プレシャストーン 19

一日中、空を飛んでは降り、誰かに会い、なにかを見、と繰り返していると、魔界の広大さに目が回りそうになる。
魔界へ連れてこられてからずっとこもりきりだったのは旧癌陀羅の城塞というところで、
そこもひとつの国であったという話は聞いていたし、元国王の黄泉とも何度か会って話をした。
威厳があって物静かで紳士だねぇと蔵馬に言うと、彼は苦虫を噛みつぶしたような嫌ぁな顔をして、
そう? 意外だ、とだけ答えたものだ。
観光案内でもするような気軽さで、彼らは行ける範囲のぎりぎりまでを見せてくれるつもりらしかった。
岩だらけの巨大な城塞で、修行僧のような出で立ちの人々が幽助を国王と呼んで出迎えた。
複数国家の体制が崩れた今では世界の王はただひとりだが、その呼び名も過去の名残なのだという。
彼らの魔界における地位やそこに至るまでの事情をはまだ聞かされていなかったが、
きっとなにか特別な関わり合いがあったのだろうと察しをつけた。
そして、はまだその特別を聞かせてもらえるほど、彼らに近いところにいるわけではない。
そろそろ帰ろうかという間際、幽助が姿を消していることには初めて気がついた。
蔵馬に問うと、恐らく墓参りだよと返ってくる。
迎えに行った先には確かに墓標のような石が据えられていて、幽助はただその前に立って佇んでいた。
なんとなく声をかけられずに待っていると、彼は意外にあっさりその場を離れてこちらへ戻ってくる。
すっきりとしたような、なにか物思いに耽るような、彼の表情は少し複雑みを帯びていた。
言葉少なに癌陀羅へ戻って来、部屋へ引きとる。
作業途中のさまざまなものたちが皆に視線を合わせたかのようだった。
今日の散策の思惑はきっと、を少し作業から離れさせることにもあったのだろう。
今すぐにでも飛びかかってでも作業を始めたい衝動はあったが、は思いとどまった。
遠目に、つくりかけのドレスを眺めてみる。
具体的に何とはわからない、気持ちが一瞬それれば忘れてしまいそうな新しい印象をは唐突に受けた。
覚えておかなくちゃと必死になるほどその印象は薄れていってしまうように思えたが、
ただ没頭すればそれでよいものに仕上がるということではなさそうだと、は今更のように思った。
蔵馬が人間界の時間にあわせてくれた時計を見ると、午後八時を回ったところ。
まだ少し作業をしても無理のある時間ではない。
はやる気持ちを押さえつけ、はゆっくりと、自分を焦らすように帰宅後の支度をすませ、
他にやるべきことが何もない状態にすっかり片を付けてから、作業に取りかかったのだった。

魔界へやってきてからの日数を数え、ゴールデン・ウィークも今日を含めてあと二日。
は思わずため息をついた。
なんという楽しい時間を過ごし続けたことだろう。
ちいさなハプニングはいくらでもあったが、黄金週間の名に相応しい充実した休暇だった。
魔界への滞在は今日が最終日で、明日には荷物をまとめて家に戻る。
この数日間はただ中身がひたすらに濃すぎて、ここへやってきたその日には夢じゃないかと疑ったものが、
今になってみると人間界の印象が薄まりすぎてかえってそちらのほうが夢のようにすら思われる。
ただそれが記憶の上での問題でしかなくて、
にとっての現実はいつだって人間界の学校という檻の中にあるということはよくわかっていた。
そこを出たらまた別の名前の檻を見つけて、その広さにあわせようとするのだろう。
この聞こえの悪い檻という表現をまだ使うなら、受験もなにもみんな自ら檻に入るための苦難らしい。
そういう思いでだけ、人間界で生きていたくはなかった。
この気持ちを強く確認できただけでも、このプロジェクトに加わって魔界にやってきたことの実りはあったはずだ。
サイズ合わせの仮縫いには、誤魔化しのためか孤光だけでなく棗もやってきて加わった。
サイズの直しに困るほどの誤差はなく、はそれでやっと心底からほっとした。
「あんたも来るんでしょ、パーティーには?」
「はい、たぶん。一回人間界に戻るので、みなみのく……えーと、蔵馬が連れてきてくれたら来ます」
「連れてきてもらえるでしょ、これだけやってんだもの。大したもんだわ」
自分のサイズに仕上がるという白のドレスに目をやり、孤光は感嘆の息をついた。
「これがちゃんの人間界での仕事なの?」
今度は棗が話題を振ってきた。
「いいえ……ぜんぜん。学生です」
「ガクセイね、蔵馬と同じね?」
「そうです、高校生。お勉強がお仕事です」
サイズ合わせが済むと三人はお茶の用意されたテーブルへ移動した。
男性陣は着替えの際に追い出されたままでまだ戻ってきていない。
「ねえ。こっちにいる間に蔵馬とはどうなったのよ?」
今からが本題、といわんばかりの口調で孤光と棗はに迫った。
「な、なにもないです」
「えぇ? 蔵馬もなにもしてこないわけ?」
「するわけないじゃないですか!!」
「どうして?」
素直な問いには口をぱくぱくさせ、反撃しようとしたのだがうまくいかなかった。
「あいつは人間界と魔界の共存に関してはものすごい慎重派だもの。
 びっくりしたわよ、本当に人間を連れてくるなんて。霊力が特別強いわけでもない女の子を」
ふたりの視点がちらとの左手の薬指にはまっている指輪に集中した。
「霊界が協力してくれたってことね。そういえば体調は悪くならなかった?」
「平気でした」
このまま話題がそれてくれないかなとは思ったが、無駄のようだった。
ふたりの話の矛先はまだ蔵馬に向いている。
「蔵馬が魔界にまた関わり出してから一体どれくらいの女が失恋して涙を流したかわかりゃしないわ。
 アレは天然の女たらしよね」
「本人がやりたくてやっているわけじゃないわよ。でもま、泣いた子がいっぱいいるのは事実でしょう」
「お、女たらし? 南野くんが?」
南野、という呼び名にふたりは一瞬きょとんとした。
目を見合わせ、笑い合うと言った。
「やっぱり、あんたって特別よね」
「私たちにとっては蔵馬は蔵馬だもの。ちゃんはでも、もっと蔵馬のことをよく知っているでしょう」
「え、でも、魔界でのことは全然知りませんけど……」
「そぉ? でも、特別じゃない? 魔界であいつのことをミナミノなんて呼ぶ子はいないわ」
つまり、逆転の発想かと、は思った。
人間界にいる自分にしてみれば、蔵馬と呼ばれる彼のことを知らない自分は彼にとって大した存在ではないと思える。
それが魔界にいる人々にしてみれば、よく知らない彼の姿を知っているものと映るようだ。
よく考えれば当たり前のことが、彼にとって特別大切な世界に属することができない自分をほんの少し、慰めた。
ひとしきりお喋りに花を咲かせてからふたりは別れを告げて帰っていき、
急にしんと静まり返った中にはひとりで残された。
サイズ合わせに男衆は邪魔だと一同が追い出されてから、この数日間の居住空間となった部屋べやが妙に広く思われる。
サイズ合わせの済んだドレスが静かにそこに立っている。
息苦しい現実の世界と、めくるめく夢の世界と、
思うとおりにいかないことがもどかしいのか、それともどうでもいいのか……いい加減な自分に愛想も尽きそうな恋愛。
そんなものに挟まれたをこれまで慰めてきたのはこのドレスの存在だ。
それももうすぐの手を離れようとしている。
我が子の独り立ちを見守るようと、こういう心境をよくたとえる人がある。
わかるなぁと頭だけで思ったことはあるが、実感を伴って思ったのは初めてだった。
それでも、自分の手を離れて誰かの手に渡り、そこで自分が思いもかけなかったような気持ちが生まれるとしたなら、
それはきっと素晴らしいことのはずなのだ。
が今淋しいと思う以上に、それはにとって大切な想いを抱かせてくれるはず。
ふっとため息をつくと、外の廊下に早足で近づいてくる足音が聞こえ、ドアがノックされた。
「はい?」
? 終わったよね」
蔵馬の声がした。
ドレスの製作が終わるということは彼とのこの関係も終わるということだ。
そのことももちろん惜しまれるけれど、
やっぱりはこの期に及んでまで自分からなにか行動に出ようとは思えていなかった。
はごく普通の態度でドアを開け、どうかしたのかと聞いた。
「うん、ちょっとついてきて欲しいんだ」
当面の望みだけを告げて大事なところが隠れているこの言い方も彼らしい口調だということには気付いていた。
何の魂胆があるのだろう?
彼の表情を見る限りは、高揚した気持ちを抑えているようなそういう笑みを浮かべているから、
悪い用件ではないはずだろうとは見当をつけた。
大人しく彼のあとについていってみる。
広い城塞の中を探索してみようと思う暇すら作らなかったには迷子になりそうな道のりだった。
彼は何も言わないままでを連れて数分歩き、ある部屋へ辿り着くとドアを開けた。
現在使われていないことは明白な、生きたものの気配のない部屋はシンプルだが広々した寝室だった。
大きな窓から光が射し込んで、白で統一された調度を淡く照らしている。
室内にいくつものドアが見え、付属室がたくさんあるゲストルームらしいことが伺える。
そのうちのひとつのドアの前に彼は立ち、思わせぶりに振り返ってを手招いた。
、休みも睡眠時間も潰してずいぶん頑張ってくれたから」
「なに?」
彼はにっこり笑うと、そのドアを開けた。
「……わぁ! なに?」
一歩入って、はぐるりと見回し……それきり言葉を失った。
「既製品で申し訳ないけど。これは君の分」
寝室に付随されたそこは、巨大なウォークイン・クロゼットだった。
中に収納されているのがなにかといえば、ちょっとしたパーティーに着て行けそうな……人間界でも通用しそうな、
ドレスと靴、かばん、アクセサリーの山だった。
「なにこれ!? 誰の!?」
「誰のものでもないよ。強いて言うならまず一着は確実に君のもの」
「はぁ!? いつ着るのこんなの」
「結婚式当日にね」
彼は一度言葉を切り、また続けた。
「君は主賓のひとりだから。着飾って出席してください」
「……そ、そういう、こと?」
「うん。遠慮なく。好みに合わなかったら人間界に戻ってから好きなものを選びなおしてもいいし」
「そ、そんな贅沢は……」
狼狽えながら、それでもは赤い顔をしてくるりとまた部屋を見回した。
ぽつりとすごーい、と漏らしてまた言葉を失ってしまう。
そんなの様子を見て、蔵馬は見守るように微笑んだ。
「……どれでも似合うよ、は禁句だったね」
「え?」
きらきらと光を振りまいてすら見えるドレスに目を奪われていたは、急速に覚醒した。
「ちゃんとがいちばんきれいに見えるのはどれかを見るよ。いい加減なことは言わずにね」
彼はなにか含みのある視線をに寄越した。
まだドレスがデザインにすらなっていなかった頃に、そんな話をした……どれでも似合うよ、なんて言葉は禁句なのだと。
彼がそのときにに言った、忘れ得ぬ言葉が耳の奥によみがえった。
まるでの内心を読んだかのように、蔵馬は口を開いた。
「……なんか、また、こう言うのもアレだけど、オレとが結婚するみたいじゃないか?」
思いきり、どきんと心臓が跳ね上がった。
(な、なんて答えればいいの……?)
衝動的にそんなわけないじゃないと即座に否定してしまったことを、あのときはあとからちょっと悔いたのだ。
彼がその言葉を再び口にしてから、の逡巡した本の数秒の時間が永遠のように長く感じられた。
不自然な間を持たせることだけはしてはいけないと、どうしてかの思考はそれを最優先事項にしているらしかった。
ほとんど考えを巡らせることも許されず、は口を開かねばならなかった。
「……ほんとだね」
それだけ呟いて、笑って見せた。
蔵馬はの言葉と笑顔とをそのまま受け取って、否定をすることも、冗談だよと笑うこともしないでいてくれた。
彼がの気持ちを知っているはずはなかったが、にはまるで思いやりのように感じられた。
恋することの幸せは、こんなにも些細なところから見出せて心じゅうを満たしてくれる。
彼とのこの関係が終わってしまっても、この想いだけ覚えていられればそれできっと大丈夫だとは思った。



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