ジュ・トゥ・ヴ


ああ、めんどくさくなっちゃったな。

は課題の楽譜をぽいと投げ出した。

放課後まで自主レッスンにとらわれるのではたまらないが、今日は蔵馬も部活があるというし、

仕方ないから暇つぶしとばかりに個人レッスン教室にこもった。

狭い空間にグランド・ピアノ。

教員用の椅子は今は使われていない。

そりの合わない教師が相手だとやる気もなにもあったものではないのだが、

ひとりでいても集中力が続いてくれない。

(………蔵馬)

ピアノの鍵盤の上にため息。

いつも会っているけれど、電話もしているし、メールも交わさない日はないけれど、

それでもなんだか今日はものすごく会いたい気分だったのに。

蔵馬にだって予定があるのはわかっている。

いくら仲のいい恋人同士だからって、いつもすべての時間をのためだけに割いてくれるわけじゃないことも。

でも、会いたいの。

いつでもいつでも会いたいの。

できるなら、離れていることのないくらいがいいの。

もう一度ため息。

(こんなこと考えてるの、私だけなのかな…)

ひたすら思考は落ち込んでいく。

蔵馬はの前で弱いところなんか絶対に見せてくれない。

それを恋の駆け引きなんて名前で呼んだとしても、千年からを生きる蔵馬に勝てるわけがない。

いつだって余裕の表情を崩しはしない。

をからかって、その反応を楽しんでいるふしさえある。

性格の黒々とした片鱗を見せられたとしても、あのカオであの声で、

寄り添われて抱きしめられて、キスでもされたら忘れてしまう。

(あ、重症…これはびょーきだ)

恋の病だ。

ひとり赤くなってぷるぷると首を振る。

なんだかひとりで盛り上がっているみたい。

蔵馬は大人だから、きっとたった一日会えないというだけでこんなに落ち込んだりしない。

寂しいだなんて、思ったりしないんだ。

「…逢いたいよ…蔵馬…」

とうとう鍵盤の上にため息どころでは済まず、ばーんと不協和音を奏でつつ伏してしまう。

苦しくてどうにかなってしまいそう。

のどに詰まったこのかたまりは、あの優しいキスを受けなければ溶けてなんかくれない。

「もう! バカ!!」

勢いよく起きあがって叫ぶ。

設備の整った学校の一室は完全防音だから、どれだけ叫ぼうとわめこうと、誰にも届くことはない。

もちろん、さすがの耳のいい狐にも、この距離だけはどうしようもないだろう。

…と思ったら。

「バカって、誰のことかなぁ…」

の背後から、聞き覚えのある声が奇妙に生ぬるい口調で言った。

思わず振り返るのは、驚きと悪い予感から。

赤い髪の狐は、盟王高校の制服姿でそこに立っている。

狭い室内でよくもまぁと思うほどにはは気づけずにいたらしい。

黙って赤面したまま固まってしまう。

「………いつから」

「…楽譜を放り投げたあたりから。いつ気づくかなと思ってたんだけど…」

ひとりで喜怒哀楽を演じ続けているもので、何となく声をかけそびれたそうだ。

近寄ってきて、放った拍子に床に落ちていた楽譜を拾う蔵馬。

「…これ、今の課題曲?」

サティ作曲。

楽譜を眺めて蔵馬は聞いた。

はまだ火照った頬が治まらないらしい。

「そーです…」

ふぅん、と言ったきりしみじみと音符の羅列を目で追ってゆく蔵馬。

「…弾いてみて」

「え?」

「…テレビのコンクールでしか、の演奏を聞いたことがないから」

オレというたったひとりの客のためだけに弾いて。

楽譜が手渡される。

満面の笑みで、蔵馬はグランド・ピアノのふたの上に寄りかかる。

「では、弾いていただきましょう、聖和高等学校音楽科・ピアノ専攻、さん」

拍手までされるともうどうしようもなく、はしぶしぶピアノの前に楽譜を立てかけた。

「…まだ練習中だよ」

「構わないよ」

「…他の曲ならもっとましかも…」

「…その曲がいいんだよ」

なんで?

聞こうとしたが、蔵馬が穏やかだが期待に満ちた目での手元を見つめているので、

も覚悟を決めざるを得なかった。

やがてピアノの鍵盤を舞い始める指に、蔵馬はただ見入った。

有名なフレーズが耳をかすめるたび、なにも知らずに無心に音を奏で続ける恋人を想う。

気づけばまわりの空間にはいつかのように人にあらざる者たちが集まり始めて、

うっとりとその音楽に聴き入っている。

弾いている本人はそんなことに気づきもしないのだけど………

「……ここまで、ね」

はある程度弾いて聞かせると演奏をやめてしまった。

「あとはまだ弾けないから。お粗末様でした」

「…初見である程度弾けるんじゃなかったっけ…」

「もう! いいでしょ!!」

怒り始めるに苦笑して、それでも蔵馬は素直に拍手を贈る。

「やっぱりテレビで見るのとは違うね…音がクリアだったし」

「そう? …もっとちゃんと弾ける曲だってあったのに」

どうしてこの曲がよかったの、との目が蔵馬に問いかける。

「…なにか言いたげな目だね」

「何でこの曲がよかったのって」

「…知らないで弾いていたのかな」

「なにを?」

蔵馬は楽譜を取り上げるとそれを眺めながら。

「作曲者のエリック・サティという人はね。変わり者ということで有名だそうだよ。

 曲のタイトルといい演奏方法の指定といい」

「そうね。たった2小節を840回も繰り返せなんて指示の曲もあるし」

ちなみにその曲のタイトルは日本語でいやがらせという意味の単語なの、とも音楽科の生徒らしい知識を披露する。

「この曲の場合、ある詩人の詩に曲をつけたものを、後にピアノ曲として発表したらしい。

 その詩は、そう…『あなたの心で私を愛して欲しい、私のすべてがあなたのすべてに重なるように』…」

蔵馬が告げた歌詞を聴いて、はぴしりと石化する。

「え………?」

「タイトルはフランス語で『Je te veux(ジュ・トゥ・ヴ)』…直訳するとね」

「い、いい!! 言わなくていい!!!」

「遠慮しないで?」

今意味ありげな目を向けたのは蔵馬のほうだ。

もちろんは遠慮なんかしていない。

ひどく甘ったるい予感がして、真っ赤になって耳をふさごうとするが、

楽譜を離した手が簡単にの両腕をとらえてしまう。

蔵馬はの耳元に唇を寄せて、めまいがしそうなその声でささやいた。

「『あなたが欲しい』…」

訪れた静寂がなんだか肌に痛い。

蔵馬はしばらく黙っての様子をうかがっていたが、思惑通りがこれ以上ないほど参ってしまったのを見て、

クスクスともれる笑いを抑えきれなくなってしまった。

「ごめん、ごめんね…からかうつもりはなかったんだけど、つい…ね」

押さえていた両腕を離してその身体を抱きしめると、

が息をつくとともに全身から力が抜けていってしまうのがわかった。

支えてやりながら、ちゃんと椅子に座らせ直す。

「…もう、バカ…」

はまだ真っ赤になったままで俯いてしまった。

目に映る楽譜のタイトル文字がただを少しせき立てる。

またピアノのふたの上に蔵馬は寄りかかるようにしながら、じぃっとを見つめた。

「…なによ…」

「いや、別に。気にしないで」

「無理言うな…」

「うーん…いや、ねぇ?」

なにを聞いているのか、この人は。

怪訝に思って、上目遣いでにらみながら。

「…部活あるんじゃなかったの? 元盗賊が忍び込むのに苦労しないのは予想がつくけど」

「…大人しく先輩後輩と植物の相手をしてる気分じゃなくて」

苦笑する。

「なんていうか…無性にね。逢いたいなと思うことが、あって…」

聞き慣れないセリフに、はぽかんと穴の開くほど蔵馬を見つめる。

「なんだか今日は特に、…ダメで。いても立ってもいられなくて、とりあえず携帯に連絡入れたんだけど」

携帯電話の電源はレッスン室にいるあいだはオフにする決まりだ。

「まだ学校だなってわかったから…つまり」

えーと、と口ごもる蔵馬。

「…………ダメだな…負けっぱなしだ」

「はい?」

「恋の駆け引きとやらは難しいなぁ…」

苦笑する蔵馬の顔が、見慣れないほど照れていた。

「…昨日も逢ったけど」

その前もその前もその前も逢ったけど。

「でも、たった一日でも逢わないとわかってる日があると…なんだかね、柄にもなく苦しくなってしまって」

蔵馬はごまかすようにから目をそらした。

「…それだけ。特に大事な用事はないんだ」

今、彼はなんと言ったのだろう?

をくよくよとさせる、おそらく蔵馬にとってはとるに足らないような悩みが、

実は蔵馬にとっても葛藤の種になっていたのだ。

お互いを隔てる距離のもどかしさにのどを詰まらせたりして。

「…引き分け」

「え?」

は立ち上がって、振り向いた蔵馬のそばに立つと、彼に向かって手を伸べる。

「抱っこは??」

「………」

まだちょっと赤くなったままの彼は、こうしてみたら本当に16歳の少年のようなのだけれど。

蔵馬が抱きしめてくれるのが待ちきれず、は自分から彼に抱きついた。

「…引き分けだよ…私だっていつも蔵馬に勝てないもの」

そういって嬉しそうに笑う恋人を見て、蔵馬はやっと彼女を抱きしめることができた。

「…じゃあ、キスは?」

は目を閉じてちょっと唇をつきだしてみせる。

めったにお目にかかることのない積極的なの姿に新鮮な感動を覚えながら…

蔵馬がの唇に落としたキスは、つかえたかたまりもとろけるほどに甘かった。



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