プレシャストーン 04

携帯電話を前に悶々とする、土曜日、雨。
何か口実がないとメールひとつ打てやしない。
宿題は昨日の夜のうちに片づけてしまった。
自分にしては珍しい迅速さだとは思う。
家の手伝いなんてものも、やるべきことは済ませてしまった。
土砂降りの中を遊びに出かけるなんて面倒はしたくない。
さぁやれ、考えろと言わんばかりのこの環境。
なにもかも経費で落ちるからといって、
ロック・ミシンを買ってちょうだいとは言えないだろうなぁとはため息をついた。
毎日少しずつ増えていくウエディングドレスの資料には目を落とす。
ドレスといったけれど、結婚式をしていない夫婦にイベントの贈り物ということなら、
着物でもいいのかもしれない。
ただ、和裁となるとまた少し勝手が違ってくる。
が心得ているのは洋裁であって、しかも専門的に学んだわけではない我流のものだ。
ドレスを作るにも四苦八苦するのは、本当は目に見えている。
何をしようか。
彼からもっと聞き出せることはないかなとは思って、携帯電話を取り出したのだ。
けれどなにを聞いていいのかもわからない。
優等生の彼のこと、予習に復習に忙しいのかもしれない。
普段勉強している姿をほとんど見ないということは、休日をこそ勉強に費やしているのだろうし。
携帯電話を開いて、閉じて、開いて、アドレス帳を辿る。
メモリのナンバーはゼロ。
南野秀一。
本当に、自分に大事な人ができたら、その人の名前をゼロ番に入れるんだとは決めていた。
想う相手の名前をゼロ番に登録すると両思いになれる…なんて、根拠のわからないジンクスも聞いたけれど。
(……本当にそうだったらいいのにね)
現実はなかなか、うまく巡っていってくれない。
彼との距離を親しく縮めていくきっかけは今回のことで得られたも同然だし、
休日に連絡を取る手段も手に入れたのに、自身には何をする度胸もない。
彼自身はもちろん、必要以上にに関わってきたりはしない。
が変わらなければ、この関係も変わらないのだ。
はよし、と決心して、カーソルを電話番号に合わせ……発信ボタンを押した。
ぷつ、ぷつ、ぷつ、としばらく回線が途切れるような音がして、電子音が聞こえそうになった……瞬間、
は思わずぶちんと通話を切ってしまった。
飲み込んでいた息を唐突に吐いた。
耳の奥からどくどくと血の流れる音が聞こえてき、身体中が熱くなるのを感じた。
携帯電話をかろうじて支えている指先が、目に見えて震えている。
自分で笑いたくなるほどの狼狽に、は改めて驚いてまだ肩で呼吸を続けた。
電話一本すら入れることができないなんて。
告白、だとか、お付き合い、なんてまだまだ別次元の話だった。
そこまで考えて、はふっと気がついた。
南野秀一が誰とも特別親しくなろうとしないのは、学校の外に好きな人がいるから、かもしれない。
この可能性に今まで思い当たらなかったなんて。
繋がる前に切ったとはいえ、電話をかけるなんて度胸のいることがよくもできたものだ。
またしてもどくどくと波打ち始めた心臓が痛みすら訴え始めた。
(……欲張らないつもりだったのに)
最初から望みのない恋なら、見ているだけで終わらせてしまったほうがいい。
本心からそう思っていたはずだったのに、今の自分はそれ以上を望み始めている。
きっと彼が知り合いのために企てているそのことに協力するという、特別なこの関係のせいだ。
他の女の子たちよりたった一歩、それでも彼のそばにいる。
誰にもうち明けていない彼の頭の中を、少しだけ知っている。
それだけでは途方もなく大きく夢を膨らませてしまうことができた。
積極的な性格をしていたら、だってこれはチャンスだと割り切って奮起することができるのだろうに。
はぁ、とため息をついて緊張を追い出したところだった。
いきなり手元の携帯電話がけたたましく鳴りだして、は飛び上がって驚いた。
着信……南野秀一。
肌がざわっと逆撫でられたような感覚をは覚えた。
鳴り続ける電話をどうしてよいかわからずに凝視し、はっとしては電話を取り上げた。
「もっ、もしもし!!」
『うわ、なに?』
の勢いに、電話の相手は驚いたらしく第一声にそんな言葉を吐いた。
『電話くれなかった? コール一回にもなる前に切れたけど』
「あ、う……うん……」
『どうかした?』
「……ううん、わざわざ電話するようなことじゃないと思って、切っちゃった……」
ごめんねと言いかけたところを、彼はちょっと待ってと遮った。
『……電話中なんだって……ちょっと静かにしてくれないか』
少し遠いところで、彼の声がそう言っているのがかろうじて聞こえた。
よく耳を澄ますと、電話の向こうが少々騒がしい感じがする。
街の中、雑踏に紛れたような音……とはまた違うが、誰かが一緒にいるに違いない。
まだ推測の中にしかない、“南野くんの彼女”という存在が、の脳裏に鮮やかに浮き上がる。
想像の通り、華やかな女性の声が聞こえてくる。
やけに大人っぽい響きと口調なのがわかるが、なんと言っているのかまでは聞こえない。
『ごめん、うるさくて』
「ううん、私こそ……嫌なタイミングで電話しちゃったんじゃ……」
『嫌なタイミング? どうして』
「え……だって彼女……と一緒にいるんじゃないの? 南野くん」
躊躇いたかった言葉だが、は思いきって口にした。
少しわざとらしかったかもしれないが、
この声が電話を通して電子音になってしまえばきっと気付かれないはずとは自分を誤魔化した。
彼が返答までに一瞬はさんだ沈黙が、会話の空気をなんとなくちぐはぐしたものに変えてしまった。
『は? 彼女? ちょっと、なにか誤解してないか?』
「え……誤解って……」
『違うから! そんな人誰もいないから、本当に……』
彼が力一杯否定したその言葉に、は意図せず目を輝かせてしまった。
彼自身がそれを見ていないのが救いだ。
やっとおさまってきていたはずの鼓動がまた少しずつ速くノックを始める。
電話の向こうで彼はまた幾人もの声に迫られているようだった。
今度は声のあるじが彼に近づいているのか、話している内容まで聞き取れる。
『なぁに必死になって否定しちゃってんのさアンタは! よけい誤解を招くじゃないの』
『なんだ蔵馬、オメーあっちに彼女いるんか? 言えよなそういうことはよ〜』
ちゃんね、大丈夫よ、彼氏浮気しないように見張っといてあげる』
最後の一言は、携帯電話に直接語られたようだ…つまり、に向かって言っているのだ。
「は……あ……、はい」
呆気にとられて力無くそう答えたが、気持ちが高揚していくのを抑えきれない。
それこそ明らかな誤解に違いないけれど、自分が彼の恋人だと思われている。
そして、恋人と呼べるような相手がいないというようなことを、彼自身が言ったのだ。
甘酸っぱいような思いで胸がいっぱいになる。
明らかな思い違いでも、この瞬間だけ、誰かから見ては南野くんの恋人になれたのだ。
それだけで充分幸せで、満たされた思いだった。
(これだけでいい……ホントに、幸せ……)
女性の声たちとの言い合いで結局彼は言い負かされてしまったようで、
電話口に戻ってきて低い声でごめんと呟いた。
謝られる必要は全くなかった。
即座に否定されたら、その場でこの夢も断ち切られてしまう。
知らないうちに燃え尽きてくれる方が、今この場でばっさりと途切れるよりもよっぽど良かった。
恋をして傷ついてもいいと、は心からは思えなかった。
電話を切ったあと、はひとりで悲鳴を上げて悶えながらベッドにごろごろと転がった。
おやすみの日に声を聞けた。
学校と関係のないところで電話ができた。
彼女と思われてしまった。
彼がそれを嫌がったり、即座に否定するようなことをしなかった。
それだけでいいのだ。
彼はに、追いかけたい夢のチャンスをもう一度与えてくれた。
感謝している。
それだけでいい、それ以上もっとなんて望んだりしない。
ワクワクもドキドキもし通しで、はなにも足りないなどと思ってはいなかった。
ほっと息をついて、やっと落ち着いて……ふと思い当たった。
先程の声の中に、ひとりだけ男の子の声が混じっていた。
その声は彼のことを、クラマと呼んだのだった。
(くらまって……なに?)
素朴な疑問を抱えながらも、は新たにやる気を抱き直して土日の休日を有意義に過ごした。
新しいアイディアやデザインを見せたくてうずうずして彼が登校してくるのを待った月曜の朝、
南野秀一は見るからに気まずそうな困ったような顔をしてやってきた。
彼はまず誰が見ているのもはばからずにに向かうと直角に礼をして見せ、
すっごくごめんと妙な謝り方をしたのだった。


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