逃避行クロスゲーマー 四日目/旭山動物園


張り切る気持ちが身体に影響したのかは知らないが、はその朝蔵馬より先に起きた。
結局蔵馬はさんざん思わせぶりなことを言い、をからかって焦らしたあげくに本当になにもしなかった。
旅館の売店で買ったトランプで「スピード」という文字通りスピードが勝負を握るカードゲームで対決をし、
勝ったほうが動物園でプレゼントを買ってもらえるという条件を付けた。
単純に考えて蔵馬がにスピード勝負で負けるなんてことがあるわけがなかったのだが、
富良野で贈られた銀ぎつねのぬいぐるみがにはずっと引っかかっていたらしい。
それでなくてもこの旅行にかかる費用はほとんど全額蔵馬の負担になっているのだ。
というわけで、の思惑通りにしてやりたくて蔵馬はわざと負けてみた。ら、案の定に怒られた。
本気でやれと言われたが本気でやったら負けるのは難しい。
の意識をそらすのに思わせぶりなセリフが効果的なのは良く心得ていたので…
ぐうの音も出ないほどをやりこめて困らせてやってからふざけ半分に布団に突っ込んで、
じゃれながら眠ってしまうことにした。
結局は蔵馬の思惑のほうが勝ってしまったのだが、はそんなことを知る由もない。
そうして朝、二人だけで雑魚寝とも言わないだろうが、乱れきった布団にまみれるようにして目を覚ましたのだ。
数日の疲れがたまっていない状態だったら枕投げくらい始まっただろうほど大健全な夜だったのだが、
寝具の様子だけを見れば部屋係の仲居さんはきっと邪推をするだろうなぁとはひとりで少し赤くなった。
蔵馬は隣にいて、まだ眠っているがその腕はやさしくを抱きしめたままだった。
蔵馬を起こさないように布団を抜け出し、ポットに湯が残っているのを確かめて緑茶をいれた。
暖かな緑茶がまだぬくぬくと目覚めきらない身体の中を通り抜ける感覚はとても鮮明で、
はやっと身体の内側から自分が覚醒していくのを感じ取った。
ふとまだ眠る蔵馬を見つめる。
こうして眠っているときだけは子どもみたい、なんて心から思えるあどけない顔をして。
起きていればは蔵馬に見下ろされてよしよしと頭を撫でられるばかりで、
口で勝負しても勝てる見込みはゼロに近いし、それに。
警戒心も強い蔵馬の眠る顔をまじまじ見つめるなんて、ほんの数人にしか許されないだろう。
ふいに、の頭にぴんとくるものがあった。
(…ひらめいた!)
はそっと気配を忍ばせて蔵馬に近寄り、眠る彼にそろそろと手を伸ばした…

十数分後、蔵馬が目覚めたときには部屋にいなかった。
なんだかもぞもぞやっているなぁと眠る裏でぼんやり思っていたのだが瞼が上がらなかった。
思う以上に自分も疲れていたらしいと起きあがって苦笑する。
朝に温泉にもう一度浸かると言って張り切っていたから、そうして部屋を出ているのだろう。
まだ少し暖かみの残る緑茶の湯呑みがテーブルに載っていた。
布団を這い出すのに四つん這いになったところで、蔵馬ははたと気がついた。
いつもなら俯いたときにはらりと頬のあたりをかすめる髪が…妙に固形ばった感触をしている。
嫌な予感がしてクロゼットの扉の内側についている鏡を見に立ち上がった。
「…やられた」
昨夜のからかいの報いだろうか。
長い髪がきっちり三つ編みにされていた。
「あーあー癖がついたらどうしてくれるんだまったく!」
急いでほどきにかかる、こんな悪戯をされているのに気付かないなんて。
の前では警戒心もどこへやら、鈍ってどうしようもないらしい。
しばらくして温泉から戻ってきたを迎えたのは、
仕返しという名目で贈られるキスの嵐と逃れようのない抱擁の腕だった。
新しく着替えた浴衣姿でのんびりぶらぶらと朝食を取る。
はその隙にも携えてきた動物園のガイドブックを眺めてにこにことしている。
「あら、お客さん、動物園にいらっしゃるの? 今から?」
通りがかった宿の従業員が、はたと気付いて二人にそう問うた。
まだ早朝なのだが、今から、という物言いが気に掛かった。
「すっごい並びますよ。長蛇の列ってまさにそれ」
急いだ方がと言われて、二人は慌てて立ち上がる。
冬の動物園の込み具合など想像もつかなかったのだが、入り口前にたどり着いて二人は唖然とした。
時刻は10時半前で、あと十分くらいで開園だろうか。
長蛇とまでは言わないが、人で賑わってがやがやと賑やかしい空気である。
前売りの入場券など手に入るものなら良かったのだが。
十時半に動物園の門は開かれ、入場券売場は混雑して更に数分は待たなければならなかった。
やっと門をくぐると、雪の白に覆われた道が長く奥へと続いている。
すぐ右手側にある「ととりの村」は冬期間閉鎖されているようで中を見ることは出来なかったが、
夏には大きな池で多くの種類の鳥たちが一緒に暮らす姿、自由に飛び回り遊んでいる様子を見ることが出来る。
ひとつの施設を見るとすぐに次の施設の入り口が側にあるといった配置のようで、
「ととりの村」の出口から少し行ったあたりに「ぺんぎん館」の入り口がある。
はしゃぐにぐいぐいと引っ張られるようにして、蔵馬もぺんぎん館に足を踏み入れた。
中に入るとまず暗々とした室内と壁に光の帯が揺らめいている。
照明でオーロラを模したものだ。
はきょろきょろと視線を巡らせながら落ち着かない様子で蔵馬の袖をちょんと掴んでいるだけなので、
足元にわずかな段差でもあれば凍ってもいない床で簡単に転ぶだろう。
ちゃんと前を見なさい、なんて普段なら言いもしないことをに何度か注意して先へ進んだ。
次に二人を迎えるのは360度の水中パノラマ、ペンギンたちが泳ぐ水の中を通るトンネルだった。
「わ! すごいすごい!!」
はわかりやすくはしゃいだ声でそう言ったきりぽかんと口を開けたままで、
つかまっていた蔵馬の袖すらもうっかり手放してしまうほどだった。
全面が水圧に耐えられる強化ガラスでできた透明のトンネルで、歩く足の下すらも眺めることが出来る。
歩く左右を、頭上を、足の下をペンギンたちがすいすいと泳いでいった。
ペンギンたちのプールは外からも眺められるように上部はオープンになっていて、
冬の真っ白な太陽光が水の向こうにゆらゆらと輝いている。
水の中を幾度も屈折しながら水中に散る光の粒は自然にきらびやかで、
その隙間をぬうようにペンギンたちが泳いで行く姿が何とも和やかで微笑ましい。
の足元にじっと潜ったままで身動きひとつしないペンギンなんてのもいたりする。
自然のままの姿を見ることが出来る動物園──という宣伝文句がふと思い出された。
確かに檻の中に暮らす動物たちというのは、人間の視点に都合の良い環境で生きているといえるのだろう。
それが、ここでは人間たちが動物の暮らす世界の中に入り込んでいくという見せ方をしている。
ペンギンが泳いでいる最中の腹を、水の下から見上げるなど初めての経験だった。
圧倒的にただ自然のその中にあって、はぽつりとすごいねと漏らした。
蔵馬も水の中を見上げながら黙って頷く。
そうして歩調もいつの間にかゆっくりとなるうちに、周りに人がどんどんと集まってくるのに気付く。
近頃は全国的にも有名になってきて入場者数も群を抜く動物園とは聞いているが、
それにしてもトンネルを通るのが困難なほどの混み具合は異様だった。
押しつ押されつのまま蔵馬はに大丈夫かと聞くが、少し不安そうに腕にしがみつかれる。
すぐ側にいるちいさな子どもが珍しいものでも見るようにぽかんと二人を見上げていた。
どうにも身動きがとれずにそのままでいると、水中を泳ぐペンギンたちが一斉に興奮したように
びゅんびゅんとすごいスピードで水を横切り始めた。
なにごとかと呆気にとられていると、後ろに立っていた客たちがわっと歓声を上げる。
つられて振り向こうと身じろいだ瞬間にその理由がわかる。
ダイバーがプールに入って、ペンギンたちに餌を与えているのだ。
ペンギンたちは喜んでダイバーに近寄っていき、オキアミという小さなえびのような餌を追いかけて
水中でくちばしをぱくぱくさせている。
が可愛い可愛いと騒いで、周りの子どもたちと一緒になってぱちぱちと拍手を送った。
の喜ぶ様子を横目で見つめつつ、蔵馬は苦笑しながらも少し複雑な思いで小さく息をついた。
通りきってしまうのが惜しいような、後ろ髪を引かれるような思いでそれでもトンネルを抜け、
そのあともいくつもの部屋を通り…それぞれペンギンたちの生態を紹介したり、
先程のトンネルが通っているプールをまた別の視点から眺めることが出来るようになっていたりしていた。
蔵馬に手を引かれて、すっかり満足した様子で出てきたは、壁に貼られた一枚の紙に目を留めた。
「散歩?」
「なんだって?」
「散歩って書いてある」
が指さした先に、確かにペンギンが園内を散歩する写真と解説文書かれていた。
「…へぇ。すごいな」
蔵馬も少し感心したように目を見張った。
もちろん飼育係が付き添ってなのだが、ペンギンたちが動物園内に散歩するのだそうだ。
キングペンギンには餌を探して集団行動をするという習性があり、
探索場所を園内に定めて散歩と呼んでいるらしい。
ただ残念なことに、今日その予定はないらしかった。
「いいなー。ペンギンと一緒にお散歩! 滅多に出来ないよ蔵馬」
「そうだね、面白いだろうね」
優しい声でそう返す蔵馬は、それでもあまり笑ってはいないのだった。
がペンギン館の次に見つけたのは、広い通路の向かい側に位置する「あざらし館」と「ほっきょくぐま館」だった。
とりあえずまっすぐにあざらし館を目指してはずんずんと歩いていった。
次に目指すものに向かってはが蔵馬を引っ張るようにしてぐいぐい歩いていくのだが、
一歩その中に入ってしまうとはすっかり目を奪われて歩くのも忘れるほどなので、
今度は蔵馬がを引っ張らなければならなかった。
あざらし館には入る前から行列ができており、
外からは見えない屋内からはひっきりなしに楽しそうな歓声が聞こえてくる。
列に並んだままは片時もうずうずするのをこらえられないようで、
じたばたしてみたり蔵馬の袖をぐいぐい引っ張ったりと妙なところで忙しそうだ。
しかし確かに、晴れているとはいえ雪景色の中でなにもせずただ立って待っているのは寒い。
鼻の頭が冷たくなって赤く染まってきた頃にやっと二人は屋内に入ることが出来た。
入ってすぐに人々が囲んでいるものを見て、蔵馬もも一瞬訝しんで眉をひそめてしまう。
先程のぺんぎん館の水中トンネルは普通にトンネルと呼んで想像しうるものだったのだが、
あざらし館のトンネルは立っている、とはとっさに思った。
つまり、天井から床下へとガラス製のトンネルが続いているのだ。
その中を通るのは人間ではなく…
また人々の歓声と悲鳴があがる。
水の満たされたトンネルの中を、アザラシがぷかぷかと通って浮いていくのだ。
その表情はいかにも人懐こく、ぼぅっとして見える視線が見つめる人々をちらちらと見返していて、
好奇心旺盛な様子がありありと見て取れる。
あざらし館は入って右手にアザラシたちが遊泳する大プールがあり、
それもやはり屋外から眺めることが出来るようになっている。
プールの水深は今たちがいる部屋の天井上部から床下までに及び、
部屋の中央のトンネルがその天井と床下とを繋いで通っている。
アザラシたちは泳いで遊びながらそのトンネルをくぐり抜け、ちろりと客たちに視線を投げては喜ばせ、
登っていったと思えばそのまままたストンとトンネルを降りてくることもあり、また逆もあり。
こんなふうにアザラシと近寄ることが出来るのに小さな子どもたちは喜んで縦のトンネルの周りに集まり、
も同様に小走りでトンネルに近寄っていく。
。転ぶよ」
蔵馬がそういう声も右から左といったところか。
ほとんど上の空のようで、こんなにの意識の外にはじかれてしまうなんて
恋人の立場としてはちょっと痛いかなと蔵馬はまたため息だ。
さっきにしても今にしても、と一緒にはしゃいで楽しめればいい。
施設の造りも動物たちの姿もそれは、見ていて発見があり楽しいものと言えはする。
それでも、蔵馬のいちばん根の部分は…元々は動物だったものだ。
は妖狐でいるより南野秀一でいる姿の蔵馬を圧倒的に多く見ているし、
妖狐以前の完全に動物だった頃の蔵馬を知るものなどいるわけがないと一蹴できるほどだ。
妖怪として意識まで昇格する頃にはすでに思考能力も当然のように人間のそれを凌いで余りあり、
そうして生きた時間も気が遠くなるほど長いものだ。
今更思い出すことすら危ういほどの過去に感慨を持つことなどないのかもしれなかったが、
同じ命として同じ場所に生まれたものが檻の中と外にいること、見ることと見られること…
そこに大きな違和感と息苦しさをなんとなく感じないでもなかった。
「蔵馬見て、すごいすごい」
は大きな目をいっぱいに見開いて、それこそ子どもに戻ったように無邪気に袖を引いてくる。
それを可愛らしい、愛おしいと思うものの、暢気なものだとどこかで思うことも否めない。
マイナスの感情を無理矢理押し殺すようにして、蔵馬は恋人に笑みをつくって見せた。
アザラシがトンネルの中を上下して泳ぐ姿にはまったく飽きが来なくて、
客もなかなか引かず入れ替わりも緩やかなものだ。
アザラシたちは人間の気持ちをくすぐるのを楽しんでいるかのように、
しばらく長いことトンネルをくぐらず天井と床下とを行ったり来たりして焦らすこともあった。
「もぉ! 意地悪! 蔵馬みたい」
思わずが言った言葉に蔵馬自身が吹き出してしまった。
「…オレそんなに性格悪いかな」
「もののたとえよ」
「そんなたとえられてもね…」
苦笑いを浮かべて、の言葉で少し刺々しい気分が緩んだのにほっとする。
袖口を掴んだままのの細い指を引き剥がして、ちゃんと手を繋いだ。
はなにか気付いたように蔵馬のほうを見上げたが、蔵馬は知らぬ振りで水中に視線を投げ続ける。
なにも言わなくてもすべて伝わるなんてことは、どんなに愛し合う恋人同士でも100パーセントの真実ではない。
指先を行き交う体温から感じるものはあっても、それが本当に相手の思うところかなんてわからない。
共有する時間が愛おしいのだけは本当だけれど…
自分ととは別々の生き物であることを、自分の肌の外にを感じて改めて知る。
ひとつのものでありたいなんて蔵馬は思いはしない。
別々のものでなければ、恋することすらできやしない。
「…オレね」
蔵馬が独り言のように呟いたのにはまた顔を上げた。
水のトンネルからの光を受けてゆらゆらと陰影の揺れる彼の横顔を眺める。
のこと好きだよ。」
それほど大きい声でもないけれど澄んで良く通る声がそう言った一瞬、ほんの一瞬だけ、
周囲の喧噪がぴたりと途切れた。
は途端に赤面してしまう。
「い、いきなりなに!?」
「…いや、なんでもないんだけど」
なんとなくと彼はまだに視線を戻さずぼぅっとしたままで言った。
「もぉ、ばかっ」
が恥ずかしそうに蔵馬の手を引っぱってずんずんと出口に向かう。
それを背中から多くの人々がちらちらと見ているのを感じて、
は薄暗い部屋から出るまでろくに顔を上げることもできなかった。
「ダメだね、旅行中…帰る家がそばにないからか。気持ちがナーバスになりすぎる」
特になんでもなかったかのように蔵馬は平然とそう呟いた。
「変な蔵馬! ああ恥ずかしかった…!!」
は火照る頬をおさえて恨みがましい視線を蔵馬に飛ばした。
「…言わなきゃわからないこともあるよなと思って」
「なんでいきなりそうなの? 思いつきなの?」
「…オレ動物園あんまり好きじゃなかったんだよね」
唐突にそう言われては言葉に詰まってしまった。
「別に悪く思う必要はないよ。オレが卑屈なだけなの、いい? 元が動物でしょう、だから」
今の自分がとか、過去の自分がとか、混じったのか別に存在するのかとか、
そんなことは蔵馬も自分でよくわかってはいない。
そのときはそれがいいという行き当たりばったりで、今は今がいい。
今の自分でいるときにもう一方の自分を欲することはあまりない。
「どうなのかなぁ…と。ここに住んで人間に世話してもらっている動物の幸せって何だろうかとか」
妙なことを考えてしまうんだと蔵馬は薄く笑った。
「オレはただの動物を超えた生き物になってしまったから、彼らと同じ位置に立つことは出来ないんだろう」
はまだなにも言うことが出来ない。
「オレが今のオレの思考能力を持ったまま身体だけ動物に戻って人間に愛玩されたとしたら…というね、
 あり得ない想像なんだよ。それは、きっと屈辱に近いものなんだけれど。
 動物は動物で打算で人間に近寄ることもある。檻の中にいて媚びてだけいるわけじゃない」
なにが言いたいのかわからなくなってきた…と蔵馬は言葉を結び、は続きを受けられなかった。
しばらく沈黙が起きて、は気まずそうな目をして、蔵馬にごめんねと小さく謝った。
「謝ることないよ。ここでは動物たちも人の都合だけで生きてるわけじゃなさそうだし」
ただこの世界は人間中心に作られ過ぎているんだろうと蔵馬は言った。
「…私、はしゃぎすぎて」
「いいよ、楽しくなさそうにされていたら逆に困る」
いつものように笑う蔵馬だが、その笑顔の裏にまで気づけていなかったのだと今更ながらには悔いた。
そのまま少し疲れたねと言って食堂に入り、軽く食事をとってぽつりぽつりと言葉を交わした。
思ったことを今言うべきではなかったと蔵馬も少なからず自分のしたことを後悔した。
「…じゃあ、蔵馬は今どこにいる生き物なの?」
「どういう意味?」
の唐突な質問に蔵馬は真剣な目で彼女を見つめる。
しかし、の視線はまっすぐに彼に戻ることはない。
「…人間か、妖怪か、動物か、なんなのか…」
「わからないんだ。自分でも歯がゆいこともあるよ」
が悩むところではないのにと胸が痛むのを感じたあとで、
は自分のことでここまで落ちてきてくれる数少ない人のひとりなのだと蔵馬は知った。
家族でも、友達でも、仲間でもない。
なにかの意図や巡り合わせや宿命だけでそばにいるわけではない…自分で選んだひと。
「ただ言えるのは…有り難いことに、こんなオレにも帰る場所はあるようだから」
「………」
は黙って顔を上げた。
悲痛そうな目にまた痛みを感じる。
から悲しみとか、寂しさとか、そんなものをぬぐい去ってやるのは自分の役だと蔵馬は思う。
「どこにもなににも見捨てられても、どこにも属さないものになってしまったとしても、
 は笑って迎えてくれるんでしょう」
だから大丈夫、と笑って見せて初めて、の唇に少しだけ笑みが戻った。
泣かせるのも困らせるのも自分だけれど、その分笑顔も与えてあげられている…はず。
思うとにわかに幸せな気持ちがこみ上げた。
そのあとはまた少しずつ元気を取り戻して、はしゃぐのは控えめになったけれど良く笑うようになった。
繋いだ手を離そうとしないまま、また園内を巡ってみる。
「あざらし館」の隣りに位置する「ほっきょくぐま館」に入った。
この施設も少し変わっている。
白熊たちが生活している岩は人工物で、その内部から屋内観察が出来るようになっている。
内部から言えば白熊がいるのは屋根の上ということになるのだが、
そこに透明のちいさなドームがはめ込まれている。
施設の中に入って順番待ちを十数分、蔵馬ととはそのドームの中にやっと立つことが出来た。
屋根から頭ひとつ分飛び出す程度のドームだが、屋根の上にいる白熊を低い位置から眺めることが出来るのだ。
それが、「ホッキョクグマに襲われるアザラシの視点」と呼ばれているそうだ。
後ろに並んで二人が出てくるのを待っている子どもに、
母親らしい女性が「夏に来たときは暑くて熊さん寝てたわねぇ」と話しかけているのが聞こえた。
今は冬で、白熊たちは元気に動き回っている。
ドームのすぐそばをのしのしと歩いて行かれて、つい踏みつぶされるような錯覚をしてびくりと肩を震わすだ。
「恐がり」
「仕方ないでしょ! 思ったより大きかったんだもん…!」
それも見上げる視点で見たというのが拍車をかけたのだろう。
ドームの下をくぐり抜けて出てきたは思い出してぷるぷると首を振った。
堀を利用してうまく造られた施設は檻のないもので、広々として動物たちも自由に見えた。
屋外から巨大プールを覗いてみると、一頭の白熊が今まさに大飛び込みを披露したところだった。
半端ではなく大きな水しぶきと音が轟き、見ている人々から歓声が上がる。
透明の厚いガラスがそのままプールの壁になっていて、白熊たちが泳ぐ姿がよく見える。
熊たちも人懐こいようで、ガラス壁にすり寄るようにそばまで寄ってきて行ったり来たりを繰り返した。
「可愛い」
はさっきよりずいぶん大人しい感想を述べた。
「…遠慮している?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど…」
は恥ずかしそうに目を伏せた。
「子どもっぽかったなぁと思っちゃって…」
もじもじとするが可愛らしくて、蔵馬は思わずその頬に唐突にキスをした。
周りにはほっきょくぐま館から出てきた客が大勢いる。
「ちょ、っと! もぉさっきから!!」
「ごめんね。つい」
ちっとも悪びれた様子もなく蔵馬はそう言って笑う。
そうだ、動物園にいる間に隙を盗んではにキスをしようか。
悪戯がふっと思いついたのだが、これ以上困らせてしまうのもどうかなと思いとどまってしまう。
意地悪のあとの思いっきり甘ったるい時間なら、二人きりでいるときにこそ味わいたいものだ。
それから道なりにあちこちを回ったが冬期間に閉鎖されている施設もいくつかはあった。
オープンしてまだ数か月ほどの通称「くもかぴ館」は冬期間は屋内のみの観察のようで、
はしきりに残念だと繰り返す。
「どっちが『くも』でどっちが『かぴ』か見たかったのに」
とよくわからないことを言うのだが、「くもざる」と「かぴばら」という正式名称の通りだ。
くもざるは猿、かぴばらは世界最大のネズミ。
温度などの関係で冬期間はどうしても見られない動物も多いようだ。
おらんうーたん館では、空中17メートルもの高さをオランウータンが綱渡りして歩ける施設があるのだが、
それも冬期間は見られないとかでは悔しがってひたすら施設を見上げ続けていた。
蔵馬が手を引っ張ってやっとそこから引き剥がせたような状態で、
本当に小さな子供の世話をするのとあまり変わらないなと思わされてしまうほどだ。
さる山は展望台のようになっていて、
猿たちの様子を眺めながら少し日の傾きかけてきた旭川の街にも時折目を向ける。
半ば白い雪に埋もれた街はとてもきれいで可愛らしく見えた。
ミニチュアの街でも眺めているかのようで、手を伸ばせば触れられそうな錯覚を起こす。
ゆっくりと雪原散歩のように手を繋いで園内をぐるりと巡り、
あざらし館・ほっきょくぐま館が並ぶあたりへ戻ってくる。
「動物園のおみやげ買ってもいい?」
にねだられて、もちろん反対する理由もないので売店へ向かう。
食堂にいたときから蔵馬は、なんだかはやけに売店のほうを気にしているなぁと思っていたのだ。
売店で、は迷うことなくあるひとつのものを選び出した。
「これ、お母さんにおみやげ」
「………これ?」
「うん」
「…喜ぶかな?」
「ぜったい!」
自分なら母親にこれは贈らないなと思うようなもので、蔵馬は首を傾げるばかり。
はもう揺るぎない自信を持ってそれをレジへと運んだ。
「楽しかった! …今度は夏に来たいなぁ」
また来よう、と暗ににそう言われて、蔵馬はやさしく頷いてみせる。
旅館に引き返して増えた荷物を抱えて旭川空港へと向かい、二人は空路を函館へと向かう。
旅は確実に終わりへと近づいている。

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四日目、旭山動物園。
ここはもう素晴らしいです、大人もわくわくです。
あざらし館で子どもに交じって拍手しまくっていたのは他でもない雪花です。
機会があったらぜひ一度見ていただきたいなぁとおすすめする場所のひとつ。
話の長短と設定季節の都合上書いていない施設もありますが…
雪花が遊びに行ったのはくもかぴ館の完成前だったし…夏だったし…
ここもやっぱり想像描写が多いです。
旅館も初めて架空でした(新札幌・札幌のホテルは実在の場所を参考にしています)。
函館ではまた架空の少ない描写を目指しています。
旅と一緒に連続更新も終わりに近づき…うーん…


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