戻らないねと君が呟く。

オレは黙って宙を仰いだ。

外は夜。

部屋は暗い。

さっき君の言葉を遮って途切れたあかりは、今なお灯ろうとはしていない。


  わたし、ほんとうは、あなたのことが、


その先を言い当てることになんの困難もない。

ただ今オレは安心してる。

オレたちはこれ以上距離を縮めてはいけない。





  露 と 答 え て





携帯電話からニュースを辿ってわかったこと。

十数年例を見ない大停電が皿屋敷市を襲っている。

原因までは知ろうと思わない。

普段なら部屋の灯りを落としてみたところで街の灯りがうるさくて、

完全な暗闇に近い中に佇むことなど不可能に近かった。

今窓の外に見えるのは空に灯る星のあかりだけで、視覚の頼りになど到底なりえない。

妖怪は目がいいだろうと、確かにそれはその通りだけれど、

どのみち視覚というものは光の屈折によって生まれるものなのだから、

まったくの闇の中にいればオレにだってなにものをも見ることはできない。

ただ気を研ぎ澄まして気配を感じ取る…

呼吸が聞こえる。

息をのむ。

安心と、不安と、なんとなくやりきれないような思いと、得体の知れない覚悟…のような気配。

普通の人間よりわずかに強い霊気。

君の存在を、オレは身体中すべての感覚で感じている。

とまどっている。

なにか言おうと口を開いた。

「あの…」

妙にかしこまったひとことが、少しかたい声で届く。

「蔵馬…今なにを考えてるの?」

考えてる。

君のことを。

「…特に、なにも。ぼーっとしてた」

嘘を言葉に載せた。

君はきっと、ほんの少し、自分でも気がつかないようなちいさな傷を、それで負った。

は、なにを考えてる?」

「え…」

またとまどった。

言おうか言うまいか。

もう言ってしまおうか。

「う、…ん…暗いの、なんか、やだなぁ…って」

逡巡の末、君は言葉を濁すことを選んだ。

「…そう?」

「恐いもの」

「ふぅん…」

「ばかにして」

「してないよ。…オレは、結構この状況を楽しんでいるから」

君は今度は少し、ほっとした。

さっきのセリフの続きをオレが考えているわけではないと思ったのだろう。

暗闇の中、ひとりじゃないことを知りたくて、頼りにならない視覚を絶やして、

オレと君は全身でお互いを感じ取ろうとしている。

君の思いの揺らぎが、それでまったくそのままのように読みとれる。

君はきっと、自分のことで精一杯だろうね。

それでいい。

オレの気持ちなど読んでほしくはない。

取り返しのつかないところまで自分の感情が走ってしまうその前に、オレはオレを殺さなければならない。

君に気付かれることもなくそれをやり遂げなければならない。

大丈夫、前にもこんなことがあった。

大丈夫、オレはオレの気持ちを押し殺すことにもう痛みなど感じないから。

つらいのは、君に忘れてもらわなければならないそのときだ。

知らなければ、忘れることもない。

最初から知られなければそれでいい。

「なんか、さがそっか…」

沈黙に絶えかねたのか。

君はそわそわとして、急にそんなことを言いだして立ち上がる。

「懐中電灯とか、…ろうそくはないし…ちょっと待ってて、」

「いいよ、このまま」

「…でも…」

声しか聞こえないことに、君はとてつもない不安を抱いているみたいだね。

けれど、オレがここにいることはわかるだろう。

「もう少し、このままでいたいんだ」

そう言うと、君はしばらく考え込んで、大人しくまた座り込んだ。

本当は、なにもかも過ぎ去ってしまうまで、このままでいたい。

今のオレにはなにも見えはしない。

自分がどんな表情をしているかすらわからない。

今君に顔を合わせたら、君は知ってしまうだろう。

オレも本当は知らないふりをしているだけだということ。

感情に歯止めは利かない。

とうに感情は取り返しのつかないところまで走ってしまっていた。

「蔵馬…」

どこか抑揚のないような声が、漂うようにオレを呼ぶ。

「なにが見える…?」

「…なにって?」

「なにか見える…?」

オレになにを聞きたいの?

「特に。なにも見えない」

「…嘘」

「本当だよ。きっと、手探りでもしなければ…にも届かない」

「私も、なにも見えないの…」

一瞬、

予想もしなかった指先がオレの腕に触れた。

こんなにそばにいても気がつかなかった。

暗闇がもたらしたものはなんだ?

オレはずっと、君から思考を切り離せずにいる。

絶ってしまえばいちばんいいだろう思いを絶ちきることが出来ずに。

「…これくらい、そばにいてもいい…?」

「…どうぞ、好きに」

恐いの、といつもなら聞くだろう。

からかうように、冗談のように。

暗闇と静寂の中に、自分の緊張した鼓動までが響かないかと心配などしなかっただろう。

シャツの端をつまむ細い指先だけが、今オレに触れる君の気配。

それだけでオレのなにもかもはじいてしまうだけの効果があること、きっと君は知らない。

美しくても価値が高くても、決して盗んではいけないものがある。

暗闇に乗じてなんて、一瞬でも考えたオレはきっと愚かだ。

君がきっと拒まないことをオレは知っているから。

だから手を触れない。

瞬間、君が息を吸い、吐いた、その音が告げた。

「どうして泣いてるの」

「…ごめん、なんでもないの」

「なんでもなくて泣けるほど君は器用なひとじゃないよ」

息をのんだ。

オレは君を知っている。

ある意味では君以上に君のことを知っている。

同じ服を着た少女たちの中にいても、大勢いる人間の中のひとりに過ぎなくても、オレは君を見つけた。

君を見ている。

暗闇の中でも、きっと君だけを見ている。

君のことだけを感じている。

好きだよ。

決して、言うことはないけれど。

「好き…」

涙声では言った。

暗闇の中に君の声だけが散る。

「好き…蔵馬、大好き…」

嗚咽を堪えきれずに、君は時折のどを詰まらせ、言葉を絶やす。

どうか許して欲しい。

オレはわかっていたし、知っていた。

君に応えることができるけれど、そうしない。

泣かせなくていい理由で君を泣かせる。

呼吸困難に陥るまで、その細いのどを締め付ける。

オレの腕に、君は泣きながらすがりついた。

肩に預けられた額、ぱらりと髪が散らされるのを知る。

知ってる、ずっと知っていた。

ごめんとも、

ありがとうとも、

きっとオレが口にすることは許されない。

越えてはならない最後のラインの前にオレはぎりぎり立っているのだ。

泣きじゃくる君に肩を貸したまま、髪を撫でてやった。

今オレが君に出来ることのひとつ。

見えなくても、オレはここにいるよ。

あかりが戻るまで。

戻るまでだから。

オレのためにのどを詰まらせて泣き続ける君に、オレはなにもしてあげることはできない。

中途半端な親切は、残酷だ。

けれど今だけ、この瞬間だけ。

「今だけでいい…」

そばにいさせてと、君は消え入りそうな声で言った。

見えない。

こんなにそばにいる君が誰なのか、オレにはわからない。

つめたいフローリングについたままの手に、君の涙が落ちてきた。

唐突に、その細い肩が、涙を流しつづける君が、これ以上なく愛おしくて、

オレはそれまでのすべての思考をそこで捨てた。

肩にすがりついていただけの君を抱きしめた。

息もつかせぬほど力を込めた。

今だけ。

顔も見知らぬ間柄でいられる、この暗闇の中でだけ。

腕の中でかすかに震える君の、その唇を強引に奪った。

残酷でもいい。

好きだよ、言わないから、せめて。

そこにいるのに、こんなにそばにいて触れ合っているのに、その姿は目に見えない。

本当にそこにいるのかと、確かめたくて抱きしめる腕にまた力がこもる。

キスの合間に、苦しそうに息を継いで、君は困惑しているかもしれない。

君が泣きやんだことだけ、嵐のようにお互いに求め合いながら、オレは知った。

まだ、戻らないでくれ。

時間がないんだ。

重い幕のように暗闇はそこにおり続けて、光も色も音もなにもかもを飲み込んだ。

だからオレは全身で感じられる君の存在以外のなにもかもを、

すっかり覚えていなかった。





玄関で、君に背を向けたままコートを羽織る。

肩越しに振り返ると、赤い目をした君が見送りに立っている。

少し乱れた髪と、無理矢理整えた服と。

「…さっき」

唐突にオレの口からこぼれた一言に、は驚いて身じろぎをした。

暗闇の中でだけ、ほんの一瞬だけオレの恋人だった君は、本当はきっとわかっていたんだろう。

あかりが戻るまでの恋だということ。

光のある場所では、オレたちはなにも知らないただのふたりなのだということ。

だから、その一瞬を示すオレの言葉は、禁句のはずだった。

けれどオレは続ける。

「さっき、泣いた? 目が赤いよ」

君は傷ついた顔をする──ほら。

オレは知っていて君を傷つける。

玄関ホールの薄赤いランプの下でお互い見つめ合いながら、オレはそれでも君に言いたかった。

暗号のような言葉でも、君がその真意に気付かなくても言いたかった。

今は光に追いやられたあの濃密な暗闇も、あのとき確かにオレたちを取り巻いていたということを。

「…泣いてないよ。寝不足なの」

「ふぅん…」

誤魔化すように目元を指先でこすってみせる君は、もしかしたら今も泣くのをこらえているのだろうか。

「…気をつけて」

「うん、じゃあ、また」

また、と言って別れたオレと君の間に、きっともう恋は訪れないだろう。



  泣いてないよ。



暗闇の中、オレの指に落ちたあの滴は、じゃあいったいなんだった?

「…『露とこたへて』…」

耳元で波のように繰り返す君の呼吸を、背を抱きしめ返してくる細い指を、

その体温を、その声を、なかったことになどできはしない。

君の涙も、なかったことになどできはしないのに。

「『露とこたへて、消えなましものを』…」

いっそのこと、ただの夜露だからと答えて、この身ごと消えてしまえばよかった。

そうすれば。

そうすれば?

この苦しみからも逃れられるなんて、この期に及んで言おうとは思わない。

自分への戒めを破った罰には軽いほどだ。

十数年例のない停電のその夜、たったひと夜の間のこの恋に、オレは囚われ続けるだろう。

時にはその甘美にすら酔いながら。


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