so sweet.


今日、朝会ってから別れるまで、に何回キスが出来るだろう?

あと一歩でを抱きしめられるというところでタイミング悪く目が覚めて、蔵馬はちょっと拗ねていた。

(…いいところだったのに。すごくいい夢だったのに。なんで逃げるかな)

きっと同じ夢を見ていた恥ずかしがり屋の恋人は、

蔵馬と接近する前に目を覚まして逃げてしまったに違いないなどとかなり無理矢理な裏事情をでっち上げて、

蔵馬はひとりでちょっぴり傷ついた。

それで腹いせ半分に考えた、今日は暇さえあればにキスをしよう。

甘ったるい予感がただよう今日一日の彼の目標。

心に決めるとしゃっきりと目が覚める、現金なものだ。

クラスメイトの彼女とは一緒にいる時間はかなり長い、けれど。

他人に関係を知られるのを嫌がっているので、この恋は秘密だ。

それが、本当は蔵馬には面白くない。

もう世界中にだって「はオレのだから触るな」と宣言しておきたいくらいなのに。

日々つのるそんな思いも多少、今日の彼の背を押していたかもしれない。

朝、偶然同じ方向に住んでいるとかそういう言い訳を用意して、は蔵馬を迎えにやってくる。

本当は蔵馬がを迎えに行ってみたい気もするのだけれど、自宅の距離的に現状がいちばん合理的だった。

いつものように家を出ると、はすでに玄関前に立っていた。

チャイムを鳴らせばいいのに、彼女はそんなことすらしようとしない。

「おはよう、蔵馬」

いつもの挨拶と、朝日を浴びて眩しそうな微笑。

答えるかわりに、肩を引き寄せてキスをした。

本日一回目。

「…! 蔵馬!!」

「おはよう、

真っ赤になって怒る恋人に、悪気も何もない笑みを浮かべてみせる。

今日はこの程度じゃすまないよ、覚悟して?

蔵馬の魂胆を、は知る由もない。

けれど、普段はを困らせるようなことをしない蔵馬の突然のキスは、に警戒心を抱かせてしまったらしい。

いつもより半歩ほど離れて並んで歩く彼女に、蔵馬は苦笑するより他なかった。

通勤ラッシュに紛れるように電車に乗り込んだ。

満員電車の中、蔵馬が壁側にかばっていなければは簡単につぶれるか痴漢に遭うか、

とにかく不愉快極まりない結果が目に見えている。

窮屈そうに壁側に立つと、壁に手をついて彼女と向かい合って立つ蔵馬。

人の波に押しつけられて、否応なく身体がぴたりとくっつく状態になる。

ふたりしかいなければ結構美味なシチュエーションなのだけど、彼女はいつも気づかない。

蔵馬はの耳元にそっと唇を寄せた。

小声で囁く──苦しくない?

はほんの少し首を彼のほうへ向けて、大丈夫、と小声で返してきた。

蔵馬はが言い終わるのを待たず、その唇をそっとふさいだ。

「…! もう、やめて…」

こんなところでと、は顔をそらしてしまった…残念。

ふたりのそばに立っていた数人が、わざとらしく顔を背ける。

見られていたらしいことに気づいては赤くなって居心地悪そうにしていたけれど、

蔵馬にとっては取るに足りないことだった。

見せつけたのだから、構わない。

それでも可愛いをこれ以上いじめるのもどうかなと一応制御して、目的の駅でやっと圧迫感から解放される。

ほんの数分間が、今日のにとってどれくらいの辱めだったのだろう?

…愛情表現なんだけどなぁ。

そう思いながら、手を繋ぐことも会話することすらかなわずに、ふたりは教室へ向かった。

教室へついても、まるで御都合のような席順。

窓際のいちばん後ろの列に彼が座り、その一つ前の席にが座る。

一限目は数学。

この時間は毎週、小テストから授業が始まる。

教科担任は最後に窓際の列にプリントを渡すと、くるりと背を向けた。

前の席から順番に巡ってくるテスト用紙。

彼女は半身振り返りながら、蔵馬に最後の一枚を手渡した。

受け取るふりでの手首を捕まえる。

「…っ!!」

さすがにテストが始まるというそのときに、悲鳴など上げていられない。

捕まえたその指に、手の甲に順番にキスを落とす。

唇じゃないのがつまらないけれど、それはまぁよしとしようと蔵馬は思う。

進学校の生徒達は今は数字と駆け引き中。

誰も現実の恋人同士の隠れた触れあいになんて気づかない。

「や、…!!」

静かな教室に彼女の声が響いて、皆が注目したとき。

蔵馬はすでにその手を離して、今まさにプリントから顔を上げた、というようにを見た。

さん、どうかした?」

教科担任の問いにかろうじて首を振ると、はかすかに唇を振るわせながら前を向いた。

これは、怒っているかもと蔵馬は内心でちょっとした覚悟だ。

授業の合間の休み時間も口をきいてもらえなかったし、が蔵馬に隙を見せるようなことはなくなった。

昼休み、授業で使った参考資料を彼女が図書室へ返すことになった。

辞書が数冊、かなりの重さだ。

手伝うよと申し出てみる。

優等生のセリフとしては不自然ではないはずだが、彼女はたじろいでいるようだった。

こういうときに引いてはいけない。

彼女の抱える辞書を半分以上も勝手に引き受けて、先に立って歩き出した。

所定の本棚に本を戻しながら、は控えめに蔵馬に問うた。

「…ねぇ、蔵馬」

「なに?」

「今日、変だよ、ね…」

「変って?」

しらばっくれてみると、は困った顔で俯いた。

「…こういうこととか?」

聞きながら細い顎を捕まえて少し上を向かせると、また唇にキスを落とす。

「や、やめて…!」

「どうして?」

「人に見られたら…」

そう言うそばから、本棚の向こう側を誰かが通ったのが、本の隙間から見えた。

「見られたって構わないよ…」

もう一度口づける。

今度は少し長く離れずにいてみると、は震えながらも少しずつ応じている。

「…嫌がってるのは口だけじゃない?」

耳元でそう囁いてみると、はかぁっと顔を赤く染めた。

身をよじって離れようとするのを、捕まえて背中から抱き寄せる。

夢では逃げられたけれど、今は、絶対に離さない。

「…好きだからいつでも触れたいと思うのは、変なことかな…?」

「それは、…」

離してとは腕の中でもがいているが、その力も蔵馬には微々たるものだ。

簡単に動きを封じてしまうと、目の前に揺れる白い首筋にまたキスをする。

跡が残るくらいきつく吸い上げると、はびくりと身体を震わせた。

「やぁっ…!」

肩口を抑えていた手をそのまま滑らせて、指でやわらかく首筋を撫で上げる。

「………!!」

声をかみ殺すように、は口をきつく引き結んだ。

「お、お願い、やめて…」

が涙目で懇願してくるのを見ると、蔵馬の内側がざわりと波立つようだ。

はやる鼓動を押さえつけながら、蔵馬は首筋に当てていた指をまた滑らせて、そっと鎖骨をなぞった。

「いや…!!」

震えながら、愛撫を繰り返す腕をきつく握りしめてくる。

「…カワイイ、

耳朶を甘く噛むと、の胸元をなぞる手元に彼女の涙がぽたりと落ちてくる。

…涙は女の武器とはよく言ったものだ。

これが出ると勝敗はわからなくなる。

「…好きだよ、

「………」

「好きだよ…」

はかすかに震えたまま、答えることも出来ずにいる。

「…からも聞きたい」

言ってくれたら離すよと言うと、は屈辱に耐えるように唇を噛んで肩を震わせた。

「オレを好きだって言って」

聞かせて。

「………す、き…」

「なに? 聞こえないよ…」

「い、意地悪…」

「…そろそろ昼食を終えて図書室に来る生徒が増える時間だよね…」

「…!」

「どうする? オレはこのままでも構わないよ…むしろ、みんなに見せつけてしまいたいかな…」

この子はオレのものだ。

手を出すな。

「…?」

「蔵馬が…好き…」

「もう一回」

「あなたが好き…!」

小さく叫ぶようにそう言った声を閉じこめるように、蔵馬はまたの唇を奪った。

時間も場所も立場も何もかも忘れたような激しいキスに、は息をつく間も与えてもらえない。

無理矢理の唇をこじ開けて、舌を吸い出した。

が泣きながらきつく目を閉じたのがわかった。

「……ん…く……」

苦しそうに息をつぎながら、それでもは懸命に蔵馬に応えた。

キスの合間に、途切れ途切れに囁いた…好き、蔵馬、大好き。

恋人の声が耳に届いて内側に染み渡るにつれて、自分は何をしているんだろうと蔵馬は唐突に我に返る。

やっとの唇を解放すると、まだ唇のあいだにちろりとのぞく舌からほそい糸が引いて、切れた。

は泣きながら、蔵馬の胸に抱きついた。

そのまま声を殺して泣きつづけるの背を、そっと抱きしめる。

意地悪が過ぎているのはわかっているけれど、そうせずにはいられなかった…なぜか。

中途半端に謝ることもできなくて、が泣きやむまでそうして抱きしめ続けてやった。

蔵馬と距離を置いて離れたいがために、普段言わない好きという言葉を言おうとするなんて。

自分でに求めたこととはいえ、打ちひしがれた気持ちになってしまう。

もしかして自分には自虐癖があったりするのかなと、授業は上の空の頭の中でぼんやりと思った。

昼休み以降はなんとなくいたたまれない気持ちで、前の席に座るを眺めながら過ごした。

授業中でもふと気づけば、その髪に指を絡めてみたいと思っていたり、

肩を抱きたいと手を伸ばしたくて指がぴくりと動いたり、振り向いて微笑んでくれたらと願ったり。

そばにいるのに限りなく距離が開いていく気がした。

たぶん、蔵馬の次のちょっかいはどんなものだろうとは授業中もびくびくしていたのだろう。

何も起こらないまま放課後になって、ほっとしたように息をついたのがわかった。

クラスメイト達には気づかれないように、蔵馬はに囁く。

──先に帰るからね。

いつもは人のいなくなる時間まで暇つぶしをしてから合流するか、

あとから待ち合わせるかしてまで一緒に帰る。

は驚いてぱっと蔵馬のほうを振り返った。

いつまでもを見つめているとまた何かやらかしたくなってしまうから、

後ろ髪を引かれる思いですぐに背を向けた。

仲直りは電話かメールだろうか、誠意がないな。

そう思いながら、玄関先で靴を履き替えた。

「く、…!」

の声がうしろで、たぶん「蔵馬」と呼びかけて口をつぐんだ。

振り返ると、が困った顔をして立っていた。

肩で息をして、髪をちょっと乱して。

走って追いかけてきてくれたのだろうか?

思ったあとで、まさかそんな、あれだけいじめ抜いたのにとすぐにそれを否定した。

「えと、…南野くん」

「…何? さん」

ひどく不自然な会話だ。

「あの、…一緒に、帰ろ?」

「…………」

返事に詰まって棒立ちの蔵馬に、はすたすたと近づいてきて靴を履き替える。

学生服の袖口をぎゅっと掴んで、俯いたままでもう一度「帰ろう」と言った。

まわりの生徒達(特に女生徒の目線は恐かった)の注目の中、蔵馬はかろうじていいよと答えた。

蔵馬の制服の左の袖口をはシッカリと掴んだままで、玄関から校門までの恐ろしく長く思える距離を並んで歩く。

人の視線がこれほどまでに痛いものとは思わなかった蔵馬だ。

その間、はずっと俯いたまま一言も喋らない。

これは先程まで蔵馬がに意地悪をした、その罰なのだろうか。



立ち止まって、少しだけ振り返る。

「…ちゃんと手、つなごうよ」

「………」

は黙ったまま蔵馬を見つめていたが、小さくこくこくと頷くと、差し出された手に素直に自分の手を重ねた。

そうして学校を出てから駅に着くまで、ふたりはただの一言すらも喋ることをしなかった。

まるで初めての恋のような気持ちを柄にもなく抱きながら、

蔵馬は自分が赤面していることを誤魔化すように少しだけ早足で歩いた。

電車は朝ほど混んではいなかった。

今度は蔵馬もに悪戯したりはしない。

まだ黙ったままで、目線も合わせずに手だけ繋いでいる恋人同士は、端から見れば奇妙だったかもしれない。

「…蔵馬」

が消え入りそうな声で彼を呼んだ。

「あのね、」

「…なに?」

出来るだけ優しく聞き返す。

仲直りのきっかけを探しながら。

「あのね、…数学教えて」

「…すうがく」

「…今日の小テスト全然だめだったの」

それは自分の悪戯のせいではと蔵馬は思ったが黙ってみた。

「今度遊びに行ってもいい?」

今までなら絶対に言われなかった言葉だ。

「…どうしたの、急に」

「…だって。今日は蔵馬、ずっと」

そこまで言うと記憶が押し寄せたのだろう、は言葉に詰まってしまった。

「………あの、だって、…私」

「……は悪くないんだからね」

オレが意地悪してただけだよと蔵馬は申し訳なさそうに言った。

「私、蔵馬のこと好きっていつもそのつもりでいたのに…」

今日さんざん迫られて初めて、伝わっていないんじゃないかと不安に駆られたのだ。

それで一緒に帰ろうと言ったり、手を繋いだりという小さな冒険に出たらしい。

「あのね、あんまり得意じゃないけどね、だからあんまり言わないけど、でも…」

言おうとしてどこまでもためらうの唇をまたふさいだ。

「蔵馬」

「ごめんね、今日の意地悪はこれで最後だから…」

優しく微笑んでみせると、は少しほっとした顔でうん、と頷いた。

電車を降りて、ずっと手を繋いだままふたりは並んで歩いた。

別れ道まで来ると、はかなり長いこと逡巡したあとで、蔵馬の頬にさよならのキスを贈った。

「また明日、ね」

そう言うなり走って行ってしまう彼女の背を見送りながら、蔵馬はクスリと苦笑した。

次の日からも、蔵馬との距離は変わらない。

朝は南野家のチャイムを鳴らさずに蔵馬が出てくるまで待っているし、

おはようのキスも手を繋いで歩くこともうまくかわされてしまう。

それはやっぱり少し不満な蔵馬だけれど、から「好き」という言葉を聞くことが多くなった気がして、

それはそれでいいかもしれないなんて思ったりするのだった。

いつまでもどこまでもには甘い蔵馬が、あの日悪戯でに贈ったキスの回数は忘却の彼方へ。


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