年下彼氏。


一人暮らしの部屋の窓を他でもないその部屋のあるじがじっと見上げているのだが、

どうにも本人に覚えのない灯りがともっている。

普通なら訝しく思って警察に電話の一本でも入れるところだろうが、は嬉々として部屋へ向かった。

仕事帰りの疲れもイライラもすぐに飛び去っていた。

エレベータのゆっくりした動作すらがもどかしい。

部屋の鍵を開けるのにかなり手間取って、はやっと自室へと帰り着いた。

「ただいま」

が部屋の中へ声をかけると、ややあってキッチンと廊下とを隔てるドアが引き開けられた。

赤い髪の少年がひょい、と覗く。

「お帰りなさい、さん」

屈託のない笑みが若々しくて眩しいな、とは思う。

もう少年などと呼べる年ではないかもしれない、彼は高校生。

リビングのソファの上に、きちんと畳まれた学生服と鞄が置かれている。

市内でも有数の進学校に通っていて、本人はあまりそういう話をしないが、トップクラスの成績らしい。

「来てたのね」

「うん…せっかくだから」

ドアを広く開けて部屋の中へ通してくれる彼の手にはフライパンと菜箸。

シャツの袖を捲り上げて、エプロンまで付けている。

キッチンに立っていたようだ。

部屋中においしそうな匂いが漂っている。

今日は今週最後の平日で、明日は会社も学校もおやすみ。

コートを脱ごうとすると、彼が後ろから急に抱きついてきた。

「秀一君?」

「逢いたかったよ、さん」

肩のあたりにすり寄ってくる。

抱きしめてくる腕にいっそう力が込められる。

いくら彼が年下で現役高校生だといっても、もう立派なひとりの男性だ。

「どうしたの、甘えん坊さんだね」

そう言って髪を撫でてあげると、彼はくすぐったそうに笑った。

「夕食、もう少し待ってくれる?」

「そんなことまでしてくれなくてもよかったのに」

「いいんだ、さんきっと疲れて帰ってくると思って」

「いい匂い」

「クリームシチューだよ」

そう言った彼の腕をはやっとすり抜けて、着替えるために隣の部屋へ。

暗い部屋の中を彼は遠目にちらりと覗いてきた。

その手にまた、さっき放り出してしまったフライパンと菜箸を持って。

「いいお婿さんになれるよ、秀一君」

「…さんがもらってくれる?」

「ふふ、高校を卒業してから言いなさい」

彼はちょっと困ったように笑って、キッチンへと戻っていった。

スーツを脱ぎ捨てると、肩のあたりにこごっていた何かがすっと落ちたように思えた。

自宅とはいえ恋人が一緒にいると思うとあまりラフすぎる服も選べない。

かといってデート中に着るようなものもまた肩がこる気がするし。

無難な柔らかい素材のブラウスとスカートとを選んで、はまたリビングへととって返した。

「あ、先にお風呂でも良かったんだけど」

「至れり尽くせりね」

苦笑するに、秀一も嬉しそうに笑った。

背を向けてキッチンに立っている彼にそっと近寄って、その手元をのぞき込んでみる。

「おいしそう。器用なのね」

「そう? 今は男でも料理くらいみんなできるよ」

「そういうものなの? うちの父なんか電気炊飯器でご飯も炊けなかったのよ」

そういう男性像を見慣れているにとって、秀一の存在はいろいろな意味で新鮮だった。

「お母さんが料理上手なんでしょ、さんの家は。お父さんがそこに惚れたんだって」

「そうよ、だから私、父親に料理の腕を誉めてもらえた覚えはないの」

いつでも母親に比べられてまだまだだと言われ続けてきたけれど、

そんな風景を見るたびに、両親がお互いを思う愛情深さに気付かされたりして。

「いいですね、そういう家族」

秀一の言葉に何となく含みがあるように感じたあと、はハッとした。

彼の父親は確かもう亡くなっていて、母親が再婚したばかりだったはずだ。

「ごめんなさい、悪いこと言ったかしら」

「そんなことないよ。うちも円満家庭だし。オレもなにも不満はないから」

そう言ってにっこりする秀一は、なんとなく年齢より大人びて見えた。

高校生なんてそんなものかしらと、は内心で思った。

もちょっと手を出す程度に食事の支度を手伝いながら、

ふたりは会えなかったあいだにどんなことがあったのかをお互いに話して聞かせた。

とはいえ、仕事の話などしてもつまらないし、セクハラ上司の話題などもってのほかだ。

穏やかそうで育ちのよさげなこの少年は、怒り出すとなにをするかわからない激情の持ち主でもある。

一度などはデート中に電車の中で出くわした痴漢魔の腕を思い切りひねりあげて見せた。

もういいから、と言ってが止めなければ骨の一本くらい折れていたかもしれない。

見かけによらず、が思うよりもずっと、彼は子供ではなく…大人の男性なのだ。

彼から聞く話は、学校の話題と家族の話題がやはり多い。

けれど、たまにそれとは違うらしい話を聞くことがある。

「じゃあ、幽助君って子は今、ここにはいないのね?」

寂しいねというと、そんなことはないと言って笑う秀一。

「オレもたまに彼の噂は聞くことが出来るし。

 距離があるからといって遠ざかるようなヤワな仲ではないから大丈夫だよ」

そういう言葉が簡単に出るところをみると、どうも普通の友達同士というよりも強い絆があるようだ。

詳しく突っ込んだ質問は何故か出来ないでいるだが、

秀一がこの不思議な友人たちを特別に大切に思っていることはよくわかる。

「…それでね」

ふいに、彼の声が少し慎重そうに低くなる。

シチューを口に運びつつ、は彼の話を聞く態度を見せた。

「みんなに、さんのことはまだ…話していないんだけど」

「ああ、いいのに、気にしないで」

「いや、その…今はそうやって離れているし、話す機会がないんだ。

 でも、そのうち全部片づいて時間が出来たら、みんなに会ってもらったりしても、いいかな?」

「え?」

会うなんてところまで話が飛んでしまうのかと、は一瞬呆気にとられた。

「できたら、家族にもちゃんと紹介したいんだ」

「で、でも」

秀一は真剣な目でまっすぐにを見つめた。

「…さんは」

たったひとことを言うにもためらわれるように苦しげに。

「たかだか高校生のプロポーズなんて、冗談だって思いますか?」

場が膠着した。

プロポーズ?

は頭の中でその言葉を反芻しながら、

自分が今彼とどんな話をしていたのかすら思い出せないほど混乱していた。

秀一はやっとから目線を外して、手元のスプーンをくるくるともてあそぶ。

「…高校を卒業するまでダメだってさんが言うなら、それまで我慢するから。

 でもオレは、そのくらい…さんのことが好きです」

なんと答えていいのかがわからずに、はただ秀一を見つめた。

可愛くて甘え上手で、とても器用で、ときどき年下だということも忘れるようなことを言う、恋人を。

彼はまた目線をあげて、ふっと笑った。

その場を和らげるように、声のトーンが少しだけ上がる。

「…だから、さんも遊びじゃなくて…それくらいオレを気にかけてくれたら、嬉しいんだけど」

「…遊びだなんて」

最初から遊びなんて気持ちは微塵もなかった。

「遊びでお付き合いしている相手に、部屋の鍵をプレゼントしたりしないわ」

そう言うと、秀一は安心したように微笑んだ。

「今日は仕事がハードで疲れてたから…来てくれて嬉しかったの」

「だって、せっかく鍵をもらったから。さんがいないあいだに使ってみたくて」

彼は苦笑すると、ポケットから鍵を取り出してみせる。

「…オレね、その家に住む人たちの姿って、キッチンに表れるなと思うんです」

「キッチン??」

「そう。台所」

彼は鍵をテーブルに置いて、その上を指ですっと撫でた。

「例えばね、うちは母が再婚したから、家族が変わった経験があるでしょ」

「ええ」

「ずっと母とオレとの食器しかなくて、母は日中働いていたし、オレも学校があるしで…

 冷蔵庫の中にはどうしても作りおきのものとか総菜とか、冷凍食品が増えるんですよね」

何となく耳が痛い気がするだ。

一人暮らしをしていると料理が面倒なこともあって、楽な方へと逃げたくなることもしばしばなのだ。

「それが、義父と義弟と一緒に暮らすようになってから、ちょっと変わってきて。

 まず普段使いの食器が増えて、弁当箱が増えて、晩酌用の徳利と猪口とがいつの間にかあったりして」

「ふぅん…」

「あと、食事のメニューに鍋料理が増えたかな」

そう言って、秀一は思いだしたように笑った。

「母とふたりだとあまり鍋はやらないから」

「そうよね。私もお鍋はしばらく食べてないし…」

「…じゃあ、さんがうちに来たときに鍋にしましょうよ」

「え、ええ?」

聞き返してみるの顔は、照れながら嬉しそうに笑っている。

「…それでね、家のキッチンと、あとはたまに幽助の家のキッチンも借りることがあるんですけど。

 今日初めてさんの家のキッチンに立って…」

「びっくりしたでしょ、冷蔵庫の中も…恥ずかしいな」

半分くらい開き直ってそう聞いてみる

秀一はくすくすと笑いながら、そんなことはないと否定した。

さんらしいなーと思ったんだよ。

 布巾がね、パステルカラーのやつが色違いでラックにかかってるのを見て、ちょっと感動したくらい」

「いやだ、感動なんて大げさね」

「本当だよ。冷蔵庫に猫のマスコットの磁石がついてたり、ひよこの形のキッチンタイマーがあったり、

 発見しては感動の繰り返しだったから」

秀一はのキッチンでの発見を思い出してはに話して聞かせる。

取っ手が透明の包丁、カントリー調のミルクパン、紅茶用の砂時計…

「でも、いちばん嬉しかったのはやっぱり、あそこの」

食器棚を指さした。

「あれ、いつもオレにコーヒーいれてくれるときのマグでしょう」

白地のすべすべした肌に、グリーンのラインが入っているシンプルなものだ。

「あれにピンクのラインのお揃いがあるのを見つけたときは本当に、心底感動した」

「ち、ちょっと! そんなところまで見てるの!?」

「それはもう、くまなく」

慌てて立ち上がるに、こみ上げる笑いをとどめていられない様子の秀一。

食べ終わってからになった食器をよけて、テーブルの上にひじをついて。

「なんで一緒にいるときにお揃いで使ってくれないのかなー」

「コーヒーは飲めないんだったら!」

だからいつも、秀一にはインスタントで申し訳ないと断りながらコーヒーをいれるだ。

上目遣いに見上げてくる秀一は、何か言いたそうに微笑んでいる。

「ねぇ、さん」

今日いちばん嬉しそうに微笑んで。

「結婚することってきっと、こういう新しく知ること、たくさんある生活なんだろうね」

苦虫をかみつぶしたような顔で、は真っ赤になって立ち上がる。

「あ。怒りました? ごめんなさい」

「…怒ってるわけじゃないわ…お風呂」

ごちそうさまと、食器を下げる。

「秀一君、もうこんな時間だよ」

入浴の支度をしながらふと時計を見ると十時を回ったところだった。

キッチンで洗い物を始めた秀一に片づけはいいからと言おうとしたが、意味ありげな笑みを向けられて口ごもる。

さん」

「…なに?」

「明日は土曜日ですよ」

「知ってるわ」

「帰らなきゃダメですか?」

まったく悪意のない様子でにっこりする彼はお得意の甘え口調。

「…帰る気なんかないくせに」

「わかってるじゃないですか」

呆れたようなの言葉に泊まりOKのサインを読んで、秀一はご機嫌で皿洗いに戻る。

「まったくもう。秀一君にはかなわないわ」

キッチンの横に立って、苦笑する

秀一は洗い物をする手を止めずにちらりとを横目で見やって。

「待ってくれてるの、さん?」

「なにが?」

「ちょっと待ってね、今終わるから」

「…なにが!?」

「背中くらい流しますよ? お望みなら背中だけと言わず…」

「結構です!」

やっと真意を悟って、秀一が行動に移す前には浴室へと逃げ込んだ。

火照った頬に手を当てて熱いため息をつく

キッチンに残された秀一は、からかい甲斐のある可愛いお姉さんだな…なんて、

またから新しい一面を見出したことに満足そうに微笑んだのだった。



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