プレシャストーン 15
次にやるべき作業よりも、ひとつふたつ先の作業が麗しく思えることがある。
欲求に抗いきれなかったは、
もう少し後になってからでも構わない──下手をするとなくても構わない──手縫い作業をちくちくと進めていた。
やっぱり針と糸とを自分の手で動かすのも好きだなとは思う。
ひと針、ひと目、ひと針、ひと目。
ミシンのようにすっ飛ばしてしまってはひと目ひと目に思い入れを込めようもないが、
手縫いをしているとスピードが緩やかな分、そこに心がとどまる気がする。
部屋の奥でにこにこ、ちくちくを延々続けているを、ドアの外から妖怪変化御一同様がそっと覗いていた。
……ありゃあ、正真正銘の、本物だ。
誰かがそんなことを呟いた。
幽助の戦う姿を見ていても本物のアホだと思うが、これは。
そんなこととはつゆ知らず、はひたすら指先で針と糸とが純白に描いていく模様に神経を集中させていた。
“サムシング・フォー”という、花嫁にとっては素敵な言い伝えがある。
花嫁衣装とともに“サムシング・フォー”を身につけると幸せになれるという、おまじないのような話だ。
それは文字通り四つの品をさしている。
ひとつは“サムシング・ニュー”と呼ばれ、なにか新しいもの。
この日から新しく紡がれていく生活に幸せを願い、祝福するために汚れのない新しいものを用意する。
必ずこれを用意しなければというものはないけれど、さすがに靴を作ることはできそうになかったので、
これは別に用意しなきゃねとは思っていた。
新調した靴に手を加えてもよいのだし、ちょうどいい。
ふたつめは“サムシング・オールド”、古いもの。
その家に伝わってきた品物、花嫁さんが使ってきたものなど、受け継いで大切にしていくという意味がある。
たぶん花嫁が花婿の家に嫁いで入るのだから、
家に伝わってきたもの……というのは婚家に伝わってきたもの、ということだろう。
家という考え方をすると場合によってはいざこざもありそうに思えるが、それが魔界だとどうなのだろう。
なにか大事に伝えられてきたものがあればそれを小道具に借りられないかなとは思った。
みっつめは“サムシング・ボロウ”、借りたもの。
これには幸せな結婚をしている他者にあやかるという意味があるから、既婚者から借りてこなければならない。
ところが長寿の妖怪夫婦に対してそれよりも長い結婚生活をしている人など、
たとえ南野秀一や他の仲間達にも思い当たるものだろうか。
しかしまぁ、大事なのは気持ちなのだから、
幸せな結婚生活をしているふたりから借りられるものであれば、それはそれでいいのかもしれない。
最後に“サムシング・ブルー”、青いもの。
これが今がドレスに仕組んでいる手縫いの模様だった。
青い糸で縫い取りし、ところどころにグラス・ビーズをちりばめてある。
光の加減できらきらと輝けばいいなという魂胆だが、単純にやっていて楽しいのである。
(ああ、顔が、笑っちゃう)
ほころぶ口元を抑えることもできず、我慢する必要もなく、は満面の笑みをたたえてただ作業に没頭した。
「……覗き見? はたぶん、気がつかないと思うよ」
時折誰かは開いたドアの隙間からの様子を伺っていたのだが、
人の集まっているところに蔵馬がやってきて、後ろから声をかけた。
「オレも作業中には何度無視されたことか。見ていてごらん」
言いながら彼は人混みをかき分け、ドアを広く開けた。
「」
声をかけるが、返事はない。
「。夕食の支度が整ってるんですけど?」
食べ物でつられる気配もない。
「。聞こえてる?」
「うん……ちょっと待って」
言われたとおり、蔵馬は黙って待った。
覗き見をしていた一同は一歩引いた位置で様子を伺っている。
蔵馬はそのまま、たっぷり数分黙ったままでいた。
なんとなく、彼の周囲の空気が険悪さを帯びてくることに、以外の皆が気づき始めていた。
「。呼んでるんだけど」
「うん……ごめん、ちょっと待って」
先程と同じようにちょっと待ってと言うと、もうの意識は蔵馬に向かっていなかった。
そもそも返事をする間も、ほんのちょっと気にかかる程度しか蔵馬は存在を認めてもらえていなかった。
沈黙。
蔵馬は表情ひとつ変えず、右の手を握りしめて振り上げ、唐突にばん! とドアの枠を殴りつけた。
ただごとでない物音にはやっと手を止め顔を上げ、ごく普通そうに蔵馬を振り返った。
「あ、ごめん。なに?」
これだけ何もしないで蔵馬のペースを掻き乱しておきながら、ごめん、なに、だけである。
の肝の据わったことには取り巻いていた皆が呆気にとられた。
蔵馬はにっこりと笑いながら、殴りつけた右の拳をドア枠から離して降ろす。
木枠であったが、殴られたあたりには木目に沿って見るも無惨なひび割れが入り、
蔵馬が手を離した途端に木屑がぽろぽろと落ちた。
「夕食。あまり根を詰めすぎるのもどうかと思うけど?」
「あー……でも、大丈夫、楽しいから。すぐ行く」
「信用できないな。今すぐ、ここで、オレの目の前で針を置いて立ち上がってこっちに来て欲しい」
「なんで? すぐだよ」
「オレはもう十分くらいをここで呼び続けているんでね。やめられないことは見てわかってる」
「……あ、そう?」
そうか、と呟いて、は素直に針を針山に刺した。
慎重に純白の布を作業台に置いて、立ち上がる。
スカートの膝元に糸くずがついていたが、気にすることも払うこともしなかった。
尋ねればどうせまた汚れるからと答えるだろう。
「……ところで、今ビーズを縫いつけてしまっていいの? あれ、あとからミシンかけるんでしょう」
「……あ。」
数時間かけてきた作業が今まさに無駄になったことをは悟ったが、
まぁいいかと漏らすだけでとりあえず振り返りもしなかった。
「そんなに呼んでた?」
「うん」
「ごめんね?」
「……まぁ、いいけど。どうせなら冷めないうちに食べて欲しいじゃないか? 作る側としては」
「南野くんが作ったの?」
「幽助と合作でね。魔界のものを食べさせるわけにもいかないから」
途端、の夢見心地はさぁっと醒めて、別の夢が始まった。
南野くんの手作りの夕食なんて、御馳走すぎる!
十分も待たせたのは大失敗だったと今更ながらに後悔して、は夕食の席に着いた。
多少不器用な感じのする料理を美味しそうに口にするを眺めて、
シェフ役をつとめたという蔵馬と幽助とはやっと満足そうな顔を見せる。
「今やっているあの作業はなに?」
問われて、は口をもぐもぐさせながら何とか答えた。
「あのね……サムシング、フォー。……青いやつ」
「サムシング・フォー?」
はサムシング・フォーのなんたるかを簡単に解説した。
「その中の青いやつ。青で刺繍してみよっかなーって」
蔵馬はそれで納得した顔を見せたが、横で聞いていた幽助が今度は身を乗り出して口を挟んだ。
「なぁ、なんで青なんだ?」
「聖母マリア様の象徴の色だから、みたいだけど。花嫁さんの純潔を表すんだって。
でも失礼な話! 女の人にばっかり裏切るな裏切るなって」
男の人も純潔を誓えばいいのよとは言ったが、なんとなく聞こえがおかしく思われた。
「ふーん……それで青、か……」
彼は考え深そうにそう話を引き取って黙り込んだ。
その様子があまり真剣そうだったもので、蔵馬もも不思議そうに彼を眺めていたのだが、
かなり長いこと幽助は自分が注目を浴びているということに気がつかなかった。
やがて彼ははっとして、慌てて誤魔化しにかかり、話の矛先を逸らそうとする。
想う人がいて、その人は青い色が好きで、その色は純潔を誓う幸せの象徴の色で……
そんなことを考えていたなんて、とても言える彼ではなかった。
自分は妖怪で、相手は人間で、そうしていつかは時間が自分たちを引き裂くことがあるかもしれない。
だったらその青い色に、オレには誓うことがあるだろう……などと。
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