逃避行クロスゲーマー 三日目/富良野


天蓋付きのベッドを思う存分堪能してお姫様気分を味わったは、
目覚めて少しわがままを言いたい気持ちになっていた。
蔵馬はもう先に起きていて、今日の行動を順序よく計画している。
大まかな予定ではJR札幌駅から特急に乗って富良野へ向かい、
富良野をまわった後でまた電車に乗って旭川に移動し、今日は旭川で宿を取る。
今度はホテルではなく民宿のような情緒溢れる宿だということだ。
こんなに長い期間、蔵馬と二人だけでいるのは初めてで、それを思うだけではドキドキとしてしまう。
周りに大勢の人がいても、その中に知った顔がなければ二人きりとなんの違いもない。
なんの前触れもなく家を出て、あとから今北海道にいるのと家に連絡を入れたら怒られてしまった。
悪いことをしている気分になる──けれどそれは、この上ないスリルだ。
危険からは蔵馬が守り抜いてくれる、それこそ騎士がお姫様を守るようにつきっきりで。
迫り来る焦燥から二人で逃げ続ける、まるで夢の中でも駆け抜けるような心地で。
終わりのないゲームを延々遊んでいるような錯覚にはとらわれているが、
いつかはこの逃避行にも幕がおり日常が戻るはずだ。
ほんの二日・三日前には当たり前にあったはずの日常とやらが、なんだか幻のように儚いものに思えた。
はベッドの上に起きあがって枕に優雅な気持ちで寄りかかると、蔵馬が振り向くまで黙って待ってみる。
仕事用に使っているらしいノートパソコンは、
旅行中は電車や飛行機の切符や宿泊先のインターネット予約に大活躍している。
蔵馬の肩越しに見える画面は、電車の路線図のように見えた。
「…ああ、お目覚めですか、姫君」
蔵馬はやっと気がつくと路線図をほっぽりだして、ベッドの方へ歩み寄ってくる。
端に腰掛けておはようのキスをした。
「蔵馬。私今すごーくわがままな気持ちなの」
「ふぅん?」
の意図を悟ったかのように、蔵馬は悪戯っぽい笑みを浮かべて首を傾げた。
「ベッドで朝のお茶を飲むの」
「はいはい。お気に召すまま」
蔵馬はそれでも愉快そうに、ティーサーバーのテーブルまでお茶を入れに立った。
ホテルの部屋に用意されているものなどせいぜいティーバックのお茶で、
沸騰した湯など用意のしようもなかったが、ベッドに運ばれてきた紅茶には満足そうな笑みを浮かべた。
お茶を飲みながら、蔵馬に今日からの詳しい計画を聞いた。
札幌・富良野間を直通するフラノスキーエクスプレスという特急が出ていて、
たまたまそれをつかまえることが出来たらしい。
朝九時頃に札幌駅を出発して、富良野に到着するのが十一時頃。
北海道を半横断するような行程なのだが、時間にして二時間ほどで済むようだ。
昼食は富良野でとり、街をまわって富良野駅からまた電車で旭川へ向かう。
旭川で一泊し、翌日は一日いっぱい動物園で遊んで、夜に旭川空港から函館空港へ飛行機で飛び…
また更に翌日は函館観光ということになっているらしい。
「時間に追われたくはないけど、函館のホテルまでは今日のうちに手配してしまったんだ。
 かなりのんびりのつもりのプランだけどね」
函館に着いたあとのことはまだ考えていないから、やっぱりそのあとも行き当たりばったりの旅行になるだろう。
蔵馬はなにも言わないが、たぶんこの逃避行の終着点が函館になるとは思った。
が駅弁を電車の中で食べてみたいと言い出したので食事はとらずにホテルをチェック・アウトし、
荷物を抱えてJR札幌駅へ向かった。
昨日札幌に到着したときとは逆側のコンコースから駅に入ると、
巨大な赤い足のかたちをしたモニュメントが目に入る。
数年前に札幌駅に大きな駅ビルが建てられたのを機に駅の内部までがきれいに舗装され、
あちこちに彫刻やモニュメントが設置されたらしかった。
改札付近にある早朝から開店しているパン屋はそれなりに人でにぎわっていて、
まだ続く札幌雪まつりへの観光客がひっきりなしに駅を往来している。
雪国ならではの忙しさだろう。
改札をくぐった中にファスト・フード店やラーメン店などが軒を連ね、
ホームへ続く階段とエスカレータが整然と並んでいる。
この付近では札幌駅はもちろん一番大きな駅で、
十本に及ぶホームには特急も快速も入れ替わり立ち替わり停車する。
それぞれ電車の中で食べる弁当を買って、ホームへ上がってから自販機で飲み物も調達する。
ホームには一応屋根があるのだが、電車の出入りがあるため外とも直接繋がっていて、
きりりと冷えた空気が足元をさらうように流れていく。
今日も天気はよくて、二人の旅行を歓迎してくれているように錯覚するほどだ。
出発時刻よりかなり早くにフラノスキーエクスプレスはホームに滑り込んできた。
夜更かしをしたわけではなかったが朝早くに起きて支度をしたせいで少し眠くて、
座席に着いてからが何度かあくびをかみ殺しているのを蔵馬が楽しそうに眺めている。
「旅行の疲れが出てきたのかな…」
「んー…そんなことないと思うけど…」
「皿屋敷市が恋しい?」
「……少し。でも、いいんだ」
二人でいるのがいいんだともう一度呟いて、はコテンと蔵馬の肩により掛かる。
膝の上に楽しみにしていた弁当が載っているのだが、しばらく手を着けることもなさそうに見えた。
そのままがうとうとしている横で、蔵馬は新札幌の本屋で買っておいた文庫本を開く。
特別興味があったわけではないが、せっかくだからと見つけだしたのは「アイヌ神謡集」だった。
「梟の神の自ら歌った謡」の冒頭、銀の滴降る降るまわりに…というフレーズはあまりに有名だ。
蔵馬もそれほど詳しいわけではないが、アイヌ民族は文字を持っていなかったため
すべては叙事詩というかたちで口伝されてのちの時代に受け継がれた。
その発音を、異文化である日本語の文字で正確に記すことは出来ず、
「アイヌ神謡集」にもアルファベットを使った発音が日本語訳と一緒に掲載されている。
動き出した電車の振動に心地よく身体をまかせて、読む前にぱらぱらとページをめくってみると、
ひらりとなにか紙片が床に落ちた。
靴から落ちた雪が溶けて床は少し濡れている。
拾い上げて水滴を落とす──栞が挟まれていたのだった。
アイヌ語が書かれた栞。
蔵馬はそこに目を落とす。
動物でも植物でももっと違う物質でもすべてに神が宿るというアイヌの思想らしく、
熊まつり…なんて単語もある。
「イヤイライケレ…ありがとう、」
眠るを思いながら呟いた。
書かれた文字を辿っていって、なんとなく参ったなと思わされる言葉に突き当たる。
「シカルン…恋わずらい、…」
肩にもたれて眠る恋人への思いが、急速に蔵馬の内側につのるのだった。
は三十分ほど眠って目覚めて、寝ぼけ眼でここどこ、と聞いてきた。
すでに札幌からは幾駅分も離れて、市をひとつまたいだあとだった。
「足が冷たい…」
は甘えるようにまた蔵馬の肩にすり寄った。
「お弁当が悪くなるよ」
「んー?」
「ナマモノ入っているから。暖房で傷むかもよ」
「…忘れてた」
自分から言い出して楽しみにしていることだったのに忘れていた、とは。
はのろのろと弁当の包みをほどきにかかる。
少し遅めの朝食を電車でのんびりととって、はまたうとうととしだした。
富良野につくまで、蔵馬はの枕と肩を貸し、本の文字を追い続けることとなった。
そうして二人で一緒にいながらろくな会話もしなかった一時間のあいだに、
蔵馬はとりとめもないようにこの逃避行旅行のことを考えた。
なんの説明もせずにを巻き込んでしまった。
後悔はしていないし、も理解をしてくれているからそれでいいのかもしれないけれど。
自分はなにをしたかったのか…思っても大した理由など浮かびはしない。
ただなんとなく、複写し続けるように単調な毎日を送りながら、
自分が自分の容量よりもはるかに狭い殻の中に閉じこもって、
ここから出たいと藻掻いて足掻いているように感じてしまって。
このオレが、ずいぶんと無様じゃないか…?
そこまで考えたら、身体は勝手にやりたいように動き出した。
仕事など途中だろうが構わず放り投げてしまった。
社長である義父に迷惑がかかり、会社に小さかろうが損失が出て、
母がそれなりに責任を感じて後ろめたい思いを抱いてしまうかもしれなかった、が、
そんなところまで頭が回らなかった。
なんの枷もない今の時間が愛おしくて仕方がないが、終わりが近づいていることを蔵馬は悟っていた。
「…皿屋敷市に帰ったら」
眠っていたと思ったがぽつりと呟いた。
まだ蔵馬の肩にもたれて、半分くらい目を瞑ったまま…ぼぅっとした目線を彼に向けることもなく。
「むげんばなだっけ…記憶とか、消しちゃうの?」
「…誰の記憶を?」
「かいしゃのひととか」
「…ああ、」
そういうことかと蔵馬はやっと思い当たる。
不祥事の種を記憶を消去することでなかったことにしてしまうのか、はそう聞いているらしい。
「まさか、やらないよ…そんなこと。
 これはオレがただわがままだけで引き起こした騒ぎなんだから」
はゆっくりと蔵馬の方を見上げた。
寝ぼけまなこで潤んだ目がなんだか可愛らしい。
「潔く怒られてきますよ。」
怒られてくるなどと言いながら、蔵馬はこの上なく嬉しそうに微笑んだ。
これが、人間・南野秀一としての初めての反抗みたいなものなのだろう。
「かっこいい」
よけいな褒め言葉ひとつ入らず、はにっこり笑ってそれだけ言った。
「格好悪いって言うんじゃないの? 普通、こういうとき」
「言い訳しないの、きっぱりしてて好き」
怒られといで、とは手を伸ばすと蔵馬の頭をよしよしと撫でた。
周りに迷惑をかけるということを、そもそも魔界に暮らしていた頃は考えたりはしなかったかもしれない。
他人が自分にかける負担には敏感だったが、大抵のことは自分で出来たつもりでもあった。
それを心の奥底に鉛が沈むように重く感じるようになるとはと静かな驚きを持っていた蔵馬だが、
そんなものもは簡単にとかしてしまうことが出来るらしい。
車窓の外に広がる景色はただ雪野原、遠くに見える山と重い色をした空。
規則的ながたんごとんという電車の音が耳に届く、その他に景色のたてる音はなにひとつない。
生き物の気配すら絶たれたように思える場所に二人だけで座って黙って流れていく雪原を眺めている。
静寂の存在感は圧倒的だ。
言葉は何もいらないような気がした。
電車の座席に腰掛け、指を絡めてお互いのぬくもりを知り、それだけでもう充分に思えた。
富良野駅はドラマやラベンダーで紫に染まった丘のイメージとは少し違い、
駅からのビル道路に沿って商店が建ち並び人通りや交通量も割とあると見える賑やかしいところだった。
札幌駅にあったものと同じ自動改札を通って駅の構内に降りる。
外はいつの間にか雪が降り始めていた。
山のまわりは天気が変わりやすいからと駅員が言う。
蔵馬にしては行き当たりばったり気味な旅行計画で、天気までは考えてなかったなぁという呟きが漏れた。
に悪いなとちらりと視線を巡らせると、はわくわくとした顔で構内に貼られたポスターを見ている。
「なにか見つけた?」
「うん、これこれ!」
が示したのは、おもちゃのような可愛らしい外観の電車のポスターだった。
電車と言うより、見た目だけから言えば蒸気機関車のような。
「…ノロッコ号」
「これ乗りたい!」
「…時速30キロ?」
ものすごいスピードで富良野・旭川間を走るのだが、この「ものすごい」はもちろん速いという意味ではない。
「だるまストーブが入ってるんだって!」
「…、だるまストーブってどんなのか知ってる?」
「えーと…よく知らない…」
今のにねこ耳でもついていたらぺたんと下を向いただろう。
「でも…へぇ、ディーゼルラッセル車がトロッコ車両を牽いてるんだ」
「なに? それ」
「除雪機関車」
「線路の雪かきしながら観光も出来ちゃうの?」
は目を輝かせたが、別に自身が除雪をするわけではない。
「えーとダイヤは…旭川・富良野間を往復か、富良野発は15時11分…」
「ぐるっと見て回って帰ってきたらちょうどいいよきっと!」
「はいはい」
わくわくを抑えきれないといった様子のに苦笑しながら、蔵馬は雪原ノロッコ号の切符を先に買い求めた。
とりあえず構内の椅子に座ってはガイドのページを繰っている。
富良野駅の周辺には、ドラマに関連した店や喫茶店が歩いて数分で辿り着ける距離に点在している。
今度は自分が案内するとは張り切ってガイドを片手に蔵馬の手を引いて駅の外に出た。
意気揚々とした空気を遮るように、少し強めの雪が降っている。
「うわ、寒いな…」
思わずぶるりと身震いをする。
手に持っているガイドにも見る間に雪が降り積もってしまい、
とてもガイドと街とを見比べながらのんびり歩くどころの話ではなかった。
渋々駅の入り口の屋根の下にとどまり、掲載されている地図は結局蔵馬が覚えて、
ガイドブックは荷物の中にしまわれてしまった。
「ほんとにこんな雪でも傘ささないんだね…」
行き交う人たちは確かに目深にフードをかぶって俯きがちに肩をすくめるようにして歩いているだけで、
傘をさしている人は見あたらないようだった。
自分たちも真似てフードをかぶり、意を決して降りしきる雪景色に飛び込んだ。
「すごいね…壮大って感じ」
が感心したように一瞬顔を上げて雪の降り来る空を仰いだ。
すぐにガードがなくなった喉元からコートの隙間に雪が入り込んでは冷たい! とじたばたする。
「方言で冷たいって、しゃっこいって言うんだって」
「しゃっこい?」
「そう」
「『雪が冷たい』は『雪がしゃっこい』って言うの?」
「たぶん」
へぇ、とは感心したように微笑んだ。
雪が目に入りそうでどうしても俯きがちになり、フードのために声まで少しくぐもって聞こえる。
そうして足元だけ見ているうちにいつの間にか隣を歩く人がいなくなっても気付かなさそうな気がして、
はしっかりと蔵馬のコートの袖を握りしめて歩いた。
「…転ぶときはまた共倒れだね」
「今度は冬靴だから大丈夫!」
雪の中でけたけたと笑ってじゃれ合いながら、身を切るような寒さと降りしきる雪に、
はやっと北海道という場所の自然を感じた気がした。
ガイドには目指すレストランまで富良野駅から徒歩三分となっていたがたぶんそれは夏の話で、
雪の中をただでさえ慣れない足で歩いていくとたっぷり十分はかかったと思われる。
人気メニューらしいカレーには手作りのソーセージが添えられていて、
ほかほかと目に見える湯気とスパイスの香りが食欲をそそった。
旅行中はせっかくだからといって食事は凝ったものになりがちだろうが、
久しぶりに普段から当たり前に口にするものをメニューに見つけるとなんとなくほっとする。
「やっぱり、どの場所もいるなら暮らすのがいちばん?」
の問いの意味がよくつかめず、蔵馬はスプーンを口に運ぶ途中で首を傾げてみせる。
「旅行のつもりで長ーい時間その場所にいたら食べ物飽きたり」
「飽きたの?」
「飽きるほど制覇してない! 函館行ったらいかを食べるの」
食事をしている真っ最中に出るセリフとしてはかなり頼もしい。
「そうじゃないの、旅行って特別なものが続くでしょ、食べ物でも見るものでも」
「まぁ、そうだね」
「たぶん日常が恋しくなったの…」
は少しふざけてしおらしい声でそう言った。
それに笑いながら、背筋をなんだかもの悲しい感情が走り抜けるのに、蔵馬は知らぬ振りが出来なかった。
「もっと時間があったら右側と上にも行きたかったなぁ…」
「…右と上?」
「地図の右と上」
道東と道北を指しているらしい、確かに地図上で言えば右と上。
「クリスマスに来るときは根室に行ってかにを食べるの」
「豪勢だね」
蔵馬は愉快そうに、まだ来ない次の旅行の日程に思いを馳せる。
小樽と根室…今回の函館と旭川も結構頑張って組んだルートを辿っているのだが、
今度は北海道を半分と言わず全横断する状態になる。
「それで? 『上』は?」
「えーと…のさっぷ岬? 最北の岬、夕日がきれいなんだって」
「…納沙布岬は根室だね…稚内はノシャップ岬だそうだよ、似てるから間違いやすそうだけどね」
蔵馬がくすくすと笑うと、はちょっと拗ねてぷいと横を向いてしまった。
カレーをすっかり平らげて体が温まったところで、外を見ると先程の雪に輪をかけた大吹雪になっていた。
会計を済ませて二人はまた覚悟を決めると雪の中に踏み出した。
せっかくラベンダーで有名な街に時期を外して来てしまったのがちょっと悔やまれて、
初めて土産物らしいものをがほしがった。
ちょうど寒さに耐えかねてきたところだったので、駅に戻る途中で見つけた土産物屋に入ってみることになる。
入り口を入ってすぐ目の前の棚に、木彫りの熊がでんと鎮座ましましていた。
土産物にもいろいろあるが、北海道限定という文字には惹きつけられるらしい。
夕張メロンや北海道チーズの味と称した菓子などがずらと並んでいるのだが、
それが現地の富良野限定のものかというと甚だ疑問が残る。
きょろきょろとは視線を巡らせていたが、一点を見るなりぱぁっとわかりやすく表情をほころばせて
小走りで蔵馬から離れていった。
キャラクタのぬいぐるみらしいものがの見つけたそれらしい。
嬉しそうに取り上げては戻し、取り上げては戻し、買う気はあるんだろうかと蔵馬は思いながら近づいてみる。
「ね、見て見て、ラベンダーキティちゃん」
目の前に突き出されたねこのキャラクタのぬいぐるみを凝視する。
白い肌がなんとなーく淡紫がかって見え、ふだんついているリボンが紫色の花に変わっている。
しかしその花も別にラベンダーというわけではない。
「こっちも見て。ラベンダーきつねキティちゃん」
「…狐?」
もうひとつぬいぐるみを突き出された。
キャラクタが着脱可能の狐の着ぐるみを着ているようなデザインだが…
ラベンダーときつねというふたつが並べられた結果がこれらしい、狐の着ぐるみは紫色だった。
「…青ざめてるよ狐…紫色に変色してるよ…」
まるで窒息したような色と内心で思っているとはまたなにやらごそごそとやって。
「じゃあこっち」
紫色のふたつが下げられて、代わりに差し出されたのは銀ぎつねの着ぐるみを着たものだった。
「ね、これなら可愛いでしょ?」
銀ぎつねの耳にもご丁寧に、銀色のリボンがくっついている。
「…買うの?」
「買うの! 自分用にね。自分のお金で買うからね」
は御機嫌で、どのぬいぐるみが一番可愛い顔をしているか吟味しだした。
刺繍の具合のちょっとした差に過ぎないのだが、本人には大事な問題のようだ。
これ、と選び出したひとつを蔵馬はすぐさま横から取り上げた。
「あ、ちょっと蔵馬…!」
「…この似非狐とオレとどっちが大事?」
「そ、そんなこと聞いてどうするのよ」
「興味本位。でもこのぬいぐるみのほうが好きって言ったら遠慮なく拗ねるから」
「ちょっとぉ!」
「どう? どっちが大事? どっちが好き?」
「聞かなくてもわかりきってるくせに!」
「いーやわからない」
「………!!」
子どもみたいなこと言って! なんて、照れて怒った顔に書いてあるようだ。
「いいもん! 買うのやめるから!!」
「え?」
予想外の展開に蔵馬は呆気にとられてしまった。
「別にぬいぐるみ欲しい年じゃないもん! 蔵馬のばか!」
「そんな、やけになって買うのやめることないでしょ」
ほら、と銀ぎつねがの手に返ってきたが、は見向きもしないで棚に無造作に戻してしまった。
「蔵馬がきつねさんだからきつねの着ぐるみキティちゃん可愛いって思うんじゃん!
 なんでわかんないの頭いいくせに頭悪い!!」
よくわからないセリフを吐いては蔵馬の横をずんずんと通り越して別の棚へ行ってしまった。
半ば呆然として、半ば途方に暮れて、蔵馬は棚に戻されてしまった銀ぎつねをチラと見やった。
そのままそれぞれ適当に買い物をしたがの機嫌は直らなかったようで、
駅についても一言も口をきいてもらえずに蔵馬は少しずつ焦り始めていた。
せっかくの旅行で喧嘩なんて。
しかも、自分のくだらないからかいのせいでと思うと自己嫌悪の渦に巻き込まれそうになる。
待ちに待ったディーゼルラッセルのノロッコ号が線路の奥に姿を現したときも、
はちらりとも嬉しそうな顔を見せてくれなかった。
時速30キロの列車は雪を掻きながら、しかしなかなかホームにたどり着かない。
ぼんやりと、しかし睨み付けるようにノロッコ号の鼻先を見つめ続けるの頬に、
ふいになんだかふわふわしたものが押し当てられた。
驚いてぱっと振り返ると、さっき店に置いてきたはずの銀ぎつねのぬいぐるみが目の前に差し出されている。
蔵馬の右手が持つその銀ぎつねが、の頬に不意打ちでキスをしたらしい。
ちゃん、仲直りしましょう」
蔵馬が少し照れたようにそう言った。
「…蔵馬これ買ったの?」
「だってばかばかしいじゃない、あんなことで」
まだ少し吹き付ける雪の中、の目が少し潤んだように見えた。
「…仲直り」
蔵馬がぬいぐるみの手を指でつまんで握手を求めるようにのほうに差し出すので、
はなんだかおかしくなってしまった。
「…はい、仲直り…」
右の指でぬいぐるみの手をつまみ返して握手のつもり、やっとが笑ってくれて蔵馬は心底ほっとした。
「さっきはごめんね」
面と向かって言うのは蔵馬でも恥ずかしいのかどうなのか、
ぬいぐるみに代弁させるなど普段ならきっとやらないだろうことまでやってみせてくれる。
やっぱり旅行で訪れる場所には不思議な力があるとはぼんやり考えた。
「ちょっとヤキモチをやいただけだよ。きつねはちゃんが大好きだから」
子どもに言い聞かせるような静かな、あたたかい口調で蔵馬は続ける。
「だからたぶん、それだけでいいんだと思う」
はい、との手にぬいぐるみが渡される。
「…ありがと…」
はまだ少しびっくりという顔でじぃっと手元のぬいぐるみを見つめている。
「大事にする」
嬉しそうな顔で、は蔵馬のほうを見てそう言った。
ぬいぐるみが銀ぎつねなだけに、はなにを大事にするという意図でそう言ったのか…
勘違いのままでも幸福だからいいなんて考えて、急にどくどくと音を刻み始めた胸元をそっと撫でつける。
自分がを好きだからそれだけでいい、本当はきっとそれだけでいい。
は充分すぎるくらい蔵馬になにもかも与えてくれる。
やっとホームに入ってきたノロッコ号に歓声を上げるを見つめながら、
に対する自分の感情を改めて思い知る蔵馬だった。
列車に乗り込み、初めて間近に見るだるまストーブにはまた歓声を上げた。
富良野から学田、鹿討、中富良野。
夏の間に臨時に開かれるというラベンダー畑駅を過ぎ、鉄橋を渡って西中、上富良野、美馬牛。
景色が少しずつ平たく広くなっていき、丘のまち美瑛にさしかかる。
「…美瑛で美味しいのはおいも?」
「そうだね、北海道は野菜もいろいろ美味しいと言うけど」
「………」
「はいはい。言いたいことはわかる」
食べ物ばっかりだなと笑う蔵馬を上目遣いでちらりと見上げる。
さっきの喧嘩もどこへやらで、はまた蔵馬の肩にもたれかかり、手を繋いだ。
ストーブに暖められた手はすでにぬくもりに満ちている。
ゆっくりとしたスピードでがたごとと緩やかに富良野線の駅を巡る雪原ノロッコ号は
周りの景色もよく見える大きな窓で、広い丘と間に立つ木を充分な視野で眺めることが出来た。
列車は時間をかけて北美瑛、千代ヶ岡、西聖和を通過して西神楽駅に停車した。
停まる駅と通過する駅とがあるが、ちいさな無人駅も多いようだった。
「ねー蔵馬、今度は夏にも来ようよ」
「…クリスマスの他に?」
「二回や三回の旅行で回りきるのはぜったい無理! 何度でも来よう?」
「…そうだね。いいよ」何度でも。
そう言って笑い合う二人を、側の席に座っていた中年の女性客たちが面白そうに観察している。
が雪原にきつねを見つけたと窓にかじりついた隙に、
彼女らは小声で「旅行なのね、なぁんだ」とひそひそ囁きあっていた。
蔵馬は苦い笑みを浮かべる…彼女らのひそひそとした会話ももちろん聞こえていた。
  ──あのふたり、駆け落ちかしら
  ──旅行にしては妙に荷物も少ないわねぇ
内心でよけいなお世話と悪態をついた。
西神楽駅を出ると西瑞穂、西御料、緑ヶ丘、神楽岡の四駅を通過して終点の旭川に到着する。
到着予定時刻は16時26分、約一時間と十分ほどを費やして雪原を眺める旅が終わる。
少しずつ建物が増え、人の気配が増え、景色に街並みが多く混じる。
「…ところでさっきのは狐だったの?」
「わかんなかったの…」
がちょっとしょぼくれたような顔をする。
「やっぱ呼ばなきゃダメ? るーるーるーって」
「…オレならそれで寄りつきはしないね」
「そっか」
は更にがくんと肩を落とす。
「まぁまぁ、御機嫌直して。もう旭川に着くよ」
荷物をまとめながら、に聞こえないような声で呟いた。
名前を呼んでくれたら、すぐにでも飛んでいくのだけれど、ね。
駅を降りてすぐにタクシーをつかまえる。
宿泊先の旅館の名前と簡単な住所を告げると、すぐに車は動き出した。
雪はやんでいたがもうすでに薄暗闇に包まれた夕刻。
悪天候や厚い雲に覆われた空がずっと続いていたためか、
北海道に来てから夕焼け空というものを見ていない気がする蔵馬だ。
十分ほど旭川の街をタクシーで走ってたどり着いた旅館は、
少し古びた建物が逆に味に見えるような、きれいに枯れた雰囲気の宿だった。
「温泉があるって。明日はははしゃぐだろうし、今日はゆっくり休もうね」
蔵馬はそう言っての頭をぽんぽんと撫でた。
「そうだ、明日、動物園」
「ガイドで予習しておくことだね」
通された部屋は二人で寝泊まりするにはちょっと広いくらいの和室だった。
「たたみー! なんかすごい、嬉しい!」
先に入って奥に荷物を置いている蔵馬を余所に、は部屋の入り口付近でくるくる回りながら
木の部屋の匂いを楽しんでいるようだ。
「なんでだろうね、特に親しんだ時期があるわけでもないのに畳が好きなのって」
座布団を引き寄せて座ると、蔵馬がにそう聞いた。
「日本人だから!」
単純明快だ。
はまだ座らずに、コートも半脱ぎの状態のままで部屋のあちこちを開けたり閉めたり、覗き込んだりしている。
クロゼットを開けて、は嬉しそうに顔をほころばせた。
「浴衣! これ着たいー!」
旅館の備え付けの浴衣をはごそごそとあさり始めた。
着替えたそうにうずうずと蔵馬のほうを見る。
「どうぞ。オレは構わないよ」
「うん」
「………」
「………」
「あっち向いてよ」
「なにを今更」
ダメったらダメ、と男性用の浴衣と帯を投げつけられて、蔵馬は笑いながら一応背を向けてやった。
それを確認して、クロゼットの扉に隠れるようにしては浴衣を身に纏う。
面倒な着付けではなく、身体に巻き付けて帯で留めるだけで簡単だ。
羽織を着なければさすがに寒くて、は蔵馬の分もとひとまわりサイズの大きい羽織を抱きかかえて
彼のほうを振り返り、一瞬どきりとして目を奪われてしまった。
蔵馬が和服を着ているところなんて見たことがないというそれだけではなく、
共衿を胸元でゆるく重ね合わせたその奥に見える肌、
かたち良く浮き出て見える鎖骨のラインやらに思わず見惚れて赤くなる。
「…あ、楽になったかな…でもやっぱりこれだけだと少し寒いな」
少し低い位置で帯を結ぶと、蔵馬はの内心などなにも知らずにつかつかと歩み寄ってくる。
羽織を手渡すと、はひとりで恥ずかしくなってしまってそれとなく蔵馬から視線を外す。
「…和室に浴衣って、なんかエッチ」
ぼそりと呟いたの耳元に蔵馬は悪戯っぽく唇を寄せると、ここぞとばかりに妖しい声で囁いた。
「………なにか言った?」
「い、言わないもん! ばか! 聞こえてたくせに!!」
胸元をぽかぽかと叩かれたがの反応が可愛くて、蔵馬はついつい笑ってしまう。
(「言ってない」と言いながら「聞こえてたくせに」って…ねぇ)
この思わせぶりなところはの仕組んだ蜜の罠か、無意識か、どちらにしても蔵馬にとっては悪くはないが。
まだ怒り続ける口をとりあえず塞いでみようかと唇を奪った。
そのまま身体を抱き寄せる。
寒さから身を守りたい一心でずいぶん重ね着したり厚い生地の服を着たりして、
北海道に来てからこんなに身体が近づいたことがあっただろうか。
手に感じる布の感触はひどく薄くて頼りなさげだが、の肌のあたたかさや柔らかさが指先にすぐ感じられた。
確かにシチュエーションとしてはちょっと、と思いながらなにもしないと誓ったのは他でもない自分なので
今更どうすることも出来ず、蔵馬は旭川での一晩を軽く悶々としながら過ごすことになる。

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三日目の富良野編は実は、半分くらい想像で書いています。
東川町へ行く途中で立ち寄る場所で、冬に行ったことはありませんでした。
夏だったらファーム富田ヘ行ってハート型のガラス容器に入ったラベンダーコロンを
蔵馬に買ってもらうのになーと思いながら冬なので駅前をくるりと巡ってみました。
ノロッコ号はあこがれの列車でまだ乗ったことがありません。
冬期間のノロッコ号運行は残念ながら現在は行っていないようです。
本当はもっと「北の国から」に関連するお店や資料館などが点在しています。
北海道限定キティちゃんはいろいろありますが、本当はまりもキティとかうにキティとか
かにキティとか出してみたかったです、狙え函館いかキティ!
アイヌ装飾キティもいて、ピリカキティとかいったと思います。
ピリカとは、アイヌ語で可愛らしい、美しいという意味。
四日目は旭川、旭山動物園で遊びます。


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