続き


と気持ちが通うようになってからというもの、仕事が長引くのが苦痛でたまらなく感じられるようになった。

0時を過ぎてオレが戻らなければ先に眠るように、といういつかの命令を、はいつも忠実に守っている。

今となっては命令という言葉はなんという傲慢さだろうと自己嫌悪せずにいられないが…

疲れた身体を引きずって部屋まで帰ると、照明が落とされて薄暗い部屋ではひとり、眠っている。

暖炉にはかすかに火が残り、時折ぱちぱちとちいさな音を立ててはぜる。

ベッドサイドにともる灯りが、天蓋から下がる薄いカーテン越しに妻の姿をほの明るく照らしている。

枕元に置かれている本は日毎にタイトルが変わっていて、きっと時間を持て余しているのだろうと予想がついた。

胸元で重ねられた手指に、このところは淡いピンク色に染まっている宝石の指輪を見つける。

今日は穏やかな気持ちで過ごせたようだと安心した。

嫌なことがあったらしい日は、ティア・イオライトは青みがかった黒や乾いた血のような色に染まっていたりして、

が起きている時間に帰ってくれば良かったと少なからず後悔させられる。

それでも、朝起きてオレが仕事に出るまでのほんの少しのあいだ、は微塵もそんな態度を見せはしない。

昨日あった楽しかったことと嬉しかったこと、新しく見つけた自分の好きなものの話ばかりを聞かせてくれる。

それがこのところのオレのいちばん大きな安らぎであることを、自分でももう痛いほどわかっていた。

を起こさないようにその隣へ横になって、彼女の肩まできちんとシーツを掛けてやる。

安らかな寝顔。

ただ見つめているだけで、疲れがやわらいで溶けてゆくのが感じられた。

額にそっと唇を寄せる。

はそれで浅い眠りから覚めてしまったようで、ぼんやりと目を開けて瞬きを繰り返した。

「…くらま…? おかえりなさい…」

寝起きの声で囁いた。

「起こしちゃったね…ただいま」

今度は唇にキスを。

はゆっくり目を閉じる。

そのまままた眠りについてしまったようで、は心地よさそうな呼吸を繰り返している。

そんな様子に、オレにはただじわりと幸せな笑みが浮かぶばかりで。

と一緒に暮らすこの部屋の外、あの庭園の向こう、国境の遙か彼方では、

風の便りを聞くばかりのいくつもの争いや戦いがある。

身勝手な願いだけれど、本当は身分も立場もなにもかもを捨てて、さえ守れたらそれでいいと思った。

このちいさな部屋のありきたりな平和を保てたら、それだけでもいいと思った。

愛しい妻、いまだ幼い花嫁。

君がこうしてこの部屋でオレを迎え入れて守ってくれる。

ここで君のそばにいるあいだだけは、オレはなにもかも忘れて君に甘えることができる。

オレはオレ自身の安らぎと、君とをただ守ろう。

(…なんだかオレも変わったな…)

眠るの身体を掻き抱いて髪を撫でた。

好きな香水は、と課題を出したあとから、からはたまにかすかな甘い香りが漂ってくる。

それまでは侍女たちにいじられる以外に自分を飾ることなど眼中になかったらしい。

まるで誘いをかけているような瑞々しい香りについ理性が飛びそうになることがこのところ数度ほど。

うーん、自分も男だったかと今更ながらに認識させられて、ひとりで赤面したりする。

その反面、まだ幼さが十二分に残るを大切だと思うあまり、指一本触れることのできない自分がいたりもして。

誤魔化すように目を閉じて息をつくと、腕の中でが身じろぎする。

今この思考の最中にそんなに存在を意識させられたら、…困る。

いっそもう眠ってしまえとばかりに目を開けることはしなかった。

はふぁ、とちいさなあくびをして、いつの間にかオレに抱きしめられていたことに気づいて

きょろきょろと視線を巡らせているらしかった。

寝たふりのオレをじっと見つめているのを感じる。

はそっと、ほんの少し首を持ち上げて、ベッドの上にひじをついた。

オレを起こさないよう配慮しているらしい。

しばらくまたオレの寝顔を見つめている…頬のあたりにの吐息を感じた。

なにをしているのか、早く寝てくれないかな、などと自分の内側にわき上がる獣を必死で押さえ込んでいると。

ふいに、の唇がオレの唇にそっと重ねられた。

ぱらりと前髪が流れて頬に落ちてくる。

驚いて、とっさに離れてしまったのは失敗だった。

はオレが起きていたことに驚き、キスを拒否されたのだと思ったらしく…不安そうに俯いてしまった。

「…ごめんなさい」

そう言うなり、くるりと背を向けてしまう。

あまりのことにオレは呆けるばかりで、たっぷり数十秒は経ってやっとハッとして、必死の弁明を試みる。

、ごめん…違うんだ」

起きあがって、背を向けてしまったをのぞき込む。

は涙目でオレを見上げた。

たったそれだけのことが、オレの胸をこんなにも締めつける。

「………驚いて」

君からのキスは初めてだったから。

そっとゆびを伸ばして、彼女の頬に触れた。

「…ありがとう、嬉しいよ」

笑みが浮かぶのをとどめることなどできなかった。

まだ不安そうな表情のに無理矢理こちらを向かせるような真似はできなくて、頬にキスを落とすとおやすみと囁いた。

さっきまで押し殺すのに必死だったはずの獰猛な感情は、のキスひとつであっけなく沈んでしまっていた。

まったく、神聖視している相手の力は絶大だ。

オレにとってはちょっと驚いた程度のことが、をこんなに傷つけてしまう。

ヘタに触れようとしたらどうなってしまうのか、考えるだけでも恐かった。

(まだしばらく、事実上の夫婦にはなれそうにないなぁ…)

そう思いながらふっと笑ってしまうあたり、まだそれで構わないとどこかで思っている自分にも気づく。

がそろりとこちらを振り向いた。

「…蔵馬…怒ってますか?」

「どうして?」

「………だって」

言いづらそうにまた俯いたを抱き寄せて。

「オレは嬉しいんだよ…」

安心させるようにそっと髪を撫でた。

「ありがとう、

そう言うと、やっと安心したらしいはほっと息をついた。

「あのね、蔵馬…」

がまだちょっと困った目で見上げてくる。

「蔵馬が私に課題を出し続けた意味を自分なりに考えたんです。

 私、人に従うことばっかりで、全然自分じゃなかったことに気がついて」

課題は予想以上の効果をもたらしていたらしい。

オレは素直に頷いてやった。

「…だから、自分自身のしたいこと、しようと思っただけなの…

 私、あなたが好きだから…そばにいたいと思っただけなんです」

さすがに目を見つめたままでそれは言えなかったようで、はまた俯いてしまう。

「…そうか…よかった。君の気持ちが聞けて」

嫌われているかもしれないと覚悟していたからと言うと、は少し怒った顔でそんなことありません、と反論した。

「そう? じゃあ、

「はい?」

「もう一度」

はぱちくりと瞬きをする。

「もう一度、キスしてほしいな…」

「え………」

とたん、はかぁっと頬を赤く染める。

こんなときはティア・イオライトもひときわ輝きが強く見える。

大丈夫、今度はびっくりして逃げたりしないから、と言って顔を近づけると、

はためらいがちにもう一度唇をあわせてきた。

そのままで何度も何度もキスを繰り返しているうちに、またこのままを抱いてしまいたい欲求に駆られて…

から漂ってくる香りが更にその感情をくすぐってきた。

…このままじゃいけない。

「…

「はい?」

「最後の課題」

「はい」

は初めてのちょっと激しいキスに息をつきつつ首を傾げる。

「…早く大人になって」

「は、はい…?」

「ああでも、急がなくていいから。ゆっくりでもいいけど早く大人になって」

「はぁ…??」

もう自分でも言っている意味がよくわからない。

きょとんとするにまたキスを繰り返しながら、美しく成長するであろう妻の姿を思った。

ゆっくり、時間をかけて綺麗になる君をずっと見守っているから。

そうしてオレはしばらく、平和で愛おしくて、どうにもやりきれない夜を過ごすことになる。




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