64 ロクジュウヨン


「『あなたは腕の中に大切そうにバラの花を抱えています。さて、そのバラは一体どれくらいあるでしょう』」

雑誌から目線を彼に向けてみると、彼はうーんと言いつつ空を仰いで。

「64本かな」

「何その中途半端な数は」

「さぁ? でも、直感で答えるものなんでしょ、心理テストって。で、その心は?」

南野君は穏やかな笑みを浮かべてそう聞いてきた。

私はまた雑誌に目線を落とす。

「『大切に腕の中に抱きしめる花束はあなたの大切なもの、大切な人を表しています。

  このテストの答えが示すもの、それはあなたの恋人に対する愛情の度合いです』」

「…64%? 中途半端だな」

「だから言ったじゃん。しかも数字が両方不吉っぽいし」

ムカツク/シネなんて言葉を連想させて、愛情の度合いも何もないじゃんと言うと、

彼はあははと軽く笑った。

「ムツマジイ/シアワセと読めば問題ないよ」

まったく、喧嘩でも言葉遊びでも何でも、南野君に口で勝てた試しがないな。

盛大にため息をついてみせる。

少し寒い屋上で、私と南野君は毎日一緒にお昼を食べつつ他愛ない会話をしたり、仕事の話をしたりする。

ただのクラスメイトだったお互いが、霊界探偵と協力者という不思議な関係になるとは夢にも思わなかった。

盟王高校ではいろんな意味で有名人の彼が、まさかその裏にこういう事実をひた隠しにしているとは。

進学校にありがちなおカタイ授業から解放された生徒たちで、昼休みの校庭は賑やかだ。

わずかに届く喧騒に、私も南野君も何気なく目をやる。

見えないところで私や南野君や幽助たちが頑張っているから平和なのよ、ねぎらって頂戴と言いたい気もするけど…

ここではそれは私と南野君のあいだにしか存在しない事実で、秘密だから。

他の誰も知らない、それでいい。

屋上よりも少し低い位置でぽんぽんバレーボールが跳ねている。

女生徒たちがきゃあきゃあ言いながらボールを追いかける姿を見て、可愛いなと思う反面、

くだらない、バカみたいと思う自分がいたりして。

本当は、可愛い女の子でいられる素直さが羨ましいんだってこと、自分でも気付いてる。

そっと、さりげなく、同じように校庭を見下ろす南野君を覗き見た。

ああ、まただと思い知らされて、彼の様子を見たことを後悔する。

…これも毎日だ。

南野君の目線の先には、いつもひとりの女の子がいる。

彼女の名前を私は知らないけど、ふわふわしてキラキラして、いかにも女の子って感じの女の子だ。

男の子が夢に見る女の子の理想をすべて持って生まれたんじゃないかってくらい、可愛い子。

大人しめで控えめな感じがするから、たとえば南野君のような表立って人気者、ってタイプじゃない。

校庭を眺めていると、いつも南野君の目はその子を追っている。

私がそれに気付いたのは、こうして一緒にお昼を過ごすようになって二週間くらいたった頃。

…けど、彼自身はもしかしたら、いつも彼女を見つめてるってことに気付いてないのかも知れない。

「南野君」

「なに? 

「正直ね、私ってどんな子かな」

「どうしたの突然」

「可愛い?」

「…そう言って欲しい?」

彼は苦笑した。

そして、可愛いよと何のてらいもなく言ってくれる。

「可愛いし明るいし優しいし、成績も運動神経もずば抜けていて、男子生徒はみんな君と仲良くしたいと思ってる」

そんな情報は初めて聞いたけど。

「だからオレは君の知らないところで質問責めに遭う」

「…何を聞かれたのよ」

「そうだな、定番は『彼氏がいるのか』『好きな奴はいるのか』、それと…」

一瞬ためらったように言葉を切った。

「なによ」

「『もしかして南野がと付き合ってるのか』…かな」

ずきん、と胸の内が痛んだ。

けれど、それを顔に出さないように私はいつも努力してしまう。

冷静に平静に、いつも通りに…余裕すら見せなくちゃ。

弱いところを晒すのはかっこわるいと思う。

「なんて答えたの?」

悪戯っぽい笑みなら簡単にできる、楽勝だ。

「否定して浮かれられるのも癪だから。

 『ご想像におまかせするよ』のあとに二言三言、思わせぶりなセリフを吐いておいたよ」

「…余計なお世話」

「悪いね」

「どーすんのよ。奇妙な噂ならもうたち始めてるんだから。

 あんたのファンクラブご一行様に袋叩きにされるのはまっぴらよ」

はは、と彼は笑って、フェンスに背中を預ける。

「可愛いを他の男にくれてやるのはちょっと嫌なんだよ」

可愛い、大切な、こいつはいくらでも言葉を繕うことを知っている。

「私はあんたのモンじゃないっつの」

「そうだけど…誰かのものになるのを見てるのはきっと不機嫌だなと思うんだよ」

「わけわかんない」

「すみませんね、狐は情愛細やかなこと人間以上と言われる動物ですから」

身勝手な狐は満足そうに笑っている。

好きでもないくせに、好きでも恋じゃないくせに。

内心でそう思ってこの狐を責めるたび、私のココロは悲しくって切なくって、ちいさなこどものように泣いている。

けれどこいつの前で本当に泣いてなんてたまるか。

弱いところを見せたら、この狐は簡単に私につけ込むことができるから。



ある日は雨だった。

南野君と私とは、待ち合わせて霊界に行くことになっていた。

次の敵はちょっと手強いようだから君は戦ってはダメ、と南野君が禁止令を出した。

どうして、これまでなら女の子ながら小気味いいくらい、なんて私が戦うのをほめていたのに。

他のみんなも戦力が多少なりともダウンすると言って、私が戦うことに異議を唱えたりはしなかったけど、

南野君はそれを頑として譲らなかった。

だから、本格的に戦闘に入るまでは、私は嫌がらせのようにぴったりと彼についてまわる。

女の子だからってこいつに気を遣われるのはプライドが許さなかった。

対等な立場でいられなくてなにが仲間だろうと思っていた。

待ち合わせ、とは言っても学校の玄関で。

放課後に人がいなくなってから、こっそりと落ち合う。

お互い、妙な噂はない方がもちろんいい。

この関係は秘密、それが恋でも恋じゃなくても。

秘密という言葉の響きが、愛撫をしてくるように心地よく感じられる。

たぶん、南野君がその指で私の髪を撫でてくれたら、同じように気持ちいいだろう。

そんなことは現実にはあり得ないけど。

私は女の子で、南野君は男の子で、私を女の子扱いしようとする唯一の男の子だ。

いちばんやましいところでは、私のことを女だなんてちっとも思っていないくせに。

玄関先にたたずむ彼は、傘を杖のように冷たいタイルについている。

ぼんやりと投げかける目線の先は下駄箱のかげになっていてよく見えないけれど、彼は屋上で見せるあの目をしている。

「お待たせ」

「…ああ、来たね」

南野君はいつもと変わらないように私を見返す。

…それが気にくわないのよ、わかってないでしょ。

彼のそばに立って肩越しに、さっきまで見ていた方向をのぞき込んでみる。

そのままキスくらいは届きそうな距離。

目線の先には案の定だ、傘を忘れた彼女がいた。

「貸してあげれば? 傘」

「…いいんだよ、別に。特に親しいわけじゃない」

フェミニストだと思ってたのは間違いだったか。

「…南野君が貸さないなら、私が貸してあげよう」

え、と聞き返して彼が見返してくるより一瞬早く、私は彼の手が止められないところまで歩いてやった。

「傘、貸してあげる」

「え…」

折り畳みの、明るいオレンジ色の傘。

「でも、悪いですから」

丁寧な敬語。

初めて聞いた声はうんざりするほど甘くて想像通りだった。

胸焼けがしそうなところを、ニッコリするよう努力する。

「いいから」

「でも…」

募ってきたイライラを押さえるようにして、私は乱暴に彼女の手を取って傘を握らせた。

「私はいいの。あいつに入れてもらうから」

靴箱の向こうにちらと見え隠れする赤い髪を示した。

「じゃあね」

彼女は返事もできずにぼんやりと私の背中を見ているようだ。

「帰ろう、秀一」

「…ああ」

わざと名前で呼んでみたけど、拍子抜けするほど普通だ。

ああそう、確かに言葉を繕うのではあんたにはかなわないよ。

動揺してても悟らせたりなんかしないでしょ?

靴を履き替えて、傘を差す南野君の腕に自分の腕を絡めて。

「バイバイ」

去り際、彼女に手を振った。

彼女はかろうじて会釈をひとつ返してくる。

南野君はそっちを見ようともしなかった。

雨の中をぴったりくっついて歩いていると、南野君はふいに、いつもより少し低く聞こえる声で言った。

「…そろそろ離れない?」

「濡れるからヤダ」

「…じゃあ、ひとりで傘を差せばいい」

「南野君が濡れるからヤダ」

「…………」

彼は黙り込んでしまった。

気まずい沈黙だろうけど、私は平気なふりをした。

「…どういうつもり?」

「なにが」

「君は」

言いかけて、彼は目線を泳がせるとそのまま言葉を飲み込んだ。

そう、さっき初めて気付いたんでしょう。

南野君が自分で誤魔化し続けてる恋心と、私が南野君に抱いてる恋心とに。

あんなに普通の女の子だ。

とびきり可愛いけど、私以上に南野君とのあいだに共有してるものなんかないはずだ。

それでも、彼が彼女を選ぼうとするなら。

私はそれを、私のやり方でただ邪魔してやろうとするだけだ。

「ねぇ、お花屋さん。バラの花がほしいな。64本」

「………」

「ほしいって言ったら、くれるんでしょう」

尋ねはしなかった。

有無を言わせないように迫ったら、彼は必ず折れてくれると知ってたから。

私はそれほど子供で、彼はそれほど大人だ。

「…何色がいい?」

「赤」

「…わかった」

64本分の恋、64%の愛情。

中途半端だな。

そう言ったのは彼自身だ。

「南野君。キスして」

私の目はどれくらい切実に彼に訴えていたのか。

こんなに曖昧に結ばれた恋人同士が他にいる?

「キスして。64%分でいい」

彼はしばらく黙って私を見つめていた。

まっすぐな視線は恐い。

でも負けない。

負けてたまるか。

彼は多分、36%分は手抜きのキスをくれた。

オレンジ色の傘の彼女が物陰から覗いているのに、私も彼も気付いていた。

やっとほしかった恋を手に入れたの。

ずっとほしくてたまらなかったの。

卑怯者だってわかってる、それでもいい、この人がいい。

誰にも奪われたくなんかないの。

だから、私が先に奪ってやったの、それだけなの。

そんなにショックを受けたような目で見続けないでほしい。

相手があなたじゃなくても、私はきっとその子からこの人を奪った。

相手が誰だったとしても、私はきっとこの人をほしがった。

目の端からオレンジ色の傘が走って去っていくのが見えると、南野君は突き放すように私から離れた。

傘がぱたりと落ちた。

「…満足?」

激しい雨に、彼の髪が濡らされて湿っていく。

いつも穏やかで優しい緑の目は、今は冷えて氷のように冷たい。

私はこんな時でも平気なふりをする。

「赤いバラの花言葉ってなんだっけ。情熱?」

「………」

「…64%にしては、…」

含み笑いを向けてやった。

彼は明らかに不機嫌な顔をした。

今日は私の勝ちだ。

嬉しくも何ともない。

「傘、もういらない」

雨が降っていることにただ感謝した。

初めてのキスがあんな風に終わってしまったことに、今更流れる涙を隠してくれる。

彼は一歩後ろを、傘を畳んで着いてきた。

どうか気付かないで、私の中のこどもに。

今日の私はきっと世界中でいちばん可愛くない女の子だ。



次の日、目撃者がいたにも関わらず、学校は恐ろしく普通通りだった。

あの子は誰にも言っていないに違いない。

私と南野君もいつも通りだ。

朝会っておはようと挨拶をして、さっぱり記憶に残らないような会話をして、授業を受けた。

昼休み、たまたま雑用を言いつけられて屋上へ行くのが遅れた。

南野君はもう先に行っているはずだ。

屋上へ続く階段を上っていくと、上から華奢な足音が聞こえてきた。

彼女だ。

「あ、………」

動揺して口ごもったあと、覚悟を決めたように話し始めた。

「あの、昨日は傘、ありがとうございました」

「いいよ、大したことじゃないから」

「傘、南野先輩にお返ししておきました…」

「そう」

後輩だったのか、どうりで。

それで黙り込んだ彼女の目をなんだよ、と思って見上げると。

彼女の大きな瞳から涙がこぼれ始めた。

「ごめんなさい、私…」

彼女は手の甲で涙を拭いながら、止められない嗚咽を繰り返す。

「南野先輩、ちゃんと断ってくださいましたから。心配、しないでください」

屋上で、少し寒い空の下で、彼女と南野君のあいだになにがあったのかをすぐ悟った。

…断った? 冗談でしょ?

「南野先輩と、どうぞ仲良く…」

たぶんわんわん泣いてしまいたいところをどうにかこらえて、彼女はそれだけのどから絞り出す。

失礼します、と礼をして、彼女は階段を駆け下りていった。

呆然とする私をそこに残して。

…冗談でしょ。

泣きたいのは私のほうよ。

屋上の重い扉を押し開けると、彼はいつものようにフェンスに背中を預けて、校庭を眺めおろしていた。

私に気付いて、目線を寄越すとふっと笑った。

「遅かったね。お疲れさま」

そう言う南野君は、拍子抜けするくらいいつも通りだ。

雨の中のキスも、彼女の告白も、全部なかったことにするつもりなのか。

隣に腰を下ろして、パンの袋を破る。

購買に残っていたクリームパンは、うんざりするほど甘くて胸焼けがしそうだ。

それでにっこりしている元気は、今日はないかもしれない。

「そうだ、さっき…昨日が傘を貸した子がいるでしょう。返しに来たよ」

はい、これ。

きちんと乾かされて畳まれたオレンジ色の傘が、南野君から差し出された。

その傘を見つめながら、私は身動きもとれずにいた。

息が詰まる。

苦しい。

「…なんで断ったのよ」

「…え?」

「あの子のこと好きだったんでしょ? なんで断っちゃったのよ」

「………」

可愛い子、男の子の理想の女の子像をみんな詰め込んだような子、

砂糖菓子みたいにふわふわキラキラ甘くて、甘ったるくて…女の子から見ても憧れちゃうような子。

黙って俯いたら、彼は困ったのだろうか。

とりあえずオレンジ色の傘を置いた。

座り直して、志保利さんお手製のお弁当を開きつつ。

「…バラの花、いつ持ってこようか」

今はそんな話してないじゃない。

「64本って、結構多いよ…」

両腕で抱えても、きっと足りないくらい。

溢れてしまうかもしれない。

彼は静かな声でそう言った。

中途半端な恋、中途半端な愛情。

中途半端な数字、中途半端な会話、中途半端な思いやり、中途半端な失恋。どうして。

「…彼女、のファンなんだってさ」

思ってもみない言葉に顔を上げる。

彼の横顔がすぐそばにあった。

「可愛くて明るくて優しくて、誰にでも平等で、勉強もスポーツもできて、友達が多くて、人気者で…

 憧れの先輩なんだって言ってた」

泣きそうな表情を無理に笑いのかたちに歪めて、彼女はへの憧れの気持ちを素直に語ったのだそうだ。

先輩を大事にしてあげてくださいって、頼まれたんだ」

自分がどんなに理不尽に、その純粋な恋を失ったのかを知らないで。

彼女は卑怯な手を使って南野君を奪った私を、大事にしてあげて、と、彼の腕の中に押しつけたのだ。

返されたオレンジ色の傘の上に、ぽたぽたと滴が落ちる。

雨じゃない。

あんなに南野君の前で見せたくなかった涙が、…止まらない。

「…

「〜〜〜っ」

声にならない声が、のどの奥から望みもしないのに漏れ出て止めることができない。

私はそんなにもこどもだ。

泣き方すら知らないほどに。

南野君が優しく、切なそうに微笑んだのがわかった。

そして、指をのばして髪を撫でてくれた。

よしよし、いい子。

いい子だね、

彼の指はそんなふうに私を甘やかす。

撫でてくる優しい指も、切なそうな笑顔も。

本当は彼も泣きたいと思っていることを私に伝えていた。

彼はそんなにも大人だ。

…泣き方すら知らないほどに。

「…のこと…きっと好きになれるよ」

囁いた声はいつも通りを装おうとして、詰まったようにかすかに震えた。

そうして南野君が自分で押し殺した片恋は切なくて苦しくて、

私のこどものココロはひとり、私のかわりに涙を流す。



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