プレシャストーン 08

そろそろ春も終わりを見るかという季節だ。
打ち合わせはその後行きつ戻りつしながらも結果的には具体的なところまで進み、
デザイン案もかなり絞られてきている。
ただドレスを着る本人に見せて「これでいい?」「こんなのどう?」と聞くわけにいかないので、
最終的にひとつの案を選ぶという決断はなかなか覚悟を迫られる。
彼がしめしたデザインの条件はそれほど多いわけではなかった。
条件と呼ぶほどのものでもない。
動きにくい格好は嫌いだと思われること、本人はさばさばした気性のいわゆる姉御肌の人であること、
普段だからドレスはおろかスカートのような服を着ることも皆無に等しい(彼は見たことがないらしい)ということ。
もちろん具体的なデータには忠実でなくてはならない。
すらりとした女性のようでウエストもきゅっとしまっているようだが、
逆にバストとヒップはかなり豊からしいとわかる。
この調整をどうつけるかも、素人に近いには簡単なことではなかった。
デザインをぼちぼちと描き始めて間もなく、
一枚の紙やノートでは足りないとは思い立って専用にクロッキーブックを用意していたが、
それもそろそろ埋まってしまいそうだ。
デザイン案の枚数を増やすことはそれほどの苦ではなかった。
楽しくてたまらなくて、わいて出るアイディアを一枚の中に収めきるのは到底無理だったから、
無我夢中で描き殴っては勢い次のページへなだれ込むということも少なくない。
それをたとえば一晩眠ったあとで、ちょっと落ち着いたあとで眺めてなんてみると、
デザイン以前の混沌としたらくがきに過ぎないものに見えてしまって落ち込んでしまうのだ。
それを南野秀一は驚きと期待を込めた笑いを浮かべ、過去のものが気に入らないのは成長の証だと言った。
確かにそうかもしれないが、自身にはそれで納得のいく話ではない。
って……意外と負けず嫌いなんだな」
「意外とじゃないよ。今更……」
「ああ、そう……? ま、親しくなったのもごく最近だしね」
曰くの「混沌」が増えたクロッキーブックをめくりながら、彼は愉快そうだ。
「デザイン画だよね、ちゃんと。描けるものなんだなぁ」
「独学よ、ちゃんと勉強してる人が見たらホントにらくがきだもの」
「そんなことないよ、ちゃんとどこがどうなっているのかわかるし。すごいな」
誰からも讃辞を集めて回る日常の彼が、にすごいと讃辞を向ける。
褒める内容に違いはあってもなんだか不思議に思えるだ。
クロッキーブックの埋められたページは数十枚にのぼるが、その中でもよく気をつけてみていると、
どこからどこまでを同じ日に描いたものかというのがわかることがある。
始まりはどの日も大人しいが、そのうち気持ちが乗ってテンションが上がってくるらしいのが、
デザイン画に勢いとなって表れているのだ。
少しずつ線が生き生きとしてきて、白い紙の上を跳ね回り踊っているようにすら見えてくる。
アイディアがわいてくると絵にも少しずつ遊びが見え始める。
こいつ、楽しんでやっているなと思って眺めていると、やがてまた落ち着く。
ここで日付が変わったのだとわかる──そういう繰り返しの数十枚だ。
「こうやって直に描かれたものを見ると、全部違うデザインっていうのはわかるし……
 女の人がひとつひとつにこだわるのにも納得がいくな」
「そうでしょ? もう、絶対不用意にどれでも似合うよとか言っちゃダメ」
「はい。心しておく」
いつ、なにに、誰に対しての心づもりかと彼は苦笑すると、開いたページのままにクロッキーブックを机に置いた。
「……仕事にできそうなんじゃない、こんなに熱を入れてやれるんだから。
 学校の授業ともちゃんと並行してできてるし」
「その分睡眠が削れてるの。眠いけどまぁいいの、楽しいから今はね」
は言葉の通り、少し眠そうに目を細めた。
口元が楽しそうに笑っているので、顔中で笑みを作っているように見えた。
「だって今は、特別だもの。変わりない毎日のなかの長い刺激なの。
 これが仕事になったら、これが毎日続いて当たり前になっちゃう……」
は一度言葉を切った。
「そうなったときに、私が当たり前の繰り返しになってしまった仕事を愛せるかどうかはわからない……」
好きなことを仕事にできたとして、なぜか好きだけで成り立たないのが仕事というものだ。
そこにクライアントという第三者が挟まると、
は好き勝手にやって楽しめるだけのデザイナーではなくなってしまうし、
それをプロフェッショナルの仕事をする人とは呼べないと思った。
「……仕事にしたらダメになっちゃうかもしれない……それが恐い」
少し真面目な空気になってしまった。
はそれをうち払うように笑って、でも、仕事にできるかどうかもわかんないけどねと言った。
「……試す価値はあるさ」
彼はなにか悟ったような口調で言った。
クロッキーブックのページを繰って、一枚のデザイン画を探し当てるとのほうに向ける。
「素人目で恐縮だけど、オレはこれがいちばん印象強かったな」
言われては吹き出しそうになった。
顔が急にかっかと熱くなったのがわかる。
もう、楽しくて楽しくて、端から見たら怪しい人じゃないかというくらいのハイテンションで描いたもので、
中身も遊びすぎているし、せっかくの結婚記念にこんなおふざけのドレスをあしらったら
逆に申し訳ないというようなものだった。
「や、やめて、そんなの」
「どうして? 人の記憶に残るっていうのはいいことだよ。
 ……ま、オレは着る本人じゃないから?
 意見もそのまま採用しないほうがいいのかもしれないけど」
着る本人じゃないからというところの口調が妙に冷ややかだったが、訝しむ隙もなく次の一手が示された。
「だって、条件も満たしてるよ。動きやすそうでカジュアルに見えるけどちゃんと上品な感じもするし、
 上手く出来上がったら立体でもきれいだと思うな。この線」
きれいなベル型に膨らんだスカートの線を彼は指先でなぞって見せた。
「何より彼女に似合いそう。何が気に入らないの?」
問われて、は一瞬言葉に詰まる。
彼が遠慮なしに見つめてくる視線が痛い理由はたぶん、
このデザイン画に関してだけ……というわけではないのだが、
とりあえず当面の問題はこのなんとなく居づらい会話の矛先をどうにかできないかということだ。
「……だって。それ時間かかってないし。十分もしないで描き上がったんだよ。
 遊んでるみたいだったし。私、そんなおふざけみたいなの……自信持って出せない」
の言葉を受けて、彼は少し考え込むようにして、視線をまた手元のデザイン画に落とした。
「……でも、それは作る側の事情なんじゃないの?」
──はたっぷり数十秒近い時間、目を瞠ったまま思考をどこかへ吹き飛ばしてしまった。
彼の指摘は的確なのだろう。
あまりに正当すぎるのか、意味が即座に飲み込めない。
クライアントの、第三者の言い分として彼の言っていることはたぶん正しいのだが、としては迷ってしまう。
つまり、そんな簡単なのでいいの? もっと頑張ったのがあるんだよ。と。
他の“もっと頑張ったの”を見て欲しいというわけでもないが、
それにしてもわざわざそれ、というのがには素直に飲み込めないのだった。
確かにこれが仕事なら、クライアントが気に入ったならそれがすべて、だろう。
「だって……手抜きみたいで」
「だからさ。時間がかかってない イコール 手抜き ということでもないでしょう?
 突飛な話をすれば、偶然の産物でノーベル賞を取れる人だっているよ、世の中には」
「でもそれは別でしょ、賞取る人はそれなりの努力だってしてるし時間もかかってるよ」
「必ずしも賞を取るための努力だったわけじゃないし、認められるまでの時間はまた別だ」
堂々巡りの予感がして、お互いに口をつぐんだ。
絡んだ視線がばちばちと火花を散らしているような気がして、このときばかりははドキドキもしなかった。
一分ほどして、先に折れた……というよりも、場をまとめにかかったのは彼のほうだった。
「人が人に認められるために必要な努力って、その場だけの努力のことを言いはしないよ、きっと。
 は十分もかからないで人の記憶に残るものを作り上げた。
 その十分が結果に対しての努力のすべてじゃない。
 オレがけしかけてから、睡眠時間を削ってまで君は尽くしてくれたじゃないか?」
言い返そうとして、は言葉を失った。
彼の言うとおりだ。
「努力が募って実って、たまたま十分間でそれがぽんと出せる瞬間があったんだよ。それでいいじゃないか?」
実際これはいいよと彼はまたデザイン画に視線を戻して頷いた。
よっぽど気に入ったのか?
それを作り上げた自身はそんなのでいいのかといまだに自問を繰り返しているというのに。
よりにもよってウエディングドレスという特別な贈りものなのに、
“そんなの”呼ばわりできるものを選んでしまって本当にいいのだろうか。
しかしとりあえず彼が気に入ってしまったというのは事実だ。
は考え込むように唇をとがらせた。
彼はやれやれ、と言いたそうに少し笑う。
「何むくれてるの、
「南野くんって、ときどきムカつくっ」
「なにそれ」
「ものすごい正しいことふつーに言うから、嫌いっ!」
かの優等生はきょとんとして、横を向いてしまったを見つめた。
しばしののちにぷっと吹きだして、それはどうもと答える彼に、
はその日じゅうずっとむくれ続けてやるといういささか疲れる仕返しをし続けることになるのであった。


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