のこと、妖怪の面々のことだ。
「あ、わかった! 告白するの?」
母が名案だというような晴々した顔で言ったのを見て、はがっくり脱力してしまった。
「それなら絶対大丈夫! ほれ、大事に持っててよ」
一転、いともたやすく許可が下りた。
の手にぽんとポプリ袋を置いて、母は幸運を祈ると笑うと部屋を出ていった。
は少々呆気にとられたままでぼんやりと座り込んでいたが、我に返って手の中に残されたそれを見つめた。

、朗報! 古いもの、見つかったんだ』
夜になって南野秀一から電話がかかって来、ちょうどサムシング・ボロウが見つかった報告ができると思った矢先、
彼はそれを遮るようにそう言った。
珍しく声が弾んでいる。
「サムシング・オールド!? ほんと? 何?」
『刀』
「だ、ダメじゃん! 結婚式に刀なんて……」
『いわく付きの守り刀だよ。
 これを最初に持っていた妖怪は、愛する人のために自分を守ると誓っていたんだって。
 昔から戦うことが茶飯事って場所だからね、魔界は。
 愛する人を悲しませないために、必ず生きて帰るという誓いを込めたんだそうだ』
「な、なるほど……!」
『大丈夫そうでしょ? 刀って言ってもこう……十センチちょっとくらいで、ずいぶんきれいに装飾されてるんだ。
 ぱっと見はアンティークのペーパーナイフみたいだよ』
「そっか……それなら……」
はほっとした息をついた。
彼の追加トリビアによれば、
その刀には“愛する人自身も自分が守る、身も心も他の誰にも許さない”という誓いも込められていたそうだ。
そして貴重であるのは、その刀が実際に抜かれて血に染まったことは一度もないという部分だった。
「本当……? 昔のことならわかんないよ」
『いや、大丈夫。魔界流にルミノール検査してみたから』
「……それは徹底しすぎだと思う……」
『それぐらい真剣になっているんだと言って欲しいね』
彼は自分で言って、軽く笑った。
その笑いの裏に、実は大統領宅の倉庫にごたっと詰め込まれていた可哀相な物品だという事実が
ひた隠しにされているということを、は最後まで知らないままだった。
言う必要のない事実というものもあるのだ。
「私も見つけた、サムシング・ボロウ!」
『本当?』
「あのね、うちの両親のなんだけど……」
は母から聞いたエピソードを話して聞かせた。
『へぇ、格好いいなぁ、のお父さん』
「でしょ。私もびっくり、見直した」
『御利益ありそうじゃない?』
「うん。ドレスのどこか……つぶれないで済みそうな場所にくっつけようかなって。
 あ、ティアラに隠してつけたら大丈夫そう! あとね、靴のコサージュもできてきてるし、なんとかなりそう!」
『そうか、よかった。お互い肩の荷が下りるよね』
あとは学校のいろいろだねと、彼が言ったのにの気分は少しだけ沈んだ。
『進路希望調査の提出日、明日でしょう。進路決定なんてまだ先の話だと思うけど学校は急いているよね』
「そりゃ、南野君の頭があれば先の話でもいいよ。ふつーの学力じゃ今から考えないと間に合わない」
『そう? まあ、オレも考えるところはあるんだけどね』
魔界との兼ね合いも、彼の環境が変われば難しくなるのだろう。
妖怪としての彼が魔界でどれほど求められる存在なのかは、彼の仲間に聞かされた分だけよく知っていた。
それでよく学年トップをラフに守れるものだ。
海藤は必死にやってかろうじて追いつかないというのに、彼はそれほど頑張っているわけでもないように見える。
生きた年数が長い分は仕方のない話だとしても、水面下で彼がやっている仕事の量はとんでもないらしいから驚きだ。
「いいけど、倒れないでね。南野君ファンが泣くよ」
『大げさな……倒れないでねってところだけは、にお返ししとくよ』
「私は大丈夫。……終わりが見えたしね」
ちょっとだけ寂しい口調になってしまうのは仕方のないことだろう。
結婚式が終わったら、はこれまでドレスづくりに使っていた時間をどうやって埋めればよいというのか。
じゃあ、と別れを口にして電話を切った。
かばんからプリントを一枚引っぱり出す──進路希望調査。
迷いに迷って、ずっと白紙にしておいたその紙にはやっと向き合い、ペンをとった。



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