蜜の味


膨れたポーチがひっくり返されると、

これでもかと言うほど詰め込まれていた明るい色がバラバラとテーブルに落ちた。

ミラーを開いて立てかけ、顔にかかる髪をひと束ずつ摘んでは、器用にピンでとめていく。

化粧水と乳液で整えた肌の上に、彼女は慣れた手つきで色を乗せていく。

彼女と過ごす朝はこれがお決まりになりつつあるが、何度見ても面白い。

鏡の中の自分を少しずつ彩ってゆく姿は、やはり女性特有のものなのだろう。

「…素顔のままでも充分可愛いけど…?」

横から口を挟んでみると、彼女に軽くにらまれた。

「…男の人には、わかんないっ」

もっともっと綺麗に見せたいと、オンナノコの心情は忙しいらしい。

今はが蔵馬の部屋に一泊した翌朝で、このあと一緒に出かけることになっていた。

はたった一泊の支度にもメイク道具を欠かすことなく持ってきて、

たっぷり時間をかけて自分を飾ってゆく。

そのあいだにが蔵馬を顧みることはほとんどなくて、ちょっと複雑な気分にさせられる。

(…ゆうべは夢中になって泣いてすがりついてきてたくせに…)

やめないで、離れないで、他のこと考えないで、なんてセリフを蔵馬に何度も訴えたその唇に、

薄赤いとろりとした液体が乗せられた。

今日のメイクもやっと完了らしい。

ずいぶん長い時間待ちぼうけを食らったが、

メイク中のをただじっと眺めているのもなかなか面白いのだ。

そんなことを本人に言うと、怒られてしまうけれど。

「よし、オッケーです」

髪をとめていたピンを丁寧に外し、メイク道具をポーチにまた詰め込む。

伏せたまつげにはマスカラが塗られて、ちらちらと誘うように揺れている。

先ほど薄赤く染められた唇は、濡れたようなつやがそえられて妖艶だ。

「…変なところ、ある?」

「いや、可愛いよ」

立ち上がって蔵馬のほうに寄ってくる

髪がくるんと胸元で跳ねる。

そのひと房に指を絡ませてみると、はにこりと満足そうに微笑んだ。

「綺麗?」

「…勿論。」

連れて歩けばさぞや大勢の男たちが振り返るだろうなと思うと、

爽快な気分とともに胸焼けするような思いも抱く。

は黙っている蔵馬を不思議そうに見つめている。

…この愛らしさを、他の奴等に見せ歩かなきゃならないのか。

そう思うだけでなんとなく、根拠のない不快感がふつふつとわき起こってくる。

、君は、オレだけのもの…)

髪をもてあそんでいた指をの頬に当てて、キスをしようと顔を近づけると、は驚いて拒否しようとする。

「ダメっ、メイクしたばっかりなのに」

「まぁまぁ…」

蔵馬を遠ざけようとする腕は逆にやすやすと押さえつけられ、抵抗むなしくの唇は奪われる。

嫌なふりをして見せるけど本当は、キスされるのだって嬉しいんでしょう?

甘いしびれがの身体に走って、押さえられた腕からすっと力が抜けてしまう。

そう、いい子。

もっと心地よくしてあげるから…

と、もっと深くを求めようとしたとき、蔵馬はぱっと離れてキスをやめてしまった。

「え…?」

驚いたのはのほうだ。

不安そうに蔵馬を見上げてみるが、どうも蔵馬も驚いた表情だ。

「………甘い………?」

蔵馬は訝しげに自分の唇に指を当てて、甘い味の正体を確かめた。

指に残ったのは、薄く赤色に染まった液体。

「…あ、それ、新しく買ったリップグロスなの。甘い?」

納得顔で聞いてくるだが、蔵馬には意味が飲み込めない。

「なに、これ?」

「あのね、成分の80%以上がはちみつなの。だから、甘いでしょう?」

「は、はちみつ??」

「うん」

指に残ったグロスをちろりと舐めてみると、確かに…甘い。

「…蜂蜜だね。」

「そうでしょ?」

はなんだか嬉しそうだ。

それにしても。

キスをしたり抱きしめあったりすることを甘い、という言葉で表現することはよくあるけれど、

まさか本当に甘いキスをすることがあるとは。

舌にまだ絡まっている甘い味が、蔵馬の何かをかき立てた。

にこにこしているをおもむろに抱き寄せると、再び唇を重ねる。

「…ん……?」

「…甘い…」

まだ唇が触れるほどの近さで、蔵馬はそう囁いた。

「美味しい?」

「…うん」

またキスをする。

少し離れる。

「…もっと」

また求める。

そして、離れる。

何度も何度も繰り返す。

「…蔵馬、もう…」

が時間を気にし始める。

そんなこと、あとでだって構わないのに。

が、悪いんだよ…そんなふうに甘い香りをさせて、誘ってるみたいだろう…?」

ちょっと困った顔をするに構わず、また何度も何度も口づけた。

「…せっかく綺麗にしたのに、台無し…」

はそう言いながらも、キスにちゃんと応じてくる。

「…食べちゃいたいくらい、綺麗だよ…?」

「……もぉ、ばか…」

諦めた様子で、は完全に蔵馬に身を任せてしまった。

甘くて甘くて、甘ったるい時間が、飽きるまで続いていった。



…それから、蔵馬はメイク後のにわざわざキスをするのを楽しみにするようになった、とか。




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