しっぽを巻いて逃げ帰ってきたのだと、言いたければ言えばいい。

否定なんかしやしない。

その通りなのだから。

このところの魔界は、やや殺伐としていた。

あっちで小競り合いがあり、こっちで厄介者が徒党を組み、政府関係者は総出でその対応にあたる。

雑魚が組んだところでこっちにとっての驚異になどなりはしなかったが、

画策をし事後処理をするのは大抵においてオレ一人なのだ。

これこれこういう対処をすればあちらはああいう態度に出るだろう、それを狙え。

これこれこういう条件を出しておいて踏ん捕まえてしまえばこっちのものだから、とりあえずヘコヘコしておけ。

果たしてそれらの指示は想像通りの展開を招き、八方うまくおさまった。

しかしそれが四六時中続くとなると、どうも……

疲れた、もう勝手にしてくれと、ひっくり返りそうになっている魔界政府に背を向けて、オレは帰ってきた。

久しぶりの人間界へ。

魔界に季節感などあってないようなもので(魔界住人は人間ほどそれらしく見せようという気がないという意味)、

こちらにやってきて驚かされたのはその想像以上の冬らしさだった。

当たり前だが空気は冷えていて、指先があっと言う間にかじかんだ。

吐く息が白く目に見え、幽助が煙草を吸っているときの光景をふっと思い出したりする。

彼は戦闘に夢中になっているあいだは他の欲求が薄くなるようで、魔界にいるあいだは少し喫煙量が減るようだ。

いつだったか、戦ったあとの一服だとにこにこして煙を吐き出しながら、

魔界の空気の中だと煙草も味が変わるんだと言っていた。

離れた途端に懐かしくなるなんてとちょっと笑う。

相変わらずの彼らと、彼女を置いてきてしまったので、魔界に戻ったらまた平手打ちでも食らうかもしれない。

言っていたじゃないか、女の子を置いていく男はこんなにもこんなにも、悪い奴なんだと。

はい、オレは悪い奴です、狡賢い古狐です。

今はそれで結構。

開き直ることもときどきは、大事じゃありませんか。

ぱりぱりと空気まで凍っていきそうな寒さの中を割って歩くようにして、家路を急ぐ。

どれくらいぶりの道だろう?

濃紺の夜の中、古びた街灯が薄ぼんやりとした光を投げかける。

家々の扉は閉ざされ、窓は閉められカーテンが引かれ。

あいだの道を歩くオレをはじき出すかのように何もかもが閉じて眠っているようにしんとしている。

今となってはオレも人間界にとり確実に異端のもの。

家族も友人もいはするが、オレ自身はその繋がりの先にいるだけで、そこに存在はしないのだ。

今のオレにとっては、魔界からの繋がりのほうが強く、近いらしい。

自分の中のそういう血が、オレの足を向ける先を決めるのだろう。

それに任せてしまってもいいと思っている。

ここにはときどき帰ってきて、どこかには迎えてくれる扉もある。

たぶんそれくらいがちょうどいいバランスなのだ。

……ただ、今日帰る先には待っている人はいない。

自分で鍵を開け、ドアを開ける予定だ。

魔界には一応、待っている人がいる扉にも心当たりがあるのだが、どうしてか今日はそちらを選ばなかった。

なぜだろうかと自問するが明確な答えは浮かんでこない。

しかしオレの中には確信があった。

特別な予感だ。

オレにとっての羽根休めの枝のような、そんな部屋がひとつある。

家族や友人はその存在を知らないので、その部屋はオレがこうしてときどき戻ってくるまでは放ったらかしになっている。

ただひとり、住所だけを知らせている相手がいた。

電話は引いていないし、ほとんど使わない部屋の割に無駄にオート・ロックなので、

住所を教えていても普通の人間なら誰も入ってくることはできない。

ポストを開けると、うんざりするほどのチラシとダイレクト・メールがばらばらと落ちてきた。

長期不在の住人を、管理人がそろそろ不審に思う頃じゃないだろうか。

数か月に一度戻るだけの部屋になってしまったから、いっそのこと引き払ってしまったほうがいいかもしれないとも思う。

けれど毎度毎度、なにかがオレを引き留める。

誰にも干渉されない場所があってもいいじゃないかという思いと、もうひとつ。

たった一人とだけ、オレのなにもかもを忘れて繋がっていることのできる場所を、このまま持っていたいという思いだ。

それを未練と呼ぶのは、悔しいが……否定なんかできやしない。

まったく、みっともない奴だと自分でも思う。

彼女なら遠慮しないでズケズケとそれをオレに言うだろう。

オレはそれを聞いて平気な顔の下で内心結構傷ついて、また情けなさを募らせるわけだ。

チラシの山に混じって、一枚のポストカードが舞い落ちた。

オレは、予感が的中したことを知った。

差出人を確かめるまでもない。

ここを知っているのは、たった一人だけだ。

やっと手を離すことができた恋の相手。

いつかの六月の花嫁だ。

一瞬で寒さを忘れ、オレはそこにしたためられたメッセージを見やった。

覚えている? なんて言葉で始まる。

忘れるわけがないじゃないか。

あの結婚式からもう数か月が過ぎている。

魔界にいるとどうも、人間界の時間の感覚が薄れていってしまう。

もう遠い昔の出来事のように思われるのに、まだ数か月。

本当はオレが聞きたかったよ。

オレのことを、覚えていてくれたんだね。

幸せな生活にあなたは満ち足りて、オレのことなんてすっかり忘れてしまうんじゃないかと思っていた。

それは、オレにとっては寂しいことだけれど……それでもいいんだろうとも、思っていた。

連絡がないのは、あなたの幸せに不足がない証だろうから。

今オレがしゃしゃり出ていって、あなたの日常に必要ない非日常の影を落とすようでは困る。

オレはこの部屋に帰るたびにいつもあなたを思った。

元気でいるだろうか、彼とは仲良くやっているんだろうか。

泣きたくなるようなつらい目に遭ってはいないだろうか。

オレには差し伸べてあげられる手があるけれど、自分からそう申し出るわけにはいかない。

立場くらいはわきまえているつもりだ。

けれど、どうしようもなく苦しい思いをしているそのときに、あなたがオレのことを思い出すことがあるなら。

そのときは、オレはきっと、なにかの力になってあげる努力を惜しまないと思う。

それがただの慰めや気休めにしかならないとしても、きっと。

ポストカード一枚にほんの少しのあなたの言葉は、今のオレとの繋がりをちょうどよく示してくれていた。

たぶん手紙では改まりすぎ、電話では近すぎるのだ。

電話は寄越しようがないだろうけど。

新米のお嫁さんは奮闘しているらしい。

それは、ひとつ屋根の下で、元は赤の他人である誰かと暮らすのは、きっとオレの想像する以上に大変なのだろう。

気遣いもあるだろうし、ストレスも溜まるだろう。

生まれたばかりの子どものように、最初から家族でいるのとはわけが違う。

これは、ちょっとした気晴らしだな。

オレでその役が務まると、は踏んでくれたらしい。

笑わないで、オレはでもちょっと安心している。

あなたの人生から、この先ずっと切り捨てられた存在ではなかったということにね。

こんなことでほっとできるくらい、オレはまだあなたのことを気にかけているらしい。

よかった。

オレはまだあなたの役に立てる。

オレはオレなりの幸せをたぶんそろそろ見つけることができると思うんだ。

だから、オレ自身を犠牲にしてまで貢献しようというありがた迷惑な騎士道精神で言っているのではないよ。

返事を出したら、あなたもちょっとは、ほっとしてくれるんだろうか?

……あやしいことを書くつもりは毛頭ないが、旦那さんには、ちゃんと弁明しなさいね。

拝啓、いつかの六月の花嫁さん。

元気そうでなによりです。

こっちはこっちで、相変わらずでやっています。

そう書いたら、それだけで想像してもらえると思うんだ。

あなたの今の幸せをオレは疑いはしていないけれど、

どうしてもやっていられなくなったら、聞き役くらいはできると思う。

どうか、あなたの身の上に降る幸せが、ずっと続いていきますように。

今度はオレがあなたに報告できるように、頑張るよ。

知らせをくれて、ありがとう。

オレは今も変わらずに、あなたの幸せを祈っています。





恋文日和 005 〜拝啓、六月の花嫁〜





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