プレシャストーン 02

南野秀一がに向かって、なんのことはないといった様子で吐いたセリフの数々に、
はしかし熱に浮かされた思いだった。
足元がふわふわ、浮いている気がする。
こんなふうに夢を試す機会がもたらされるなんて。
駆けめぐる興奮を抑えるのに精一杯で、学校からの帰途電車に乗ること三十分の道のりをゆくのに
はなぜかたっぷり一時間もかけてしまった。
やる、と衝動的に答えたに、かの優等生は満足そうに笑って頷いた。
じゃあ、詳細はあとで知らせるよ。
よかった、オレとしても助かった。
彼はそれだけ言ってさっさと先に被服室を出ていってしまった。
彼がなんの目的で被服室を訪れたのかもわからなければ、
花嫁衣装一式をなぜ必要としているのかもわからなかった。
疑問点や不審点なら、挙げればきりがない。
なにしろ南野秀一その人も優等生の人気者の割に謎多き人物なのだ。
いつのテストでもほとんど非の打ち所のない様な点数をとるけれど、
別に必死になって勉強をしているふうでもない。
だからといって運動能力に劣るわけでもなく──むしろ人より優れているくらいだ。
誰にも平等で、言うことは正しく、誰でも納得のいく結果を導くことができる。
そのすべてを鼻にかけない。
優しくて、かっこいい、これは女子生徒たちがまず挙げる彼の印象。
けれどなんとなく、彼が優しい態度をとることに別の印象をは受けていた。
誰にでも優しくて、その実誰にも特別優しいわけではない、そのことは誰とも同等に距離を取ることに似ていた。
その彼と、詳しいことはまったくよくわからないのだが、は特別な接点を持ったようだ。
花嫁衣装一式──ということは、
ドレスにヴェールに、ティアラ、手袋、ジュエリー、ハイヒール、そんなものすべて。
すみずみまですべて手製とはいかないだろうが、デザインと装飾、ぜんぶ。
思うだけで胸がほっこりとあたたかくなる。
諦める前に試してみないか……彼のセリフはこの上なく前向きだった。
アイディアは泉のように沸いてくる。
一度は家に帰ったもののうずうずする何かは抑えきれなくて、
夕食のあいだ中気もそぞろな娘に母親はどうしたのよと何度も聞いてきたものだ。
結局衝動を抑えきれず、夜もかなり更けてから財布だけ握りしめて家を出ると、
深夜まで営業している書店に駆け込んで実用書コーナーを舐めるように眺めた。
縮小版のパターンを掲載している本は多かったが、
型紙の現物を添付していて、それをそのまま切り取って使えるような本はあまりない。
普通のソーイングノウハウならともかく、花嫁衣装一式。
かなり特別だろう。
さんざん探し回ったあとで結局好ましいパターンは見つからず、
ウエディングドレスのデザインカタログと、自分には用もないが結婚準備マガジンを一冊買って帰宅した。
荷物を一度部屋に放り出して、が次にしたことはクロゼットをあさることだった。
少し広めのその収納は、半分以上もの入れとして使われている。
奥から引っぱり出した箱の中に、以前夢中で読みあさった本が収められていた。
誰かと同じじゃつまらない。
自分だけ、自分だからこそという色とかたちが欲しかった。
だからといって、人と違う自分が笑われるのは嫌だったし、恐かった。
自分の本心がどこにあるのか、自身にもわからなかったし決めかねていたけれど、
そう、彼の言ったとおりだ。
諦めきれないからやっている。
やめられずに今もずっと、忘れることはできても捨てることまではできずに箱に入れてしまい込んだ。
ひとつひとつ、取り出しては眺める。
ぼろぼろになって、中のページがはずれかけている本もある。
中学生用の家庭科の教科書からは専門的な被服の知識など得るべくもないだろうけれど、
箱の中には律儀にそんなものまで取ってあった。
分厚いパリ・コレの写真集もある。
自分でチケットを買って見に行った、服飾専門学校の卒業記念ファッションショーのパンフレット。
好きな服や靴、バッグの写真をチラシやカタログから切り抜いて貼り付けたノート。
カラー・コーディネートの専門書籍。
少し古いファッション誌。
昔自分で作ったスカートのパターン。
箱のいちばん底に眠っていたのは、人形サイズのドレスだった。
なんの偶然か、白く柔らかな布のウエディングドレス。
夢中で続けてきたことを、自分を誤魔化してしまい込んで、そして……またよみがえらせてしまった。
宿題も課題も手に着かないのは目に見えていたので潔く忘れることにする。
明日困ってもそのときはそのとき。
今大事なのは、目の前にある夢のかけらたちだけ。
まだ事情も何も知らないし、デザインひとつ決まっていない。
ドレスを着るのが誰なのか、どんな人でどんなデザインを好むのか。
仕事として依頼されて、報酬も出すと言われて引き受けたものに、は素人ながら妥協はしたくなかった。
クライアントの希望をちゃんと叶えてこそ成り立つのが仕事なのだ。
それも、ウエディングドレスだというのだから特別。
花嫁さんの希望はできるだけ取り入れてあげなくちゃとは思う。
小さな興奮が積み重なっての頬を染めた。
なんて楽しいことなんだろう。
指先を動かしたくて腕がむず痒いのがわかる。
これをおさめないことにはぐっすり眠れもしないだろう。
今できそうなことは?
目に入ったのは、いとこのために作ったティアラの材料のあまりだった。
ビーズとワイヤの束。
光沢のある白い布の端切れ。
同じく鈍く光をはじき返すような、雪の色の糸。
針だけはいつでも使えるように、油が引いて錆び付くことのないようきちんと針山にさしてある。
きちんと巻かれて使いやすいよう整理されたとりどりの糸。
まち針は数十本ちゃんとそろっていて、ミシン針の予備も数本は用意されている。
諦めたはずの夢だったけれど、いつでも戻ってこられるように準備は整っていた。
(なぁんだ……やっぱ諦められてなかったんだ、私)
それに自分で気がつく前に、南野くんは言い当てた……にはそれが少し、悔しく思えた。
自分のことなら自分でいちばんわかっていたいのに。
(でも)
今は迷わない。
は充分手入れされた針を一本、針山から引き抜いた。

「眠そうだね」
優等生はの顔を見るなり苦笑してそう言った。
「ほとんど寝てないの」
も苦笑を返す。
「なにをしてたの? 早速準備にでも取りかかってくれた?」
「準備っていうか……いてもたってもいられなくて」
放課後、と彼とは被服室でまたおちあっていた。
約束していたわけではないのだが、なぜだか自然とそうなった。
は鞄からそっと、大切そうに白い何かを取り出した。
「……これは?」
「リングピローっていうの。指輪用の枕っていうか……クッション?」
彼はまたへぇ、と言うと、手近にあった金属製の指ぬきをそこに載せてみた。
「こうなるんだ?」
「そう」
嬉しそうに笑ってみせるに、彼はにっこり笑いかけた。
「乗り気になってくれてるみたいで嬉しいよ。それで」
彼は鞄から携帯電話を取り出した。
「仲間にね、に仕事を頼んだこと、了承をもらったよ。
 制作費については何も気にしなくていい。贅沢にやってくれて構わないから」
彼は携帯電話をしばらくいじったあとで、画面をに向けた。
オーナー情報、とある。
「は?」
「オレの携帯の番号とアドレス。直接いつでも連絡とれた方がいいでしょう」
「えぇ!?」
「……そんなに驚くこと?」
「え、いえ、えーとね……」
どさくさ紛れで彼の携帯電話の番号やアドレスまで教えてもらえるなんて、は思ってもみなかった。
「……いいの? 私……」
「だって、必要でしょう? でも言いふらして欲しくはないんだ。面倒だし」
彼の口調には心底面倒くさいという感情がふんだんに含まれていた。
の推測はきっと当たったのだ。
彼は意図的に、多くの人と均等に距離を取ろうとしている。
胸にずきん、と痛みを感じて、それでもは何事もなかったかのように彼の携帯電話のデータを
自分の携帯電話のデータに登録した。
南野秀一。
この名前が自分の携帯電話のアドレス帳に記されるなんて。
の密かに恋い慕ったことが実った結果こうなったわけではないということは否めないが、
それでもは嬉しかった。
自分から積極的に連絡することなどないだろうけれど、それでも彼とほんの少しは繋がりがある。
「ありがと。じゃあ、鳴らすね」
登録したばかりの番号に一度電話をかけ、切る。
「うん、登録しておくから」
彼は手早く登録作業を終えて携帯電話を鞄にしまい込んだ。
あまりに無造作なその仕草が少し寂しかった。
電話番号やアドレスを知って、それを登録した携帯電話を宝物のように大事に思うと、
鞄にぽいと放り出した彼とは決定的に何かが違うのだ。


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