『頭に来たんだ』
蕩々と十分ほどは電話口で理路整然とした愚痴を述べて、蔵馬は一応話をそう結んだ。
蔵馬にしては珍しい──と思いながら、はうんうんと少し曖昧に返事をしてやる。
彼は大学に行かなかったので今は社会人で、長期休暇など取ることもできず忙しく立ち働いているらしい。
一方のは意味が分からないくらい休みの多い大学生活を、
このままでいいのかと少し疑問に思いながら過ごす女子大生だ。
時間はそうしてすれ違いがちにならざるを得ないけれど、蔵馬は毎日こまめに連絡をくれるから不安はない。
それにしても電話にでるなり愚痴が飛び出すのは本当に珍しい。
『もうどうでもいい。も付き合って』
なにに、と思いながら口には出さずに軽くいいよと答えてしまった。
思えば深く考えずに、ちょっとの慰めや気晴らしになればなんてだけでそう言ったのがまずかったかもしれない。




逃避行クロスゲーマー 出発/北へ




電話を切ってから一時間後。
蔵馬は問題ないからと二階の窓からの部屋を訪れた。
律儀にもきちんと靴を脱いで部屋に上がってくる…階下にはの両親。
彼らは娘の恋人を優秀な実業家の卵なんて肩書きで記憶しているはずだったが、
見えないところでは会社勤めのスタイルで不法侵入。
何ともアンバランスだが元は彼はただの優等生ではない。
寒いから厚着をしろと念を押され、玄関から靴を持ってこさせられ、
蔵馬の自棄に付き合って今日は窓から外出かとため息をついた。
そうしてが連れてこられた先は…
「…蔵馬さん。」
「なんでしょうさん。」
「私たちはこれからどこに行くんでしょう。ちなみに今はとっぷり暮れた夜ですね?」
「その通りですね。」
ごぉおおお、とものすごい音が厚い壁の向こうから聞こえてくる。
窓の外は真っ暗だが、ちかちかと光るランプの光がぼんやりと揺れるようだ。
「…ねぇ、冗談じゃなくて…」
「うん、冗談のつもりはいっさいないんだけど」
はい、とチケットを手渡された。
行き先。
「新千歳空港…」
「うん」
「………」
「………」
「北海道ぉおお!?」
「御名答」
御名答もなにもそのままだ。
蔵馬にかっさらわれて連れてこられた先は、空港だった。
「今日の便に間に合って、空席もあったからチケット取っちゃったんだ」
無断でゴメンねと蔵馬は悪びれなくにっこり笑った。
「付き合ってって、旅行!? 普通言わないそういうこと!!?」
「…言ったら断るくせに」
「そ、そんなこと聞かないでどうしてわかるのよ!」
「わかりますよ」
口元になんとなく意味深な笑みを浮かべ、蔵馬は横目でを見下ろした。
厚着のわけもやっとわかった。
二月の北海道…想像を超えて寒いことだろう。
「さて、搭乗手続き済ませて先に少し食事でもとろうか」
「蔵馬ぁ!」
「大学休みでしょう?」
「お仕事は…!?」
「さぼり」
「さぼりって…!」
「…オレだってたまにはどうでもよくなることくらいあるんですよ」
「この就職氷河期にせっかくありついた職をあなたって人は…」
「まぁ、元々コネで入った会社だし…大丈夫。なんとでもなるよ」
余裕の表情を浮かべ、慣れた様子で手続きカウンタに向かう。
国内旅行も修学旅行くらいでしか行ったことのないには右も左もわからないが。
蔵馬の動くにまかせてついて歩き、手続きを済ませて軽く食事をとり、
搭乗ゲートが開かれるのをただひたすら待つ頃にははすっかり諦めていた。
人の少ない待合いスペースで並んでベンチに座り、は蔵馬の肩にそっと頭を預ける。
「うん?」
どうしたのと蔵馬はのほうを優しく見下ろした。
「なんの準備もしてない…」
「大丈夫だよ」
「せっかく初めて蔵馬と二人だけの旅行なのに…」
はなんだか眠そうにそう言った。
二人だけの、初めての旅行、という言葉に蔵馬は少なからずときめいてしまったりした。
それだけに、もう少しちゃんとした計画を立てて、
行きたい場所も二人で相談してからにすればよかった…と、少しだけ後悔も感じたが。
飛行機の中ではうつらうつらとしてやがて眠ってしまった。
国内線の短い時間のフライトは思いの外快適で、
蔵馬もついうとうとしているうちにあっという間に眼下に雪景色をのぞむようになる。
「わ、雪…」
寒そ、とが呟いた。
「私、北海道初めて…」
「オレも初めてだな。楽しみ」
唐突に家を出てきたことにどれほど後ろめたい思いを抱いていても、もう来てしまったのだ。
こうなったら楽しむしかないと、も蔵馬もはらを決めた。
手を繋いで飛行機を降り、新千歳空港に一歩踏み入るところでは張り切ってぴょんとその一線を飛び越えた。
「初★北海道!」
御機嫌のを見ていて、蔵馬もなんだか嬉しくなってしまう。
二人の少し後ろをついてきていた父親と母親、小さな子どもの三人家族がそれを見てくすくすと笑う。
両親に手を繋いでもらったその子どもはの真似をしてぴょんぴょんと飛び跳ねながら歩いている。
「このあと電車に乗り換えて、とりあえずホテルまで移動」
「ホテルって」
「うん、先に手続きしてある」
「………」
「部屋は一緒だけどベッドは別。なにもしませんから心配は御無用」
「…別に」
「『別にちょっかい出されてもいいよ』って?」
「………」
からかいで言ったつもりの蔵馬だが、
が否定もせずにふいと顔を背けてしまったのでなんだか改めて照れてしまった。
薄暗い駅に人はまばらだが、スーツケースを転がす人や大きい荷物を抱えて歩く人が目立つ。
空港から建物続きにJR新千歳空港駅へ降り、滑り込んできた快速電車に乗った。
「どこで降りるの?」
「新札幌。札幌でもよかったんだけど…こっちの方が新千歳から近いから」
移動だけでも疲れるかなと思ってと言いながら、蔵馬は愛用の手帳を取り出した。
地下鉄や電車の路線図を広げ、その中の札幌周辺のJR路線図を示す。
新千歳空港駅は恵庭・千歳線という路線上に存在し、札幌駅へ着くまでに函館本線と合流する。
新札幌駅は恵庭・千歳線の上にある駅のようで、確かに札幌よりは距離が近い。
「…、ほんとに北海道なんだ…外、雪降ってる」
電車の勢いに窓に叩きつけられた雪は、車内の熱に触れて見る間に溶けて流れてゆく。
座席の足元には暖房が入っていて、ちゃんと座っている間に身体が温まるようになっている。
新札幌駅で相当数の乗客が電車を降り、人なみにならって二人もホームへ降り立った。
新千歳空港駅はホームも屋内だったのだが、新札幌駅のホームには屋根がない。
初めてまともに肌に触れた寒気に、はぶるりと身を震わせた。
その頬に雪が降りる。
「寒! 厚着したつもりなのに!!」
「寒いね…オレも甘く見てたかも」
繋いだ手はそれでもあたたかかった。
階段を下りた先の改札を抜け、小さな駅を出る。
駅は建物でいえば二階に位置するようで、外へ続く下り階段が見えた。
「なんか迷いそう…」
「ショッピング・センターというか…一応駅ビルなのかな。そことホテルが繋がっているんだ。
 まぁ、すぐそこがホテルの入り口なんだけど」
駅を出たところはショッピング・センター内の渡り廊下のようで、左右に寒々としたタイルの道が続いている。
その道に面して、ホテルの入り口があるのだった。
「蔵馬蔵馬」
あたりを眺め回す蔵馬の袖をがちょいちょいと引っ張った。
の視線の先にはショッピング・センターに入っているテナントの看板。
「せっかくだから、観光するでしょ? ガイドブック欲しい!」
半ば強引には蔵馬を急かして小走りでショッピング・センターに割り込んだ。
あちこちふらふらと渡り歩いてやっと本屋にたどり着く。
がらんとして数えるほどしか客のいない店内に二人はなんとなく不安を覚えた。
入り口付近の書棚がちょうどガイドブックのコーナーになっていて、は嬉々としてそのコーナーに滑り込んだ。
しかし数分も眺めないうちに、閉店のアナウンスが流れる。
「お客様」
二人の後ろから声がかかった。
「恐れ入りますが、閉店のお時間でございます。お探しの書籍などございましたか?」
長い髪を柔らかく三つ編みにした背の高い店員は、スマイル0円そのままに愛想を振りまいた。
あまり今時じみていないのは制服と髪型のせいもあるだろうが、
たとえるなら平安時代にもてただろう顔つきに思えた。
が大丈夫です、と口を開こうとしたとき、店の奥から「ジョージーナさん、皆さんお帰りです」という声がした。
目の前の店員が少し振り返り、はい、と返す。
「あ、ごめんなさい、残ってるの私たちだけなんですね」
はさっきからどちらにしようか決めかねていたガイドをまた少し見比べ、うーんと唸った。
「御旅行にいらしたんですか?」
なぜかジョージーナと呼ばれたその店員が問うた。
「ええ、今し方着いたばかりで…どこをまわるかは決まっていないんですが」
「気まぐれ旅行だもんね」
二人が目を見合わせて笑うのを見て、店員は素敵ですねとにっこりする。
「道内でおすすめの場所、ありますか?」
が少し興味を持ってそう聞くと、店員は少し首を傾げて見せる。
「場所がお決まりでないなら…そうですね、北海道といって思いつくところばかりですが」
前置きして、札幌の観光スポットを挙げる。
旧道庁赤レンガ庁舎、時計台、大通公園。
鳩が凶暴ですからお気をつけてと付け足されて、二人は思わず笑ってしまった。
「あ、これ見たい!」
ガイドをぱらぱらとめくっていたが、夜景の写真に目を留めた。
「はこだてやま」
「函館山の夜景ですね、冬期間も営業してますよ、確か」
「行きたい行きたい」
「距離としては札幌からかなり離れていますが…高速に乗れば割と早く着くかと」
普通の道路をのんびりと行くと六時間かかると脅しのような付け足しが入る。
「…失礼ですが、お二人は恋人さんですか?」
唐突に聞かれて、ふたりはまた顔を見合わせると、少し躊躇いがちに頷いた。
店員はまたにこにことして頷き返すと、少し声を潜めて言った。
「函館山から夜景を御覧になるのでしたら、探してみてください。
 見下ろした先に街が広がっていて、ネオンや生活の灯りが夜景をつくっているんですが…
 カタカナで『ハート』と読める部分があるんです」
「『ハート』?」
店員はまた頷いた。
「このあたりの修学旅行では生徒の定番なんですけど…
 その『ハート』という光の文字を見つけることが出来れば、恋愛が成就すると言われています」
他愛のないジンクスですけどと彼女は付け足したが、の気持ちはそれでもう決まってしまったようだ。
函館山の夜景が載ったガイドと一緒に、どうしても選びきれなかったもう一方のガイドも結局レジに運ぶ。
が悩んでいる間に蔵馬が選んだ文庫本と、
レジ周りに積んであった動物園のガイドも衝動買いしたくなったようで、一緒に会計を済ませた。
「あの、ご親切にありがとうございました」
がそう言って、レジ内の店員に頭を下げる。
閉店時間を十分は過ぎたがずっと相手をしてくれた。
彼女はとんでもないです、とまた笑うが、営業スマイルのそれとは違う天然の笑みに見えた。
「あの、…外国の方なんですか?」
は気になっていたことを今まさに思い切って問うてみた。
店員はなんのことかと首を傾げたが、しばらくしてああ、と思い当たったように呟いた。
「従業員に店用のあだ名があるんです。私はジョージーナと呼ばれています」
日本人です、と付け加えられた。
「函館は坂の街と言うかほとんど山の斜面みたいな急傾斜の道も多いですから、
 できればちゃんとした冬靴を用意された方がいいですよ」
買った本にそれぞれきちんと紙のカバーをかけて、店員はそう付け足した。
「夏と冬で履く靴が違うんです、冬は雪が降るし滑りますから、靴底が滑りにくい加工の冬靴に履き替えます。
 函館山ロープ・ウェイ乗り場までの道はかなりヘヴィですし」
雪や溶けた水がしみこみにくいように外側も防水加工が徹底している靴らしい。
「冬靴って言うんですか?」
「そうです。今このあたりの靴屋さんに出ているのは大抵冬底の靴だと思います」
まだ寒気のまんまん中を歩いてはいない二人だったが、
出かける前に更なる防寒対策をしておいた方がいいと肝に銘じていたところだった。
本の包みを受け取り、レジをあとにする。
「ありがとうございました。お気をつけて、楽しい御旅行を」
去り際の一言はしばらくの耳に残った。
すれ違うだけだけれど、初めて触れた北海道に住む人が彼女でなんとなく嬉しいと思うだった。
一時間長く開いているというレストランフロアに場所を移して、明日以降の移動経路をおおまかに相談する。
「…この動物園は旭川みたいだけど」
「旭川ってどのあたり?」
「北海道の真ん中少し北…かな。函館はかなり道南だから、結構な道のりになると思うけど」
「…蔵馬の日程に合わせるよ」
休みはいつまでなのかとは暗に問うたのだが。
蔵馬はコーヒーに口を付け、と視線を合わせることなく休みは取っていないと言った。
「え、…!!」
「だから…さぼりって言ったでしょ」
「そんなの、…本気にするわけないじゃない!」
「…オレはに嘘はつきませんよ」
良くも悪くもねと蔵馬は微笑んでみせる。
どうも、仕事がらみでなにかに切れたらしかった。
今はなんの枷も感じないようで、空気がのびのびとリラックスしているのがわかる。
わずかに残る緊張した気配はきっと、知らない土地にいる心許なさのせいだろう。
それを言えば、蔵馬に頼らなければ皿屋敷市に帰ることが出来るかどうかすら危うい自分など
どんなに弱々しい霊気をまき散らしているのだろうとは目を伏せた。
「いつまでいてもいいよ。の行きたいところ、みんな回ってもいい。北海道一周するまででも」
「…いろいろ問題もあるよ」
「問題というと」
が今心配しているのはあるのかないのかわからない大学のカリキュラムではなく、
特に経済的な部分のことだった。
「そういう心配は未来永劫いりません。オレも魔界でただ働きしてるわけじゃないから」
魔界でははした金とされる程度の金額が、人間界に来てみれば膨大な金額に早変わりだ。
それも、蔵馬は魔界新政府の重鎮のひとり。
デスクワークを嫌う他のメンバーの分をすべてひとりで補っているのだから、その仕事量も相当であろう。
半端な給料(というのかどうかは知らないが)で魔界の仕事を手伝っているわけではなさそうだった。
「だから、別にこっちで働かなくても困らないだけの経済力はすでにあるんだ。…高校生の時からね」
聞いて、は困惑した表情で俯いてしまった。
にとって愉快な話でないことは蔵馬も百も承知だ。
は魔界を知らないし、これから連れて行くつもりも蔵馬には露ほどもない。
蔵馬にしても、好きでそんな膨大な財産を作ったわけではなかったが。
「というわけでさて。どっちに行くにしても札幌を経由した方がいいのかな?
 ああでも、函館にも旭川にも国内線の空港はあるのか」
じゃあどう回ってもいいなと蔵馬はからガイドを受け取ってぱらりとめくった。
「他に行きたいところは?」
「えーと…『北の国から』の街は?」
「富良野だね…旭川と割と近いな」
「ラベンダーは無理だね…二月だもんね」
「さすがにそれはちょっと…でも、丘がきれいな街ということだから」
広大な雪景色をただ眺めてみるのもいいかもしれないと蔵馬は微笑む。
「じゃあ、富良野! こぎつねを呼ぶの」
「………目の前にいるのじゃ足りない?」
あ、そうか、蔵馬って狐だっけ…と、は今更ながらに気がついて誤魔化し笑いだ。
「…あとは気分次第で決めようか」
「うん、…なんか眠くなってきちゃった」
「そういえばホテルにチェック・インもしてないな」
24時間のようだから大丈夫だろうと蔵馬は言った。
「…蔵馬…おやつ欲しい…」
「遠足じゃないんだから」
「いいじゃん、遊んで帰るんでしょ」
ショッピング・センターはそろそろ全館閉店の時間を迎えている。
レストラン街から出て駅の方まで戻り、ホテルにチェック・インを済ませる。
ホテルの従業員に聞いて近くにコンビニエンス・ストアがあることを知り、
部屋に荷物を置いてから財布だけ持って外に出た。
カラオケボックスや中古ゲームソフトや古本を扱う店などが並んで、
夜間でも雪の合間に眩しいくらい灯りがともっている。
「寒〜〜!! あり得ない!」
バスターミナルの横を抜けて赤信号で歩みをとめる。
横断歩道を渡ったすぐ先にコンビニエンスストアがあった。
寒さに耐えかね、早く屋内に入りたいとはやるの足元が氷にとられてバランスを崩した。
、ちょっ…!」
腕を引っ張られて一緒に小走りの状態だった蔵馬も引きずられ、二人同時に転んでしまった。
「痛ぁ…やだぁ、蔵馬大丈夫!? ごめんね」
「いや、オレは…は怪我ない?」
「ないない」
立ち上がろうとしてはまた滑ってしりもちをつく。
どうにかバランスを取り戻そうとするのだがうまくいかないのは靴底が滑り続けるせいらしい。
蔵馬はさすがに自力で苦労なく立ち上がれるようで、の手を引いてやっとのことで立ち上がらせる。
「あー、靴びしょびしょ…」
「…やっぱり防寒対策はしっかりしたほうが良さそうだね…靴も含めて」
の肩や背についた雪を払ってやりながら、蔵馬はそう言って苦笑した。
コンビニエンスストアでおやつと飲み物と軽食を見て回る。
にねだられ、蔵馬ははいはいと少し呆れ口調になりながらも
だらだらとしたクマのキャラクタのおまけつき菓子をひとつ取り、しっかりかごに放り込んだのだった。
ホテルの部屋に戻り、は即座にばふんとベッドに倒れ込んだ。
「ふかふかー! 眠いよぉ」
蔵馬は隣のベッドの端に座り込んで、微笑ましくの様子を見つめている。
「…急に、悪かったね」
「んー?」
「ありがとう。付き合ってくれて」
蔵馬は少しわざとらしくから目をそらし、自分の荷物の中からノートパソコンを取り出した。
「…お仕事?」
「いや…そういうわけじゃ」
ないけど、と続く声がちいさくかき消えた。
パソコンを開き、電源は入れずにただ真っ黒なディスプレイを眺め…そのままぱたんと閉じる。
蔵馬がなにをしているのか、にはまったくわからなかった。
本当は、蔵馬自身にも自分がなにをしているのかがよくわからなかった。
もうどうでもいいと自棄になって、半ば無理矢理をさらってこんなところまで来たのに。
なぜどうでもいいと放り出したはずのものを、こうして離さず持ってきているのか。
自分の行動ながら理解不能もいいところだ…と蔵馬は息をついた。
身体が冷えたからとバスルームに消えるを見送ると、蔵馬はまたパソコンをカバーに包んで鞄にしまい、
ばたりとベッドに身体を沈めた。
壁の向こうからくぐもったシャワーの音が聞こえてくる。
なんの心配事もなく、後ろめたさもなくこうしてと二人だけで旅行に来ているとしたら…
欲情するのを抑えるのも厳しいところなのだろうが、恐ろしいほどなにも感じない。
突然仕事を放り出して消えた社員を、義理の親子の関係とはいえ社長が咎めないわけがない。
確かに働かなくても人生三度くらい生きられるだろう財産はあっても、
なにか歯車が狂っている、かみ合わない…ちぐはぐとした感覚をぬぐい去ることが出来なかった。
「…くそ…」
呟いた言葉は誰の耳にも残らず、冷え切った部屋の中に浮かんで消えた。
…そのまま、またうとうとと眠ってしまっていたらしい。
蔵馬はが呼ぶ声で覚醒した。
「風邪引いちゃうよ」
この部屋寒い、とは空調をいじっているが、風呂上がりにバスローブ一枚でいれば冬に寒いのは当然だ。
壁の方を向いて立っているに近づいて、後ろから抱きしめる。
には唐突に思えたのだろう、驚いて身を固くしたのを蔵馬は感じた。
「なにもしません。本当」
「…それは、いいけど、どうしたの…」
今日はずっと変だよと、は後ろから抱きつかれたままで心配そうに蔵馬の髪を撫でる。
「…お仕事でなにかあったの?」
「別に…あっても言いたくない」
「…そ」
は諦めたように呟いた。
彼が自身の抱える事情をひた隠しにしようとするのはもう慣れるほど知っていることだ。
それが歯がゆいのとは、言っても受け入れてもらえないこともよく知っている。
「…言いたくないよ」
「いいよ、無理して話さなくても…」
の濡れた髪が冷たい空気にさらされて氷のように冷えている。
「自分がわからないなんて情けない話、」
言いたくない、と蔵馬は消えそうな声で囁いた。
「蔵馬…?」
「どうかしてる…やっぱりオレは、魔界に住む獣なんだ」
「蔵馬」
は蔵馬の腕の中で身体ごと彼の方を振り向いた。
悲痛そうな表情で、蔵馬はしっかりとを抱きしめる。
「…自分の上っ面だけがただ黙々と決まりきった作業を繰り返すだけなんだ」
「仕事のこと?」
「ここ最近、…毎日のこと」
一度言葉を切って、蔵馬は大きく息をつく。
は黙って蔵馬のするにまかせながら、話に耳を傾けた。
「ときどき、妙な感覚に悩まされる…気付いたらこれでいいのかなんて、自問してる」
「………」
「オレの身体の芯が欲しているものが今は限りなく遠いところにあるんだ」
「…戦うこと?」
恐らく、と彼はかすれ声で、しかしはっきりとそう言った。
断言するのを彼はたまに恐れるようだ。
嘘になるのが恐いのだろうか。
「人間界なんて場所ではおさまりきらないほどの凶暴をオレは持っていて、…それが溢れ返りそうになる」
を抱きしめる腕に一瞬痛いほど力がこもり、はっとしたようにゆっくりと緩んだ。
「いつかのことも壊してしまいそうで恐くなることもある…でも」
「…でも?」
離れたくなかった
それだけ言って、蔵馬は黙り込んでしまった。
はしばらくそのまま蔵馬に抱きしめられていたが、やがて優しく彼の背を抱きしめ返した。
「…考えようよ」
蔵馬はなにも言わず、しかしわずかにの言葉に反応する。
「蔵馬が一番どうしたいのかが大事だよ…魔界にいる方がいいなら、そうした方がいいんだよ」
「…でも、オレは」
君を連れて魔界に行く気はない…その言葉を、かろうじて飲み込んだ。
「つらいならいいよ、なんでもいつでもやめていいよ」
がそう言っただけで、蔵馬の内側に凝っていたなにかがあっけなく溶け崩れた。
「ちゃんとけじめを付けれるなら、それで大丈夫だよ」
いつもと変わらずににっこり笑ったに、蔵馬はたまらなくなってキスをする。
そのままベッドに連れて行かれて始まっちゃうのかなとは思っていた。
蔵馬の「なにもしない」という誓いは、実はこれっぽっちも信じていなかった。
けれど、蔵馬は本当に、の身体に触れようとはしなかった。
ウェストの留め紐をちょっと引っ張れば簡単にその肌を暴くこともできるのに、
決してそうしようとはしなかった。
その夜は一緒のベッドに並んで寝ころんで、ただ抱きしめ合って眠るだけだった。
それでも蔵馬にはこれ以上ないほどの安息が訪れ、
は安らかに眠る彼の寝顔を盗み見てなんだか母親のような気持ちを覚えていた。
人間界で人間として暮らしてみて訪れた今の自分に物足りなさを感じたということだろうか。
魔界でなければ暮らせないのかもしれないと、そんな悩みまで抱いたらしい。
けれど、人間としての生活に悩みを抱くほど、人間界に順応しているといえばそれもそうなのだ。
自分が妖怪であることにいつになく深刻に悩んだらしい蔵馬も、
ひどく人間らしい思考回路を持つようになったことをは改めて知った。
悩み抜いて恋人を北海道にまでさらってしまうほど切れてしまった蔵馬に悪い気もするが、
漏れる笑いをとどめておくことなどには出来そうもなかった。

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一日目は羽田から新千歳、新札幌へ。
とりあえずリクエストのおひとつ(?)のゲストキャラを入れてみました。

結構資料サイトを漁って記憶を総動員して頑張りました。
自分で夢小説お気に入り投票に追加して一票を投じたいくらい楽しいです。
北海道愛! 愛してる本当!!
さて新札で一泊しまして、二日目は札幌観光です。
蔵馬が選んでくれた札幌のホテルはそりゃもうすんばらしいのです。
お値段もすんばらしいのです。
魔界での仕事はボランティアなのではという気持ちも半分くらいあるのですが…


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