< やや倦怠気味の御夫婦
パラレル002 やや倦怠気味の御夫婦


「おはよう」とキスをしなくなることがあるなんて、夢中で恋をしていた頃のからは考えられなかった。

暇があれば寄り添って触れ合ってキスをして、抱き合って、もっともっともっと。

何度聞いても飽きないくらい、好きという言葉を繰り返して。

幽助がまたかよ、なんてうんざりした顔をしていても、

桑原くんが照れて焦って暴走しても、

飛影がイライラしているのがわかっても、そんなもの全然関係なかった。

蔵馬は優しくてどんなときでもを大切にしてくれた。

他人の目なんか気にならなかったし、ともかく一番にお互いだけを見ていた、そんな頃が確かにあった。

恋心がしだいに愛情に変わるとやがて、お揃いのプラチナの指輪を左の薬指にはめて。

写真の中の自分は純白のドレスを彼のためだけに着て、とても幸せそうな微笑み。

出逢った頃のときめきから、ずっとずぅっと今までのこと、ちゃんと覚えている。

恋する気持ちと幸せな気持ちと、愛してる気持ちも全部。

今だって変わらずに蔵馬を愛してる、愛してるけど、なんだか今は…

とっても、普通だ。



「ああ、起こしちゃった…?」

目を覚ますと、蔵馬はもう出勤支度を全部終えて部屋を出るところだった。

「寝てなさい、まだ早いから」

彼はそう言って、昔と変わらない綺麗な笑みをくれる。

義父の会社を今は結構大きな会社に育て上げた蔵馬は、義弟が成人するまでという条件で社長職に就いている。

けれど、社長出勤と呼ばれるのんびりしたことを彼は殆どしたことがない。

「もう出かけるの?」

「うん…いろいろやることもあるからね」

寝てなさいと言った言葉を聞き流して、パジャマの上にカーディガンを羽織ると、玄関まで蔵馬を見送りに出る。

「これからは忙しい時期だから、帰るのが遅くなると思うけど…先に寝ていていいからね」

「…わかった。無理しないでね」

聞き分けのいい奥様は、こういうときにわがままを言ったりはしない。

にっこり笑って、自分のために頑張ってくれている旦那様を送り出す。

玄関を出たあとも、蔵馬は見送りに立ってるに手を振り返してくれる。

蔵馬は全然変わっていないのに。

(変わっちゃったのは、私のほうなのかな…?)

毎朝同じため息をついてはやるせない思いを抱いて、はすごすごと家の中に戻る。

ひとりで過ごす昼間は不自然に明るくて、奇妙にけだるくて、ひどく長く感じられる。

その間にもやることはたくさんあるのだけど。

シャワーを浴びてとりあえず目を覚ましたあと、着替えて軽く食事をとって、ベッドを整えて。

蔵馬は最近疲れてるし、が眠ったあとの時間に帰ってくることもある。

もう何日くらい、蔵馬に触れていないだろう。

脳髄が溶けていきそうなキスと、抱きしめてくる腕と、気が遠くなるようなあの、熱と。

決して仲が悪いわけじゃないんだけど…どうして?

悶々とした思いに気を取られて、家事などまるで進まない。

「…だめだ、こんなんじゃダメ!」

ひとりで家の中に詰まっているのでは、気が滅入ってしまう。

夕食の買い物がまだだったことに気づいたのが幸いに思えた。

外は少し寒くて、ひらひらしたスカートが早足になるほど風に翻る。

今までにないくらい熱心に店をまわって買い物を済ませると、近所を散歩がてら遠回りして帰路につく。

蔵馬が独身時代から一人暮らししていたマンションに、今はふたりで住んでいる。

入り口から郵便屋のバイクが走り去っていくのが見えた。

ポストを覗くと、一通の手紙が届いている。

『南野様』

几帳面な綺麗な文字で、住所との名前とが綴られている。

裏返してみても、差出人の名前も住所も書いていない。

白い厚地の紙にシンプルな縁模様の描かれた封筒は、清楚でとても綺麗。

部屋に帰って、買い物の荷物を片づけるのもそこそこに、は封筒を開けた。

薄い、半分透けた便せんが一枚、丁寧に折り畳まれて入っている。

封筒から引き出すと、やわらかな香りがすぅっと漂った。

   『南野

    突然名乗りもせずにお便りする失礼をお許しください。

    僕は(怪しい者ではありません)近所に住む者で、

    あなたが結婚されて此方へ越してくる以前からあなたのことを見知っていました。

    結婚している女性に対して不躾だとは思ったのですが、

    あなたのことをどうしても忘れることができません。

    僕はあなたに対して何かを望むわけではありません。

    ただ、こんなふうに思っている男もいるのだということを心の隅にでもしまっておいてください。

    あなたと御主人との仲の良い姿を見かけることがあると、僕もとても嬉しくなります…』

「え………これって」

ラブレターというやつだろうか。

(嘘ーーー!!?)

こんな手紙をもらったことなどない。

それこそ、蔵馬とだって手紙のやりとりなんかしたことがなかった。

彼はいつだって、当たり前のようにそばにいて、を守ってくれていたから。

言葉すら必要ないくらいに、を大切にしてくれていたから。

(こんなの、初めて…)

ためつすがめつ、頬を真っ赤に染めながら、はその手紙を何度も読み返したのだった。



「ただいま…?」

夜中になってやっと帰宅した蔵馬は、眠っているはずと思った妻がまだ起きているのかと疑った。

リビングに照明が灯されたままになっていたが、の姿はそこにはなかった。

寝室をそっと覗くと、は安らかな寝息をたてて眠っていた。

(よかった、今日も何事もなかったようで)

ネクタイをゆるめながらふと、リビングのテーブルの上を見やると、

見慣れない封筒が置いてあるのが目に入る。

妻に宛てた手紙。

蔵馬は何気なく、その手紙を取り上げて便せんを引き出した。

几帳面な文字が、彼の妻に対する淡い思いを告げていた。

ふと、寝室のほうで、の気配がわずかに揺らいだのがわかる。

手紙を元通りにきちんとしまって、蔵馬は寝室へ入っていった。

…起きてるね?」

「…………寝てます」

「…

「おかえりなさい」

「ただいま。…あの手紙は?」

「……………読んだの?」

「あんなふうに、見てくださいと言わんばかりに置いてあったらね」

「……………」

何となく気まずい空気が流れた。

「まぁいいけど…差出人もわからない手紙を、簡単に開けちゃいけないよ。気味が悪い」

「…大丈夫だったもの…あんなふうに言ってもらって、悪い気はしないでしょ」

少し反発を含んだの声色が、手紙のあるじに対して悪い印象を持っていないことを蔵馬に伝えた。

蔵馬は呆れたようにふっと息をつくと、ベッドのそばを離れてリビングのほうへと戻っていった。



次の日。

南野家を、花束を抱えた配達員が訪れた。

可愛らしいピンク色の薔薇の花がの両手いっぱいに、細いリボンをかけられて。

そして例によって、花束の中に差出人名のないメッセージカードが添えられていた。

   『南野

    一度、あなたのような女性に花を贈ってみたいと思っていました。

    記念日でもお祝いでもないけれど、受け取ってください』

(うわぁ…どうしようどうしよう)

火照る頬がどうしても緩むのを隠しきれない。

名前を名乗ることすらためらわれる、秘めた思いを綴った手紙。

両手いっぱいに溢れるほどの、薔薇の花束の贈りもの。

薔薇の花を活けるために、キッチン中に花を一輪ずつ広げては、

結婚するずっと前に蔵馬から聞いたことを思い出す。

「薔薇の花はね、そのまま水にさしてもあまり長保ちしないんだ。

 だから、一回こうして茎を火で焼いてから活けるといいんだよ」

さすがは薔薇を武器にまで使う植物使いだと、そのときは心底感心させられたものだ。

「そうしたら、水の吸い上げが良くなって、長く咲くようになるから」

「そうなんだ? 知らなかった…蔵馬はほんとに、薔薇の花が好きなのね」

「…好きだから、長くそばにおいておきたいって思うんだよ…

 そのためにはできるだけ気にかけて、愛情をそそがないと…ね」

「そっかぁ…蔵馬にお世話してもらったら、お花も幸せだね、きっと」

「うん…? うん…まぁ、そうなのかな…」

彼らしくなくばつの悪そうな顔をして、そんな曖昧な答えを出したことを覚えている。

ガス台に茎の裾をあててあぶりながら、は蔵馬のことを思った。

不愉快な思いをさせてしまっただろうか?

自分以外の男の言葉に嬉しそうにしているを、冷めた目で見ているのだろうか。

の中に、急に不安がよぎる。

どんなふうに思いを告げられても、ロマンチックな贈り物をもらっても。

やっぱり自分は、蔵馬のことをこれ以上ないくらい愛している。

(今日は蔵馬が帰ってくるの、起きて待っていよう)

謝って、もう一度ちゃんと言おう。

あなたを愛してる、と。

彼はまた、その腕でを抱きしめてくれるだろうか?



その日は珍しく、蔵馬はまだ早い時間に帰宅した。

がおかえりと告げに現れるなり、手に持っていたものをずいと突き出した。

「お待ちかねの手紙。ポストに入ってたよ」

三通目の手紙だった。

「…蔵馬」

「読まないの? 嬉しそうにしてたじゃない」

そう言う蔵馬の表情はちょっと意地が悪くて、は少し傷ついた顔をした。

おずおずと手紙を受け取っただが、そこにあまり嬉しそうな様子は見られない。

封筒に書かれた自分の名前を俯いて眺めるは、なんだか暗い表情だ。

蔵馬はその横を通り抜けてさっさと家に上がると、着替えに寝室へ入ってしまった。

つらそうに彼の消えたほうを振り返りながら、

は蔵馬からただいまの一言を聞けなかったことにひどく傷ついていた。

のろのろとリビングへ戻り、しばらく手紙を眺めたあと…はその封を切った。

これで最後だと心を決めて便せんを広げるが、そこに見たのは思いもかけない文章だった。

   『

    騙すようなことをして悪かったと思っています。

    最近はオレの仕事も忙しいし、時間がすれ違うばかりで寂しい思いばかりさせているね。

    よく考えたら、このところは忙しいことを言い訳にして、

    君に愛していると言うことすらできずにいました。

    オレは出逢った頃と全く変わらずに君のことばかり思い続けているのに、

    いつの間にこんなに距離ができてしまったんだろう。

    恋人とか、夫婦とかという関係に甘えるだけで、

    君自身のことをかえりみなくなっていたのかもしれない…

    どうにかして君の気持ちを取り戻したくて、

    いっそのこと最初からやり直してみようか…と、こういうまわりくどいことを仕組みました。

    けれど、結果は思ったとおりにはいかなくて…

    可笑しいことにオレは、手紙を読んで嬉しそうにしている君を見ては、

    初めて自分の気持ちを君に告げたときのような高揚感を覚えるのと同時に、

    手紙のあるじである自分に嫉妬したりしていました。

    …やっぱり、自分の気持ちは自分の口で伝えなければね。

    だから、オレから君に届くラブレターはこれで最後です。

    この手紙だけは、自分で君に渡そうと思います。

    読み終わって、君は怒るかもしれないけれど…

    君を愛するということにかかると、オレもただの男でしかないようです。

    どうしたら一番いいのか、判断がつかなくて…

    混乱させてしまったこと、申し訳なく思っています。

    君に直接言いたいことがたくさんあります。

    今日は早く帰るから、これまで離れていた分が埋まるまで、たくさん話そう。

    最後に。

    オレは、出逢ったときから今まで、これからも、ずっと君のことを愛しています。

    これから先の未来も、どうぞよろしく。

    愛するへ…蔵馬より』

読み終えてなお、二の句を継ぐことのできない

蔵馬はまだ寝室にこもっていて、出てくる気配はない。

(蔵馬…? 嘘………)

ぴったりと閉じられた寝室のドアをじっと眺める目から、ぽろりと涙がこぼれる。

そっと近づいて、ドアを開けた。

「蔵馬…」

漂う妖気が妙に動揺した。

何をしているのかと思えば、着替えもそこそこにベッドの上にぐったりと突っ伏して、

うつぶせに倒れたまま目線だけこちらに寄越してみせるではないか。

の手に封を切られた手紙があるのを見て、蔵馬は照れたように眉をひそめた。

拗ねてふて寝している子どものようで、おかしくて…はクスリと笑いを漏らした。

「あなただったの」

「…くだらないことするよね、オレも」

観念したように息をついて、蔵馬はベッドの上に起きあがった。

その頬が暗闇の中にもなんとなく赤いのがわかる。

がその隣にそっと腰をおろす。

「…そんなことないよ、嬉しかったもの」

は手紙を見つめて、本当に幸せそうに、笑った。

結婚式の写真の中の微笑みに負けないくらい、幸せそうに。

「…ごめんね、

「ううん…こっちこそごめんね」

謝りあって目を見合わせると、ふたりはやっと安心して笑うことができた。

蔵馬が慈しみに満ちた目でを見つめ、そっと…ほんの少しだけためらいがちにその手を伸ばすと。

もにこりと笑みを返して、蔵馬の腕の中にごく自然におさまった。

蔵馬の肩に頭をあずけると、彼の指が優しくその髪を撫でてくる。

たったそれだけの触れあいが、お互いの心をじわりと満たしてゆく。

胸がいっぱいになって、は蔵馬の背にゆっくりと腕を回した。

「ありがとう、蔵馬…私、あなたが大好き…」

「…うん」

蔵馬の声が耳元で響く。

の身体を抱きしめる腕に、少しずつ力がこもる。

「…わかってたはずなのに」

「え?」

顔を上げたと額を付き合わせて見つめ合いながら。

「長くそばにおいておきたいと思ったら、できるだけ気にかけて、愛情をそそがなきゃって…」

そう言って、の額に優しく口づける。

「…は覚えてないかもしれないね」

そう言って苦笑する。

「オレは、君のことを思ってそう言ったのに。

 君は薔薇の花についてオレが語ってると思ったみたいだったから」

「………!」

蔵馬が言っていたその言葉の意味にやっと気づいて、はかぁっと赤くなる。

それを見てクスクスと笑う蔵馬だ。

「…あのときから、もうずっとオレは君を手放したくなんかないと思ってた…それなのに」

時間が経つにつれて、こんなにを遠ざけていたなんて。

蔵馬は苦い表情で続ける。

「ごめんね…そばにいられなくて…」

うめくように言うと、またきつくを抱きしめる。

「…愛してるよ、…」

耳元で、彼の声が確かな響きを持ってささやいた。

も黙ったままで何度も頷き返す。

しばらく抱きしめあって、お互いの距離がまた歩み寄ったことを確かめ合うと。

どちらからともなく、そっとキスを交わした。

何度も何度もキスを繰り返すうちに、まるで恋に落ちたばかりの頃のように夢中になってお互いを求め合う。

そのまま食事をしていないこともすっかり忘れて、ふたりはこの世の終わりとばかりに愛し合った。



「…ねー、蔵馬…」

少しけだるいような微睡みから醒めると、蔵馬は隣にいてじっとを見つめていた。

その顔は穏やかで、ただ優しくを見守るように。

「なに?」

「…手紙、あれで最後なの?」

「え?」

「…お返事書くから…また書いて?」

「…また?」

蔵馬は照れ笑いだ。

誤魔化すように、愛しい妻の唇に今日何度目かもすでにわからないキスを落とす。

「いいんだよ…全部自分で言うって決めたから」

「ん…」

また優しくキスを繰り返す蔵馬に、も少しずつ応じる。

「じゃあ…」

きれぎれにまたなにか言おうとしたに、蔵馬は首を傾げる。

「おはようのキスは、忘れないで…」

の昔から変わらないあどけない表情でそんなことを言われて、蔵馬はたまらずにをきつく抱きしめる。

「くらま…」

「忘れないよ、もう大丈夫…おはようも、いってきますも、ただいまも、おやすみも、全部…」

「うん…」

は安心した様子でほぅ、と息をつく。

「好きだよ、…大好きだよ」

大好きだよ、のキス。

「………愛してるよ…」

愛してるよ、のキス。

「愛してる…」

もう理由のつけようもないくらい繰り返し繰り返しキスをして、

ふたりはお互いがやっと自分の内側に還ってきたことを知った。

気の済むまで触れあい愛し合い、深い夜に眠りについて。

そうして目覚めた朝はやっぱり普通だけれど、

蔵馬がにキスを贈るのを忘れることだけはなくなったのだった。



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