プレシャストーン 11

放課後までの二時間が長く長く感じられた。
クロッキーブック紛失という思いがけないトラブルの前と後とで、
を取り巻くいろいろなものがほんのわずかずつながら様変わりをしたらしい。
手元にクロッキーブックがあるのとないのとでどうしてこんなに心強さが違うのか。
今のにとってこの一冊はすでにかけがえのない心の支えであり、
胸の内を大きく占める存在なのだった。
やっと授業から開放された放課後、いざ街に出ようというときに、
これまで一緒に行動するのをなんとなく渋っていた彼が
打って変わって何も気にしない様子を見せたのがにとってはまた不思議だった。
じわじわとにじむように彼の態度の表面に見え始めた積極性は、
どこかかすかに投げやりでもあった。
彼の態度が変化する理由に心当たりなどないはどうしたんだろうと首を傾げるより他にない。
実際のところ、彼自身は確かに投げやりな心地だった。
危惧していたトラブルに遭ってしまって、もうどうでもいいと少々開き直ってしまったのである。
子どもっぽい嫌がらせに飽き飽きさせられ、
勝手にしろ、自分も勝手にするからと腹を立てた彼の取った行動は結果的には前向きだ。
今日、彼の内心にはずっとひとつの思いがあった。
そう、今日こそは本格的な巻き添えの最初の一日なのだ。
というただの人間の女の子に、魔界というとんでもない世界の深淵を見せる。
冷静に思えばなぜこういうことになっているのか彼にもよくわからない。
どう考えても回避するべき展開だったように今は思う。
だが彼女は彼が想像したよりもずっと親身に、真剣に作業に取りかかってくれている。
深い事情のなんたるかも聞き出そうとせずに。
それが気遣いなのか、夢中になるあまり周りが見えていないのかは判断がつきにくかったが──
恐らく前者だろうと彼は無理矢理思うことにしている──、
彼女のそういうところが好ましかったのは素直に認めるところだ。
志す目標を見つければ、それに向かってなりふりも構わぬような熱を傾け眠る間も惜しむ。
このプロジェクトが始動して、が関わり始めてからまだわずかの時間しか経ていないというのに、
彼はそれまでクラスメイトとしてしか見ていなかったに対する新たな印象を何度も抱くことになった。
人間ひとりの力といえど侮るわけにはいかないと、彼は改めて再認識したものだ。
「……で、彼がこの計画の首謀者なんだ。浦飯幽助くん」
「うぇ、オメーにくん付けで呼ばれんの、すげー気持ち悪ぃ」
「……だそうだから。気軽に呼び捨ててやっていいよ」
「おう」
荷物持ちをやってくれる友人だよとに紹介されたのは、ぱっと見は明らかな不良少年である。
屈託のない笑みを時折にかっとこぼすあたりは年齢相応に無邪気であり、
突っ張っているだけではないだろうとは伺える。
年下に見えたが、学校に行っている様子があまり見えない。
待ち合わせの場所に学校からまっすぐ制服のままでやって来たふたりに対し、
少年はTシャツとジーンズという動きやすそうな軽装だ。
「あ、蔵馬って呼んでた人」
「そう」
が思い出したようにそう言うと、横で南野秀一が満足そうに微笑んだ。
よくできましたと言いたげだ。
「今日は計画の暴露とそのあたりの種明かしをしていくから。後には引けないよ、
「……身の危険を感じるべきところ?」
「いいえ、全然。今のところはね」
軽い口調で返されたがふざけているわけではないらしいので、はとりあえずそれで納得することにした。
彼が幽助と呼んでいるその少年は、のほうをくるりと振り向くと告げた。
「先に断っとくが、オレらは嘘は言わねーぞ。信じられねーだろうが」
「だろうね。ま、オレたちは隅から隅まで真剣です。それだけ覚えておいて」
いつもの喋り口調と変わらない打ち解けた声で、
それでも彼らはなにか含んだような言い方をした。
一応それに頷き返しながら、いったいどんな突拍子もないことが自分を待ち受けているのだろうと、
は想像を巡らせたがうまく脳裏に像は結んでくれなかった。
そんなまばらな思考も目的の店に到着すればいともたやすく霧散する。
先に計算しておいた素材の必要量や価格などをピックアップしながらの買い物には
もちろん真剣に臨みながらも妙に楽しく、時間の過ぎるのも忘れては順調にリストアップした品々を制覇していった。
その間、品物を探すについてまわりながらほかの二人は、
よくできた作り話のようなことを真剣にに語りかけ続けた。
買い物に意識の大半を向けていたとはいえ、
彼らの話には聞き捨てならない現実離れした要素がありすぎて、は聞き入らずにはいられなかった。
彼らによれば、今いるこの世界を人間界と呼ぶとしたとき、対して魔界と呼ぶべき異世界が実は存在するという。
ふたつの世界の行き来は通常、人間界を管理するような立場の別の異世界・霊界を通さなければ不可能である
(偶発した場合、人間界では俗に言う神隠しが起きたように見なされる)。
霊界と魔界とには人間外の生き物が住んでおり、特別優れた力を持ってでもいない限り、
人間はその姿を目に留めることはできない。
彼らがに話そうとしている話題のなかでも、このあたりは彼らに言わせれば入門編なのだそうだ。
「人間界にも妖怪は混じって暮らしているけれど、なかなか気付くものではなくてね。もわからないでしょう?」
「……はぁ。」
「あ、信じてないな、その虚ろな返事は?
 今目の前にいるオレたちが半分は人間じゃないということも、言われたってわからないでしょ?」
「はぁ?」
「オレは元が狐の妖怪で、身体が弱ったところを人間の胎児に憑依して生まれ直した半妖なんだ。
 彼は元は人間と言えるけれど、先祖に妖怪の血が入っていて、それが目覚めた半妖なんだ。わかる?」
「わかんない」
「まぁ、そうでしょうね……普通の人間なら実際に見でもしなければ素直に信じてはくれない、
 というのが正常な反応でしょう」
「じゃー……ゴールデン・ウィークか?」
主語のないまま進んでいく会話に、
彼らがの知らないところでなんらかの計画をしているらしいことがなんとなく感じ取れた。
「……ゴールデン・ウィークに、私にその魔界とやらを見せてくれるってこと?」
「そのつもりだったけど、予定があるなら魔界行きは作業が終わるまで延期しなきゃね」
休みいっぱいを作業にあてるつもりだったにはなんの不都合もない。
ゴールデン・ウィークには友達と旅行に行く、などと適当な口実をつくって家を出て欲しいと頼まれる。
「魔界はついこの間まで複数国家を有する世界で、それらの国が小競り合いを繰り返していたんだけど……
 この間統一戦が行われて。まあ、魔界式に選挙といったところだ。それで大統領が決まった」
「そー。その大統領のオッサンが、赤鬼で煙鬼ってんだけど、花婿な。その嫁さんのドレスなんだよ、これ」
抱えた荷物を示して幽助がそう言った。
「だ……大統領夫人のドレスなの!?」
「そうそう。ことの重大さがわかってきたかな? 
彼はからかい口調でわざとらしく言う。
ここまでの話を聞いていてなんとなく察したことは、
彼らにしてみれば大統領だろうが元国王だろうが大差のない知人らしい……ということだった。
友人からの贈りもの、という意識でいる彼らには気負いなどというものはまったくないに違いない。
「……ていうか……南野くんて大統領の友達なの?」
「友達……とは……なんて言ったらいいかな?」
「こいつな、魔界の政治を動かしてんのはこいつの頭だぜ」
幽助がなにやらいやらしい笑みを浮かべつつ彼を指さす。
「君だって元国王じゃないか? オレはいわゆるいち公務員みたいなもんですよ」
「こ……高校生なのに……?」
の頭はまだ人間界の現実から離れてはいなかった。
彼はの混乱を見てとったのか、諭すようなやさしい目を向けて言った。
「見せてあげるから、。自分の手で作ったドレス、本番まで見届けたいでしょう?」
「も、もちろん! 完成したら追い出しちゃうとかじゃ、ないよね?」
「心配いらねーって。特等席用意しとくぜ」
少々軽々しい響きの幽助の口調はまるで根拠がないように聞こえてしまうが、
それでも妙な説得力でもっての内に語りかけてき、はそれでちゃんとほっとすることができた。
「魔界にいる間は、他にも加担者だとか人間じゃない知人がたくさんいるけどまぁ恐くはないだろう。
 向こうにいるときは、オレのことも蔵馬と呼んで」
「蔵馬」
「そう。それが、妖怪のオレの名前」
「魔界で知らねー奴はいねーくらい有名な名前だぞ」
「さっきから君は……幽助こそ、魔界全土に名を轟かすひとりじゃないか?」
彼らはお互いからかいあいつつ、謙遜しつつ、けれど楽しそうにしている。
自分を置いて交わされる会話の断片から、それでもはいくつかの情報を得ていた。
彼らは魔界では実力者とされる有名人であり……
小さな国に分かれていた頃もその国のトップ勢力の座にいた経歴があり、今現在も大統領と仲がいい。
幽助はほとんど毎日を魔界で過ごし、蔵馬……南野秀一は、ほとんど毎日を人間界で高校生として過ごしている。
ふたりの生活にはそうした差があり、時間もすれ違うことのほうが多いが、その信頼は揺るぎないようだ。
彼らの言う魔界というのがいったい何のことをさしているのかはにはわからなかったが、
まさか言葉の通りのそのままだとは思いもしない。
その広大な魔界で、彼らと同様に有名人になる日が来ようとはもちろん知る由もない。
大統領夫妻にサプライズを贈ろうという知人のみの企みだったそれが、
魔界のテレビ局が一枚かんだおかげで魔界全土に膨らもうとしているのだった。



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