恋
一人暮らしをすることにした…と、幽助の屋台でぽろっと口にした。
店主と友人は一瞬驚いたようだけれど、おお、いつだ、手伝うぜと言ってくれた、頼もしいことだ。
引っ越し先はもう決まっていて、あとは手続きいくつかの受理を待って鍵がもらえれば実行できる。
今は部屋のものを分けて段ボールに詰めているところ。
二十年近く暮らしてきた自分の部屋だが、意外とものの少ないことに今更気がついたりした。
必要なものを見定めるのが簡単だったんだろうなと思った。
昔は結構、欲しいものがたくさんあって、目移りなんかもしたことがある気がするけれど。
まぁ、かつて欲しかったものは大抵手に入れたけれど、その分犠牲も払ったな。
ここは魔界ほど命がけの生活をしなければならない場所じゃないので…オレもなかなか穏やかだった。
ひとりになって家族という名の柔らかな束縛を逃れ、オレは今度はなにを手に入れるだろう?
自由とか、そういう?
たぶん普通の人間よりは隠し事の多いオレには好都合だ。
一人暮らしを決めた理由のひとつ。
それだけでひとりになってみようと思ったわけじゃないけれど。
がらんとしたアパートの部屋がやたらと騒々しくなって、少しずつものが増える。
引っ越し当日の日曜日は清々しく晴れた日で、
手伝いを買って出てくれた幽助も桑原くんもいかにも体育会系というような出で立ちだ。
「おーいオメー! デートじゃねーぞ」
「い、いいじゃない! このミュール昨日買ったばっかりなんだもん!」
手伝いに来たはずのミニマムな彼女は、自分の足に合ったミュールを見つけて衝動買いしてしまったそうで。
そのミュールに合わせて服を選んだらひらひらしたワンピースになってしまったそうで。
ちいさすぎて服も靴もあまりサイズがないといつもこぼしているのを知っていたので、
今日という動き回る日にヒールが細く高い靴を履いてきたのは確かに非実用的だなと思う反面、
きっとオレに見せてくれたかったんだろうなと思うとかえって嬉しかった。
バランスさえとれればタンスのひとつくらいはひとりで運べてしまう超人的な彼らをなだめ、
時間はかかるが人間らしくやりましょうということで落ち着いた。
エレベータのついていないアパートの四階まで荷物を抱えて登って降りてを繰り返す。
オレたちはともかく、には本当に大変そうだ。
飛影より身長が低いもので(ほんの二センチほどだけれど)、
まぁ女の子だしあまり気になるものでもないだろうなと思ったけれど、
彼女は彼女なりに小柄な体格を気にしているらしい。
ちなみに、今姿を見せていない飛影は、と一緒にいるときはちょっと得意げなのだ。
端から見ているオレたちは笑いをこらえるのにいつも苦労させられる。
男性陣三人が荷物を運んで三往復するあいだには小さな箱をいくつか運び上げてくれていて、
三度目に階段を登り始めた彼女に、オレは四往復の片道で、中二階で追いついた。
「やぁシンデレラ。残念ながら靴が脱げてもオレは拾ってあげられないよ」
あいにく両の手がふさがっているもので。
は息を切らして肩越しに俺を振り返った。
「足つらくない?」
「ちょっと痛い…」
歩き慣れないかかとが痛むと言う。
階段室の窓からちょうど覗いた外にいる幽助と桑原くんは、荷物を乗せてある借り物のトラクターのそばで
ペットボトルのお茶をあおっている。
暑い日だ、なんだか夏を思い起こさせるくらい。
冷え冷えとした石の階段にのミュールの音が響く。
音まで痛みを訴えているようだ。
「、部屋に着いたら上がってキッチンで荷解きしてくれる? 足も休めて」
「うん…ごめんね、役立たずみたい」
「そんなことないよ」
一段上ですまなさそうに振り返ったは、やっぱりちいさくて可愛いなぁと思うのだけれど、
「………」
階段一段差がちょうど身長の差を埋めたくらいのようで、視線がもろに絡んでしまったのだった。
同じ高さなんて滅多にないと思ったそのときにはもう、吸い寄せられるようにキスをしていたりした。
「目線が近いなぁ」
「うん」
すぐそばで笑ってみせるは頬が赤く染まっていて、あんまり言うと怒られるけれど、
子どものような無垢な表情をしている。
窓の外から冷やかすような照れたような怒ったような声が聞こえてきて、それが幽助と桑原くんの叫び声と気付くと、
は抱えていた箱に顔を隠すようにして足音もけたたましく階段を駆け登っていってしまった。
恨むよ、いいところだったのに。
人目につくところでキスシーンも迷惑かもしれないけれど、そんなときは大抵自分と以外には意識がいかないのだ。
ほら、恋は盲目とか言うじゃない?
それからはを除いて数往復、なかなか作業が進まないことにいい加減いらいらしていた幽助と桑原くんは、
途中で切れてひとりで大きな家具を運び込むという暴挙に勝手に出てしまった。
人目があまりないのがよかったけれど、明日からここに住むオレはどうなる?
質問攻めにあったときの言い訳をシミュレーションしながら、最後の荷物も運び込み終え、
トラクターを引き取ってもらった頃にはとっぷり日が暮れていた。
引っ越しの夜はそばだと幽助が言い張り、ラーメンと同じ麺類だからどうにかなるだろうとキッチンに立った。
が半日かけて片付けてくれたキッチン周りは整頓されて使い勝手よさそうに、
収まるべきものが収まるべきところにちゃんと置かれたといった様子だ。
一日働いてくれた彼らはアルコールを欲しがったので、まぁ未成年だけどそこには目を瞑ろう、
オレととは財布を片手に連れだって部屋を出て、歩いて数分のコンビニエンス・ストアまで夜の散歩を楽しんだ。
晴れ空が夜まで続いて、星がきらきら光って雲ひとつ見えなかった。
は喜びはしゃいで歩き回り、時折繋いでいたオレの手も離されてしまった。
足の痛みも引いたらしい。
御自慢のミュールは夜の中ではちょっと見えづらいけれど、華奢なその足によく似合うように思う。
少し落ち着いたら、一緒に出かける時間ももっと作れるようになると思うから…
そのときにはゆっくり眺められるといいんだけど。
ちゃんと褒めてあげたいなと思うし。
ほとんどじゃれつかれるようにしてヨロヨロしながらコンビニエンス・ストアへたどり着いた。
はびんに詰まったプリンを欲しがり、アルコール類には興味を示さなかった。
一応、身長ではかなわないけれど、はあのふたりよりは年上だ。
見た目はちいさくて愛らしい子どものような人だけれど、なんとなく包容力のようなものを感じる瞬間がある。
それに安らぎを見出しているんだろうなと思うと、いやに納得してしまう。
触れられている手が、指先が、ちょんと掴まれているシャツの先あたりが、
くすぐったいように彼女に反応するようなのだ。
身体中がに触れて嬉しい、というような。
奇妙なことこの上ない、昔の自分だったら笑い事にしてオシマイだろうと思うけれど、
なるほど、これが恋というやつだ。
を感じて身体中、駆けめぐる感情の全部がくすぐったい、
自分は一体どうしてしまったんだと思うけれど本当なんだから仕方がない。
何事もないこういう時間が幸せだなと思ってしまうそのことが。
ふたりだけで手を繋ぎ並んで歩く、満天の星空の下が。
何のことはない日常が、忘れることのできない瞬間に様変わりしてしまう。
なんだか君がいてよかったと、特に理由も根拠もきっかけもなしにふっと思う。
愛しい、愛しいと云う心。
部屋に戻るとちょうどそばが茹で上がっていて、
他にもいろいろ買い込んであったものがしっちゃかめっちゃかやられていて、
アルコールは渡そうとしたそばからかすめ取られてしまった。
ま、今日は大目に見よう。
アパートで大騒ぎをすると隣人と階下の住人に多大なる迷惑を与えるということをオレはその日身をもって学んだ。
あとから叱られるハメになるとはつゆ知らず、幽助と桑原くんは酒が入って御機嫌だった。
もまじえて本当に寸分の違和感もなくとはいかないけれど、楽しくて過ぎるのがあっと言う間の時間。
酔っぱらったふたりは段ボール箱にもたれて眠ってしまっていた。
に帰るかいと聞いたら、泊まると返ってきた。
二人きりだったらもう少しよかったかもしれないけれどね。
「だから、パジャマ貸して」
「…どこに入れたかな…」
箱の山を見定めて開けては閉め、五つ目くらいの箱でやっと服を詰め込んだものに辿り着いた。
オレとではかなり体格差があるので、がオレの服を着たら袖も裾もみんな幽霊のように垂れ下がるに違いない。
一度盟王高校の学生服を着てみたいと言われて着せかけてやったら案の定たっぷり余って、
なんだか妙に思わせぶりで掻き立ててくるものがあるじゃないかと思わせられたものだ。
ただその頃はそんなことも口にするといやらしいと言って怒られたので黙っていたけれど。
「上だけでいいんじゃないの? ものすごく短いワンピースのつもりで」
「意地悪!」
ばか、と付け加えられ背中を叩かれて、
笑っている間には着替えに狭い洗面室へ入ってドアをきっちり閉め切ってしまった。
(本当にね、)
ため息をついた。
一日のささやかな疲れと、なんとなく思い起こさせるものを感じて。
可愛らしくて愛おしくて仕方がない。
二人きりだったら、我慢なんてできなかっただろうなと思うから、
逆に幽助と桑原くんがいてくれてよかったような気もする。
ちょっと力を込めると傷つけてしまいそうなくらい、はちいさくてこわれ物のように思えてしまう。
だからどう応じていいかわからなくなることもある。
判断に迷うなんてね、このオレがね。
身体中の疲れが心地よく思えるのも、がそばにいて気持ちが安らいでいるからかもしれない。
やさしいに、そうしてもう一歩近づくことを、オレはまだ躊躇っている。
ちゃんと上下のパジャマを身につけて戻ってきたはやっぱり幽霊のように袖を持て余していたので、
椅子に座らせてそれぞれ端を折り返してやった。
親が子どもに焼くような世話をしてやるのが、なんだか楽しかったりもする。
不思議な関係だ。
いびきをかいて眠っている幽助と桑原くんに毛布をかけてやり、平和な光景に目を見合わせて笑い合う。
そうしておやすみのキスをして、オレもも部屋の空いたスペースに丸くなる。
まだ片づかない部屋の中、乱雑なおもちゃ箱の中に忍び込んでいるような、
ワクワクとした気持ちがどうしてかおさまらないまま、眠りにつくのは難しかった。
翌朝、いちばん早く目を覚ましたのはやっぱりというかオレだった。
起きあがり、コップに水を注いで飲み干した。
朝は鳥の声がやたらさわやかに聞こえてくる窓だ。
取り付けたばかりのブラインドの隙間から朝の光が射し込んでいる。
昨夜かけてやった毛布を蹴飛ばして眠っている幽助と桑原くんの間で、
は顔まで隠れるようにして毛布にくるまって眠っていた。
その姿を見ただけで口元に笑みが浮かんでしまうのがわかる。
誤魔化すようにちょっと首を振って、手続きを済ませておいた新聞が届いた音が聞こえたので、
のろのろとオレは玄関へ向かった。
新聞を引っぱり出し、ふと狭い玄関を見おろす。
雑多に脱ぎ捨てられたスニーカーにまぎれ、
ちいさなミュールがそれこそ縮こまるようにちょんとすまして座っている。
男物のサイズの大きい靴にまぎれると、ただでさえちいさなそれが余計にちいさく見えるようだった。
しゃがみ込み、その片靴を指に引っかけた。
よくできたおもちゃの靴と言われても、どうかすると信じてしまいそうだ。
(…女の子なんだなぁ)
こうやって眺めて、まるで初めて思い知ったような自分ととの圧倒的な差。
こんなにも、こんなにも、こんなにも、なのにオレを好きでいてくれるということ。
そんなことがこの世界にあるか?
言葉に直すこともままならないような大いなる感情にオレはとらわれおそわれた。
眠っている彼女をつついて起こした。
まだ意識はうとうとした波の中に漂っているようで、目をこすってあくびをこぼしている。
おはよう。
大好きだよ。
お目覚めのキスをしよう。
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