プレシャストーン 09

クロッキーブックを土曜・日曜と二日間彼に預けることになり、は手持ち無沙汰で仕方ない思いだった。
六月の花嫁さんを飾り立てるためには恐ろしい急ピッチで作業を進めなければならない。
ゴールデン・ウィークにどっと進歩させることができればいちばんいいなとは思う。
今年は何連休だったか……カレンダーをめくり、土曜と日曜という文字を見て、意気消沈してしまった。
ああ、クロッキーブックは月曜日にならないと戻ってこない。
なにをすればいいんだろう?
南野秀一に話を持ちかけられて、まんまとその気になってから、
の生活のすべてはあのクロッキーブックが握っていたのだ。
暇さえあれば、思いつきさえすれば、すぐに鉛筆をとって描き始められるようになっていた。
入浴時間に素晴らしいことを思いついてしまったときも、
洗面・脱衣室にどちらもきちんと用意してあったおかげで、アイディアを漏らさずに済んだのである。
先日、数学の抜き打ち考査では見るもおぞましい点を取ってしまった。
それを運悪く親に見つかるハメになり、寝る時間を削って勉強しているならわかるが
このところずっと何をしているのかと咎められることになってしまった。
それでも、やり通すと決めたことを譲るつもりはには毛頭ない。
やるべきことは、一応はちゃんとやっているのだ。
授業も寝ないで参加しているし、ノートもきっちり摂って、課題が出れば帰宅後真っ先に済ませている。
家の手伝いは少し甘え気味だが、それでもできるだけのことはしようと思っている。
それだけやっても点が落ちたのはだからやっぱり、としては自分の努力不足のせいなのだ。
やるべきことだけやっていれば平均点はとれる、という学校ではなかった。
今日は大人しく予習・復習をしておこうかとは半ば諦める。
数学の抜き打ち考査は、教師からしてみると中間考査の予備試験のつもりなのだから……
試験勉強なんてすっかりの頭の中から抜け落ちてしまっていた。
こんなことでは日常生活がダメになってしまう。
もちろん人間の価値のすべてが数値化された点によるものではないことはわかっている。
それでも今のの判断材料のひとつにそれが含まれるということは間違いがないし、
とりあえず今の学校を卒業して次の社会に進むときに、
この点数だとか成績だとかというの記録が重く見られがちなのもまた事実ではある。
そんなものを使う職業に将来就くとはには思えなかったが、少なくとも今は必要だ。
にとって意味のない数字でも、を見る人にとって意味のある数字になってしまう。
ああ、憂鬱だと思いながらものそのそと机に向かい、教科書とノート、参考書を広げた。
この間の数学の穴は埋めなければならないし、そこそこの点数をとれている教科は落としたくないし。
こだわりのない教科は現状維持でもまぁいいや。
またカレンダーに目をやって、中間考査の日程を確認してみる。
中間考査は一週間近くに渡り行われ、午前中いっぱいを使って二・三教科ほどテストをするとあとは放課となる。
そうか、この時期お弁当いらないんだぁ、とは思い当たった。
あとで母親に伝えておかなければ。
中間考査の日程を念頭に置きつつ、今度はウエディングドレスの製作日程を組んでみる。
土日の二日間で、南野秀一とその友人たちがどのデザインがいいかを選んでくれるという。
いくつか有力そうな候補をあげて予算を組んでみたのだが、
相当際どいだろうなと思った予算でも何も突っ込みは入らずあっけなく通ってしまった。
あとはただ、六月中の結婚式当日に間に合うようにドレスを仕上げるだけだ。
本当に間に合うか?
それを考えると目の前が暗くなりそうだが、追い打ちをかけるように中間考査の日程が割り込んできた。
正しくは中間考査が割り込んできたのではなく、
元々あった予定のあいだにが別の予定をぎゅうぎゅうに詰め込んでしまったに過ぎない。
逆恨みをするようにテストの日程を睨み付けてみるが、予定が動くわけもなし、
また、文字通り見当違いの恨みに違いない。
考査中だけ勉強に集中していればいいという話ではないと思えば、
中断はその期間一週間だけでは済まないだろう。
時間がない、時間がない、時間がない。
今のなら一日が四十時間ほどあったとしてもやっぱり足りないと思うに違いない。
第一、ここ最近ですら時間が足りなすぎると思うことばかりである。
学校生活時間と睡眠時間が、の二十四時間のうちの大半を占めていると言えるが、
このどちらの時間もが惜しくて仕方がない。
普通の学校生活はそれまでのの身の上に普通に起きていることだったし何の不満もなかったが、
やりたいことがありすぎる今は頷けない。
電車に乗って三十分の道のりなど、ふざけているにもほどがある。
どこでもドアがあったらいいなとアニメの主題歌のようなことを本気で考えた。
あるいは電車に負けないものすごい俊足とか。
ワープができる特殊能力とか。
時間の流れが遅ぉぉぉくなる部屋がどこかにあるとか。
現実逃避したさに、は実際現実にはあり得ないことばかりを本気で考えうなだれた。
最後にはそんなの無理じゃんと結論が出て終わる。
考えるまでもないことだというのにけっこうがっくりと来てしまうのだ。
今もは突拍子もないことを考えている。
学力やよい成績を貯め込んでおける銀行があって、それは普段の授業のときに蓄積しておく。
ここぞというテストや試験の時にそれをおろしてきて使うから予習・復習の必要はなく、
試験のために勉強しなければならない時間は自分の好きなように使う、うん、ナイスアイディア。
と、ここまで考えたところで、の頭の中に更にひらめいたものがあった。
このひらめきが外から読めるのなら、の両親や学校の教師などは苦い顔をしたに違いない。
“そうだ、中間テスト中って午前中で学校終わるんじゃん?”
さっきもそのことを考えたのだから気がついて当然至極だが、は今更気がついた。
空き時間が普通の学校生活を送る日々よりも少し増えるわけだ。
その時間を有効活用しない手はない。
昼過ぎから夜までずっと時間があくのなら、作業も進むではないか。
は突然しゃきんと背筋を伸ばし、教科書にしがみつくように勉強を始めた。
その時間に勉強をしないためには、今やるしかない。
どのみち今はクロッキーブックは手元にないし、デザインが決まらなければ何を作り始めることもできないし。
に久々に訪れた空白の時間だ。
好きなことばかりやるのもそれはそれでいいが、やるべきこともすべてやって誰にも文句は言わせない。
の目指すパーフェクトはそこだ。
割り切れると俄然やる気がわいてくる。
は奮起して、ものすごい勢いで復習を始めた。
そうしてその日取り込まれた数式のすべてはにきちんと吸収されて、試験で活躍することになる。

『へぇ、偉いね』
「だってさー、この間のテストで点ひどくてさー」
『何点?』
「南野くんに言いたくないっ! そういうとこもなんかムカつく!!」
『ああ、ハイハイ、スミマセン』
謝りながら、電話の向こうで彼は笑っている。
夜になっての携帯がまた彼によって鳴らされたのだった。
彼は思ったよりも頻繁に連絡をくれるもので、電話に出るのにいちいち緊張することもこのところはなくなった。
「南野くんは勉強してる?」
『ああ、まぁ、流す程度に』
「それでまた一番取るんでしょ。どうやってるのよ」
『知らないよ。普通にしてるだけなんだから』
「腹立つっ」
彼はまた楽しそうに笑っている。
今はきっと例の友人たちと一緒にいるところなのだろう。
学校で彼のこういう笑い声を耳にしたことはない。
彼には学校の中の楽しみというものがないのだろうかとはふと気になった。
『デザイン、決まりそうだよ。はこんなの嫌だって言うかもしれないけど』
「あー……このあいだのアレ?」
『さぁ? どうでしょうね』
「気になる」
『わざとそういうふうに言ってるんだよ』
「やな奴! 南野くん、学校でねこ被ってるでしょ!」
『ねこ……ねぇ? いや、オレは人の皮を被った狐なんだよ』
やけに具体的な言葉が出てきたので、テンポよく続いてきた会話が一瞬だけ不自然に途切れた。
「……、なにそれ」
『その狐の名前が蔵馬っていうんだ。この計画の仲間たちには、その名前で呼ばれることに慣れてる』
「……は、あ、……?」
、この間結局話がそれてしまったけど、妖怪信じる?』
「は……いや……え? わかんない」
『この問いが意外に大事なんだ。今更計画を外れてもらう気はないけれどね』
真面目くさった声で言われ、はどう答えていいかわからず途方に暮れてしまった。
なんとか答えをひねり出そうと考え込んでいるらしいの耳に、
また彼と、彼のそばにいるらしい友人たち──今度は複数人の男性だろう──の笑い声が聞こえてきた。
その声のなかに秘密めいた、隠し事をして楽しんでいるような(からかっているような気もするが)、
そんな意味が聞こえたのはの気のせいなのだろうか。



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