プレシャストーン 17

針のひと突きはの目を覚まさせるのには充分すぎた。
それからは蔵馬の言うことに大人しく従った。
部屋へ戻り、作業で散らかったものの片付けもせずにとりあえず寝支度をし、
彼が持ってきたマグカップに口を付けた。
甘いような気もしたし、果実のような酸味もあった気がするし、ハーブのような香りも……
よくわからない飲み物だったがそれはやさしくあたたかく、はベッドに入るなりすぐに心地よい眠りに落ちた。
その中に蔵馬が様々な魔界の薬草類を仕込んでいたとはつゆほども知らない。
翌朝はすっきりと目覚めることができ、身体は軽々としてわずかな疲れも感じない。
起きて部屋を出ると蔵馬がいて、どうやら薬が効いたようだねと言ったので、
それで初めては昨夜の飲み物の正体を知った。
その日、蔵馬は食事を続けるのそばで一日のスケジュールにも付き合うようにと言った。
「この壮大なサプライズの仕掛けをね、ドレス以外の部分も見てもらおうと思って」
「というと……?」
「舞台裏見学だよ」
意味深長に彼はそれだけ言い、にっこりと笑った。
好きな人が自分に向けて微笑みかけてくれるということの嬉しさを感じるくらいの余裕が今のにはあるが、
実は少々複雑な思いを抱かないでもない。
彼は学校にいる間はあまりこういう笑みは見せてくれないのだ。
先生方にも生徒たちにも慕われていて……女生徒たちの熱視線はまた別物だけれど……あまり学校生活に
不快を感じることはないだろうとは思っていたが、
実はそれと同じくらい楽しいことも少ないのかもしれない。
彼の裏の顔に関わってみて、本当にひと握りの人間にしか関わり得ない世界が広がっていることをは知った。
それらに比べれば、学校などというちっぽけが過ぎるような閉鎖空間で楽しみを見出すのは難しいかもしれない。
彼を囲む人間の中では、はかなり彼の素顔に近い位置に立つことができているのだろうが、
いまだに学校という範囲に一緒に括られている感覚が抜けてはくれない。
そこを飛び越えて自分は特別だと思いこむのはただの自意識過剰だろうと思うが、
願うくらいなら許されるかもしれないなと、本当は少し思っている。
いまだには、自分から彼に歩み寄ることをしてみようとは思っていなかった。
可能性があるかないかの問題ではなく……今の関係が、より近づいてゆくことで歪んでしまうのも恐かった。
彼が自分のことを恋人と呼んでくれることは、それはそれは幸福なことなのだろうけれど、それでも。
あいだに距離があるから見ていられることもある。
近づけば見えなくなってしまう彼の些細な表情や仕草が、自分の目に認められなくなるかもしれないことが恐かった。
それでいて、遠すぎると見えないものもある。
蔵馬に対する今のの立ち位置は、ある意味ではとても貴重で幸せなものなのかもしれないと思えた。
食事を終え、特に持ち物もないが外出の用意をととのえるようにと言われて部屋に戻る。
今日はしばらくドレスの製作作業に入ることはできなさそうだ。
昨夜片付けもせずに寝入ってしまった結果、散らかったままの部屋をぼんやりと眺めた。
没頭するあまりどうかしてしまっていたと、少々醒めた今なら認識できる。
熱心に、夢中になってやったことには違いないとしても、
そんな状態で出来上がったドレスに気持ちがこもっているとは心からは言えそうもない気もした。
今日は休暇だとは割り切り、部屋を出た。
蔵馬と幽助とがを待っていて、不思議な空を飛ぶ乗り物に乗るとどこやらへを連れていく。
普段の生活ではまったく考えられない展開にはしばらく目を白黒させていたが、
やがて好奇心と興味が景色のあちこちへ移り、落ち着きのないはしゃぎ声を上げ始める。
少し高い位置へ飛び上がると街はやがて樹海に飲み込まれ、
生きたものの気配など感じられないような殺伐とした光景が続く。
こんな世界で、街のある場所ならともかくどうやって生きていけというのだろう。
そうして横に立つ彼を思った。
伝説と言われるまで名を馳せたという彼は、気が遠くなるほど長い時間をこの場所で生きてきたはずなのだ。
少しずつ彼を知って、近い位置に立てていると思ったというのに、その思いも褪せるような時間。
(……やっぱりまだまだ遠い人なのかなぁ……)
手の届かないような遠い人だとしても、がつい甘い錯覚を起こしてしまうほどには、
この数日の休みは波乱の気配に満ちていた。
あと二・三日で休みは終わってしまい、また学校という檻の中に戻っていく、それがを待つ現実だ。
蔵馬の気持ちも今ならなんとなくわかるような気がする。
学校だけじゃ彼の世界は狭すぎるに違いない。
彼にしても、もうひとつ隣にいる幽助にしても、きっと人間が暮らすあの平和な街だけではおさまりきらないひとだから。
だからこの殺伐とした風景を求めてしまうのかもしれない。
にはわからない懐かしい風が、吹いているのかもしれない。
樹海の続く奥で、ものすごい音を立てて木々がなぎ倒され始めた。
なにかと思えば巨大な虫が樹を食い尽くすような勢いでうごめいているのである。
「な、……なにあれ!」
「おー、相変わらず派手だな、百足」
幽助はやれやれという顔で言った。
「虫じゃないんですよ、移動要塞です。あれでひとつの国だった……過去にはね」
今現在は一応国家が解散したかたちとなっているが、
元々国王の地位にあった女性は今でもあの要塞の中で女王様のような立場でいるのだと彼らは言った。
「あとで寄ってみるか? 飛影も最近会議でてこねーし」
「彼はお咎めがなければできうる限り面倒ごとには関わりたくない人なんですよ」
統一トーナメントの会議ならともかく、政治に関わる話し合いになどかけらも興味を持たないだろう。
「ケッコンシキには出てくるんか? なんっか似合わねーな……」
「本人は最後まで渋る顔をしているでしょうけれどね……躯をその気にさせることさえできれば、こっちのものでしょう。
 実は興味があるのに素直に行動できないのが飛影って人なんですよ。
 躯が来ると言えば、仕方ないじゃあオレも、ってやっと言えるんです」
「そもそも躯を担ぎ出すのが難しいんじゃねーか?」
「そうですか? 誰にでも食いつきたいエサというのはあるものですよ」
なんでもないような顔でさらりと言い放ったセリフの辛辣さに、は驚いて目を丸くした。
秀才・南野秀一が言うようなセリフじゃない。
「おや、意外そうな顔だな」
心中を読み透かされたようで、は慌てて彼から視線を逸らした。
「学校では取り繕ってすましているからね。ここ最近でオレに対する印象がかなり変わったんじゃない、
「……そうかも」
「オレもの変わった面をかなり見つけて、たまに面食らうよ。
 恋人の髪でも撫でるみたいに何を撫でてると思う、幽助? ロック・ミシンだよ? ミシン!」
「見てりゃわかるって。そんぐらいするだろ、
「なによ、それ……」
「オメーは本物だ。本物。」
「本物って何?」
「知らないほうがいいこともあるよ……ほら、目的地だ」
の意識を指さした先に誘導して、彼らは巧みにその話題を終わらせた。
降り立った建物は先程までいた魔界都市の要塞と同じくらい巨大な建造物だったが、
どこか無骨で飾り気がなく、それでいて堂々と胸を張って座っているような印象を受ける。
「ここはね、大統領府とでも言おうか? それとも総理官邸?」
「そ、それって?」
「お待ちかねの新郎新婦とのご対面だよ。本人たちはこの計画を知らないから、うっかり口を滑らせないように」
人差し指を唇の前に立てて見せ、彼はに意味深な目配せを送る。
勝手知ったる他人の我が家とは良く言ったもので、幽助のこの場所での振る舞いはまさに慣れ親しんだものだ。
頑丈そうな柱に入った亀裂を示し、
「この間煙鬼のオッサンと闘ったときにここにぶつかったんだよなー」
などとわくわくを抑えきれない子どものような顔で言う。
あまりのことにはさあっと青ざめる。
石の柱に亀裂が入るほどのぶつかり方とは一体と、通り過ぎながらは柱に訝しい横目を向けた。
誰の取り次ぎも経ず、ノックもせずに、幽助は辿り着いた先のドアを蹴り開けた。
「よッス、煙鬼のオッサン! 遊びに来たぜ」
幽助が軽口を叩いた相手は、見上げるほどの体躯の赤鬼だった。
「おお、懲りずによく来るもんだのー。……と? 今日は連れがいるのか」
「御無沙汰してます」
「蔵馬か。この間の書類にミスでもあったか?」
「いえ、まさか。本当に遊びにお邪魔しただけですよ。人間界からのゲストを連れてね」
「人間界からのゲスト?」
霊界を通さずに一体なにかと、その赤鬼は眉寝を寄せた。
「ほら、
蔵馬の後ろにはコソコソと隠れていたのだが、驚くべき腕力でもって引きずり出されてしまった。
「六月のパーティーのプロデューサーのひとりです。肝心要の衣装係」
「おお、孤光から話は聞いとるよ。人間界で嫁御を見つけたらしいな?」
一瞬、場が膠着した。
「はぁ!? よ、嫁!?」
「煙鬼……あのですね……」
素っ頓狂な声をあげるに、頭を抱える蔵馬、横で幽助は他人事ゆえこれ幸いと笑いを噛み殺す。
「なんでそこまで話が飛躍するんでしょうね、まったく。噂のお好きな細君はどちらに?」
もう彼は否定するのも面倒くさいと、この一大イベントのヒロインの行方を求めた。




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