吾輩は猫である。

名前は得にない。

“まだない”わけではないぞ、勘違いをするな。

人間世界のとある一部では有名すぎるこの一節を口にして、文士を気取ろうなんてわけじゃあない。

三歩歩いたら忘れるおつむなんてとんでもない、ありゃ鳥の話だ。

ばかにしてくれちゃあ困るよ、君。

さて吾輩ほど長く良く生きると、更に長々と永遠に近いほど生きることも、

あちこち時間や次元を越えて渡り歩くこともそれほど難しいものではなくなってくる。

そうやって遊び歩くことの実に楽しきことよ。

人々は吾輩をいろいろな名で呼ぶ、だから吾輩には名は得にない。

所謂ねこなでごえとかいうやつで「猫ちゃん、いい子、いらっしゃい」などと虫酸が走るとは思わんか。

何も知らずにのんきに御機嫌とり、人間の“メス”にはたまに幻滅だ。

まあ、脂ののったサカナの一尾も放ってくれりゃあ、乗ってやっても構わんが。

そんなわけで吾輩は今、ある家に居候として邪魔している。

家のあるじは若い女だ。

ひとの姿をしているが、この家はひとの世界に建っているわけじゃあない、じゃあこの女もひとじゃないんだろう。

女は、たまに訪ねてくる男を心待ちにしているらしい。

男はいつもいちどきに一週間か一か月か、それくらい留まるとまたどこかへ帰っていく。

それからまた気が遠くなるほど待つのよと、無理矢理女の膝に乗せられたあとで何度か聞かされた。

女はそう言って重苦しい息を吾輩の背や耳に(耳に! なんたることだ)吹きかけるわけだが、

男のいる前では実にわかりやすく、少々わざとらしいくらいに楽しげに振る舞うのでわからないものだ。

吾輩はこの男が実はあまり好きではない。

ひとの姿をしているくせにやたらと同類の匂いがするのが気に食わない。

覚えがあるなと思えば、忌々しい狐どもの気配によーく似ている。

話の合間から知ったこと、この男もどうもひとじゃないらしい。

そりゃあそうだ、これだけ獣の気配をぷんぷんさせていて人間などと笑わせる。

だがこの男はひととしてひとの世界に生きているということだ。

たくさんのひとを騙しているんだろうと想像するには難くない。

まあ一方的に弱点をつくことは控えて進ぜよう、なに、吾輩も似たようなもんだ。

化け物の身分は承知の上だ、なあ同胞。

さてこの男はひとの世界でこそ目立たぬように気を遣って暮らしているらしいが、

このどこともつかぬ魔性の世界では全土を牛耳る頭の持ち主ともっぱらの評判である。

それはいいがこの男、ひとの世界で目立たぬようにというのは恐らく無駄な努力だろう。

仕事と暮らしのあいだでふたつの世界を右往左往し、こちらへ来ると女に会いにやってくる。

男がやってきたときのこの家の様子を話せだと?

ばかを言うな、恥ずかしいを通り越して呆れるほどの睦言をか?

あれでは離れていた時間がどれほど長かろうと、一晩あれば埋め合わせには充分なのに違いない。

とにかくこの男がいるあいだは、女の機嫌は上々だ。

別れが近い逢瀬だからと、そんな思いもあるだろう。

さて、今だ。

男は持ってきたらしい仕事の書類でテーブルを占領している。

女は家にはいない。

男と吾輩としか、この部屋に息をしているものはおらなんだ。

奇妙なものだ、家のあるじが家におらず、客と居候が我が家のように堂々とそこにいる。

この世界ではいつもそうだが、今日の空は特に御機嫌斜めというやつだ──

雨が降ってはひげの調子が狂うじゃないか。

濡れれば吾輩もいかにもみすぼらしいなりに見えてしまう。

こういう日は家で寝ているに限る。

ま、吾輩の家じゃないがそこはよかろう。

吾輩は書類に向かって難しい顔をしている男の椅子の後ろを通り、

上等のクッションが置かれたソファに飛び乗った。

前脚で具合良くわたを整えてから吾輩はそこによりかかり、丸くなる。

うとうとして重いまぶたが目をふさごうとする。

眼前にチラチラ見えるのは、男の横顔であった。

ひとにしちゃあ、整った顔をしている。

女がいつか、少々不機嫌そうに言っていた。

他の女の人にもとってももてるのよ、誰にでも優しくするから。

恋人の私としては、平静でなんていられないわ──そしてまた構わず耳に息を吹きかけてくる。

吾輩とて平静でなどいられたもんじゃない。

まったく面倒なことだと吾輩はまた目を閉じかけた。

そのときだ、外でなにか、カタンとちいさい音がした。

なんのことはない、風が何かを鳴らしただけのことだったが、男はびくりと肩を震わして顔を上げた。

しばらくそのままの格好でいるが、気が抜けたようにまた元の姿勢に戻る。

なにをしている、こやつ。

そこで吾輩は気がついた。

先程からこの男、仕事をしている振りしかしてないではないか。

ペン先がちりりとも動かぬ。

書類を凝視して、考えを巡らしているようでもない。

その横顔に浮かんで見えるのはどうも、困難だの面倒だのということではない。

そうだな、言うなら不安と焦燥だ。

集中しているように見えて、その実男の中身は空っぽだった。

吾輩は眠い目を閉じるのをやめた。

男は飽きずにずっとそうしていたが、十数分たっぷりたってからやっと息をついた。

気もそぞろで呼吸すら忘れていたのじゃないか?

男が更に視線を落としたところへ、今度はけたたましい人工音が鳴った。

このごろはやりの携帯電話というやつだ。

吾輩だってそれくらいは知っているさ。

男はまたびくりと滑稽なほど大げさに反応し、音の方向へ勢いよく走っていき、

携帯電話を手に取ると即座にボタンをぶつりと押した。

「もしもし!」

電話の相手の驚いた声だけ、吾輩の耳にも届いた。

誰かはわからぬが、少なくともそやつは男である、友人だろう。

「……ああ、なんだ、幽助…いや、ごめん」

男は謝った。

「どうかした? …ああ、うん、今やってる」

仕事の話だと察しがついたが、男は嘘をついた。

こいつは吾輩の見た限り、今日書類を広げてからなにひとつ仕事を仕上げていない。

「そうだね…まだちょっと、具体的な数字が出るとこまではいっていなくて…うん」

電話の相手がなにか言ったのに、男は嫌そうな顔をした。

言われたくないことを突かれたのが見え見えだった、わかりやすい奴だな。

「心配いらない、すぐ仕上げるよ。できたらこちらから折り返すから…うん、ごめん」

そのあと男はしばらく相手の話に耳を傾け相槌を打っていたが、あるとき明らかに動揺した。

「…あ…いや、今は…いない。ちょっと出てるんだ」

この家のあるじのことが話題になったらしい。

男は答えにくそうだったが、相手に取り繕わなければならないところらしい。

なるほどなるほど。

ことに色恋沙汰ともなれば、ひともあやかしも変わらないものだ。

吾輩は知っている。

この男はさきほど、些細だが余計な一言を口にしたがために女の逆鱗に触れてしまったのだ。

女は憤り、散弾銃のように次々怒声をまき散らし、勢いあまって家を出ていった。

男は何でもないことのように平然と女の怒りをやり過ごし、

どうせ帰ってくるだろうとでもいうようにいかにも普通そうに仕事など始めた。

だがそれから何時間か、仕事は一文字も進んだ気配がなかった。

吾輩は全部見ていた…知っている、こやつの横顔に見えたのは後悔の念だ。

あっけのない別れのあとに、外には雨が降り出した…

あんなこと、言うべきじゃなかった…彼女は帰ってこないかもしれない。

空は荒れている、夜も近い。

魔界の森にひとりでいるには危険な時間だ。

迎えに行った方がいいか?

…いや、それは…何よりしゃくに障るし…それに…

男はそうして堂々巡りの考えを制しきれずに、ため息にして外へ送り出した。

出ていく前の女の顔に一瞬浮かんだのは、怒りではなく涙顔だった。

感情のままにいがみ合うだけなら行くところまで行きついてしまうことも珍しくはなかろうが、

女が言葉を失い口をつぐみ、男がはっとして女に改めて目を留めたとき、

女は泣きそうになっていたのだった。

核心を突くような暴言を、男が勢いだけで口にしたのは明白だった。

よくある話で珍しくなどなにもない。

まったく、痴話喧嘩の収拾を自分でつけるのも躊躇うか、この男。

勝手にやっていろと言いたいところだが、吾輩としては女に戻ってきてもらわなければ困る。

あの女が作るくりーむとやらはなかなか美味なのだ。

夕食には間に合ってもらわねばならん…ム、致し方あるまいな。

まだ眠気は覚めておらず身体も重かったのだが、この男にきっかけを与えねばなるまい。

吾輩は立ち上がりソファを降りると、やっと電話を終えた男の足元に寄っていった。

「…なんだ、おまえ」

男は吾輩を見おろし、今吾輩の気配に気がついたかのように呟いた。

女のことに気を取られているばかりで、仕事も周りも意識の外にあったのだろう。

まったく、その態度は一途に女が帰ってきてくれるよう願っているというのに、

なぜ振る舞いが素直にならんものだろうか。

「…猫みたいに振る舞って、わざとらしいな。どうせ人間の言葉くらい話せるんだろう」

おお、その気になればいくらでも話せるとも。

だが吾輩が言って聞かせることに今意味はないぞ。

おまえが自分でどうするか決めるがいい、吾輩がするのはその手助けだ。

まったくどうかしている、お節介焼きなど吾輩らしくもないぞ。

だがこやつらが見ていてイライラするほどちんたらのろのろとしているから。

この男が以前言っているのを聞いたが、うまくいくコツとやらは「うまい食事と適度な運動」、

実に的を射ているではないか。

自分のこととなると途端に鈍くなるようだな、世界を牛耳る頭脳も形無しだ。

知らんぷりを決め込む吾輩と我慢比べになったが、程なく男が先に折れた。

本物の猫にするように頭を撫でて来、身体を抱き上げてきた。

普段なら爪と牙を深々やってやるところだが、我慢してやる。

女の料理の腕に感謝しろよ。

「…が帰ってこないんだ」

おまえが暴言で追い出したのだろうが。

とりあえず、この場は男の懺悔の場だ、聞いてやろうではないか。

「あんなに怒らせたのは初めてかもしれないな…こんな大きなケンカも」

男は吾輩を肩に乗せ、片手で吾輩の背を支えたままで窓辺へ歩み寄った。

窓ガラスを容赦ない雨が打つ。

「…やっぱり、オレが謝るべき? わかってるつもりだけどね、なんだか…」

躊躇われて、というようなことを言おうとして、男はそれすら躊躇った。

「言い合いや小さい諍いくらいはこれまでにもあったけど…

 目が合って笑ったら忘れるくらいの小さな、ね。あんなふうに…」

男は一旦言葉を切った。

「あんなふうに、傷ついた顔をされたのは初めてだ」

男の指先が吾輩の背をゆらゆらとなで続けている。

眠くなりそうだ。

「…雨、やまないな…」

男が背を向けたままでいる室内には書類が散らかったテーブル、椅子、ソファ、クッション、

たくさんの生活のための設え。

女の一人暮らしには必要もなさそうなもの。

たまにしか顔を見せない男を、それでも喜んで迎えるための何もかも。

女のいないこの家は、女自身が語るよりもずっと雄弁に知らせてくる。

誰を迎えて内側に守るための場所であるのか。

吾輩は振り返り、男が見つめたままでいる窓の外へ視線を移してみた。

雨に濡れた小さな庭に、ぽつぽつと花が咲いていた。

名もわからぬ花に水滴が落ち、その花弁は見るもあっけなく散り落ちた。

男はその様子に目を留めて、やっと心を決めたらしかった。

吾輩はいきなり冷たい床に放り出された。

…せめてソファの上に降ろすのが親切というものではないか、気のきかん奴め。

だがその分やはり女のことで頭がいっぱいになっているということなのだろう、意外に単純だ、この男。

誰になにを言うでもなく男は椅子の背に引っかけてあった上着を羽織り、

玄関から傘を一本だけひっつかんで早足で外へ出ていった…まったく。

愚かなるものよ、恋心とやら。

世界ひとつ揺るがす頭脳もその前にかくも簡単にひれ伏した。

窓枠に飛び乗って外を眺めたが、男はもう走り出していたらしくどこにも誰の姿も見えぬ。

ただ雨がしとしと降るばかり。

訪れた静寂は久々のものだった。

あの男はもうずいぶん長いこと生き続けているのだろうと察しがつく。

周りの者を蹴落とし殺し、ぎりぎりの綱渡りのような生き方をしてきたのだろう。

今は今、腹の底ではひとびとを騙し続けながら、顔には何食わぬ笑みを浮かべて。

あの女がやっと見つけた平安の象徴だというなら、

迷うことなくなりふりも構わずに追ってつかまえれば良いものを。

いや、長く生きて知識もあり頭が切れるからこそ前例と計算に従う傾向にあるのだろうな、

だとしたら感情の赴くままに振る舞うことはあの男の日常ではない。

少々脱皮が図れたではないか、妖狐蔵馬?

同じく長の年月を生きる吾輩としては多少の羨望も混じろうものよ、吾輩はいまだひとりで揺蕩うている。

家を囲む木々の奥から、あの男が掴んでいった傘の先が覗いた。

ゆらゆら小刻みに揺れながら少しずつ近づいてくる、

傘の中にはあの男と、手を引かれて歩くずぶぬれになった女もおさまっている。

なにやら話をし、まだ視線を見交わせるほど仲も修復されてはおらんようだが、男は心配そうな顔をしている。

呆れたな、まだ素直になれんと見える。

なにやらしばらく話が続いているが、やがて立ち止まってまた口論を始める。

学習能力のない奴らだと思ったところで、男がせっぱ詰まった顔をして、

唐突に女の身体を引き寄せた…ところまでは見えた。

そのあとは傘が倒れてこちらを向いたためにあのふたりの姿は隠れてしまったが、

ああ、吾輩にその状況を説明しろなどと酷なことを言うものではないぞ。

はあ、さて、吾輩は腰を上げた。

今宵これから吾輩はこの家にいるべきではなかろう、まったくくりーむばかりは惜しまれるが!

無条件に甘い味を押しつけられるのは、吾輩は得手ではないのだ。

ま、恋仲の男女を邪魔するような無粋はすまい。

外はまだ雨が降り続け止む様子など微塵もないが、致し方あるまい。

何、心配はいらぬ、吾輩はひとりには慣れておる。

それに世界のどこにでも、ひとりの者など溢れいる。

吾輩が入る隙があまった傘のひとつもあるだろう。

どこぞのひとりのさみしい腕が、どこかで吾輩を待っている。



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