続・年下彼氏。 後編


先程の思い出すのも煩わしい出来事の反動だろうか。

秀一は何となくに対して遠慮がちになってしまった。

はそれをどうにかフォローしたくて、しっかりと繋いだ手をちょっとすらも離さずにいた。

「なにが食べたい? 秀一君」

「…なんでもいいよ、さんが作ってくれるなら」

OLと高校生が仲良く手を繋いでスーパーマーケットでお買い物。

まだまだ夕食の支度に忙しい主婦たちに紛れて、この二人は少なからず目を引いた。

食材が詰め込まれて重くなったかごを、いかにも仕事の出来そうな様子の女性から引き受ける背の高い少年。

睦まじい姿は傍から見ていれば実に微笑ましい年上彼女と年下彼氏だ。

かごの中身から察するに、夕食のメニューはオーソドックスにカレーライスに決まったらしい。

ぱたぱたと売場のあいだを動き回る彼女を、学生服姿の彼が慌てて追いかける。

まるで「夕日の沈む浜辺で追いかけっこ」なくらいには赤面ものの光景になりつつあったが、

幸せな恋人同士当人にそんなことは関係なかった。

「あ、コーヒー切らしてたんだ」

彼女はそう言って、コーヒーや紅茶、ココアなどが並ぶ棚へ走った。

急ぐ必要もないはずなのだが、彼もやっぱりそれを走って追いかけた。

スーパーマーケットへ入ってきたときはどことなく不機嫌そうな様子だった少年も、今は楽しそうに笑っている。

「そういえば、あんまり気にしていなかったけど…秀一君、どれが好き?」

ずらりと並ぶコーヒーの銘柄。

「どれってことはないんだけど…さんが淹れてくれるなら、どれでも」

「いっつもインスタントで悪いなぁと思ってたのよね…コーヒーメーカならあるんだけど」

キッチンの棚の奥で眠っているのを、先日秀一も見つけていた。

「会社の謝恩会のゲームでね、ビンゴの景品だったの…あれ出して使ってみようか。

 コーヒーとフィルタと、あとなにかいるかな?」

「あ、じゃあミルクも」

「あれ、ブラックじゃなかった?」

「うん、オレはね。今日はさんもコーヒーにしようよ。カフェ・オ・レなら大丈夫でしょ?」

オレが作ってあげるからと、秀一はにっこりして見せた。

も嬉しそうに微笑み返して頷くが、の魂胆が実は

にあのピンクのラインのマグを使わせることにあるということにはまだ気付かない。

カレーの材料と、コーヒーとフィルタとミルク、の好きなバタークッキー。

はレジに向かう途中の棚で立ち止まって、

秀一君が泊まっていったとき用にと言って、歯ブラシをひとつ彼に選ばせた。

そんな些細なやりとりだけで先程の不機嫌もどこへやら、秀一はすっかり幸せな気持ちになる。

会計を済ませると、ふたりはまた仲良く手を繋いでスーパーマーケットを出ていった。

荷物をひとつずつ分けて持って(もちろん重たいほうを秀一が引き受けた)、

あいた手を繋いで、他愛ない話をしながら。

…と、一瞬。

鋭い妖気が秀一の耳元をかすめた。

ぴたりとその歩みが止まる。

「秀一君? どうしたの?」

隣を歩くが、急に立ち止まった秀一を振り返ってそう聞いた。

答えている余裕がない。

背筋を薄ら寒い予感が舐めてゆく。

秀一のものだった思考回路が、一瞬にして蔵馬のそれに切り替わった。

計算…敵はどこだ?

何人いる?

距離は、妖力値の程度は…勝てるか?

「秀一君!」

…目の前のこの人を、守れるか?

冷や汗が流れる。

「…さん、いい? なにも聞かないで、オレから絶対に離れないで」

「え?」

が問い返した言葉がまるで合図になったように、秀一の背後にすさまじい爆音と土煙、衝撃が走った。

「………!!」

「きゃあ!!」

土煙のあいだから、黒く大きな影と、いくつもの赤い目がぎらりとのぞいた。

『妖狐蔵馬…覚悟!』

時も場合も場所すらも選ぶ余地など与えられなかった。

秀一はとっさにを抱え上げてそこを飛び退いた。

「しゅ、秀一君…!?」

さん、家まで走って…絶対振り返らないで」

手早くを降ろすと、秀一はすぐに異形のもののほうへととって返す。

「早く!」

一瞬振り返って、に叫んだ。

霊力を持たない普通の人間であるに、秀一が立ち向かおうとしている妖怪の姿など見えてはいない。

けれど、そこに何かとてつもない恐ろしいものがいる、との直感が察知した。

一度突き動かされたように身体がどくん、と震え、その衝撃から急にのどに滞っていた呼気が吐き出される。

遠ざかっていた周囲の音が、いきなり鮮明にの耳に飛び込んできた。

少し先で、秀一はなにか細長いものを器用に操って、見えない相手と…戦っているように見えた。

とっさに後ろに飛んだ秀一の、先程まで立っていた地面に亀裂が走り、ばらりと崩れて散り散りに飛び去る。

破片がかすめて、彼の綺麗な顔に切り傷をつくった。

血のしずくが飛んだのが、遠目にもわかった。

「秀一君…」

かすれた声で呼んでも、きっと届いてはいなかっただろう。

ぐらぐらと揺れる地面に座り込んだまま、は走り出すことも、立ち上がることさえ出来ない。

「うぁ…!!」

小さなうめき声が聞こえた。

学生服の左肩が裂けて、先程とは及びもつかない深い傷がざっくりと刻まれていた。

「秀一君!!」

叫んだは、背後に何か、秀一が争っているものとは別の…黒い影があることに気付いた。

怖くて、怖くて、絶対に振り返りたくないものが、そこにいる。

とぎすまされた感覚が、の身体に危険信号を流し続けている。

『おやおやぁ…妖狐蔵馬の女かァ…?』

下卑た声がすぐ耳元で響いた。

ひゅう、と細く息を継いだ音が、妙に冴え冴えと聞こえた。

「いやぁああああ!!」

さん!!」

振り返った秀一は、血で染まった真っ赤な学生服。

痛みが走るはずの左肩に目もくれず、目の前の敵に背を向けてまでのほうへ駆け寄ろうとする。

緊迫した一瞬を、聞き覚えのある叫び声が遮った。

「らぁっ!! 霊丸ーーー!!」

刹那、の背後にいた黒い影がものすごい衝撃を背に食らって前のめりに倒れかけた。

ぐらり、との頭上に倒れかかってくる妖怪の影が落ちた。

逃げることもかなわずに、呆然とその影を見つめるしかすべのないの視界が、たった一瞬風に奪われた。

「かぁーっ! あぶねー!!! 大丈夫ッスか? えーと、さん」

「は…えぇ…?」

を抱え上げて一瞬にして安全圏へ抜け出したのは、夕方秀一の友人として紹介された不良少年の片割れ。

「幽助…桑原君!!」

秀一は目を瞠った。

を襲っていた妖怪は幽助の巨大霊丸であっけなく倒され、

身動きひとつとることの出来ないを桑原が抱え上げて脱出したのだ。

「蔵馬、さんは大丈夫だ! 余所見すんじゃねーー!!」

うしろうしろ、と幽助が叫ぶ。

キッと秀一は鋭い目線を後ろへ流し、振り向きざまに相手に鞭を食らわせた。

黒い影は横一文字に裂かれ、ズン、とものすごい音を立てて地面に落ちた。

「うわー、苦戦したなーオイ」

「珍しいじゃねーか、蔵馬にしちゃあ」

幽助と桑原はすでに物見遊山といった様子で、血塗れの秀一に動じることもない。

秀一本人すらも怪我など眼中にないといった様子で、慌ててのほうへ駆け寄ってくる。

座り込んでいるのそばへ膝をつくと、の両肩をしっかりとつかまえた。

さん…! 怪我は? どこか痛まない?」

「秀一君こそ…!! 手当しなきゃ、そうだ、救急車…」

「オレは大丈夫…このくらいはよくあるから」

「よくあるですって!?」

「あ、いや…とにかく、さんは平気?」

「平…気……」

そう言うの目から、ふいに涙が溢れてこぼれ落ちた。

さん」

いつもいつも、秀一に弱いところなど見せず安心させてくれていたが、初めて見せる涙だった。

とっさにうろたえてなにもできない秀一。

「一体なんなの…?」

に危険が及ぶことを恐れて、秀一はなんの事情も話していなかった。

「…その」

言いかけて口ごもる。

傍らの幽助も桑原も、一度目を見合わせたっきり、なにを言うことすらもできない。

秀一は悩ましげに目を伏せると、ふたりのほうへ向き直った。

「君たちは、どうして…?」

「…コエンマから連絡が来てよ…」

幽助はそれ以上言うことはなかったが、秀一はそれでおおよその事情に見当をつける。

「そうか…」

「大丈夫か、蔵馬」

「ああ、平気だよ。わかっているでしょう」

「ああ、まぁ、なぁ…」

でも、と言いたげに、ふたりはをちらりと見やった。

少し赤い目で、は秀一をじっと見つめていた。

「…蔵馬って、なに?」

「………えーと…」

「あなた達も、一体、誰…?」

「…話せば必ず危ない目に遭わせてしまうから、黙っていたんだけど…」

事情を知らせずに、自分がそばにいたにも関わらずこんなことになってしまった。

秀一は苦しそうに俯いた。

「………嘘つき」

「え?」

「私には隠し事絶対にしないって約束したでしょう!?」

そういうレベルの問題なのか。

が急に言い出したことに、秀一は呆気にとられてぽかんとを見つめ返した。

「ずっと黙っていたなんて! こんなことになるまで…!!」

の目にまたじわりと涙が浮かんだ。

「こんなに無茶をして…!!」

「…はい。ごめんなさい。」

秀一はまだぽかんとしたまま、子供が母親にするように素直に謝った。

「おうち帰ったらしっかり白状してもらいますからね! ああ、せっかくの買い物が台無し!!」

多少ヒステリックな様子で、は頭を抱えた。

大丈夫そうだなと、幽助と桑原はまた悪戯っぽい目線をかわした。

そのそばで、秀一はまだちょっと困惑気味にぽかーんとしている。



人目に付かないようにの部屋まで帰り着くと、秀一はまずに本当に怪我がないかを調べ、

自分の怪我に妖気をあてたり薬草を擦り込んだりと、人間界では目にすることのない治療を施し始めた。

はそれを物珍しそうに見ている。

せっかく一緒に夕食をと思っていたのに、メニューはさんざんになってしまったとはふてくされた。

それでも、ぱっくり開いた傷口がやがて塞がり、包帯を巻いておく程度でおさまりそうなほどに

快復してゆくのを見て、驚きは隠せないようだった。

夕食は結局あるもので済ませることになってしまって、ミートソースのパスタとスープという取り合わせになった。

食事が出来上がるまでに秀一の怪我はすっかり、比較的日常的なほどに治ってしまった。

「…ごめんね、さん。せっかく夕食に誘ってくれたのに」

「それは、いいけど。怪我が心配だな…」

フォークにくるくるとパスタを絡めながら、は苦しそうな目線を秀一の左肩に向けた。

「…大丈夫。これよりもっとひどい怪我だってしたことはあるし」

言ったあとで失言だと気付く秀一。

幽助と桑原に引っかけられたことといい、今日の彼は失言続きだ。

見れば、はフォークを折り曲げかねない勢いで握りしめ、わなわなと震えてさえいる。

「あ、あの、ね、さん…」

「まったく、あなたって子は!!」

一喝されて思わず肩を竦める秀一だ。

食事のあと。

は秀一をソファの上に正座させて、しっかりとことの説明と謝罪とをさせた。

もちろん、自分の言い分を聞かせることも忘れない。

秀一は素直にの言うことに頷き従って、お説教のあいだに正座を崩すことすらしなかった。

精神年齢だけならはるかに年上だということがわかったあとでも彼はに従順だし、

の態度が覆るわけでもない。

一方の秀一は、裏事情を洗いざらい吐く羽目になって、もしかするとが恐れてしまうかもしれないという

大いなる心配を抱いていたのだが、これがまたあっけないくらい杞憂に終わってしまった。

「ごめんなさい。さん」

「心配かけさせないで」

「はい。気をつけます」

「悪い子」

「ごめんなさい」

はぷいとそっぽを向いてしまった。

許されたわけではないが説教は終わったようだったので、秀一はやっと正座を崩してソファから立ち上がった。

が座るソファの背の後ろから、を抱きしめた。

さん、ごめんなさい。心配かけてごめんなさい。恐い思いさせてごめんなさい」

秀一は耳元でそう繰り返した。

「…ご機嫌取りしても良い? カフェ・オ・レ作ってあげるから」

「…ご機嫌取りってわざわざ言う? 普通」

「言いませんね」

「もう…」

は後ろから抱きしめてくる可愛い恋人にそっともたれかかった。

怪我にひびくかと思ったが、彼が左肩をかばったり気にかけたりする様子はなかった。

「コーヒーいれて、ミルクを温めて、砂糖を足して甘くして…

 それで、ピンクのラインのマグでカフェ・オ・レにするから。機嫌直して、さん」

「…秀一君はグリーンのラインの?」

「そう。お揃い」

「…誤魔化されてる気がするわ」

「………やっぱり?」

秀一はくすくすと耳元で笑った。

やっと私の可愛いカレシが帰ってきたわ、とは思った。

肩に預けられた髪をいつものように撫でてやると、秀一はやっぱりいつものようにくすぐったそうに笑った。

上半身を振り返ると、笑いを漏らす少年の唇をキスで塞いでしまう。

彼はちょっと驚いたように目を丸くした。

「…大好きよ。」

はにっこりしてそう言った。

「年下でも、年上でも、妖怪でも、人間でも、狐でも、なんでもいいわ。私の可愛い彼だもの」

の言葉を聞いて、秀一はやっと安心したように微笑んだ。

「カフェ・オ・レ、甘くしてね? 苦いと飲めないからね」

「うん、まかせて」

もう一度軽くキスをすると、少年はコーヒーメーカをセットするためにキッチンへ戻っていった。

その後ろ姿をぼんやりと見送って、その正体は狐だという彼に耳やしっぽが見えはしないかと目を凝らす。

一瞬白いふわふわしたものが見えた気がして、

お砂糖たっぷりのカフェ・オ・レよりも甘いキスに酔ったのかしらと、はうっとり微笑んだ。



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