プレシャストーン 05

放課後に被服室でおちあうのは当たり前のことになってしまった。
は精一杯興奮を抑えながら、情熱の赴くままに描き散らしたデザイン画を広げて見せた。
さすがの優等生もこれには目を見張る。
いくら優秀な彼にもできない芸当だろう。
ただしかし悲しいかな、女の子がどんなに頑張ってもそれは男の人の気をひくところではないらしい。
なにを着ても似合うと本気で言えるらしいことを、目の前の彼も先日言っていたとおりだ。
大事なのは愛する人本人であって、それを飾り立てるドレスではないということ。
それにはそれで愛を感じるかもしれないが、
ちょっとくらいは努力を買ってくれてもいいじゃないとはなんだか思ってしまう。
「ああ、なるほど……確かに動きやすそうだ、普通のドレスに比べたら」
「うん、そうでしょ? 頑張ってみた」
えへへと笑ってみせるを見て、彼は不思議そうに首を傾げた。
「楽しそうだね、やっぱり。いつもより明るい」
「え、いつも私って暗い?」
「いや、そうじゃなくて。眩しいなってさ」
彼がデザイン画に視線を落とし、そのまま何気なく言った台詞は簡単にの心を絡め取った。
なにを努力もしなくても、すべてにおいて秀でていると見えるこの彼こそが、
にしてみればこのうえなく輝いた存在に思える。
その彼が、ただ少し指先の器用なだけの女の子に過ぎないに目を留める……眩しいなどと言う。
にわかには信じられることではなかった。
しばらく酔ったようにぼぅっとしていただったが、これではいけないと気を引き締める。
ぶるぶると首を振ると、彼は顔を上げて訝しげにを見つめた。
「……そういえば、繰り返しになるけど……おとついの電話、悪かったね」
「え、あ……」
「土曜に早速、借りた本を見せに行ってみたんだ。
 あの場にいたのは当の花嫁と、花嫁の友人とオレの友人。花嫁以外はぐるなんだ」
「……ふぅん」
は興味のないように装って何気なく相槌を打った。
種明かしは望んでいない。
あの場はあの場だけ、あの電話のありさまだけ、はそれで信じていたかった。
「変なからかいを受けて。あの女性陣には口で勝てなくてね」
妙なことになってごめんねと、彼は言った。
「……じゃ、南野くんの彼女じゃ、なかったんだね」
「あの場にいた女性ふたりにはちゃんと相手がいますんで。
 花嫁のほうは御存知の通り既婚者で、結婚生活は気が遠くなるくらい長保ちしてる。
 どっちにもオレが手を出したら殺される」
冗談にしてもとんでもないと言わんばかりに、彼はけわしい顔でを見返した。
「……でも、いないの? 彼女」
南野くんモテるじゃないと、答えを聞けば自分に打撃が来るかもしれないことを覚悟しながら、
それでもは恐る恐る聞いてみる。
彼はさらりと答えた。
「いないよ。おとついが仕立て上げられただけで」
自分の名を引き合いに出されて、はうっと言葉に詰まった。
彼はそれを勘違いして解釈したのか、がそれを喜んでいないらしいと思ったようだった。
申し訳なさそうに、一度デザイン画の束を机に置いた。
「悪いんだけど、あのふたりにかかったらたぶん噂は容赦なく広まるから……」
やり場ないように、彼は机の上でぎこちなく手を組んだ。
凛とした真剣さを帯びたその視線に射竦められ、は身動きひとつすら取れなくなってしまった。
「ことが終わるまで……見せかけだけオレの彼女でいてくれる?」
瞬間、世界からすべての音が消えたようには感じた。
息ができなくなる──時間すら流れていくのを躊躇っているようにゆっくり重たく感じられる。
「身勝手も失礼も承知だけど」
何も言わないに申し訳なさそうに、彼は覆い被せるようにして付け加えた。
世界中の音が遠ざかっても、彼の声はちゃんと聞こえてはいる。
けれど、なんと答えればいいのだろう?
普段の彼の様子から思えば、誰かと特に距離を縮めようと彼が言動するなんてことは考えられなかった。
憧れる女の子たちも憧れるだけで、彼が自分だけを見てくれたらと夢は見るけれど、本当はどこか諦めている。
だから見つめているだけでいいなんて自分を誤魔化す人も出てくる……のように。
夢見る中でだけ考える、彼にどう思いを伝えるか、彼の言葉にどう答えるか。
お伽話の主人公のように、そのときはすらすらときれいなセリフが思い浮かぶというのに、
現実の自分はそんなに器用に上手く受け答えることはできなくて、どこか惨めな気持ちになる。
まるで夢は夢で、現実のお前はこうだと、痛みを伴うほど示されたような気がして。
その夢が、中途半端に叶えられてしまった。
中身のない彼の告白は、人々に広まるだろう誤解を予見して、のちのち辻褄を合わせるためのものにすぎない。
もちろん、もそれを知ったうえで本気では受け取らないということが前提だった。
彼は知らないから言えたのだろう。
恋する相手から聞くセリフにしては少々毒が効きすぎる。
誰もが嘘でも聞くことのできない言葉、聞きたがるだろう言葉を、は本当は拒みたかった。
聞かなければよかったと思ったのだ。
せめて、今、こんな気持ちのときには。
彼は言い訳をするように説明を始めた。
それがまるで火に油を注ぐようにの気持ちをかたく締めつけていくことには気付かずに。
「……ムキになって否定してもかえって煽られてしまうと思うんだ……そういう人たちでね。
 オレや友人の動向をからかって遊んでいるふしがあって……でも、
 の都合が悪かったら、ちゃんと訂正してくるよ」
表情が固まったままのの顔を覗き込むようにして、彼は心配そうな顔をしている。
恐らくは自分でも良識のない、失礼なことを言っている自覚があるのだろう。
黙っているだけでは彼が居たたまれないのはにだってわかっている。
けれど答えることができなかった。
はもう、自分の気持ちを嫌になるほど思い知らされていた。
南野秀一という人が好きで、本当は見ているだけでは我慢ができそうにないくらい好きで……
彼とこうして人の目から隠れるようにして会い、話をしているあいだにも、
その気持ちはぐらぐらと揺らいで不安げにの内を逆なでしてゆくということ。
彼が保ちたい距離を、は壊してしまいたいと願い始めているということをだ。
ここでいいよと言ってしまうのか?
冗談の関係を装っておこうという彼の言葉に頷いてしまうのか。
の気持ちは、自分を押さえつけていた枷を破ってしまっていた。
眺めているだけで幸せだなんて、傷つかないきれいな片思いをするためだけのセリフだ。
「私……」
私は、と言いかけたところを彼が遮るように「それとも、」と呟いた。
「……それとも、には、好きな人くらい、いるのかな」
遠ざかっていた音が一気に弾けた。
がやっとそれらしい反応を見せたので、彼はこの話題がなんらかの核心に触れられたことを悟り、
それに安心し、あとを続けた。
「いるよね、それくらいは。なんだ……」
それならちゃんと誤解を解かなくちゃねと彼は言った。
少しわざとらしい口調で、今のこの場が奇妙に滞った空気であるのを緩和したいという思惑がよく見えた。
気を遣わせてしまっているのだと、は渦巻く感情の奥でいやに理性的に思った。
なにか言わなくてはならなかった。
好きな人くらいいるんだよね。そりゃそうだ、なんだ、つまらないことを言ったね。
さぁ、答えは。
「いるよ、それくらい……失礼ね」
「だよね。ごめん」
悪いことを言ったねと彼は笑って見せた。
も口元に笑みを浮かべてみせる。
感情と関係のない返事ができる、笑うこともできる、それを知ってはどきりとした。
名付けようのない暗い気持ちがぐるぐるとしている、
はそれを彼から隠すことができたのだから証明の必要もないことだ。
知られたくないことを、たぶん誰でもたくさん抱えて、隠して、日常を関わり合っている。
人間のその性質は厄介だ。
ときどき自分も騙せてしまう。
自分を騙して欺いて、思い込んだそれが真実だと信じ込むことができてしまう。
そしてやがて、嘘を忘れる──
その証拠のように、の頭の中にこれでいいんだとなにかが響いた。
身体の中に音声のシステムでも入っているのか、他の誰に聞かせる必要もない思考回路が、
観客に知らしめる必要を持っているかのようにはっきりと一文のかたちで浮かび上がった。
こ れ で い い の。
彼はにチャンスをひとつ与えてくれている。
夢を試すことだ。
初めて自分のやりたいことを、何にも構わずに好きなようにやっていい今なのだから、大事にしたかった。
そのためなら…自分の恋愛は二の次。
自分にとって大事なことに全身で挑戦するそのことは、身を焦がして恋をすることにとてもよく似ている。
今なら、夢に挑戦してみることだけを考えてみたい。
ワープロで一字ずつ打ち出したようにきっちりとそこまで考えて、の思考は落ち着いた。
頭の中に文字を打ち出した黒いインクは、
記憶と印象の積み重ねにかすむことはあってもなかなか消えることはない。
はだから、彼と打ち合わせをする間中、自分についた嘘を嘘だとわかった上で、忘れることができなかった。
恒例になってしまった秘密のミーティングを終えて、彼ととは珍しく一緒に被服室を出た。
並んで歩く校内には、人のざわめきは聞こえるくせにその姿がひとりたりとも見えはしない。
広い空間に響く声、夕方の落ちていく日が射し込む廊下、セピアがかったその中に彼が歩いている。
なんて絵になる人だろうと思う。
そう思った、それだけだったのに。
「……?」
彼が驚いて振り返った。
「……やっぱりオレ、悪いこと言ったね。ごめん」
先程笑って冗談で済んだはずの話題を、彼はまだ気にかけていたのか。
さっきだって彼は、冗談なりに謝ったのだ。
けれどそれでなおの気持ちの芯を傷つけてしまったことを、彼はなんとなくわかっていたのだろう。
が笑っているから彼はそれ以上申し訳ない顔をしていることができなかったし、
やっぱりの内心を完璧に見透かすことまではできていなかった。
自身にもわけがわからなかった。
唐突に涙があふれてきて、止まらなくなってしまった。
顔をくしゃくしゃにゆがめて泣きじゃくるような、そんな涙ではないのだ。
呆然として、ただ泣いているだけの。
彼はと向き合って立ちつくしたまま、どうすることもできないでいる。
結局。
いつもいつも、結局。
人を好きになることは幸せなことではないのか。
自分の気持ちをはっきりと知った今、告げてしまったってよかったのに。
けれどは言い出せなかった。
自分がそう言えば彼を困らせるだけだとわかっていたから。


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