雪の音


待ち合わせに遅れるなんて不覚もいいところだ。

よりにもよってこんな日に。

冷え込んだ夕方。

呆れるほど積もった雪が視界を埋め尽くすよう。

そこにまた一片のしみもない雪がちらちらと舞い降りる。

きれいだなんて思っている暇はない、積もり積もった白銀を蹴って走る。

たった五分で凍えそうなこの中、君を待たせ続けるなんて考えただけで目の前が暗くなる。

風邪を引きやすい体質してたじゃないか。

待ちぼうけていないで、どこかあたたかい喫茶店にでも座って、

オレには少し怒ったメールをくれればそれでいいから。

寒いから、君に近づく口実ができる。

冬の恋には定番のそんなシチュエーションも現実には甘くも何ともない。

それどころじゃない!

君の待つその場所に辿り着いたら抱きしめてあたためてあげようなんて言えたものじゃない。

冬も雪も、そこまで優しくはない。

謝らなくちゃ。

“ごめん、仕事が、”

言い訳はしたくない。

オレを取り巻くいろいろな条件が君を待たせる結果に働いたとしてもそれはそれだけのことであって、

オレが待ち合わせの時間に遅れた、必死で走っても間に合わない…その事実には何ら変わりない。

今日ばかりはオレは悪者役だ。

ごめん、、もう着くから。

弁明の電話を入れようかと思ったけれど、

かじかんだ指が鞄の中から携帯電話を引っぱり出すことすらできないことに今更気付く。

かたくなったこの腕で君を抱きしめたところで、ぬくもりなんか戻りはしないんじゃないか?

耳が冷たいのを通り越して痛くなってきた。

走っているからまだましだ。

君はただじっと立って待っているのか?

ごめん、すぐ行くよ。

逢いたいよ。

寒い中君はただ待っている…それすらももう後付の理由に思えてきた。

逢いたいよ、だから走ってる。

のどの奥まで凍り付いたように、息が身体を締め付ける。

苦しいのは届きそうで届かないこの距離、オレと君を阻む赤信号のせいだ。

もう格好つけのセリフもちっとも思いつかない。

いつもはいくらでも言葉を選べるオレだけれど、今は思考まで凍えてしまったのか。

心配と不安はたぶん冬と、そして夜と相性がいいのだろう。

冷たい後ろ暗い感情ばかりが水が染み渡るように広がっていく。

信号が青に変わる、オレはまた走り出す。

君に会った瞬間、オレはきっとひたすら謝る以上になにも言えないんだろう。

約束をちょっと違えるとか、時間に遅れるとか、ささいなすれ違いが広げる溝は深い。

オレが謝れば謝るほど君は逆につまらない思いをしてしまうかもしれない。

ごめん、君が笑って機嫌を直してくれるセリフが思い浮かばないんだ。

良くないかもと思うけどとにかく謝り倒すと思う。

ちょっとだけ怒って八つ当たりして、さっぱり忘れてほしいなんて、虫のいい話なんだろうな。

そもそも、冬に待ち合わせるのに屋外を指定したこと自体どうかしてる。

夜が容赦なく体温を奪う。

早く君に逢いたい。

そうしたら、きっと寒いのも凍えかけているのも忘れられるだろうに。

人の気配のしないその場所、ひっそりと建つ街灯の下に君はいた。

ごめんと叫ぼうとして、オレは走るのをやめてしまった。

薄く積もった淡雪は赤みを帯びた光の下でやわらかく輝き、

木々を飾るネオンの粒がきらきらとそこに灯っては消える。

雲ひとつないくせに星も見えない濃黒を掃いた空。

白と黒のあいだに立つ君は少し首を傾げてじっと動かない。

ポーズをとったまま氷の彫像にでもなってしまったかのよう。

耳元にあてた両の手は、紅茶の缶を包んでいた。

寒さに耐えかねて、熱を欲して求めたのだろう。

少し向こうには自販機の赤い壁。

雪に包まれて他のものなんてなにも見えないような今このときに、オレは妙な連想をした。

貝殻を耳にあてて、海の音を聞いているようなしぐさだった。

金属製のピアスから忍び込む容赦ない冷気を防ごうとしているのはもちろんだ。

頬が赤いのはでも、寒さのせいだろう。

オレを待って待ちくたびれて冷えた身体に寄り添う小さな熱のかたまり。

たかだか自販機が吐き出した缶ひとつを、君は大事そうにそっと両手で包み込んでいる。

ただそれだけの光景が、どうして泣きたくなるほどきれいに見えたのだろう。

こんな状況じゃなきゃ中身をあけて放り出すだけのその缶から、君は何を聞き取ろうとしているのだろう。

まだやわらかに降り止まない雪が、髪を肩を白く染めていく。

冬の足音が聞こえる?

雪の降り続く声が?

伏し目がちだった目が少し見開かれた。

何か聞こえたのだろうか。

でも、なんだか寂しそうな表情をしてる。

不安な黒い音でも響いたのか。

そうしてずっと、空想世界に君を当てはめて眺めながらオレは気がついた。

君は、オレを待ってるんだ。

そうだ。

時間を過ぎてもやってこないオレを待って、冬と夜の不安と戦っていてくれるのかもしれない。

オレはやっと、地面に吸い付いたように動かなかった足を一歩先に進めた。

こちらを振り向いて、君はオレに気がついた。

目があって、微笑う。

空想の氷の彫像よりよっぽどきれいだ。

よかった。

そのときのオレには、待ち合わせに遅れたとか、君が凍えそうになっているとか、

そんなことはむしろ頭にないに等しかった。

君は空想世界に住むひとでも、氷の像でもない、目があえば微笑んでくれるオレの大切な恋人。

やっと手が触れた。

「遅かったね…事故にでも遭ったかと思っちゃった」

「うん…ごめん。なんでもなかったんだけど、遅くなっちゃって」

怒りも八つ当たりもしない。

無事で来てくれてよかったと言って、躊躇なくオレの腕の中におさまってくれる。

君は間違ったって寒かったなんて言わない。

オレに逆恨みを言うような真似はしない、なんて繊細なひとだろう。

冷え切ってろくに動かない身体を抱きしめる、腕に力を込める。

逢いたかったよ。



何が聞こえたのと聞いたら、君はきょとんとしてしまった。

オレも説明なんかしない。

野暮じゃないか。

わからないけどというように少し苦笑して、あなたの声が聞きたかったのと君はまた微笑んだ。


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