逃避行クロスゲーマー 四日目から五日目/函館から皿屋敷市へ


夕方に旭川を発ち、まだ夜と言えない時間に函館に着いた。
この移動だけは少し慌ただしかったと言えそうだ。
今度の宿泊先はそこそこ名の知れたホテルで、温泉街湯の川の一角にある。
ベッドがふたつ並んだ部屋の奥に小さな畳スペースもある和洋が入り交じった室礼の部屋だ。
は荷物を置いてまず、壁に掛けてあった絵やら鏡やらの裏側を覗いている。
「…なにやってるの」
「お札が貼ってないか見てるの」
「お札って…」
「だっておばけ出たら嫌だもの」
だとしたら君の目の前の妖怪はなにと聞いてみたいものだと蔵馬は思う。
「今夜のうちに、夜景見に行こうか?」
「うん、行きたい!」
はベッドの上にかしこまって正座した。
蔵馬が荷物から引っぱり出したガイドブックをひったくり、夜景のページを探す。
「ロープウェイがあると聞いたよね」
「うん、夜景をずーっと見下ろしながら展望室まで行くの」
決まり、というの一言でプランは立った。
ホテルから観光バスも出ているということだったが、展望台の駐車場に観光バスがひっきりなしに
やってくるため入れ替わりに制限があり、自然と客が展望台に留まることのできる時間にも限りができる。
それよりは多少ロープウェイ乗り場への道が険しかろうとも、
好きなだけ夜景を眺められるほうがいいのではと考え、ロープウェイを使うことにした。
「…そういえば。函館って市電通ってるよ」
「え? 嘘ー」
「札幌で乗り損ねたでしょう? 湯の川温泉前電停から乗って、…十字街で降りる。
 それから…南部坂というところを通って、徒歩七分」
「わ! 嬉しい!!」
「良かったね、思わぬところで」
うんうんと嬉しそうに頷くを見て、蔵馬はもうそれだけで満ち足りた気持ちになってしまう。
早めに夕食をとって、そのまま部屋に戻らずまっすぐ出ようということになった。
夕食は宿泊プランに含まれるホテルのレストランでバイキングというものだが、
メニューを見てはぱぁっと目を輝かせた。
入ってまず目に入ったのが、手のひらに五つくらいは並べて載せられそうなミニサイズのいかめしだった。
「イカ食べるって張り切ってたよね」
「うん! 函館の名産でしょ!」
函館の空港からホテルに来るまでのあいだに見た「イカした街 函館」という看板を蔵馬は思いだした。
さすがに海辺の街はイカに限らず海産物が美味と言われる。
数日で北海道をあちこち巡ったが、食事はどこもなかなか美味しくてはずれはなかったと思う。
欲しいものは好きなだけ取ればいいのに、はいろいろなものを少しずつ欲しいと言って、
皿にちまちまとたくさんの料理を載せていた。
それでもそれなりの量にはなるのだが、たぶんあとからデザートもちゃんと入るのだろうから不思議だ。
一緒に席に着いて、当たり障りのない会話をしながら食事をする。
「函館ではいかの刺身は朝に食べるものだそうだよ」
「え…朝から?」
「早朝にいかを売る車が回って来るんだって。とれたてをすぐに食べるって」
函館について調べたときについつい脱線して、そんな情報も目にしていた蔵馬だ。
「すごーい! そういうのって、たぶん住んでる人には当たり前だろうけど…贅沢だよね」
「そうだね、こういうことが一番贅沢なのかもしれない」
いかめしだけで満足できずにいかそうめんにも手を出したが、
椀の中を覗き込んでじぃっと切り身を観察している。
透き通っていてあまい、とは率直な感想を漏らした。
やはり期待を裏切らない料理で空腹を満たし、蔵馬が食後にコーヒーを飲んでいる間に
はデザートタイムに突入した。
ひとくちサイズのケーキが数種類とフルーツポンチのようなカップがひとつ。
これでよく太らないものだと、の体型を一応見て知っている身としてはやはり不思議に思う。
まぁ、今のところの蔵馬にはほれたはれたに体型は関係なかったが。
にこにことケーキを頬ばるをやっぱり微笑ましく見つめつつ、
函館以降の計画がまったく立たないこと、自分にも、恐らくにも次の目的地を決める気はないことを
蔵馬はひしひしと感じ取っていた。
あるとして、次の目的地は…皿屋敷市だ。
これが、逃げ続けてと過ごす最後の夜になる。
新札幌の書店員に聞いたジンクスはなんだったか…
(そうだ、確かカタカナで『ハート』…)
まさかわざわざそんなかたちに灯りを並べたわけではあるまい。
偶然そう見えるということが、いつの間にかジンクスに仕立て上げられたのだろう。
『ハート』の文字を見つけた人の恋愛は成就する。
との関係に不和も不満もないけれど、たまにそんなものも信じてみていいかもしれないと蔵馬は思った。
冷え込む夜に、こちらに来てから買い込んだコートと手袋、マフラー、は耳かけを完全装備し、
冬靴を履いて二人はホテルをあとにした。
観光バスを待つ客もちらほら、ロビーへ集まっているようだった。
ホテルを出て五分も歩かない程度の距離に湯の川温泉前電停はある。
やがてカンカンとなにか金属の鐘を叩くような音をさせながら、市電が電停に近づいてくる。
道路の上に敷かれた線路を自動車に混じって滑るように進み、信号に従って停まり、また進む。
バス一台分くらいの車両がひとつだけで運行しており、
少し古びた車内が見慣れぬ二人の目には味わいに見て取れた。
街の中を何の違和感もなく市電はまた走っていき、途中いくつもの停留所に停車する。
五稜郭公園前…という停留所にはさすがに聞き覚えがあった。
北海道は江戸時代末頃までは日本国の地域とは言えない土地だった。
北海道が少しずつ開拓されるようになっていき、函館には日本で最初の洋式城郭が建設された。
星形をした城塞、それが五稜郭だ。
完成後、鎖国が破れて開港されたうちのひとつが函館であり、そのときに五稜郭には奉行所が置かれた。
戊辰戦争での戦いの舞台ともなっている、めまぐるしい歴史の中にあった建築物だ。
函館にはそうした、古くからの歴史を抱えた建物が数多くある。
最初に開港されて異国文化が混じった街というだけあり、多くの教会、西洋建築が見られる。
十字街で市電を降り、二人が見上げた先にロープウェイ乗り場はあるはずだった。
見上げた先。
ロープウェイ乗り場までの道はかなりヘヴィだとは聞いたが。
二人には言葉もなかった。
その坂の名前は南部坂。
実際目にして二人が思ったことは共通していた…坂なんてレベルじゃない。
坂の上部は夜の闇に飲まれしんとしている。
冬靴を履いていても心許ないくらいのものすごい傾斜は、冗談抜きできついはずだ。
「…これは、すごいな…」
さすがの蔵馬も呆気にとられている。
斜めと言えば可愛いものだ。
「…裏技を使いますか」
「うら…」
ってなに、と聞き終わる前に、の身体はさっさと蔵馬に抱きかかえられていた。
そこからはの悪い想像の通りだ。
あっという間にロープウェイ乗り場にたどり着いたはいいものの、
目立たない場所でを降ろして蔵馬は開口一番こう言った。
「気付いた? ちょっと足滑らせちゃったんだけど。ああびっくりした。転ぶかと思った」
「私をだっこしたままで転ぶとか言わないで!」
蔵馬がらしくなく、雪に足を取られて一瞬バランスを崩したことにも気付いていた。
を抱く腕が一瞬びくりとこわばったのだ。
「ぞっとしたよあの一瞬、着地点まで凍ってるんだからそこでまた滑ったら洒落にならない」
はぁ、と心底安心したため息をついている蔵馬を、は横目で睨むのだった。
ロープウェイ乗り場には世界三大夜景のひとつと名高い景色を眺めようと多くの人が詰めかけていた。
まるで満員電車になだれ込むようにして乗り込み、ドアが閉まるとロープウェイはゆっくりと上昇し始めた。
しばらくは街の灯りも目の高さだが、展望台へと近づくにつれて次第に街を見下ろせるようになってくる。
窓からは少し離れた位置にじっと立っていた二人だが、蔵馬が人垣の隙間から外を眺めては
「おお、すごい」などと口走るので、背の低いは妬んでぶぅぶぅと文句を言い続けた。
展望台にはそう長くかからずに到着する。
少し拗ねたを礼儀正しくエスコートして、蔵馬は夜景を望む展望テラスへ立った。
人垣を少しずつかき分け、何の障害もないその場所へ立ったとき…は言葉を失った。
真冬の夜の空気に晒されて凍りかけた鉄柵を思わず握りしめる。
さぁっと、街から、海から吹き上げる空気がの頬を撫でてすぎた。
左右から海が迫る縦に長い地形の上に、無数の生活の灯りが灯っていた。
「すご…い…!」
きれい、とは目をそらすことも出来ずに漏らす。
無意識に言葉がこぼれゆくような、それはとても素直な感想だった。
蔵馬は後ろからを抱きしめるように、自分も目の前の鉄柵に手を載せた。
多くの人々の歓声の中、蔵馬の声が耳元で、すごいね、と一言囁いた。
は小さくこくこくと頷いた。
来て良かった──これを見ることができただけで、は心の底からそう思う。
「しゃ、写真撮りたい!」
思い出したようには言い、顔を上げる。
ぴったりくっつくようにして立っている蔵馬がすぐそばからを見下ろした。
「夜景だから難しいかもしれないね、用意したカメラもあんまり感度高くなかったと思うし」
「あーん、ぬかったぁ」
無駄な足掻きかもと呟きながらは携帯電話を取り出してレンズを夜景に向けた。
さすがに目で見るほど鮮明ではないし、指が少し震えたり揺れたり、あまりよい画にはならない。
何度かシャッターボタンを押しては失敗し、データを破棄してやりなおす。
蔵馬が後ろからそれを見てくすくすと笑っている。
「もー、他人事だと思って!」
「いやいや、久しぶりに可愛いなぁと思って」
「久しぶりにって! 蔵馬ひどい!」
「うんうん。怒っていても可愛いよ」
はぐらかすようにそう言って、蔵馬は鉄柵から手を離すと今度は本当にの身体をぎゅぅと抱きしめた。
誤魔化しがきくような人混みではない。
「やぁだったら! 蔵馬!」
「手伝ってあげるから」
の言葉の矛先をそらしつつ、が携帯電話を持つ手を一緒に支えてやった。
「ほら、ちょうどいいでしょう」
今蔵馬に頷いてみせるのがものすごくしゃくに思えるだったが、
確かに小さなディスプレイに夜景はうまくおさまっている。
そのままで撮影した画像を何枚か保存して、とりあえず撮影会は一区切りだ。
「あーあ、夜景用のカメラを買っておくべきだったぁ…」
まだ残念そうに、夜景の写真がおさまった携帯電話を振り振り鞄におさめる
聞いて蔵馬はまたの耳元に唇を寄せる。
「いいんじゃないの? …また見に来ればいい」
鮮明が過ぎる思い出が目に見えるかたちで残っていたら、来ることも惜しむかも…などと言ってみる。
それは、皿屋敷市から北海道までなんてちょくちょくお気軽に往来できる距離ではないが。
それでも、またあの夜景を見に行こう、という約束ができる。
離れているからこそまたそばに行きたいと、願いは強くなるのかもしれない。
はなるほどという顔をして、そっか、とちいさく呟いた。
しばらくそのまま、は鉄柵を握りしめて夜景を見下ろし、蔵馬はそのを抱きしめながら視線を巡らせる。
海と海に挟まれた陸地の、一番狭い部分の中央に市役所が建っているとか、
ガイドブックにそんな余談も載っていたのを思い出してはそのあたりを眺めてみる。
すぐ眼下にはハリストス正教会。
ロープウェイが行き来を繰り返しているのも見える。
「…蔵馬、どこ見てるの?」
ふとすぐ後ろに立つ彼がなにを見ているのかが気になった。
「…『ハート』を探してる」
返ってきた答えで、はあのジンクスを思い出した──『ハート』を見つけたら、恋愛が成就する。
「…でも蔵馬。これ以上成就するってどうなるのかな」
「さぁ…」
少しうわの空気味に答えが返る。
「まぁ、オレには企んでいることもたくさんあるんだけどね…」
に即座に警戒心を抱かせるには充分なセリフを無意識に吐いて、蔵馬は夜景の一点に目を留める。
「…はぁ、なるほど。『ハート』と読めるかも」
「見つけた!? うそー! 私も探す!!」
はきょろきょろと、蔵馬の視点が定まったあたりに目を凝らす。
「わかりやすいよ、最初からそんなふうに読める部分があるって知っていれば尚のこと」
まだ見つけられないを焦らすように横から口を挟む蔵馬。
「あーあ、寂しいな、が見つけてくれなかったら
 オレがひとりで盛り上がって終わりの関係になっちゃうってこと? それはあんまりだよ」
「ちょっと、変なこと言って!」
そんなことないんだからとはムキになってやり返す。
蔵馬は悩ましげに、聞こえよがしにため息をついて、すがるようにを抱きしめ直してみせる。
それもを煽るのにわざとなのだろうが。
耳元に触れるほど唇を寄せ、他の誰にも聞こえないような声で囁く。
「まだまだと二人でやりたいこともあるのに。ちゃんと計画した旅行もしたかったし」
「ちゃんと見つけるもの! ごちゃごちゃ言わないのー!!」
がいい子にしているって約束してくれたら、
 一度くらいは魔界に連れていってもいいかなーなんて思っていたのに」
はもう諦めていちいち答えることはしなかった。
無視に徹してネオンの波に目を走らせる。
「全部オレひとりがそう思っているだけってことになるよね? まだ見つからないの? ねぇ、」
「気が散る〜〜」
「オレひとりの思いこみで終わらせたりなんてしないよね? 企みが全部無駄になってしまう」
「まじめに探してるんだから! ていうか企みってなに!? 恐いし!!」
「次のの誕生日には何をしようかなとか。オレの誕生日には何をしてもらおうかなとか。
 今回の旅行で我慢した分帰ったあと何をねだろうかなとか」
「な! ま、またそういうこと言う〜!」
「本気です」
「やだぁ!」
「…嫌じゃないくせに」
知ってるよと言われて、はさすがに言葉に詰まった。
「ああ、今回の旅行でも特に新しい発展はなしですか」
「何を狙ってたのよ蔵馬…」
「別に…」
「こういうところでわざと遠慮するくせに普段意地悪ばっかり言って」
「意地悪じゃないセリフもたくさん考えてるよ」
「殺し文句も多いものね」
にだけだよ」
「他の子に言ってたらもう口もきいてあげない」
「言いませんて。意外と心配症なんだ」
「心配なんてしないもん…蔵馬はぜったいそんなことしないもん」
「わかってるじゃない」
ここで自惚れ屋、と言い返すのはどうだろうとはまたちょっと黙り込んだ。
「早く見つけて、
「ちゃんと探してるもん…」
はちょっと悔しそうにそう言った。
「この先のこと、と一緒にいるビジョンしか見たことないよ」
裏切らないで、なんて少しまじめな声で言われたら、もどうしていいかわからなくなる。
たかだかジンクスに蔵馬がそんなに真剣になるわけがないのだけれど。
「次の旅行計画なんてものじゃないけど、いろいろ計画立ててたんだから」
「何の計画よ…」
は遠くから夜景をまた眺め直した。
暗い中に浮かぶその灯りのひとつひとつに、人々の生活とささやかな幸せが宿っている。
「どういうタイミングで、いつ」
「あ」
が見つけた、と言おうとしたのと同時だった。
「プロポーズしたらいいのかな…とか」
あったよと振り返ったその目が、驚いてぱちくりと瞬きを繰り返した。
「は………?」
「オレがひとりで考えてた長い長い計画のひとつ」
見つけてくれたんだ、と蔵馬は嬉しそうににっこりとした。
よかった、これで独りよがりの計画にはならないで済みそうだ。
後ろに立ってやさしくを見下ろすその視線を、は半ば放心状態で見つめ返すより他なかった。
「…ちゃん。」
「は…」
「素晴らしくいいアングルですが。そしてまた図ったようなシチュエーションですが」
「う…?」
「貰っちゃうよ」
そう言ってを抱きしめていた指がすっとの顎を上に向けさせようとした。
「ち、ちょっと! ダメ!!」
「冗談ですよ」
蔵馬はくすくすと可笑しそうに、唇をガードしようとするを見て笑った。
ひっきりなしに訪れては去る客たちの中で、夜景のベストポジションをずっと占領するわけにもいかない。
群がる人並みから抜けると手を繋いで夜景から離れる。
今度来るときは新婚旅行…? とが呟いたのを蔵馬はちゃんと聞いていて、少し照れたように笑ったのだった。
土産物屋を少し眺め、温かい飲み物を買って冷えた身体を暖めて、二人はまたロープウェイに乗りこんだ。
帰り道は市電に乗る間もほとんど会話もなく静かに並んで座っているだけだったが、
一緒にいて同じものを共有している今がある、それだけで満たされた。
夜景を見にホテルを出て戻ってきただけなのだが結構な時間が経過していて、
街はすでに眠りにつこうとしているようだった。
部屋に戻る前に、が夜食にラーメンが食べたいと言いだしたので、
ホテルに入っているラーメン屋に寄ることにした。
札幌でも旭川でもはラーメンを食べたいと言い、コーンとバターをトッピングにして喜んでいたが、
今度も同じパターンを外さなかった。
幽助にレポートを出すのとふざけて聞くと、美味しかったこととおみやげ話をと返ってきた。
「…皿屋敷市に帰りたいね」
が何気なく、ぽつりとそう言ったのに、蔵馬は穏やかな気持ちで頷くことができたのだった。
不思議な心地だ。
逃げ出したくてたまらなくて出てきたというのに、今は帰りたくて切ないような。
部屋に戻ると灯りをつけるより先に、蔵馬はに後ろから抱きつかれた。
明かりの消えた部屋の中でそうしてぴったりくっついて立っていることは奇妙な感覚を沸き起こさせる。
カーテンが開いたままの窓から薄く光が入り込んで、部屋は奇妙に薄暗く、薄明るかった。
「どうしたの?」
「なんでもないの」
「…人恋しい?」
「うん、そうかも」
そのまましばらく沈黙が横たわり。
あのね、とが切り出した。
「これあげる」
差し出されたものは、小さな筒状のものがぶらさがったキィホルダーのようだった。
「なに?」
「蔵馬、スピードの勝負の時はぐらかしたままだったから」
勝手に選んだのとは少し拗ねた声で言った。
受け取って、その筒が金属でできていることを知る。
小ささの割に感じる重みはそれなりで、中になにか小さな粒のようなものがたくさん入っているようだ。
左右に振ってみるとしゃらしゃらとなにかの音がする。
「ああ、わかった」
蔵馬は窓のほうにその筒を向けて、覗き込むように目に当てた。
「万華鏡でしょう。こんなものどこで見つけたの?」
「函館山の夜景のつもりの万華鏡なんだって」
なるほど、確かにそんなふうにも見える。
なかなかきれいだ。
ありがとう、と言って見下ろすと、は何か少し物言いたそうに、でも言いづらそうにしてもじもじしている。
「…?」
「本っ当ーーーに、なにもしないの?」
聞いてきた言葉に蔵馬は面食らった。
は明らかにいいよと言っているのだが。
「そんな、いつもなら言わないような催促…反則だよ、オレが何もしないって誓ったときに限って」
蔵馬は苦笑しながらの髪をそっと撫でた。
「…帰ったときの仕返しが恐いもん」
そのセリフは半分くらいは冗談だろう。
「いいんだ。わがままにたくさん付き合ってもらったから」
「…それってなんか違くない?」
「いいんだよ」
蔵馬はから離れ、コートを脱ぎながらベッドサイドのライトをつけた。
部屋が薄くオレンジ色の照明に染まる。
「…一緒に帰るでしょ? 明日。それでいいから」
一緒に知らない土地にまで飛んできて、ずっとふたりきりで過ごして。
そして、夜が明けたら一緒に元の場所へ帰るのだ。
意味も意図もなにもない、ただ迫り来るものから逃げたかっただけ。
いろいろな窮屈な型の中にはめられる生活から束の間逃げ出して、
得た開放感はまるで永遠に続くかのような錯覚をもたらした。
ほんの一週間にも満たないあいだ、一緒にいてただ楽しくて楽しくて楽しくて、
募るばかりの愛おしさに胸が焼けつくくらい気付かされる。
けれど終わらない遊びは、やっぱりここにもなかった。
非日常はやっぱり長く続くものじゃない、満足してしまったら、日常が恋しくなってしまった。
「一緒に帰って、また毎日これまでと同じようにして過ごすけど…たぶん大丈夫」
にっこり笑った蔵馬に、はまだなんとなく納得いかないながらも、頷いてやった。
ベッドに座ったままの蔵馬に歩み寄って、抱きついた。
「見慣れたものについて考え直すのは難しいよね…少し距離を取らないとダメなんだな」
を抱き留めながら蔵馬は呟いた。
「やっぱりいつも通りも、悪くないななんてやっと思えたんだ。これで満足して帰れる」
「…うん」
「また日常に戻っても、そこにがいるってことも思い出したし」
「うん」
「ダメだね、恋人でいてもらえるのも当たり前じゃないのに」
を少し引き離して、蔵馬はちゃんとまっすぐにその目を見つめ返す。
「オレは、が、好きだから。そばにいて欲しいと思う。やっとわかった」
こんなにも率直に伝えられて、溢れ返りそうになる感情がの目に涙になって宿る。
頷いた拍子にこぼれ落ちた涙に、蔵馬はやさしく口づけた。
「…朝になったら」
「うん?」
が呟いたのに、蔵馬は微笑みながら首を傾げてみせる。
「明日、すぐに…帰ろうね」
みんなに会いたい。
のセリフに、蔵馬は心の底からそうだねと答えた。

翌朝。
ゆったりと目を覚まして、せっかく温泉地に来ているのだからと朝から湯を浴びに行き、
浴衣姿でスリッパを引きずって帰ってきたところで二人はものすごい光景に遭遇した。
窓の向こうを、巨大な飛行機が音を立てて飛んでいったのだ。
空港のそばにあるこのホテルからは、時折そばを飛んでいく飛行機を眺めることができる。
旅立ちの朝、という空気が自然とそこに立ちこめる。
食事をとって(は朝からいかの刺身という函館ならではをちゃんと満喫して、デザートも忘れなかった)、
荷物をまとめるとホテルをチェック・アウトする。
から贈られた万華鏡は、鞄につけていつの間にかなくすのも恐かったので、
大事に蔵馬の胸ポケットにしまってある。
空港で搭乗ゲートが開くまでを待ちながら、はぽつりと呟いた──楽しかったね。
蔵馬はうん、と頷いた。
また来たいね。
そうだね、また来よう。
そう言い合いながら、今ここを去ることにはなんの未練も感じない。
それはやはり、二人がこの北海道という場所にいて、完全なる旅行者でしかないからだろうか。
また来られるという思いのためか。
飛行機の中で寄り添い合いながら二人ともうとうとしてしまい、
時折目を覚ましては隣で眠る恋人の寝顔を見つめてふと微笑んだ。
二人揃って気がついたとき、眼下にはもう雪景色など広がっていなかった。
「うわー…ここってこんなに…」
真冬に暑いという言葉も妙なのだが、気温の差に体調でも崩しそうだ。
夕方より少し前に羽田空港に到着し、なんだかずいぶん空が明るいことに首を傾げる。
この時間、北海道はすでに暮れかけているはずだった。
気温も低く、下手をすると吹雪いている。
「…すごくふつーだね、気温」
「可もなく不可もなくって感じだな…」
暑くもなく寒くもなくと言いたかったらしい。
「…さて、怒られに行きますか、まずひとつめ」
「ひとつめって?」
の御両親に」
ここが本当は一番恐いと、蔵馬はちょっと笑ってみせる。
やや緊張しながら、ふたりはの家の門をくぐった。
久しぶりの我が家は、当たり前だが何も変わっていなかった。
でてきた母親は、あらまぁと一言漏らしてしばらく黙り込む。
「申し訳ありませんでした、勝手にお嬢さんを連れだしてしまって」
「あらまぁ、いいのに。急だったけどよかったじゃないの」
頭を下げる蔵馬をまったく気に留める様子もなく、北海道なんて、との母親は嬉しそうに顔をほころばせる。
あまりの呆気なさに蔵馬はぽかんとしてしまった。
「あのー、お母さん、これおみやげ」
はぷっくりと膨らんでいた袋をがさがさと開いて、中から巨大なぬいぐるみをとりだした。
「旭山動物園の。かぴばらっていう世界最大のネズミ」
「まー、ネズミなの? 可愛い!」
喜んでかぴばらを抱き上げるの母を見て、ああ、親子だと蔵馬は漠然と考えたのだった。
上がってお茶でもという誘いを丁寧に断り、お父さんにもよろしくと付け加えるのも忘れないで、
蔵馬はひとりで自宅へと向かった。
今度はまた別の覚悟がいる。
自分の家がこんなに敷居の高いものに思えたのは初めてだった。
しばらく逡巡していると、遠くから「秀兄ぃ!」と呼ぶ声が聞こえた。
「お帰り秀兄ぃ! 北海道行ってたんだって!?」
「ああ、…ただいま、秀一」
いつもと変わりなく接することのできる相手にまず会えて、蔵馬はほっと安堵の息をつく。
義弟のおかげでなんとか家に入ることはできた。
「あら、秀一なの? ああ、お兄ちゃんのほうのよ」
兄弟二人で同じ名前なので、蔵馬はたまに母親にお兄ちゃんのほうの、と呼ばれるようになった。
それにはいまだに慣れない。
「ただいま、母さん…ごめん」
勝手なことをして。
そう言って頭を下げると、母親はふっと笑ってぽんぽんと蔵馬の頭を撫でてくる。
「いいのよ、ちょっと安心したわ…秀一もこんな無茶をすることあるのよね」
反抗期もろくになく、まったく手を焼くことなく育ってしまった息子に漠然とした不安を抱いてでもいたのか。
「お義父さんには、ちゃんと自分で話をしなさいね」
「…はい」
「もう大人なんだから。自分で責任はとれるでしょう?」
「うん」
大丈夫、そう言って自室へ戻る。
やはりまったく変わりばえのしない部屋に、安心して肩の荷が下りた気がした。
旅行に出る前は、ここだけが安心していられる場所だった。
「…ただいま」
誰もいない部屋に向かって呟いた。
やっと帰ってきた…そう思った。
は今頃、家で土産話に花を咲かせている頃だろうか。
無邪気で少し幼いところもあるような恋人。
ずっと自分が愛して、見つめて、手を貸して、助けて、守ってきたと思っていたけれど…
そればかりではなかった。
にどれだけ愛されて、どんなに見つめられて、手を引いてもらい、救われ、護られてきたのか。
を巻き込んでの逃避行は、こんなにも未知の姿を蔵馬に知らしめてくれた。
また一緒にどこかに出かけてみたい…どこにしようか。
今回の旅行で行かなかった北海道のどこか、でもいい。
クリスマスの約束も、夏の約束も忘れてはいない。
今度は終わりのないゲームを遊び続けるような焦燥感に浸ることもなく。
ベッドにどさりと横になり、目を閉じる。
心地よい疲労感が押し寄せた。
胸ポケットでしゃらしゃらと、万華鏡のビーズが揺れる音が聞こえる。
取り出して手の中で転がすと、耳に気持ちのよい音が低く響く。
数日間の、夢の中を駆けるような逃避行と、これから先の毎日に思いを馳せながら、
蔵馬の意識は眠りの中へと落ちていった。

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「逃避行クロスゲーマー」、五連続きりばんまとめてリクエストでした。
めちゃくちゃな旅行でしたが捧げものです。
函館山から見える夜景、「ハート」の文字のジンクスは一応本当に言われるもので、
中学校の修学旅行の折には女子生徒が懸命に探していたものです。
ロープウェイ乗り場への坂は本当にものすごいので夏に行くことをお薦めします。
夏でも傾斜キッツイです、登っても下ってもすっごいです、息切れるわ汗かくわでもうもうもう。
ハリストス正教会でイコンを見るのも良いのですがちょっと割愛。
ホテルも雪花がいつも泊まるところをモデルにしましたが、朝に飛行機飛んでいくのが見えます。
ある意味それも名物ですね、去年は見逃して半泣きでした。

こんな感じになりましたが如何でしょうか;
いろいろ調子に乗ってしまいましたが贈り物です。
16261-16761番、ありがとうございました。

管理人・雪花


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