続き


「…蔵馬…大事な話があるの」

帰宅するなり、ただいまのキスを贈る前に切り出されてしまって、

格好が付かずに蔵馬はちょっと誤魔化し笑いだ。

「なに? どうかしたの?」

まさか自分の留守のあいだに何かトラブルがあったのだろうか?

いや、だとしたら帰宅を待たずに電話で連絡のひとつくらい入れたはずだ。

「…あのね、私…」

俯いて蔵馬の目を直視しないは心なしか赤く頬を染めて、

興奮に耐えかねるように小刻みに身体を震わせている。

「…好きな人が出来たの…」

「…は?」

間抜けな問い返し方をしてしまった。

いやいや、そんなことを考えている場合ではないと内心は急に焦る。

は今何と言った?

「その人のことを考えると、私…食事ものどを通らないの」

最近の様子がおかしいことに蔵馬は気付いていた。

たしかに、食がほそくもなっていたと思い当たる、しかし。

「…どういう冗談なの?」

「冗談なんかじゃないわ、本当だもの…」

たしかにの目は嘘をついているときのそれではない。

カレシカノジョの好いて好かれてという話じゃない、結婚したまぎれもない夫婦だぞと蔵馬は思う。

簡単に好きな人が出来た、なんて。

「誰のこと? オレじゃない誰かを好きになったなんて言うの? 本気で?」

「…そうよ」

はそう言ったきりしばらく黙って。

「最近ずっと体調が悪くて動けなかったから…

 不安で、心配になって、病院に行ってお医者様に診ていただいたの。

 …私、あとほんの数か月…って言われたわ」

さっと蔵馬の顔から血の気が引いた。

「数か月って…!」

「…あと数か月だけしかないなら、その人のことに一生懸命になっていたいの…

 わかって、蔵馬」

手の込んだことを仕組んでをハメてまでやっと距離を縮めたというのに。

からの唐突な告白は、蔵馬を指先一本で奈落に突き落とすには充分だった。

「…オレにどうしろって言うの」

「私からは何も言えないわ…蔵馬がどうしたいのかを、考えて…聞かせて」

どうしたいのか。

今日は帰宅したら、ここ最近帰りが遅かった分をたっぷり埋め合わせしなければと思っていた。

忘れないでと言ったただいまのキスを。

数日ぶりの一緒の食事。

話したいことだってたくさんある。

夜が更けたら、ベッドの上で死ぬほど優しくを愛してやりたい。

その肌に触れて、抱きしめて、そうして心地よい眠りに誘われるまで。

それが全部、一瞬にして奪われてしまった。

目の前がくらくらとする。

「…オレに望みはないよ」

かすれた声で絞り出した。

の好きなようにしたらいい。オレはそれに…従うよ」

「…蔵馬…」

ありがとう、と呟くの顔をまともに見つめることなど出来そうになかった。

「…どんな奴? 君がそんなに気にかける相手なんて…」

「…妬いてる?」

「当たり前だろう」

はまだ赤い顔で、ウットリとしたように宙に目線をさまよわせる。

「…まだわからないの」

「………………はい?」

「会ったことがないから…でも素敵な人よ、それだけは自信があるわ」

蔵馬も絶対好きになれるわとは断言した。

「冗談じゃない。会ったこともない相手に…!!」

「蔵馬、怒らないで」

「怒らずにいられると思うの? まさかメールか何かで知り合っただけの相手なんて言わないだろうね?」

「違うの、…話したこともないのよ」

それでもの気持ちが傾くことは、

もしかしたらどうにかするとあるいはほんの少しの可能性で、あるかもしれない。

名前を伏せて蔵馬がにラブレターを送ったときだって、

は嫌な気持ちはしないだろうと、むしろ喜んでさえいたのだから。

「…わかんないの?」

「なにが!?」

怒る蔵馬を前に、は上目遣いで意味ありげにクスリと笑って見せた。

「やんちゃな人なのよね、さっきもお腹を蹴られたの。びっくりしちゃった」

………腹を蹴られた??

たっぷり数十秒そうして呆けてから、蔵馬はやっとはっとした。

「…もしかして」

「うん」

「浮気の話じゃないね?」

「ええ、ぜんぜん。蔵馬と同じくらい好きな人が出来たの。蔵馬も好きになってくれるでしょう?」

にっこり微笑むに、たまらなくなって蔵馬はいきおい、抱きついた。

「…本当に?」

「ええ、そうなの。脅かしちゃった?」

「………」

蔵馬は黙ったままで頷いた。

少しだけ離れて、が先程蹴られたという──下腹のあたりをそっと指で撫でた。

目を細めて、幸せそうに見つめながら。

「…まったく、悪戯な人だね…君のママは」

「あら、でもね、あなたのパパはママに負けないくらい悪戯をするし…

 本当はママの悪戯がそんなに嫌いじゃないのよ、ちゃんとお見通しだもの」

はウフフと含み笑いだ。

まだまだほっそりとしたその身体には、今ちいさな命が宿っているのだ。

自分の身体の変化にやっと気付いて病院を訪ねてみたら、

もう5か月目ですよ、のんびりしたママだことと言われてしまったらしい。

「…ごめん、怒鳴ったりして」

「ううん、あぁ、面白かった!」

ねぇ、とは悪巧みの共犯…おなかの中の赤ちゃんに問いかけた。

「ね、予定日までちょっとしかないの、忙しいでしょうけど…蔵馬も協力してね。

 赤ちゃんが生まれたあとに慌てないですむように、いろいろ」

「うん…ああ、驚いた…」

「あのね、うちの両親には話したんだけど、

 お義父さんとお義母さんにはまだ言っていないの、蔵馬からお知らせして」

「うー………ん?」

あの母に何と言ったらいいだろう?

当たり前だがいつまでたっても蔵馬は彼女の息子で、

会う度にこんなに大きくなっちゃって、なんて頭を撫でられたりするような関係だ。

義父は…言うのはいいが、会社中に瞬く間に噂が広まるのは目に見えている。

義弟にもからかいの種を与えるようなもの、そんな気がするし。

忘れていたけど、幽助たちや魔界のみんなにも…どんな騒ぎになることか。

ああでも、そんな場合では全くない。

逡巡する傍らで、すでに蔵馬の右手は携帯電話をいじくっていた。

の実家を訪ねて人並みに「お嬢さんをください!」というのをやったときも、

今の家族にを引きあわせたときも、

この人を世界で一番幸せな花嫁にするんだと改めて誓った。

「あ、もしもし、母さん…? オレだよ」

母親に電話をかけながら、まるでその時がよみがえったような改まった気持ちを覚える。

今度は、誓い通りに世界で一番幸せな花嫁さんから、世界で一番幸せな奥さんとなったと一緒に。

「うん、元気…も元気だよ、うん、ちゃんとやってる。…実はさ、………」

新しい家族を、世界で一番幸せな家庭に迎えよう。

そばに立つに視線を戻すと、はやっぱり、世界一幸せそうな微笑みを浮かべているのだった。


←戻   close