悪戯


二度目のデートは、学校帰りに待ち合わせて蔵馬の家へ。

その日、蔵馬の母親は仕事から帰るのが遅くなると言っていたそうだ。

「だから遠慮しないで、どうぞ」

招かれて、は初めて蔵馬の家へ上がり込んだ。

とても普通の、居心地のいい、人間らしい家だった。

「先に部屋に行っててくれる?」

蔵馬はに鞄をあずけると、自分はキッチンへ紅茶をいれに行った。

蔵馬に教えられた部屋はシンプルで機能的に片づけられていて、とても蔵馬らしいと感じられた。

「お邪魔します…」

主のいない部屋にそうつぶやいて、一歩を踏み出す。

数分後、蔵馬はティーポットとカップ、菓子を持って部屋まで戻ってきた。

まだ空のままのカップをきちんとソーサーにのせて、の目の前に置いてくれる。

「飲み頃まではあと一分、待ってね」

にっこりと付け足す。

監視と銘打たれたデートの際も、喫茶店にでも入ればは必ず紅茶ばかりオーダーしていて、

コーヒーが苦くて飲めないことを恥ずかしそうに告げた。

かわりに紅茶を飲むようになって、葉の種類もいれ方も自分で勉強したの、と嬉しそうに言っていたのを

蔵馬はちゃんと覚えている。

それで、彼なりに可愛い恋人においしいお茶をと気遣ってくれているようだ。

「あ、ちゃんとカップがあったかい」

「…は勉強したと言ってたからね、下手ないれ方したら怒られそうだ」

蔵馬は苦笑してみせる。

「そんなことないもん」

とは言いつつも嬉しそうだ。

砂時計の砂がさらさらと落ちていくのを見つめて、はカウントダウンを開始しているらしかった。

(…気付いてない、かな?)

カップに触れられたときはちょっと焦ったけれど、たぶん大丈夫だろう。

母親が留守にしている今日こそがチャンスだった。

とはいってもヨコシマな話ではなくて、今日はちょっとに悪戯したい日、だったのだ。

「一分経ったよ」

「はいはい、では早速」

蔵馬はポットを持ち上げて、が目をきらきらさせて見つめる前で、カップに紅茶を注ぎ始めた。

薄オレンジ色の水色(すいしょく)が鮮やかにくるくると渦を巻く。

「わーい、蔵馬がいれてくれたお茶〜♪」

は嬉しそうにカップを持ち上げる。

その無邪気な喜びようを見て、ちょっとすまない気持ちになる蔵馬。

(…ごめんね、ちょっと…)

好奇心の方が勝っちゃったんだよね。

紅茶を口に含むを見て、蔵馬は頭の中で謝った。

蔵馬は自分用のマグカップにも紅茶を注ぎ入れて、放課後のティータイムを楽しむ恋人をそっと観察する。

(…多少時間はかかるか)

自分が一番よくわかっていることなのだが、気持ちが急かされている。

疑いなくそばにいてくれるを軽く裏切った気持ちだが、やっぱりどうなるのか、興味の方が強かった。

はいつものようにおしゃべりを開始した。

女の子の特権とはよく言ったものだが、よくもまぁ多彩な話題があると感心する。

学校の話が始まれば、やはり進路のことで困っているという話題になる。

が霊界探偵補佐を務め始めたのも、ピアノだけの人生に退屈を感じ始めたためだと聞いた。

魔界にはない文化を目にするたびに人間を見直してきた蔵馬だが、

この愛らしい少女といると、改めて発見することが多くて目をみはるばかりだ。

(それは、人間に関することばかりじゃないけど)

母親から愛を教わり、今は恋人であるから別の愛情を教わっている。

冷静沈着・残酷無比とうたわれた妖狐蔵馬がまさかこれほど変わるとは。

自分でも驚いてしまうほどだが、蔵馬は今の自分も結構気に入っているのだった。


『結婚するんだもん』


この間の「逃避行」デートの時、がそう言ったのを聞いて、本当は我が耳を疑った。

結婚という制度が魔界にはそれほど浸透していないのが残念と最近は思う。

人間界に来て知ったことはたくさんある。

けれど、まだ足りない。

(君をもっと、知りたい…)

その気持ちが先走った、その結果がこれだ。

ちょっと勘違いかなと自分で思わないでもなかったのだが、たぶん自分にとってはいい結果になるだろう。

あとでにこっぴどく叱られるとは思うが、その覚悟はできている。

「…う…??」

「どうしたの?」

が訝しげな顔でおしゃべりをやめた。

「な、んか…身体が変…?」

はめまいがする、というように目元を押さえた。

「…大丈夫だよ、量は押さえてあるからね…」

「…! な、なにをしたの…?」

急に顔を上げたことで頭に激痛が走る。

は顔をしかめた。

「ごめんね、でも一時的なものだから、心配しないで? オレがそばについてるからね」

蔵馬はよろよろと床に伏しかけるを抱き上げ、背を撫でてやる。

の息は荒く、苦しそうだ。

(オレが試したときはこうはならなかったけど…やっぱり人間とは体質が違うんだろうか)

自分の時とのあまりの違いにちょっと心配になる。

「…ン………!!」

一言うめくと、蔵馬の望んだ変化が訪れた。

の着ていたセーラー服が見る間にゆるゆるになっていき、肩が露わになる。

いや、服が大きくなったのではない、が縮んでしまったのだ。

蔵馬がのティーカップにただ一滴忍ばせたのは、トキタダレの実のエキス。

一口飲むと前世の姿まで戻ってしまうという作用だから、一滴紅茶に混ぜて飲む程度なら

たぶん子供時代くらいに戻るのだろうと予測していたが、まさにその通りだった。

蔵馬の腕の中には、無理に大人サイズの服を着込んだ小さな女の子。

栗茶色の細い髪の毛、綺麗な肌、長いまつげ。

幼い頃から美しく育つだけの要素がそろっているようだ。

蔵馬が知りたかった、蔵馬の知らない、の過去。

少女はゆっくりと閉じた瞼をひらくと、そろりと蔵馬を見上げる。

「…?」

できる限り優しく問うてみる。

「…くらま?」

あまり回らない舌で呼ばれる。

幼い声が彼の耳を甘く捕らえた。

、どうなっちゃったの…?」

頼りなさそうな表情できょろきょろと部屋を見回す。

幼稚園児ほどの姿に戻ってしまった

さっきまで通常サイズだった家具たちが一回り大きく見えるだろう。

を抱いている蔵馬も、きっといつもと違って見えているはずだ。

「怖がらないで、すぐに元に戻れるからね…」

蔵馬は優しく、子どもに戻ってしまったの髪を撫でてやった。

(うーん、これくらいの美少女なら、光源氏のように好みの女性に育てたい気持ちもわかるかも知れないな)

とりとめもないことを考える。

「今日はね、子どものと遊びたかったんだよ」

と…?」

記憶までは退化していないようだが、どうも精神レベルが下がっているようだ。

一人称が変化しているだけでも、ちょっと新鮮に感じてしまう蔵馬。

「どうしようか?」

「あそぶの?」

「うん。何して遊ぼうか?」

「…、わかんない…」

しゅんと俯いてしまう

ね、おともだち、いないの。パパがおうちであそびなさいっていうから」

「……のお父さんが?」

「うん。がっこうにいくまで、あんまりおそとにでちゃいけないの」

「…そう。じゃあ、オレと、おうちの中で遊ぼうか」

「…………うん」

ちいさなはそう言ってにっこり笑った。

(ああ、危ない人になりそうだよ…)

自分で自分に突っ込んでみる。

小さなが可愛くて仕方ない。

しかし、友達がいない…などという過去は初めて聞く。

そう言えば、一人暮らしの理由を聞いても「家族と折り合いが悪いから」とだけ答えていた。

その家族に関する話は、突っ込んで聞くことができない雰囲気だったのだ。

だから、蔵馬もの育った家庭についてはいっさい知らない。

蔵馬が考えにふけっている隙に、ちいさなはだぶだぶの制服を引きずりひきずり、

蔵馬の部屋のクロゼットを勝手に開けて中を物色…もとい、冒険し始めていた。

「こら、。そこはダーメ」

「だめ? くらま、おこる?」

幼いは計算などせずに素直に蔵馬を見上げてくるのだが、それには普段と違った愛らしさが見えてうっと詰まってしまう。

「怒りはしないけど、ね。人のおうちで勝手にあちこち開けるのは、本当はダメなんだよ?」

「……はぁい」

はしょんぼりしてしまった。

(怒ったつもりはないけど、子どもからすると叱咤に値する言い方だったのかな…)

ちょっと自責の念にとらわれている隙に、はまた蔵馬の目を盗んでクロゼットの冒険へと繰り出している。

(…さすが子ども…)

呆れたような諦めたような息をつくと、を追って蔵馬も一緒にクロゼットの中に入っていく。

そういえば、子どもの頃はオレもこうやってあちこちもぐり込んだことがあったっけ。

一人になる場所も時間もない子どもの頃は、どうにかして母親という人間の目から逃れようとしていた。

そんなときに、クロゼットの隅にもぐりこんで、作られた四角い闇の中に安堵していたのだ。

(…こんなに狭かったんだなぁ)

窮屈なクロゼットには、もう大人と呼べる年まで成長した「南野秀一」の服や学校の用品が収められている。

ちいさなは手の届く距離にいて、なにやら奥の方に積んである箱に興味津々のようだ。

(宝箱発見、ってとこかな?)

大きな箱の中を一生懸命覗き込むちいさな

古ぼけて空気の抜けたサッカーボール、小学校の理科の実験で使った用具などが無造作に詰め込まれている。

「こんなもの、まだとってあったのか」

自分でもおぼえのないものが次々、小さなの手によって引っぱり出される。

そして、が最後に目を輝かせて取り出したのは…

「これ、なに??」

「…うわ、こんなものまで?」

音楽の時間に使った、鍵盤ハーモニカだった。

「わー…懐かしすぎるなぁ…なんでこんなところに」

「なになに? ぴあの?」

「いや、鍵盤ハーモニカっていうんだ。ほら、これを口にくわえて、鍵盤を押して、…」

ものすごい不協和音が狭いクロゼットの中にこだました。

「おとがした! すごーい」

は喜んでぴこぴこ鍵盤を押しては息を吹き込み、即興の演奏会が始まった。

薄暗く狭いクロゼットの中で、ちいさなが熱心に鍵盤ハーモニカを吹く様子を見て、

蔵馬はふっと暖かな気持ちを覚えた。

それは、いつか見たの姿に重なってゆく。

ピアニストになることをやめようかと真剣に悩む彼の恋人は、

それでも幸せそうに鍵盤の前に座り、聞く者をとらえて離さない天上の音色を奏でるのだ。

それを、仰々しく「音楽の神に愛された少女」と評した記事を目にしたこともある。

心底から音楽を愛するだから、自分のことでピアノを諦めることだけは、本当はして欲しくない。

『結婚するんだもん』

の声が頭の中に響いた。

「………くらま」

呼ばれて、気付くとちいさなはとろんとした目で蔵馬を見つめている。

、ねむい…」

「うん、そろそろ十五分だ…お別れだね、ちいさな…」

蔵馬は愛おしげに幼いを抱き上げ、腕の中で眠らせてやった。

「オレがいつも守っているから。…ちいさなも、大人のもね…」

だから、安心しておやすみ。

髪を撫でてやる。

その手触りは、今のでも昔のでもあまり変わらない。

ふわりと、彼女の香りがした。

目を閉じて、彼女の髪に唇を寄せる。

「いつも、愛してるよ…

腕の中で、少女が急速に成長していくのがわかった。

けれど、それを見つめるのはやめよう。

なぜか、蔵馬はそう思って…じっと彼女を抱きしめ続けた。

慣れた抱き心地が腕の中に戻って、蔵馬がそっと目を開けると、すやすやと眠る恋人の姿があった。

ぴったりのサイズの制服を着ている。

クロゼットの中は一段と狭いようだが、這い出る気が起きなくてが目覚めるまでそこにいようと思った。

やがて、魔法のように少女が目を覚ます。

「…やぁ、おはよう、可愛い

顔を上げたの瞼にキスを贈る。

「…ここ、何? これ」

狭苦しいシチュエーションにまず戸惑ったらしい。

「クロゼットの中だよ。ちょっと面白いでしょ?」

「…小さな大冒険ね…」

また眠そうに蔵馬の胸に頭をあずける

しばらくそうして黙って抱きしめ合う。

開いたままの片扉から窓が見え、夕日がゆっくりと沈むのが見えた。

「…私、寝てる間に夢を見たの…」

「…どんな夢を?」

「…よく覚えていないけど…小さい頃に遊んでくれた人の夢…」

なんとなく想像がついたけれど、蔵馬はの言葉を待った。

「子どもの頃ね…父が厳しい人で、小学校に上がる前なんか家庭教師がついていたくらい…

 家の外には滅多に出られないし、遊び相手がいなくて寂しかったの…」

「うん…」

「でもね…一度だけ、どうしてだかわからないけれど、優しいお兄さんが遊んでくれたの…

 もう名前も顔も思い出せないんだけど…」

「…そう…」

「その人とクロゼットの中のおもちゃ箱をひっくり返してて…

 鍵盤ハーモニカってわかる…?

 あれで一緒に遊ぶの…吹き方、教えてくれて…私の下手な演奏、じっと聞いててくれたわ…」

蔵馬は眠そうな声の恋人を、大切に抱きしめ直す。

「思い出したの、私…なんでピアノを始めたのか…なんでこんなにピアノが好きなのか、思い出したの…」

の言葉はそこで途切れた。

蔵馬はしばらく黙っての髪を撫で続けていたが、ふいに、再び眠ってしまったにつぶやいた。

「…君は君のやりたいことをやれば、きっとそれでいいんだ…

 オレと離れても、そうでなくても、それはそのあとでいいから…

 君は君の愛を裏切ってはいけない…」

それは、自分でも太刀打ちのできない大いなる愛に対して。


大丈夫、

オレはオレの愛を裏切らないから、いつもいつでも君のそばにいる。

幼い君のそばにも、今の君のそばにも…そして、これからの君のそばにもきっといる。

いつの君も、すべての君も愛しているから。

だから、安心して、自分の愛を貫いていいんだ。


蔵馬はの寝顔をしばらく眺めていた。

その表情は慈愛に満ちて、つめたくおそろしかった狐のそれとは思えない。

そうして、幸せそうに眠る恋人の額にキスを贈ると、

なんだか自分にも幸せな気持ちが訪れて…そのままうとうとと眠りについた。

蔵馬が目覚めたとき、今度は彼の恋人が、彼を慈愛に満ちた瞳で見つめるだろう。



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