プレシャストーン 10

ますますわけがわからなくなってきた。
南野秀一は元より謎の多い人物で、
よくある表層上データ──誕生日や星座や血液型などなど──は多くの人(主に女子生徒)に出回っていても、
本人がどういう人間なのかというところについて深く知っている人はいなさそうなのだ。
彼が時折親しそうに話している海藤というクラスメイトが唯一の例外と言えるかもしれない。
ただ海藤は南野秀一とはもっと別の意味で取っつきにくい相手で、はあまり話をしたことがなかった。
その程度の関係の相手にいきなり、別の人間のことをよく知っているかと聞くと、
あいだの空気がちぐはぐとしないだろうか?
そう思うと自分で彼に直接問うてみるか、黙り込んで諦めるかしか手がなくなってしまうのだ。
月曜日、なんだかさらりとしたあっけない晴れ空の朝、
は空の青と鳥の鳴き声がもたらすさわやかさに似つかわしくない様子で、
とぼとぼと駅から続く通学路を歩いていた。
途中知っている人には誰にも会わなかったがそれでよかったのかもしれない。
誰かに会えば、南野秀一の話題を出さずに我慢しておく自信がなかった。
今のはたとえるなら、穴を掘って「おうさまのみみはろばのみみー」と叫びたいような気分なのである。
ただ言ってしまえば、誰かはの本心に気付いてしまうかもしれない。
──、好きなんでしょ。どうして言わなかったのよ。協力してあげようか?
──え、もなの? じゃあライバルだね。は大事な友達だけど、負けないよ。
うわぁ、めんどくさいとは思った。
彼のことが好きだというのは嘘ではないし、
もっと彼のことを知りたいという感情が溢れ返りそうになってはいるが、
かなり正直なところを言えばそれは今のにとって二の次の問題でしかなかった。
それほどに、いまの頭の中を占めているのはウエディングドレスのことばかりなのだった。
クロッキーブックは今日返ってくる。
このデザインを立体にして欲しいという依頼がやっと聞けるのだ。
一度にふたつのことに恋することができるほどはは器用に立ち回れない。
今は夢だけ見つめていたい。
それで心底好きだと認識した相手を却下できるのはどういうことだろうとは自分でも不思議には思うのだ。
だが考えてみても大抵結論は出ない。
それがまぎれもないの本心であって、理屈もなにも通用しない真理なのだ。
仕方ない、どうしようもない、それがすべてで全部。
そう思い切れても気持ちが軽く割り切れるわけではないが、ほかにどうすることもできそうになかった。
のろのろと靴箱に外靴をしまい、上靴に履き替えていると、おはようと声をかけられた。
まだのろのろと顔を上げると、まず目に飛び込んできたのは小難しいタイトルの本である。
その奥に眼鏡をかけた顔。
南野秀一と並ぶ盟王高校の秀才のひとり、海藤優だ。
噂をすれば影ではないが、たまたま彼のことを考えていたそのあとに会って言葉を交わすなんて。
はぽかんとしてしまったが、我に返ると慌てておはようと返した。
彼はそれには答えずに本に指を挟んでページを保ったまま閉じ、靴を替えた。
なにか聞いてみたかったが、いざ本人を前にすると言葉はうまく出てこない。
うちの秀才たちはなんかそういう魔力でも持っているんじゃ、とまで思ってしまったが、そんなわけはない。
何の超能力も特殊能力も持たない普通の人間で、たぶん脳みそがちょっと器用なのだ。
は彼らよりその点で劣るかもしれないが、手先の器用さならきっと負けないだろうと思う。
たまたま針と糸を使い情熱を傾けるという教科がなくて、それに点数をつけようがないというだけの話だ。
思考がまたもよくわからない空想に飛んでいる一瞬、は目の前の彼の存在をきれいさっぱり忘れていた。
唐突に言われてはっと我にかえる。
「……巻き込まれたんだってね」
「は、はい?」
「南野に聞いたよ。君も災難だな」
南野秀一に話を持ちかけられて以来は幸せで仕方がないは、災難の意味がわからない。
だがこの言いようから察するに、部外者であるはずの彼は恐らく事情を知っている。
それも、“巻き込まれた”当の本人であるよりも詳しいことを知っているに違いなかった。
は前のめり気味になってまで問うた。
「ね、災難ってどういう意味……」
「はい、そこまで」
聞きかけたところで海藤の後ろに現れたのは、南野秀一本人であった。
「脅すのはオレの役」
「相変わらず性格悪いな、南野」
「失礼だな」
目前で交わされる会話はシンプルな言葉の応酬だが、
やっぱり彼らのあいだにはなにか通じあったものがある──はそれをまざまざと感じた。
「どうしたの? はとが豆鉄砲くらったような顔してるよ」
なるほどこういう顔のことをそうたとえるのかと、彼らはを見て楽しそうである。
「ふたりまとめて性格悪いっ」
攻撃態勢に出てみても、顔を見合わせて笑うだけだ。
「早く教えてやれよ、南野。が最近授業も上の空なの、知ってるかい?」
「ああ、うん」
「上の空じゃないっ!」
ちゃんとノートも摂っているし、話も聞いているからとは言い張るが彼らは首を振る。
「それで頭に入らなければ意味がないんじゃない」
どぎつい突っ込みを残して海藤は先に廊下の奥へ消え、苦笑を浮かべる南野秀一ととが残された。
「……南野くん」
「ああ、そうだ、先に返そうかな、ありがとう」
の怒りをそらすのに彼はクロッキーブックを差し出し、それは見事に功を奏した。
まるで涙の対面を交わしたかのごとく、たかだか二日ぶりに目にしたクロッキーブックには飛びついた。
「ど、どれになったの?」
慌ててページを繰るの手を制し、彼はそのページを示した。
「大多数の票が集まったんだ。円満に決まったよ」
それはが想像していた候補のデザインとも違うし、彼が以前気に入ったと言っていたものとも違った。
テンションがわっと上がったそのままに描き殴ったうちの一枚で、
スカートの何か所も何か所もしつこいくらい布地を絞ってあるデザインだった。
スカート部分のその絞りは、あちこちに花が咲いたように、
あるいはそこかしこで小爆発が起きているように見える。
この絞りを実際にやったところで絵の通りに再現できるものだろうかと考えながら、
心配はあとでいいやと脇に押しやってしまった覚えがある。
今になってそれが戻って来、は唐突な焦りを覚える。
そうしてデザイン画を覗き込んだまま黙り込んでなにか考え出してしまったらしいを、
ちょっと圧倒されたような目で彼は見ていた。
ほんの些細でもなにかきっかけがあればすぐに考えが飛んでしまう。
の頭の中には純白の布と針と糸、ミシンが並べられ、
それらを駆使してデザイン画をどう立体に起こすかというシミュレーションがなされているに違いない。
恐れ入るなぁと彼は思いながら、半分くらいは聞き流されることを承知で口を開く。
「旦那がね、すごく大柄な人で。奥さんのほうは体格普通だと思うんだけど、並ぶと小さく見えるんだ。
 だからちょうどいいんじゃない、これくらい派手に膨らんでても」
「……胸元がね」
うん、とは頷いた。
話が噛み合っていないのに、優等生は苦笑を浮かべて話すのをやめる。
「スカートがこうだから、上は少し大人しいほうがいいかもしれないけど、なにかアクセントつけて…」
じゃないと胸が目立ち過ぎちゃうんじゃ、とは呟いた。
ー。おーい」
「はい?」
「切り上げようか? 始業」
予鈴がなりそうな頃だったので、いったんそこでクロッキーブックは閉じられた。
試験期間を控えて授業の内容も中身が詰まっているものが多かったが、
の思考は一日中、針と糸と、自分の手で作り出されていくドレスに絡め取られてしまった。



back   close   next(10.5話へ)