交錯
懐かしい匂いがして、それは遠いとおい昔の、戦いの記憶を思い起こさせた。
戦いと、そしてその合間とを。
「………蔵馬?」
絶壁のうえとしたとで、お互いに見上げ、見下ろして、それは覚えてもいないくらい昔の出逢いを彷彿とさせる。
急に降り出した雨に追われて、まるで引き合ったように。
潤んだような深緑の目は驚きの色を隠せないらしい。
赤い髪は雨を含んでしっとりと重みを増したようだ。
「……?」
かすかに動いた形のよい唇から、聞いたこともない声が漏れる。
これは、本当に私の知る彼なのか。
「君は……」
呆然としたように続ける彼からは、まぎれもない人間の気配が発せられている。
ここは魔界。
雷禅が死んで、黄泉と躯の国家が解散して、新しい体制が整おうとしている…しかしいまだ混沌のさなか。
雷禅の跡継ぎで人間界で育ったと聞くウラメシという少年のことは聞いていたが、
彼もまた魔族…妖怪であるはずだ。
他に人間らしいなにかを感じ取る相手がいるというのか。
は訳の分からぬまま、絶壁のもとに立ちつくす青年を見下ろし続けた。
「…生きていたのか」
そう言って美しい笑みを浮かべる青年から、なぜ憶えのある妖気を感じるのか?
「オレがわかる? …ずいぶん変わってしまったけれど」
彼の声が悲しみと寂しさと、わずかな怯えを孕んだ。
「…………」
は答えることができない。
その姿も、その声も、気配すらも、の知ったものではない。
かつて愛した、冷たく美しい妖狐のものでは、決して。
が戸惑っていることを悟ってか、蔵馬はその場を動こうとしなかった。
力弱い妖怪だったは、出会う妖怪すべてを極端におそれていた。
(下手に距離を縮めれば、逃げてしまうかもしれない)
それは彼なりの思いやりでもあった。
「…本当に」
がやっとそうつぶやく。
「ああ、…本当に」
雨足が強さを増して、耳にうるさい。
「…死んだと、聞いていたのに。特防隊に追われて」
「そうだね。…そういう意味でなら、一度は」
彼は死という言葉を否定しなかった。
は胸のどこかに痛みを覚えて唇をかみしめた。
「人間界にいたんだ。人間の胎児に憑依して…人間として生まれた」
「…そういうことなの…」
彼の人間臭さの正体。
見知らぬ彼の、目に見えぬ部分が少しだけ晴れて、の緊張がわずかにほぐれた。
「風邪を引くよ? …君、あまり丈夫じゃなかっただろう」
蔵馬は苦笑しながらそう言う。
(あぁ、彼はまだ、私のことを覚えている)
の中に切ないなにかが急速にこみ上げる。
「…そっちに行ってもいいかな? 久しぶりに、君とゆっくり話したい」
蔵馬の言葉にが動揺しているその間に、彼はふっと目の前に現れた。
人間として生まれ直したとはいえ、その身体能力はただの人間のそれとは比較にならない。
ふたりを隔てていた高さ程度、簡単に越えてしまえる。
「大丈夫、何もしない」
蔵馬はできうる限り優しく微笑んだ。
一歩後ずさっただが、蔵馬の妖気に嘘の色は見えない。
はどうすることもできずに、そっと目を伏せた。
「…変わらないね、君は。昔よりはずっと、感じる妖気は強くなっているけど…」
蔵馬がそう言いながらすっと彼女の頬へ手を当てる。
望みもしないのにおびえたようにぴくりと反応する身体を、は内心で恨めしく思う。
が一瞬震えたことで、蔵馬の指がの顔を上げさせることをためらった。
「…元気そうでよかった。気になっていたんだ…」
蔵馬は手を下ろしてしまった。
少しだけ、名残惜しそうに。
「…貴方こそ、…生きていてよかった…」
は俯いたままか細い声で言う。
蔵馬は不思議そうに首を傾げる。
「もう、二度と逢えないのかと…」
続くはずの言葉が嗚咽に飲み込まれてしまう。
蔵馬からは見えないの目元から、涙がひとすじ、こぼれ落ちた。
「……」
彼の声が急に焦ったように聞こえた。
そういえば、昔から彼はそうだった。
冷静沈着なはずの妖狐は、が泣いたときだけは少しうろたえた。
動揺している様子など微塵も見せまいとしてはいたが、それがにはすぐわかってしまって、
妙におかしかったことを思い出す。
が涙を拭って晴れ晴れとした表情で顔を上げると、想像通り少し困った様子の彼と目が合う。
「生きていてくれて、本当によかった。もう一度、逢いたかった…」
声が震えないように必死につとめた。
蔵馬はまた困ったように笑う。
彼が心からに向かって笑うことができない理由を、自身はよくわかっていた。
「少し、話に付き合ってくれる? …雨がやむまで」
は自分から蔵馬の手を引いて、雨の届かない巨木の下へと彼を誘った。
記憶の中の彼の指が、今の蔵馬の指の温かさからよみがえる。
人間がいないはずの魔界の奥深くで、妖怪の女性と半人半妖の青年とが手を取り合って歩いている。
それは不思議で、ひどく懐かしくあたたかな光景だった。
雨はまだ、やまない。
木の下に座り込んだは、蔵馬に人間界に生まれてからの話をせがんだ。
蔵馬は少し長くなるよと前置きして、ぽつりぽつりと語り始めた。
以前の彼とは思えない言葉が迷いなく紡がれるのを聞いて、は首を傾げ続けた。
彼は苦笑しながら続ける。
きっとの疑問のわけを、彼も自覚しているのだろう。
彼の「母親」のこと。
かけがえのない仲間のこと。
たくさんの戦いの話。
魔界と関わるようになったあとの話。
そして、今。
「…人間界は、私が思ってるよりもずっと素敵なところのようね?」
そう聞けば、彼は自分のことのように少し照れて、ああ、と頷いた。
「いろいろなことがあったのね」
「…そう…本当にいろいろなことが」
蔵馬は遠くを見るような目で、ふと息をつく。
「そうして、昔よりもずっと強くなったみたいね」
「…といた頃よりは、ね」
微笑んで目線を落とすの隣で、蔵馬は複雑な思いだ。
ふたりの間にしばし、静けさが横たわる。
「………いつも…」
「え?」
掠れたような蔵馬の声に、は微笑んだまま顔を上げる。
「いつも…時間は経っていろいろなことがあったけれど…いつも」
蔵馬は一度言葉を切った。
そして、絞り出すように続ける。
「君を忘れたことはなかった」
蔵馬の顔は曇り、苦しそうにすら見える。
「本当だ。いつも…一日も、忘れたことなんかなかった」
彼は悩ましく、きつく目を閉じる。
「忘れられるわけがないんだ」
訪れた沈黙が重く彼にのしかかる。
「蔵馬……」
は彼に手を伸ばしかけたが、届く前に彼の言葉によって遮られてしまう。
「ずっと、オレだって君に逢いたかった。逢う資格なんかないのはわかっていたのに、どうしても…」
蔵馬の思考を占め続けていたのは、かつてと別れることになった、そのときの記憶。
魔界は混沌としていた。
妖狐蔵馬は、偶然拾った美しい少女と幾月か、生活をともにしていた。
ちゃちな罠にかかって痛めた足は、蔵馬の治療によってすでに治りつつあったが、
彼はその少女を放り出すかどうか酷く迷っていた。
力弱い若いその妖怪が霊界の手先であるということに、彼はずっと以前に気付いていた。
噂でしか聞いたことのない、盗賊に対して盗みを働く逆盗賊。
過去一度霊界に捕まったことのあるは、免罪のかわりに霊界の手先となって働く契約を交わしていた。
妖力も弱く、身体も弱く、魔界の生存競争の中ではとても生き抜けるものではない。
だが、その美しさが買われたのだった。
霊界から下された指令は、妖怪盗賊・妖狐蔵馬に盗まれた霊界の秘宝を盗み返すこと。
頭が切れて逃げ足の早い妖狐には、霊界も手を焼いていた。
おおまかな居場所はつかめても、そのしっぽはどうにもつかめない。
わずかな情報を与えただけのを差し向けた霊界の目的は、彼女に妖狐蔵馬を捕らえさせることではなかった。
その脆弱さゆえに散々遠回りをして、標的である蔵馬に出会ったときには身体中が疲弊し、
雨宿りに走った木の根本に仕組まれた罠で怪我を負って、目も当てられないざまだった。
何がかかると期待もしていなかった罠が発動したことを感知し、妖狐蔵馬が様子見にの目の前に現れたとき、
は本気で死ぬことを覚悟した。
まさか丁寧に罠を解除し、怪我を負った足を気遣うようにして抱え上げ、隠れ家まで連れて行くとは夢にも思わない。
美しい妖狐に対する偏見は、の中でいつの間にか綺麗さっぱり消えていた。
「名は」
「……私?」
「他に誰がいる」
「…」
「どういう字を書く?」
「…こう」
傷の癒えない寝台の上、は空に指を振って字を書いて見せた。
蔵馬はそれを見て一言、気に入った、と言って笑った。
最初のうちはがひとりで寝台を占領していたが、あまりに冷え込んだある夜、
どうにも気が咎めたは蔵馬を寝台に招いてしまった。
子どもを相手にするほど不自由してはいない、と軽口のように言ってを安心させた蔵馬だったが、
最初からそういう気持ちは微塵もなかった。
ただ少女を掻き抱いて眠る幾夜かを過ごし、しだいに気持ちが傾いてゆくのに気付くまでは。
の足の怪我が治り始めると、蔵馬は種類を変えると言っては治りを遅くする薬を傷口に当てた。
そんなことをは知る由もない。
の傷が完治したあとにどうしたらいいのか、蔵馬にはわからなかった。
そうして幾日かが過ぎたある夜。
いつものようにの身体をただ抱き寄せて眠ろうとした蔵馬だが、少女の様子が少しおかしいことに気付いた。
「どうした?」
「………なにが?」
「傷が痛むか?」
そんなはずはないことはわかっていたが、聞いてみる。
はふるふると首を横に振る。
「それなら何だ?」
「あの、ね…」
少女は言うことをためらう。
その表情には恐怖すら伺える。
「私、本当は、…」
は苦しげに、霊界と自分とのつながりを蔵馬に告白した。
薄々感づいていた蔵馬は、別段驚きもせずにじっと耳を傾けていた。
「そうか」
と言っただけで普段通りに眠りにつこうとする蔵馬に、は問いかける。
「殺さないの…」
「殺してどうする」
「私、貴方を追っているのに」
の台詞に他意はなかったが、蔵馬はなんとなく別の意味を見出してしまった。
「お前に追われるなら、それもいいかもな」
口元が美しく笑う。
「なんで…?」
「さぁ。何故だろうな。オレにもよくわからん」
蔵馬はの髪をそっと撫でると、ふと苦笑する。
「聞きたいのはオレの方だ。何故明かした、そのことを」
は目を見開いて、言葉に詰まる。
その頬が夜目にも鮮やかに薄赤い。
「…嘘つきたくないの…」
泣きそうに目を伏せる。
「なぜだ?」
返る言葉は何となく予想がつくが、瞼のあたりに唇を寄せて囁いてみる。
は更に真っ赤になってしまった。
その目が潤みはじめるのを見て気持ちは少し焦り、はやる。
「オレが好きか? そんなに」
は小さく頷いた。
その手がきゅっと、蔵馬の胸元の服を握りしめる。
「…もう、きっと、間に合わない。霊界は私の動きを把握してる…」
貴方を殺してしまう。
は涙声で言った。
放った逆盗賊が標的である自分に接触している今、霊界がすべきは確実に妖狐蔵馬を仕留めることだ。
それなら、次の追っ手はおそらく、霊界最高の戦士・特防隊の連中だろう。
しかし、何故かあまり焦る気は起こらなかった。
を護りながら逃げるのは難しいはずだ。
冷静沈着とうたわれたその頭脳は、確実に危険信号を出している。
死へのカウントダウンが聞こえてきそうなそのときに、
計算している裏側でなにかが囁く、大丈夫だ、なんとかなる、と。
「…共に逃げるか」
え? と、が顔を上げる。
蔵馬は愉快そうに続ける。
「明日だ」
「なにが?」
「明日にはここを出るぞ」
「……え?」
そう言うの唇は蔵馬の唇で押しふさがれて、抗う間もなく銀の髪の中にうもれていった。
けだるさの中で目を覚ますと、すでに蔵馬は起きあがっていた。
なにか難しいことでも考えているようで、厳しさをたたえている横顔がある。
それでもその美しさについ見とれてしまうだ。
視線に気付くと、蔵馬は黙っての唇にキスを落とした。
まだ外は暗い。
「…霊界はまだ、動いていない。私が確かな情報を伝えるまでは…」
は衣服を身につけながら説明する。
「…蔵馬」
呼ばれて振り返ると、切ない目で見つめてくる少女がいる。
「連れて逃げてくれる?」
足手まといになってしまうのに?
の目はそう言っているが、それでも彼が頷くのを待っているのだろう。
「ああ」
答えてやると、は安心したように目を細めて微笑んだ。
昨日までの幼さが少し薄れたように、蔵馬の目には映った。
「…私が霊界まで一度報告しに行くわ」
そこでデタラメを吹き込んで特防隊を逆方向へ向かわせて足止めをし、あとから合流するという提案だ。
蔵馬はふたつの危険を感じたが、ひとつは言葉に出すのをやめた。
が霊界に正しい報告をしたとすれば、蔵馬は簡単に捕まってしまう。
彼女が蔵馬を裏切るという可能性を、蔵馬は自分のうちにとどめてしまった。
(…いつからこうなった?)
すべての可能性を考慮し、すべての場合に備えて先の先まで計算しておくのが彼のやり方だったはずだ。
(恋は盲目とはよく言ったものだ…)
考えてから、ふっと苦笑する。
自分に不似合いな言葉であることはよくわかっていた。
蔵馬は報告に行ったままが霊界に拘束されることを危惧したが、はしっかりとした目で彼の心配をはねのける。
「霊界の手先になっている妖怪は私だけなの。魔界を特防隊が動いたらすぐにばれてしまうでしょう?」
霊界にとって、は大切な切り札、奥の手だった。
だからこそ霊界がに手を下すことはない。
胸の内に留まる不安を押し殺すようにして、蔵馬はの意見を受け入れた。
魔界の夜の明けないうちに、ふたりはそこをあとにした。
誰の目をも忍んで、夜の闇の中を走り続ける。
樹海を抜け、霊界への分かれ道までやってくると、は蔵馬の首に抱きついた。
「大好きよ、蔵馬」
待っていて。
はそう言って微笑むと、初めて自分から蔵馬にキスを贈った。
名残惜しく離れる一瞬前、
どこかで何かがはじけたような音がした。
彼を抱きしめていたの腕からすっと力が抜け、彼女は支えを失ってその場に倒れた。
蔵馬が愛おしんだ細い髪にじわりと血が滲む。
状況を飲み込むよりも早く、蔵馬はそこを飛び退いていた。
計算高い性格は、彼の反射神経にまで染みついているというのか。
を…おそらく撃った影は、次に蔵馬を追って来た。
愛した少女を抱き起こす間もなかった。
ほんの一瞬顧みたそのとき、遠くで特防隊の一人がを抱え上げるのが見えた。
が生きているのか、死んでしまったのかすら、蔵馬にはわからなかった。
計算ミスだ。
どこで、どう間違った?
走りながら、彼は闇雲にただ考え続けた。
を殺してしまったのは、誰だ?
出逢わなければ。
間違わなければ。
…愛さなければ。
本当にそうか?
深手を負って、意識が遠くなる瞬間に、彼の耳は誰かの言葉をとらえた。
「作戦は成功だ。まさか老獪なこの妖狐が、本当に色仕掛けにかかるとは思わなかったが」
そうしてそのまま倒れたのか、
無意識のまま特防隊から逃れて…どこかで一人朽ちたのかは覚えていない。
霊体のまま宿った海の中で、彼は悟った。
霊界は最初から、を見殺しにするつもりだった。
が霊界を裏切ろうと、そうでなかろうと。
霊界の目的は、に妖狐蔵馬を捕らえさせることではなかった。
自身を、妖狐蔵馬の弱点に仕立て上げることだったのだ。
彼は愛に満ちたあたたかな海の中で、ただあの少女のことを思った。
何を間違ったのかと、考え続けた。
「…この広い魔界でまた逢えるなんて、思ってもみなかった。何度か君を探そうと思ったけど…できなかった」
蔵馬はの方を見ようとしなかった。
「…ただ、もしも君とまた逢うことができたら、そのときは…ひとこと謝りたかった」
責め苦に満ちた彼の表情を見つめるは、もうすでに少女と呼べる姿ではない。
「何を謝るの?」
蔵馬ははじかれたように顔を上げ、を見る。
「…何を?」
「貴方はそうして、ずっと自分を責めていたの?」
「………」
「私のことで、苦しんでいたの?」
悲しそうなの微笑みに、また涙が伝う。
蔵馬は苦しげにを見ていたが、昔ならぬぐってやった涙に触れることもできなかった。
「…オレは君を利用した霊界に深く関わってしまっている…君のことを想いながら」
蔵馬の声が震えた。
「本当は何よりも、君から遠ざかろうとしていたのかもしれない…」
はもう、何も言えず…ただ泣きながら首を横に降り続けた。
「コエンマを知っている? 彼は…傷が癒えたら契約を破棄してくれたわ。そして…私に謝罪を繰り返した」
「……」
「私がただ胸を痛めるのは、結果的に貴方を騙すことに荷担していたことだけ…貴方を、殺す手助けをしたことだけ」
蔵馬は唇をかみしめた。
「貴方を殺してしまったことだけ…」
「………」
「謝りたかったのは、私の方よ…合わせる顔もないのに」
は肩を震わせて嗚咽をこらえている。
重苦しい空気があたりを支配する中、蔵馬は心のどこかでをじっと見つめ続けていた。
もう幼い少女ではない。
すっかり大人びて、美しい女性に成長していた。
昔慈しんだ面影がちらりと見え隠れするたびに、をただ思い切り抱きしめてやりたい衝動に駆られる。
もし、赦されるなら。
またに触れたい。
もっとそばに行きたい。
(愛したい…)
喉元まで出かかった塊を押さえ込んで、彼は苦しく拳をかたく握りしめる。
やがて指の隙間に血が滲んだ。
は泣きはらした目で、それでもそれに気付いた。
「…やめて」
はそっと彼の手を自分の両手で包み込んだ。
抜けるように白く、ほっそりとした女性らしいゆびが、彼の手をそっと開かせる。
「……自分で自分を痛めつけるのは、もうやめて…」
は蔵馬の指にすがって、声にならぬ声でそう言った。
まだ泣きやまない目で蔵馬を見据える。
「私のことで自分を責めるのも、もうやめて。私は大丈夫だから、ちゃんと生きているから。わかるでしょう?」
かつての妖狐には見たことのない表情が、今の蔵馬には浮かんでいる。
「…お願い…」
は苦しげにひとこと漏らした。
「…………君が望むなら」
の指がごく優しく握り返される。
「…も、どうかオレのことで泣くようなことがないように…」
そう言って、蔵馬はやっと少し笑った。
寂しそうな影は消えないけれど、はそれで救われたように気持ちが安らぐのを感じた。
雨は、もうすでにやんでいた。
魔界では珍しい、美しい黄昏が広がっていた。
「…もう、行くよ」
蔵馬はの手から指を離した。
「……もう?」
「…一応、今は魔界でも公式の仕事があるからね…」
「忙しいわね」
「そうだね。…だから、今逢えて本当によかった」
「…もう逢えないのかしら?」
の問いかけに、蔵馬は一瞬言葉に詰まる。
「…わからないな」
「…そう…」
一度近づきかけた愛する人が、再び遠ざかるのをお互いに感じた。
蔵馬は立ち上がり、夕闇の方へ目線を泳がせた。
もその横で立ち上がり、同じように視線をそらす。
しばらくそうして、黙ったままふたりで夕日を眺めた。
蔵馬はそっと、に気付かれぬように彼女の横顔を見つめてみる。
今日逢って、今日離れたら。
もう逢うことはないだろうか?
そう思ったとき、彼の意識とは全く関係せずに、蔵馬の手は彼女の頬に触れていた。
驚いたが蔵馬を振り向くよりも少し早く、蔵馬はに口づけていた。
ただ触れるだけのキスをして、ほんの少し離れる。
は驚いて目をぱちぱちさせているだけで、拒否も嫌悪も読みとれない。
「…目を閉じて?」
ささやくと、は初めてちょっと赤くなった。
きっとそれは、夕日のせいばかりではないだろう。
「………嫌?」
「………」
は黙って首を振ると、観念したというようにゆっくりと目を閉じた。
の頬に当てられていた蔵馬の指が、の髪の方へとすべってゆく。
は優しいキスを受け続けながら、蔵馬の腕がそっと自分を抱きしめていることを知った。
彼女を傷つけまいとするその仕草を、はまだ覚えている。
「…蔵馬…」
キスの合間に息を継ぐように名前を呼ぶと、彼はを見て…照れたように笑った。
「好き」
それだけ言うと、は今度は自分から彼にキスをした。
閉じた瞼の奥で、記憶の中の蔵馬と今を抱きしめている蔵馬とが重なってゆくのを感じた。
「…逢いに来て…」
切れ切れに言う。
「貴方が、好き…」
唇が離れると、蔵馬が照れて困った顔をしている。
「ダメ?」
上目遣いに首を傾げてみせると、彼は参ったというようにふっと息をつく。
「…が望むなら」
蔵馬はぎゅっとの細い身体を抱きしめた。
「………」
呼ばれて、目を閉じる。
彼は確かに、のそばにいる。
「…愛してる…逢えてよかった」
耳元で、めまいを起こしそうな声でささやかれる。
「また、すぐに逢いに来るよ…それまで、待ってて」
の手の甲に誓いのキスを落とす。
「…うん…待ってる」
花のように微笑むに急速に愛おしさがこみ上げる。
離れがたくてまた何度もキスを交わして、抱きしめあって、
の口からやっと「私も愛してる」という言葉を引き出すと、蔵馬は一大決心でもするようにから離れた。
きっとが「まだ行かないで」と言えば、簡単に引き返してしまうだろう。
赤い髪が樹海の奥にかき消えるまで、はずっとその背を見送り続けていた。
国王親子不在の癌陀羅に帰ってきた蔵馬を迎えた六人衆は、
また不安定さが続いていた蔵馬の妖気が妙に落ち着いているのに驚いた。
翌日はこれまで以上のスピードで仕事を仕上げると、さっさと癌陀羅を出ていく。
それが毎日繰り返されてさすがに不審さが募ってきた頃、
いつものように帰ってきた蔵馬が腕に見知らぬ女性を抱きかかえているのを見て、
六人は即座にこれまでの行動の理由を悟った。
その後、睦まじく寄り添い合う蔵馬との姿が、癌陀羅のそこかしこで見られるようになった。
蔵馬のまわりにいる者たちが彼の不安定にヒヤリとさせられることもなくなったという。
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