プレシャストーン 16
食事とほんのひとときの休憩を終え、はまた部屋へ戻るとひたすら針を動かして時間を過ごしていた。
周りの誰もがのそのペースをもう悟り始めていて、放っておくのがいちばん親切らしいと見守る姿勢を見せている。
いつかの放課後と同様に時間はいつの間にかすぎているのだが、
そもそも今のには時間というもの自体がよくわからなかった。
魔界という場所も人間界と同じ速さで、同じように時間が流れているのだろうか。
時間の妖怪なんかがいて、たまにいたずらをして止めたり速めたり遅めたりはしないのだろうか。
遅くしてくれたら自分には嬉しいと、そう思いながらは手を休め、こり始めた肩をとんとんと叩いた。
タイミング良くドアが開き、誰かが入ってきたのでは視線をそちらに向ける。
「。オレはもう休むよ」
「あ、うん。私ももうすぐ……今やってるとこ、あとちょっとで終わるから。そしたら寝る」
「……それはいいけど」
彼──魔界では蔵馬と呼べと言われた──はなにか言いたそうに立っている。
言いたそうといおうか、の行動を待っているといおうか。
「寝ないの?」
「いや、寝るよ。だから」
「?」
「……それとも添い寝役でも買って出てくれるということ?」
「は?」
「ここ、オレの部屋」
「はぁ!?」
「の部屋は廊下の奥。荷物もそっちに運んであるけどがそう言うなら仕方ないな、
オレも誠意でもってお応えしましょう、ねぇ」
一歩を踏み出す蔵馬に、咄嗟に立ち上がる。
の行動から察するに、どうやら照れ隠しに怒るタイプのようだ……と、蔵馬は思った。
手早く裁縫道具をかき集めて片付け、わっしとそれらを抱きかかえ、お邪魔しましたとどすのきいた声で呟く。
「もっとゆっくりしていけばいいのに?」
「結構です! おやすみなさい!」
「はい、おやすみなさい。……残念」
最後の一言はが力任せに蹴り閉めたドアの閉まる音に掻き消されてしまった。
それが共用スペースでまだのんびりしていた幽助たちにはちゃんと聞こえており、怒り顔で出てきたを見て苦笑する。
まずは話し慣れた幽助がを手招きしつつ、言った。
「ー……って呼び捨てるけどいいよな? 忠告しとくが妖怪って耳いいぞ。滅多なこと言うなよ」
「滅多なことって?」
「お前が無意識に呟いたことも蔵馬の耳には届くかもしれないという意味だ」
「んだー。知らねーうちに隠し事も呟いてるかもしれねーべ? すぐにバレ……」
凍矢のあとに続いての陣のセリフには、皆が口止めにかかろうとしたがどう考えても遅かった。
言ったそばからなにやら意味深なやりとりとして蔵馬の耳に届いたに違いない。
は思わず今出てきたドアを振り返ったが、彼の気配はちっとも感じなかった。
陣はなぜ自分が押さえつけられたのかがわからず拗ねたような顔で凍矢を見やったが、
その凍矢は口で説明しても理解を得られるまで長くかかるだろうと、最初から諦めて黙っていた。
「……なんか、便利ね。気配がわかるんでしょ?」
今更当たり前のことを問われ、一同は目を見合わせた。
「こいつは気配まで酒臭いぞ」
「あぁー? かてぇこと言うじゃねぇぇぜぇぇぇ」
すでに酔い声でくだを巻いている酎を死々若丸がどこか控えめに示し、皆が一様にその控えめさに倣った。
酎はそれこそ昼も夜も問わず酒をあおり続けており、よくそれで体調を保てるものだとは逆の意味で感心していた。
今は誰でも眠る前のひとときだろうが、一瞬うっと息が詰まりかけるほどのものすごい酒の匂いをさせている。
寝酒にしてはきつすぎる。
控えめ、曰くそっと身を引いたというそのことである。
「美しくない……」
嘆くような大げさな身振りで言うのは鈴木だが、この人物だけは名前がものすごく普通すぎるもので、
は逆に彼の名前と顔はすぐに覚えることができた。
しかし一応聞いたはずのフルネームはあんまり長すぎて覚えきれなかった。
首を傾げるに、蔵馬が横から鈴木でいいよと勝手に許可をしたのである。
「まぁ、とりあえず、座ったらー?」
のんきそうな声がにそう言ったかと思うと、手足にぐるぐるとなにやらの糸がからみつき、引っぱられ、
ソファの空いた席の前まで連れてこられると今度はヒザカックンをかまされ、強制的に座らされた。
誰のいたずらかとぱっと顔を上げると、悪戯っぽい少年の視線がに向けられていた。
の手足から引いていったのはヨーヨーで、それを武器に戦うらしい鈴駒の仕業だった。
されるがままのを、隣に座ってくつろいでいる幽助が笑う。
「大荷物だな。進んだか?」
「全然関係ないとこやってて、それも順番あべこべにやっちゃったから、無駄になっちゃったの。
でもこのまま進める」
「ほー。よくわかんねーが」
自分からきいた割には幽助はそれほど興味を示さなかった。
「明日からはもちょっと現実的な作業をね……あとでせっぱ詰まっちゃいそうだなぁ」
「夏休みの宿題みてーだな」
「そうそうそう」
人間界の学校生活に馴染んだもの同士で共感がわき起こったが、
実際には幽助の場合、夏休みのラストで宿題に追われてみたこともほとんどない。
螢子が押しかけてきて、温子に押さえつけられて、無理矢理机に向かった覚えならかすかにあるのだが。
とりあえず勉強と呼ばれるものはできなくても生きていける道が幽助には見えているわけだが、
それも単に運の良さのためだろうなという思いが多少あった。
運の良さも実力なんだとか、そんなことを言っていたのは誰だっけなと彼は思い、
ああ、煙鬼のオッサンだと思い当たった。
「オメーさ、会った?」
「なにに? 誰に?」
「煙鬼のオッサンと孤光」
「誰?」
「シンローシンプ」
「会ってないよ。でもさすがに一回着てもらって仮縫いくらいはしないとね」
はテーブルの空いたスペースに丁寧に道具を並べ、縫い途中のドレスは膝の上にふわっと載せた。
視線をドレスから話さずに問う。
「そういえば、結婚式自体のほうはどうなってるの?」
「ああ、そっちの実行委員はオレらなんだ。なんか大がかりになってきててよ」
「どんなの?」
「魔界のテレビ局が乗ってきてよ、魔界中騒ぐんじゃねーか?」
「魔界ってテレビあるんだ?」
「人間界のチャンネルも映るぞ」
「へぇ……」
今度はがあまり興味なさそうにそう答えた。
ドレス製作に向き合っている間は、正直なところテレビの存在など頭の中にはない。
話す間もずっと、恐らくは無意識に、の指が純白の布地を撫でているのを皆はなんとなく見つめていた。
その仕草だけで、の気持ちの傾きようがわかろうというものだ。
「……嬉しそーだな」
「うーん……うん。嬉しいかな? 楽しいかも?」
「自分で着る予定はねーの」
「ない! ないないない!! 結婚はひとりじゃできないでしょ!」
まくし立てるに、一同の意味ありげな視線が至近距離からぐさぐさ突き刺さる。
この無遠慮さはなんだろうとは身を固くするが、なるほど、
女っ気のないところで戦うことを信条にしている人々だもんねとは思い直した。
だからといって耐えれば済む話だとまではさすがに思えないが。
幽助はこそっと、の耳元に口を寄せてきて、それですら聞こえないほどの小声できいた。
「あいつのどこがいい」
「え!? って、私は、別に……!!」
「バレバレ」
途端に赤くなって縮こまったを見て、幽助は愉快そうにしている。
それでも一応、それ以上いじめては可哀相だろうなどと思ったのか、その話題はそれ以上続かなかった。
「将来オメーが結婚するときも、自分用の作るのか?」
「それができたらいいなぁって、思うけどね……」
その続きがなんとも言えず、は困ったように笑って口をつぐんだ。
好きなことで食べていくのって、難しいんじゃん?
南野秀一に最初に言った言葉は、今の中で更に実感を増して重くのしかかっていた。
難しい、そして苦しいのはわかりきっているが、
それでも諦めていたはずの気持ちが今は上向き始めている。
迷っている、躊躇っているなどと口では言っても今や、
そんな言葉はただの誤魔化しに過ぎないのだと、も心底では自覚していた。
やりたいことはもうすでに、の中にはっきりとした輪郭を描き出しているのだ。
「蔵馬がこっち来て、しょっちゅうオメーを褒めてた」
「え?」
「他人事にこんな親身になれる奴、そんなにいねーだろとか。今時珍しい努力家だとかな」
「嘘? そんなえらい感じじゃないよ、私」
「そうか?」
「好きなことやってるだけだもん」
「好きでやってる奴ってのは、そうなんだってな。放っといてもやってるから、勝手に上手くなる」
「なるほどぉ……それは一理ある? ってやつ? あーでも、私のことじゃなくて」
がにっこりすると、場の空気が少しほぐれ、こいつもそのクチだと皆が幽助を指さした。
場に笑いが起こる。
魔界に来た最初の夜、はこうして実行委員の面々と少しずつ打ち解けていった。
がまず自分にあてがわれたという部屋へ入って泣かんばかりに喜んだのは、
ドレス製作のための設備がこれでもかというほど揃っていたこと。
その中に憧れのロック・ミシンが鎮座ましましていたことだった。
翌朝、に声をかけようかなと起床後に蔵馬は彼女の部屋へ向かったのだが、
ノックをする前に熱っぽいため息が聞こえてきてぴたりと動きがとまる。
何事だろうと耳をすますが、吐息が続くばかりだ。
部屋を覗き込んで蔵馬は仰天してしまった。
使われた形跡のないベッドに散乱する書籍、パターン、裁縫道具。
床に散らばった布の切れ端、糸くず、はさみ。
はロック・ミシンの前に座り、しみじみとそのかたい肌を撫でているのである。
「……徹夜したの?」
「あ、おはよう? 今何時?」
「……人間界でいうところの朝八時半頃だね。君は一体?」
「もう朝なんだぁ……ほんとだ、外眩しい」
朝の空を窓から見上げ、は初めて魔界では珍しいらしい晴天に気がついた。
「まったく君って人は、なんて無茶を! これから少しでも睡眠を摂るんだろうね?」
「え? ああ、もうちょっとやってからね。今いいとこなの」
それだけ言うともう蔵馬には興味がなくなったようで、はまたロック・ミシンに向き直ってため息をひとつこぼす。
「あー、夢だったんだー、自分のロック・ミシンを持つの……自分のじゃないけど……あああ〜」
たまらない、というようには悶えてみせる。
さすがの蔵馬も、これはやばい傾向のトランス状態だと判断した。
たとえばそれが戦闘に関することならば自分にとっても大切なことだったりするので、
クレイジーと呼ばれた幽助を否定することも、どこかおかしいと思うこともそうはない。
ところがそれが別のもの、自分にはまったく関わりのない部分についてとなるとこうである。
ひとつのものに熱中しすぎてしまうのはたぶんあまり見目よろしくないのだろう。
それでも本人にはそんなことは関係ない。
恋愛と同様な盲目状態で気付かないこともあるんじゃないだろうか。
とりあえず目を覚まさせるか、逆に寝かしつけるかしたほうがいいだろうと蔵馬は思った、ところが。
部屋へわずか一歩ばかり踏み入ろうとすると、途端に厳しい視線が飛んでくる。
「気をつけて! いろいろ散らばってるんだから」
針を踏むかもしれないとか、はさみで怪我をするかもしれないとか、そんなことを言っているなら蔵馬にもわかるが、
は今ドレスを汚すようなことになったら困るから入るなと言っているに違いなかった。
いくらなんでもこれはないだろうと蔵馬は抗議しようとしたが、のほうが今は行動が早かった。
「こうしちゃいられない、急がなきゃね! よーし、やるぞ!」
ぐっと拳を握りしめて気合いを入れ直し、は無駄な動きひとつなくミシンに布をセットし、
ばばばばばばとものすごい音を立てて高速でミシンをかけ始めた。
もうの頭の中には蔵馬の存在などないに等しい。
(ああ、これは、言っても無駄そうだな……)
蔵馬はしぶしぶ諦めるとの部屋から退散した。
せめて食事の支度が整ったら強制的に部屋から引きずり出そうと思うが、
それ以外の時間はたぶん放っておくのがいちばんにはありがたいのだろう。
先程のテンションは徹夜のためのものだろうと思ったが、
この一晩・は整った設備に感激した勢いのままで作業をぶっ飛ばしたのだろうか。
用意されたトルソにはすでに、なんとなくドレスのかたちに見えてきた布が着せかけられていた。
よく頑張ったものだねときけば、だってやりたかったんだものと、そんなふうにでも言われるのだろう。
ことドレス製作に関われば理屈が通用するような相手ではなさそうだと思い、
こんなことを思うのも二度目かなと笑った。
食事時が来るたびに蔵馬はとケンカをする覚悟で部屋へ向かい、
相当手こずったあとで部屋から引きずり出すことになんとか成功した。
せっかく作った食事がその頃には冷めかけているのが、彼のいちばんの不満である。
は文句を言わず、美味しそうに食べてはくれるが、それで彼が満足するわけなどなかった。
部屋へ戻って作業に没頭している時間には仮眠くらい取ってくれるかなと蔵馬は期待していたが、
ミシンの音は頻繁に聞こえるし、激しいその音がやんでもなにかゴソゴソやっている気配が絶え間なく彼には感じられる。
まる二日ほど起きた状態になった夕食頃、はテーブルにまで針と糸のついた布を持参した。
食事中に汚れないようにちゃんと防護用の袋を用意してそれに入れ、目に見える位置に置いておくのだ。
こうしないと落ち着かないとは言うが、蔵馬にはそれがなんとなく面白くなかった。
自分で頼んだことだというのに、熱心にやってくれるそのことが嬉しくないとはどういうことか。
はっきりとした答えを自らのうちに見出してしまうとなんだかばつが悪いような気がしてならなくて、
蔵馬は途中でその考えを放棄してしまった。
さすがには眠そうだ。
「。今日はちゃんと寝るんだよ。朝までぐっすりと」
「うーん……うん」
「まだ作業しようとするんだったら、無理矢理寝かすよ?」
「うん……」
普段の蔵馬を知る人なら、無理矢理寝かすという意味に
いくらでも恐ろしい本音を聞けてしまうので戦慄するところだが、の場合はそうでもなかった。
彼の言葉の含みを邪推するというところまで、睡魔が邪魔して思考が働かないというのが事実である。
食事を終えたあともは持参した手縫い部分の作業に取りかかった。
共用スペースの隅っこのソファで黙々と縫い取りを続けている姿を、
皆が気圧され気味に、遠巻きに眺めている。
こいつは本当に大丈夫なのか?
そこいらの妖怪より恐いように思えるのは気のせいか?
「……二日も連続で徹夜する気じゃないだろうな」
蔵馬が苛々と呟いたのに、誰もが心配そうに頷いた。
「大丈夫そうだけど。もう半分寝ながらやっているしね」
は針を持ったままうつらうつらとし始めていた。
「まったくしょうがないな……」
蔵馬は立ち上がり、のほうへ歩きかけた……そのとき。
こくこくと揺れていたの頭が急にがくん、と前に落ちた。
「きゃあ!」
「!」
悲鳴を上げて作業途中のそれを布ごと放り出し、はぱっと身体を縮こまらせた。
蔵馬に続いて皆が駆け寄る。
眠りかけてぐらぐらと揺れていた頭が、がくんと一瞬バランスを失ったそのとき、
の手が持ったままだった針が、その頬にぐさりと刺さったのだ。
「、ちょっと顔上げて……!」
蔵馬がそばに跪くようにして、の顔を覗き込んだ。
身体がぶるぶると震えている。
こわばった両の手で顔を隠している、その腕を蔵馬はどうにかよけて、の顔を上げさせた。
頬からほそくひとすじ、血が流れていた。
「! 無茶はするなと何度も言っただろう!!」
蔵馬はすぐ頬の傷の止血にかかった。
ほぼまっすぐに針先が刺さったその傷跡は一ミリもないほどの穴があいただけであるが、
かなり勢いよく刺さってしまったために深さは相当なものに思われた。
手際よく処置を施す蔵馬を、は芝居でも見ているかの様にぼんやりと、現実味ない目で見つめていた。
心配そうに見上げてくる視線と、ふっと目が合った。
感情のサイクルの一周は、どんなにか長かっただろう。
の内側に、彼を好きでいる自分が、ほんの少しだが戻ってきた。
「……ああ、泣かなくていいよ。ちゃんと傷が残らないように手当てするから。痛む?」
はちいさく首を横に振った。
「まったく、女の子がこんなことで顔に傷を作るなんて。もっと自分をかえりみなくちゃ、。
自分を大事にできなくて、どうして他のものを大事にできる?」
夢は追うばかりではきっといけない。
は表情ひとつ変えず、とめどなく涙を流し続けた。
「ほら、痛み止めは飲み薬だよ。これを飲んだらすぐ、朝までとにかく眠ること。
食事もちゃんととる。いいね?」
は頷いた。
「感謝してるよ、こんなに頑張ってくれて。でも、君自身が無理をしているのを見るのは、オレはつらい」
はなにか言おうとして、声を出したがそれは音にならなかった。
のどをかすめる空気の音だけが、蔵馬の耳に届いた。
なに、と聞き返す。
「……無事……?」
一瞬蔵馬は戸惑ったが、の言いたいことはわかってしまった。
先程怪我をした瞬間、放り出した布地のことだ。
「無事だよ。落ちた先がソファだった。針も外れていないから、誰かが怪我をすることもないでしょう」
に見えるようにそれを示してやる。
「……よかったぁ」
大事なウエディングドレスのパーツに、よりにもよって血糊がつくなんて冗談じゃないとは言った。
この期に及んで出るセリフがそれである。
蔵馬も誰も、もう呆気にとられるより他はなかった。
はさっき、頬に走った痛みに驚いて布地を放り出したのではなかった。
咄嗟に、自分の血で汚すかもしれないというところまで意識が飛び、
放り投げるという方法でそれを避難させたに過ぎなかったのだ。
とんでもない人を目覚めさせてしまったと、蔵馬は思った。
けれど恐らく、一度目覚めて知ってしまったものを、は忘れることなどできないのだろう。
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