(たこ焼きクライシス)
 ※更新日9月2日現在開催中のチャット会でお許しが出たような雰囲気を感じたため仮タイトル…


仕事が溜まりに溜まって忙殺される──という状況は蔵馬にとって好ましくはなかった。

常に自分のペース配分を把握して…様々な悪条件や障害も考慮に入れた上だ…思い描いた通りに終わればいちばんいい。

このところ蔵馬のそういった当たり前でありたい仕事風景が崩れている。

魔界の新政府中枢において。

予定よりも仕事が押しているということに蔵馬は朝から苛々しており、

自分でも意識しないほどそんな空気をまき散らして周囲をハラハラとさせている。

その原因は蔵馬自身もほかの皆にもわかりきっていた。

先日から新政府幹部として加わった人がある。

魔界に名を轟かせたのは三竦み三国のあるじであるのは言うまでもないことだが、

その三国とは関わりない土地でまた別の国の統治者にあった人だ。

戦闘能力に秀でるといわれる魔界住人の中にあっては珍しく、逃げることで生き延びた種という噂だった。

幻影を見せるとか、相手を惑わせるとか、手段においても節操ない噂が飛んでいるのだが、

敵の戦意を喪失させて戦いをひたすら回避し続けたという結論に必ず落ち着く。

いったいどういった妖怪が姿を現すかと、誰もが見知らぬその人に好奇心を寄せて待っていたのが先月のことだ。

「……またか」

蔵馬が誰に言うともなく呟いた一言に、控えていた部下たちがひやりとさせられる。

また、蔵馬に回ってきた書類に問題があったのである。

それは彼の便宜上の上司から今朝送られてきたものの一部だ。

なんのことはない、ホチキスで隅を留められた書類にメモがついている。

“狐様 お後はよろしくねv”

「………!!」

ぶちんと血管が切れる音が聞こえたかのようだ。

蔵馬は唐突に立ち上がると周りのなにものも目に入らないといった様子でずかずかと部屋を横切り、

わざと大げさな音を立ててドアを開け、閉め、廊下を早足で去っていった。

あとに残された部下たちは、場の空気が彼がいなくなったことで少々緩んだのにほっとしつつ、

また上役ふたりのやりあいがあるのだろうと難しくない想像を働かせる。

そして最後に、素直になればうまくいくだろうに、と思うのだった。

千年の狐が結果的にやりこめられる様はこのところの名物である。

! あなたはどういうつもりで…!!」

「えぇ…だって」

と呼ばれたのは人間にたとえるならうら若い少女と呼べそうな風貌の女妖怪である。

同じ人型の女妖怪といえど躯とは大変な違いである。

ひらひらふわふわとした…少々毒を含めばごてごて飾りのついた…やわらかい布の服を身につけて、

重そうな宝石をとりどり身につけているが、それも実はよく計算され吟味された「ファッション」なのである。

はそれが自分に似合っていることをちゃんと知っているし、美しく見える見せ方を心得ている。

今も怒り心頭の蔵馬に対し、は上等な椅子に深々と腰掛けあめ色につや光りする手すりに寄りかかっている。

首を傾げ少々上目遣いに見上げて、それでこれまで誤魔化されなかった男はいない。

目をつり上げて怒る彼を家庭教師のようだわと冷静に観察しながらあくびをこぼし、また彼の怒りを買った。

「怒らないで頂戴、ほら、不思議だわ。目を閉じていても視察先の様子が見えるのよ。

 噂に聞く癌陀羅の技術は素晴らしいこと。なんだかんだ言って王をフォローするように発展したのじゃないの」

の手にあるのは、視力を持たない黄泉が映像データを得るために使う頭伝針という機器であった。

どこからくすねてきたのかはわからないが、今蔵馬にとって問題なのはそこではなかった。

、まじめに聞く気があるのですか」

「ええ、もちろん。どうぞ続きを? 蔵馬」

ここまでのやりとりで蔵馬はすでに多少毒気を抜かれてしまっていた。

ため息をついて気を取り直すと、先程激昂して握りつぶした書類を示す。

ああ、お小言とは内心でうんざりしていたのだが、自分がこうして少々御巫山戯をするあいだの仕事が

彼に回され必要ないはずのしわ寄せになっていることもわかっているので聞きの姿勢を見せてみる。

蔵馬のパターンはなりに心得ている。

とにかくまず計画のようなものがあり、先の結果まで見据えているから下手な邪魔が入ると簡単に機嫌を損ねる。

表面上それを見せようとはせず変化のないような振りをしているつもりらしいが

彼はそういう誤魔化しには長けていない。

が新政府の幹部へと召集を受けて旧癌陀羅を訪れて以来、彼はの前ではあまり機嫌がよろしくない。

上司命令は彼にとっての下手な邪魔そのものである。

一方のは小さいながらひとつの国をまとめ上げていた立場であるから、人の使い方もわかっているつもりだった。

しかし、能力がこれほどまでに高い部下は初めてである。

本当なら蔵馬には上司の指示など必要ないのだが、元が国王であったを低い地位につけるわけにいかないと、

新しい政府中枢の人々も大人の事情と呼べる気遣いを見せたのである。

と、は蔵馬の小言を右から左にとやり過ごすあいだにこれだけのことを考えた。

殊勝に耳を傾ける振りをしながら、目の前の狐の妖怪を見上げてみる。

今は姿は狐ではないが、どちらの姿でも見目麗しいことと侍女たちがしきりに噂しているだけのことはある。

人間の姿をしていると、肉体年齢がまだ二十にも達しないということだから、少年である。

成長の遅い性質を持つ自分と並ぶときっとつりあい取れることだろうとは思っている。

ただ目の前のこの男、頭の中には仕事のことしかないらしく、の誘惑はことごとく失敗を見るハメになっていた。

今日はちょっとした悪戯心──怒った顔が見てみたかった。

大抵いつでも彼は怒っているのだけれど、わざわざ怒らせてみたかったのだ。

わざとらしくメモにハートマークなんてつけてみて、案の定怒り二割り増しくらいに勢いづいてやってきた。

理由はなんでもいい、お小言でも報告でも質問でも。

まだ彼を振り向かせるところにはいかないまでも、会いには来てくれるわけだから。

それにしても計算高いと評判の蔵馬が、の手の上では実はいいように転がされている。

ハートマークひとつで、ちゃんと怒って来てくれる。

さて、訪れは思惑通り、ではこのあとどうしようか、とは考えた。

蔵馬はまだ蕩々と小言を述べている。

相手が聞く耳を持っていないことも知らないだろう。

「……ですからね、オレだって何度も言いたくはありませんが、もうオレの手には負えない量ですよ。

 オレにだって自分のやるべきことを然るべく済ませれば、多少の自由が許されるものじゃありませんか」

「ええ、まったくその通りだわ」

「……どうとでも取れる返事をなさる」

「あら、そんなこと」

悪いと思っているのよと言いながら、の脳裏にひらめいたものがある。

蔵馬も怒りをおさめるだろうし、たまには自分も本当に仕事をしなければと思うことは思っているのだから。

「じゃあ、蔵馬。急ですけれど午後からあなたに休暇を差し上げましょう」

「……は?」

予想していた展開ではなかったらしい、一瞬そう問うたのは彼が隙をつくった珍しい瞬間だった。

「残りの仕事はあなたのノルマも含めて私がお受けいたします。

 思えば私の身勝手であなたには大変な御迷惑をおかけしましたもの、どうぞ休んで頂戴」

「……いや…そういう意味で言ったのではなくて」

「あなたの意図は関係ないのよ、私があなたにそうしていただきたいから提案しているの。如何?」

「……はぁ」

訝しい目で蔵馬は首を傾げた。

こいつ、何を言い出すんだとでも言いたげだ。

「さ、決まれば私は執務室へ参ります。簡単な引き継ぎだけお願い致しますね、蔵馬」

さっさと立ち上がり歩き出したを呆然と見送り、蔵馬は慌ててあとを追った。

蔵馬がひとりぐちぐち言いながら戻ってくるだろうという部下たちの予想は外れてしまった。

更にその上役の華々しい登場に彼らは目を丸くするばかりである。

「皆さん、今日これから蔵馬には休暇をとっていただきますから、煩わすことのないようにね」

「……いつもあなたがいちばんオレの手を焼かせますよ」

「あら、ごめんなさい? でもあなた、面倒見がよろしいでしょう」

つい甘えてしまうのよ、などと思わせぶりな視線とともに届けられて、蔵馬は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。

これが照れ隠しの顔なのかしらと思い当たり、は満足してにっこり微笑んだ。

蔵馬がとにかく素直になれないたちらしいということはここ数週でよく承知しているだ。

彼がをかえりみざるを得ない状況をどうしたらつくれるかと苦心していたが、今日はうまくいくかもしれない。

想像よりもはるかに膨大な量の書類が机の上に積まれていたが、

蔵馬はそのあたりには見向きもせずに一抱えのプリントを別のテーブルへ移し、

その内容と進捗具合、必要な処理について淡々と述べた。

はこれもまたちいさな宝石で飾られた派手なめがねをとりだしてかけ、書類を眺めて頷いた。

「大体把握しました。では、遠慮はいらないわ、どうぞ下がって頂戴」

「……本当に? 大丈夫ですか」

「あら、これでも一国一城のあるじをもう長いことつとめてきたのよ? 甘く見られては困るわ」

蔵馬はしばらく黙っていたが、そこまで言うのならもういいと言いたげにため息をつき、

先程まで自分が座っていた机のあたりを簡単に片付け始めた。

はさっそく書類に向かい始める。

その部屋の仕事の中心にいる人物がこうして入れ替わるだけでなんと空気の変わることかと、

一部始終を横目で見守っていた部下達は思った。

完璧なまでに机を片付け終わり、それでも蔵馬は立ち去りがたいらしく、

視線を巡らせてはなにかやり残しがないかと仕事を探して手持ち無沙汰そうにしていたが、

やがて諦めると「お願いしますよ」と念を押して部屋を出ていった。

蔵馬ひとりがまき散らしていた険悪な空気がそれで部屋から完全に払拭されて、

部下達はそれぞれなりに安堵の息をつく。

そしてちらりと、珍しくも仕事机について書類に向かっている少女のような上司へ視線を送った。

蔵馬が去り際にまだ気がかりそうに振り返ったのに見向きもせず……気付かなかったのかもしれないが、

すさまじい集中力を発揮しては仕事に没頭しているのだった。



「あれっ、蔵馬! オメー珍しいなぁ」

仕事を放り出す才能なら彼がピカイチだろうと蔵馬は思う。

廊下で幽助と行きあったのだ。

「とうとうオメーも愛想尽かしたってわけか?」

蔵馬が日頃から便宜上の上司について細かな愚痴をこぼしていたのを幽助は知っている。

蔵馬が抜ければ、あの部屋に溜まっていた仕事どころか魔界の政策の一部が完璧に麻痺してしまうのだから、

今彼が暇そうに廊下を歩いているなどと実際見たところよりもかなり深刻なことなのである。

「いや…急に休みってことになってね」

「はぁ?」

幽助はわけがわからんと首を傾げた。

魔界にいる限り、蔵馬を追わない仕事はない。

に詰め寄ったら、今日は午後から休みにしてやるからと言われて」

「……そりゃあ、よかったな」

「うーん…いざ時間ができてみると…仕事から離れると、不安だ」

あっちもこっちもどれもそれも、蔵馬が少しずつ同時進行で進めていた仕事だったのだから、

ほんの数分の引き継ぎのみで他の誰かに明け渡すとなると、以降の進行が気にかかる。

先の先、そのプロジェクトが完結を見るまでをきちんと脳内シミュレートしてあり、

まさにその通りに進みつつあったことなのにまったく違う終着点を見ることになるかもしれない。

「ああ、オレってなんか、すごい仕事仕事人間なんじゃない?」

「今更気付いたんか? 遅せぇよ」

「やっぱり」

不可抗力で、仕方なく、というところは多々あるにしてもだ。

蔵馬は暇そうにため息をついた。

「だって…なんだかねぇ…常に計算通りにことが進んでいて欲しいんだよね…休憩時間も恋しいけど」

「自分を追いつめて追いつめてってか?」

典型的サディストかと思っていたら逆だったのかと辛辣な冗談を浴びせられ、

蔵馬は横目で軽く幽助を睨むのだった。



「終わらないわねぇぇ…」

とっくのとうに仕事に飽きていたは盛大に書類を宙に放り出し、あくびをこぼした。

「本当に蔵馬はこれをひとりでいつもやっているというの? 仕事ばかにもほどがあるわよ」

誰のせいかと部下達は問いたかったが、上司を怒らせたくはなかったので黙っていた。

幼いものほど怒りは単純で、八つ当たりも限度を知らない。

しかし、彼らは遊んで怠けてばかりと思っていた上司をこの数時間ですっかり見直していた。

蔵馬が指示した一山の書類はあっと言う間に片付けられ、

今は彼が机の上に残していった書類を片端からやっつけている最中なのである。

蔵馬はそれをやれとに言わなかったが、は当然のごとくその書類の山との格闘にすすんで身を躍らせた。

(どうせ蔵馬のことだから、戻ったらオレがやるから放っといてくれって思ってるのよね)

めがねを外して目をしばたたき、はまだ残る数百・数千枚の敵を冷ややかに眺める。

(能力の低い奴には任せておけないから、仕方ない、休みは来ないがオレがやろう、

 そのほうが結果的に望ましいことになるしって。“ジコチュー”よねぇ)

最近覚えた人間界の言葉を使ってみて、ひとりでちょっと得意になる。

蔵馬の腕だけでもっている仕事が一体魔界の中枢にいくつあるだろうか。

彼ひとりが倒れたら、それで魔界の管理が一日止まるのだ。

黙っていれば群衆に知れることではないにしても、有能だからと彼にかかる負担が大きすぎるとは感じていた。

(…頼れるような力ある部下がいないのよね。仲間は腕っぷしでは頼りになるけど書類はまるでダメ)

そして上司は遊び人、という思考が浮かんできたが、はナチュラルにそれをシカトした。

立ち上がって身体をぐんと伸ばし、深呼吸をするとはまた椅子に座って居住まいを正す。

仕事にかかり直ってしばらく、部下達がそわそわし始めたのを見ては時間を知った。

「あなたたちももう終わりの時間だわ、どうぞ席をお立ちなさい。働き過ぎは身体に毒よ」

どこかの古狐のように眉間にしわが刻まれたらことだわとは冗談めかして言った。

部下達は少し心配そうにしていたが、久々に早い時間に帰宅を許されるということの魅力には抗えず、

そそくさと席を立つと一応申し訳のなさそうな顔をして見せ、次々に部屋を出ていった。

最後にひとり残されたは、さて、あとどれくらいかしらと想像を巡らせた。

どれくらいの時間でこの仕事が片づくかしら、ではない。

彼の我慢がどれくらいまで続くのかしら、は先程からずっと、そのことばかりを考えていた。



久しぶりだから付き合えと引っぱられていった先は幽助が懇意にしているらしい飲み屋で、

地理としては確かに雷禅の治めていた領地に限りなく近かった。

おなじみのメンバーが約束もしていないらしいのに集まってきて、あっと言う間に即席の宴会となる。

騒ぎの隅っこで大人しく酒を舐めながら、蔵馬はなにを考えるでもなくぼぉっとし続けていた。

なんとなく、なににも没頭できそうになかった。

今誰かに喧嘩をふっかけられたら、やる気がわかずに不戦敗を喫するか、

手加減の仕方にまで気が回らずに取り返しのつかない怪我でもさせるか、そんな気がした。

気の置けない友人達との、遠慮のない空気に溶け込みきることもできない。

楽しそうに笑ってはみるものの、その実どれほども空気も酒も楽しめていない自分がいる。

なにがそんなに自分の思考を奪い続けるのか。

考えないようにしていたが、これは負けを認めなければならない。

自分は仕事仕事人間で、残してきた書類が気になって仕方がないんです。

サディストかと思ったら逆かと言われましたがどっちもどっちなんです、

自分を追いつめて、追いつめられて、それで満足してるんだから。

(…いや、まだ足りないな…)

これでもまだ建前なのだ。

本当は、

ひとりで残してきて、

恐らくやれと指示しなかった大量の書類にすら向かおうとしている可愛い上司が、

心配で仕方がないんです。

これだ。

いちばん素直で正直な気持ちで、いちばん人に見せたくない部分。

子どものような文字で書いて寄越したメモと、ひとつ余計なハートマーク。

それは、仕事をする立場としては褒められたものじゃないが、

なんだか可愛いところもあるじゃないかといつも思わされる。

些細なことにもちゃんと目を留めるある種の才能。

蔵馬には大したことのないことでも、目を輝かせて「まぁ、すごいわ!」とかなんとか、反応してみせる。

余裕なく蔵馬が怒っているときも、は慌てもせずににこにことしている。

普段自分が他人に対してあり続けた態度のはずがいつの間にか逆手に取られていた上、

それがあまり嫌じゃないのだ。

どうかしていると思ったし、内心薄々わかっていたものの認めるのは悔しかったので無視していたが、

こうなってみたら仕方ない、気にかかるものは気にかかる。

想像とは罪なもので、ありそうもないことばかりを自分の都合のよいほうにばかり並べ立てる。

終わりの見えない仕事に疲弊して泣いていたりして。

これを機に少し真面目になってくれればいいのだけど。

ひとりで仕事に向かい続けるのを心細く思っていたりして。

……オレに帰ってきて欲しいなんて、思ってくれたりして。まさか。

即座の否定は、自分に対する照れ隠しだ。

(ああ、なんか、どうしようもないな…)

蔵馬はため息をついた。

軽く一杯、では酔いもまわらない(このオレを誰だと思っているんだ)。

賢い千年の狐は、自分の状況もよくわかっていて、

自分にとって気恥ずかしいことは回避するのがスマートだろうと良く心得ていたのだけれど、

仕方ない、どうしようもない、そんな境地に来るとやりこめられたようなみじめな気持ちになる。

開き直るという選択肢はあまり好きじゃないのだ。

まぁ、やりこめられたならそれはそれで、悪くないのもわかっているが。

そして、本当にどうしようもなくなったので、蔵馬はとうとう席を立った。

「どっか行くんか、蔵馬…」

幽助が怪しい呂律でそう聞いてきたので、自然を装いながらかなりどぎまぎとして、「帰る」と一言言い置いた。

店を出るまでは余裕ぶっていたが、人目がなくなるなり、蔵馬は唐突に走り出した。



「ああ、もう、嫌っ」

いち、にい、さん、というような調子では言い、また書類を放り出した。

三分の一ほど片づいたろうか。

窓の外はとっぷりと暮れた夜。

魔界の夜は暗く、ひどく濃厚だ。

でも、蔵馬はこれで久しぶりに羽根を伸ばすことができただろう。

上司としてあるべき、部下に対する温情に気遣い。

しかし今日もかげに隠れた思惑は失敗らしい。

「まったくあなたって人は、放っておけないんだから」などと言いながら、

すぐにしぶしぶ帰ってくると思っていたのに。

つまり、彼はよっぽど疲れていたのだということだろう。

これは多少真剣に反省をする必要があるかもしれない。

(ああ、でも仕事は面倒…だから早く折れてくれればいいのにね)

いちいち思わせぶりなことを言ってみたりやってみたりすると、蔵馬はちょっと気まずそうな顔をする。

照れ隠しもあまり上手くないらしい。

あと少し、あと一押しくらいで彼がへ気持ちを傾けてくれるのはわかっているので、

いろいろ気をひこうと思って頑張っているのだが。

あの性格なら口が裂けても言わないだろう、

「あなたが気になって仕事にならないので、オレのものということで大人しくおさまっておいてください」

とか、そんなセリフは。

顔だけ見ていたらいくらでもキザそうなことを言えるような気がするけれど、

本当のところは頑固で計算外のことをなにより嫌っているから、恋愛沙汰は苦手部類のようなのだ。

そんな彼が素直に笑ってくれるところなども見てみたいのだが、

とりあえずのには彼を怒らせる術しか見つからない。

「ああ、蔵馬、戻って来てーっ」

仕事をしに。

当面はとりあえずそれでいい。

おなかが空いたし、退屈だし、ペンを持っていた指が痺れて痛む。

邪魔になるからと、気に入りの指輪も腕輪も外してしまった、つまらない。

なんのために着飾っていると思うの、という話だ。

気のきいた彼は差し入れを持ってやってきました。ああなんて素敵。まる。

そんなエンディングを望むのはいわゆる御都合主義というやつなのだろう。

はああ、と盛大に息をついては散らばる書類にかまいもせず机に突っ伏した。

こんなことなら、気にせず蔵馬に仕事をやらせとけばよかったわ。

鬼のようなことをなんの悪気すらなく考えたところに、ドアの開く音がした。

「……なにやってんですか、あなたは」

はがばっと顔を上げた。

書類の山の向こうに、呆れ顔の蔵馬が立っていた。

その手に、なにやら美味しそうな匂いのする包みを下げている。

想定したエンディングではございませんこと、はてな。

「蔵馬! 戻ってきたのね、あなた」

「…やれなんて言ってませんよ、そっちの書類は。こうなるだろうとは思ってましたがね」

「ああ、遅いわよまったく! おなかが空いちゃった」

は素直に訴えた。

蔵馬はやっぱり戻ってくることを期待していたのかと苦々しく息をつくが、本当のところはあまり嫌そうではない。

「じゃ、少し休憩にしましょう。軽食にしかなりませんけど」

部屋に入ってきて、空いた机を部屋の中ほどに寄せ、下げてきた包みを開いた。

「これはなぁに?」

「たこ焼きです」

「たこやき??」

「人間界の食べ物です」

「…人間界に戻ったの?」

「いいえ。最近になって魔界で向こうの食べ物が流行り出しているらしくて」

癌陀羅の街に入った頃、香ばしいいい匂いがしたので、ついつられてしまったと蔵馬は言った。

手元でたこ焼きの包みを開いたりなんだりと忙しそうにしつつ、蔵馬は一度もと目を合わせようとしない。

はちゃんとそれに気付いて、たっぷりと露骨に意味を含んだ声色で彼を呼んだ。

「蔵馬」

「なんですか」

まだ蔵馬が顔を上げようとしないので、は蔵馬が気付いていると確信した。

「私が心配だったから戻ってきたんでしょう? 待ちくたびれちゃったわ。ねぇ」

「…知りませんよ。オレはただ」

「ただ?」

「………」

答えきれないことに蔵馬は困り切り、ややひねくれて負けを認めた。

「なんでもありません。心配でしたよ、仕事がね。だから戻ってきました」

「まぁ、素直じゃない。わ、た、し、が、気になって戻ってきたんでしょう、そうおっしゃい」

「誰が言いますか、そんな挑発を受けたあとで」

「可愛くない」

「なんですかその言い方って? あなたオレより年下でしょう」

途端、はぴくりと反応すると、蔵馬にまっすぐ向き直る──やっと蔵馬と目が合った。

一瞬虚をつかれて固まっていた蔵馬の首に抱きついて、不意打ちのキスをした。

あまりの唐突さに蔵馬はが離れるまで目を閉じることすらできもしなかった。

やっと離れて、は小悪魔よろしくぺろりと唇を薄く舐めた。

「やぁだ、蔵馬…経験豊富な年上の人かと思ったら、固まってじっとしちゃって」

「…………!」

「ピュアでうぶなのね? 少年のようなキスだったわ…」

うっとりと目を輝かせるの横で、蔵馬は頭までかあっと血がのぼってきたのに気がついたが、

相も変わらずぴくりとも動くことができなかった。

まるで腰砕けだ。

は察して、艶めかしく蔵馬に身体を寄せると、そっと囁いた──きもちよかった?

!! いい加減に……!!」

「あっ、これ美味しい! “たこやき”ね? どこにお店が出ていたの?」

「………! ………! ………」

蔵馬が怒って叫んだのとがすばやくたこ焼きを頬ばってくるりと振り向いたのが同時だったので、

彼はぷしゅぅと空気が抜けたようにうなだれるより他はなかった。



それから、蔵馬ひとりでもっていた仕事はの手にも分けて委ねられることになり、

彼の負担は目に見えて減り、執務室は穏やかな空気で満たされるようになった……わけではなかった。

部下達の新たな悩みの種は、

上司ふたりが果てなく繰り広げる痴話喧嘩が毎日の通例になってしまったこと だという。


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