ハニィミルク


すぐ戻るねといつものようににっこりとして、行って来ますのキスなんかも忘れずに出ていった蔵馬が、

右肩から手首までをぐっしょりと血で濡らして帰ってきた。

お帰り、と出迎えて抱きつかんばかりだったの勢いは唐突にそがれ、

血の気の引いた表情で立ちつくすばかりだった。

右腕の怪我があまりにひどいので気づくのが遅れたが、体中ほかにも数多の傷を負っている。

意識もほとんど失われて朦朧としている様子で、

ぐったりとしたままの彼を幽助たちが引きずるようにして帰還したのだ。

平和的な政策がとられているとはいえここは魔界。

小競り合いという名の殺し合いや命がけの戦いならどこででも起きる。

悲鳴にも似た声が自分ののどから絞り出されるのを、は他人事のように聞いていた。

「お、おい! 落ち着け! 大丈夫だって…!!」

次から次へと涙がこぼれ落ちる、流れたあとがひどく熱い。

蔵馬、と駆け寄って少し触れただけで、彼は苦しそうに一瞬呻いた。

ほんのちょっとも触れることすらかなわない、はその状況に絶句する。

気がついたときにはは椅子に座らされて、

幽助たちも蔵馬のそばからは離れてを心配そうに見つめていた。

もう蔵馬の腕の怪我も手当てが施されて、彼はベッドでやすんでいると聞かされた。

自分の腕にもいつの間にかガーゼが当てられている。

鎮静剤を注射しなければならないほど取り乱していたのだと言われたが、あまり覚えがなかった。

幽助たちが魔界の指名手配犯追跡から戻って、もう二時間は経過していた。

追われていた妖怪には、危険を察知すると他人から見える姿を変えてしまうという厄介な特徴があった。

追跡者たちの目には、自分たちの家族や恋人が必死で逃げているように見えたという。

偶々蔵馬が攻撃に転じようとしたその瞬間、タイミング悪く敵の姿が変化した。

緊迫感の中、自分の帰りを待っているはずの恋人を斬って捨てようとしている腕が一瞬躊躇った。

油断だった、といえばその通りだと幽助は苦しそうに言った。

蔵馬らしくないミスといえば、それもそうではあるが。

相手も中途半端に強かった、それもまた厄介なところだった。

蔵馬が眠る寝室をそっとのぞく。

薄暗い部屋で、血の気の失せた顔色をして、蔵馬は眠っていた。

そばに寄って、椅子を引き寄せるとそこに座る。

見慣れているはずの端正な横顔が、石のように無機質に見えた。

呼吸は穏やかだが、痛みが襲ってはいないのだろうか。

今夜はただ寄り添って眠ることも許されないだろう。

はポケットからハンカチを取り出すと、蔵馬の額に薄くにじんだ汗を拭ってやった。

ふと触れた肌が異様に熱い。

怪我のせいで発熱までしているなどと、にすら状態が決してよいわけではないとわかる。

の目にまた涙が浮かんだ。

蔵馬の大丈夫だから、心配しないで、という言葉はやっぱり信用できない。

自分が怪我の原因になってしまったなんて。

はただ自分を責めた。

怪我をして戻った恋人を前に、なにをすらできないことも。

「……目が溶けるよ」

聞き覚えのある声が少しかすれて、そんなふうにの耳に届いた。

「…蔵馬…」

「またそんなに泣いて…ごめんね、心配かけた…」

そう言って右腕を動かそうとしたのだろうか、身体を貫くような痛みに、蔵馬は一瞬身を固くする。

「ダメ、動かないで…」

「ああ、…油断しちゃったな…」

しばらく右腕は使いものにならないと、蔵馬は自分でも診断できただろう。

「…痛くない?」

「うん、大丈夫。これくらいならね」

蔵馬はいつものようににこりと笑った。

これくらいなどという程度の怪我では決してない。

「…死んじゃったかと思った」

がまだ涙目でそう言うのに、蔵馬は苦笑しながら答える。

「死なないよ、君より先には絶対に死なない」

もうかなりしっかりとした声でそう言った。

「…ちょっと、今日中は起きあがるのは無理かな…」

左腕を動かしてみて、両足も痛みを感じずに動くらしいことを確認する。

「…今日は、別のお部屋で寝るね」

が少し控えめにそう言ったのを、蔵馬はきょとんとして見つめる。

なにを素っ頓狂なことを言い出すのか、とでも言いたげに。

「こっちに来れば?」

と言って、自分の左側を左手でぽんぽんと叩いてみせる。

いつもはは蔵馬の右側に横になって、右腕にくるまれて眠っているのだが。

怪我のことを思えばそれでも遠慮すべきところだろうが、

蔵馬の口調が何となく有無を言わせないように感じられて、

は結局普段と寝場所を入れ替えて眠ることになった。

左腕だけで器用にを抱き寄せて、蔵馬は心地よさそうに目を閉じている。

腕の中はいつもより体温が高く感じられるし、やっぱり少し熱があるのではとも気が気ではない。

「…何かそわそわしてる? 

「だって、熱いもの…熱があるんじゃ」

「誰にだって熱くらいはありますよ」

「…屁理屈! そんなんじゃないの」

本当に心配そうに見つめてくるの目線に、蔵馬は大丈夫、と笑いかける。

「確かに…怪我のせいで熱を出すのは久々かもしれないな…」

「………ごめんね」

「なんで君が謝るの?」

「だって」

そう言ったきり俯いてしまう。

蔵馬は動く左腕でしっかりと恋人の肩を抱き寄せた。

「謝るのはこっちのほう、かな、退屈な夜になってしまって」

「…どういう意味?」

「『私が上になるわ』とか言ってくれる気はないでしょう?」

「ばか! 心配して損した…!!」

怒るにくすくすと笑いながら、蔵馬はまた目を閉じる。

眠いのかなとは思ったが、蔵馬の指はの髪をやさしく撫で続けている。

しばらく目を閉じたままの蔵馬の横顔をまた眺めた。

ほんの少し開いたカーテンの隙間から、魔界の月の光が薄く射し込んでその横顔を照らし出している。

この世のものとは思えないほど綺麗で、儚くも見えて、彼は今確かに生きてここにいるのに、

は泣きたくなってしまった。

髪を撫でる指から逃れそっと起きあがって、薄く目を開けた彼の唇にキスを落とした。

一瞬触れるだけのキスのあと、心配そうな目で見つめてくるの髪をまた追って、

動く左の腕でそっと撫でる蔵馬。

「大丈夫だよ。心配症だね」

「…人のこと言えないでしょ」

魔界で通用するほどとは言えないがそれなりに戦うすべを持つを絶対に戦わせようとはしない。

今魔界に連れてきたことすらも渋々、だったのだから。

心配症というのか、過保護というのか、

どちらにしろへの気遣いにはこれ以上ないほど細心の注意を払う蔵馬だ。

蔵馬の左の腕に抱きしめられながら、はそれでも心配がつのって深い眠りにはつけなかった。

翌日から、の甲斐甲斐しい介助が始まった。

食事からなにからみんな手伝おうとして、「はい、あーん」なんて皆の前で平気でやろうとするので、

当の蔵馬もちょっぴり参ってしまった。

しかし無理をしようとすればすぐに泣き落としにかかられてしまって、滅多に抵抗することもできず。

になすがままにされている蔵馬を、皆が物珍しそうににやにやしながら眺めている。

数日のあいだ、の気遣いには半ば逃げ腰で応じていた蔵馬だったが、

考えようによっては美味なシチュエーションだということに気がついた。

何でも世話を焼いてくれようとするは、頼まなくたってそばにいてくれる。

腕の痛みが足までを貫いて、

たまにうまく歩けなくなる蔵馬はのほうによろけて倒れかかったりすることがあるが、

わざとでは決してないのでは心配そうに蔵馬を抱き留めてくれようとする。

普段だったら恥ずかしそうな顔をして逃げようとするだろうに。

ただでさえ身体は自由に動かない、誰かの手を借りてやっと人並みという馴染みない生活。

それならその状況をそれなりに楽しまなくてはね、と蔵馬は心に決めた。

腕の怪我の治りはもちろん、並みの人間よりははるかに早い。

わざとでなくに甘えていられるのも今のうちというわけだ。

今日も蔵馬の世話を焼こうと新しい包帯を抱えて走り回っているを微笑ましい気持ちで見つめている。

わざと言ってみる…そんなに心配しなくても大丈夫、放っておけば治るから。

「ダメー! 小さい怪我が元で死んじゃうことだってあるんだよ!? どんな後遺症が残るかもしれないし…!」

蔵馬の小さな反論に畳みかけるように我こそは、なんて勢いで食らいついてくれる。

いつもが自分のことだけを見つめていてくれていると蔵馬はちゃんと知っていたけれど、

それでもこんなときにそのことを試しては再確認して、ひとりで幸せな気分にひたってみたりする。

それは、本気で心配してくれているには悪いけれど、とても楽しいことだ。

はきっと子どもの面倒を見る母親のような気持ちでいるのだろう。

いつもは自分が血を流してまで背に守ろうとしている恋人が、

甲斐甲斐しく世話を焼いて蔵馬を守ってやろうと奮闘している。

右の腕が動かないのはもどかしいけれど、時折たまらなくなって左の腕だけでをきつく抱きしめた。

誰が見ていても構わない。

慣れないながら、懸命に手当てを施そうとしたり、

少し疲れていつの間にか眠ってしまったりするがただ愛おしい。

皆が仕事だの任務だのと戦いに出ていくのを見送って、

ふたりだけでのんびりと時間を過ごすのはまたとない贅沢だった。

ある日のこと。

二人でのんびりとティータイムを楽しんでいたところに、幽助の声が聞こえた。

窓から覗いてみれば、幽助がぶんぶんと両の手を頭の上で交差させて手を振っている。

「おーい! 、ちょっと手伝え!!」

なにごとかとと蔵馬は目を見合わせたが、とりあえず手が足りないということらしい。

右の手が使えない蔵馬は留守番とに言い置かれて、窓から様子を見守ることにした。

呼ばれて出てきたを迎えたのは、巨大ななすびの山だった。

「な、なにこれ…?」

「なにって、茄子」

「なす??」

「そーだよ、人間界にもあるだろ」

しかし目の前に横たわるなすびは丸太ほども幅のある巨大なもので、

黒光りした肌もナイフ一本で切り裂けそうもないほど頑丈に見えるのである。

「人間界と近くなると魔界も大変だよなー。これ蔵馬に見てもらいてーんだ。

 茄子がこっちに飛んできて根ェ張って、ただ巨大化しただけで害がないってことなら

 今晩は焼き肉にしてこれも一緒に食っちまう」

幽助のプランに周りの皆も乗りたがっているらしかった。

「ねぇ、持ってみてもいい?」

「いーけど…結構重いぞ」

の体重くらいあるぞと茶化されて、幽助はの肘鉄をもろに食らう羽目になった。

素人の攻撃ほどどこに入るかわからず恐いものはなかったりもする。

悶える幽助をよそに、は巨大なすびの中でも一番小さなものをひとつ抱え上げた。

「えい!」

なすびの負荷も加わって、持ち上げた勢いのままは反り返って後ろにバランスを崩す。

「きゃ…」

「あぶね!」

ちょうど立ち上がった幽助がよろけたの肩を後ろから両手で支えた。

「わ、ごめんね幽助!」

「だーから言っただろ、注意しろっつの」

ごめん、と謝るから幽助は離れる。

楽しそうに巨大なすびを取り囲む集団を、蔵馬はひとり遠くの窓から眺めていた。

最初はよかった。

あの巨大な茄子に見える物体はなんだろうと訝しむだけで済んだ。

恐らく、運ぶのを手伝えと言いたくて幽助はを呼んだのだろう。

そこに意図も意味もないことは蔵馬にだってよくわかる。

ところが、茄子をひとつ抱え上げてよろけたを幽助が支えたのだ。

彼には螢子がいるし、蔵馬がどれくらいに惚れ込んでいるのかを一番知っているうちのひとりが幽助だ。

よろけたのをちょっと支えるとか、何かの拍子に手が触れるとか、

そんなことで妬くほど蔵馬は周りの皆に対して焦りを持っていたりはしない。

いつもなら今の光景すら何も気に留めずに見ていられただろう。

それが、今蔵馬の胸の内を駆けめぐる感情は。

(…バカみたいだな)

嫉妬以外のなにものでもなかった。

情けなくても認める以外にどうしようもないほどの嫉妬に、蔵馬は身を焦がされるような思いを抱いた。

ただ幽助に妬いているわけじゃない。

バランスを崩したを、「両の手で支えることのできた」幽助に嫉妬しているのだ。

怪我のためとはいえ、今の自分はあの場にいて左の腕だけでを抱き留めることしかできなかったはずだ。

下手をすれば自分も一緒にバランスを崩して倒れ込んでしまう。

髪を撫でるにも、抱きしめるにも、助けるにも、手をさしのべるにも、今の蔵馬には片腕しか許されない。

ただそれだけのことに蔵馬は今までにないほどの焦りを感じた。

ここ数日、が甲斐甲斐しく面倒を見てくれることに楽しみすら覚えていたというのに、

今はたった一瞬の油断で右腕の機能を失った自分に苛立ちと怒りを覚えている。

誰のせいでもない、幽助を、ましてを恨むなんて筋違いもいいところだ。

自分の招いた結果であるという事実が、更に蔵馬を追いつめた。

それでも彼は悔しさに唇をかみしめたまま、彼らを見守ることしかできようがなかった。

その夜は幽助の発案通り、屋外で焼き肉ということになった。

蔵馬がなすびを診断した結果、極端に巨大化しただけで害はない、食べても大丈夫とされたのだ。

一度の食事になすびひとつでも余るほどではあったが、

一瞬にして細切れにしてもらうためだけに彼らは百足から飛影を呼び出して包丁を握らせた。

躯側のメンバーも集まって飛んでもない騒ぎに発展していった夕食のあいだ中、

はなんとなく蔵馬の機嫌が良くないことに気付いていた。

紙一重の違いという程度で、先程までと何が違うでもない。

ただほとんど何も口にしないし、気付けばじっと黙ってどこやらを眺めている。

傷が痛むのかと聞けば、そうじゃないという答えが返り、

その問いを今するべきでなかったとは思い知らされた。

何が原因かはわからないが、蔵馬の気持ちになにかマイナスの働きかけがあったらしい。

心配が過ぎてかもあまり食は進まず、周囲の騒ぎに置いて行かれたように二人だけ静かにただそこにいた。

「…蔵馬、疲れてる?」

心配そうに蔵馬を見上げるに、蔵馬はただ申し訳なくて口元に笑みを浮かべてみる。

「食欲ないみたい…部屋に戻る?」

聞かれて、少し静かにしていた方がいいかもしれないと、蔵馬は素直に頷いた。

蔵馬ととが連れ立って騒ぎの中心から離れることに皆それぞれ気づきはしたが、

だからといって別に気に留めるようなことはしなかった。

部屋に戻るとはとりあえず蔵馬を座らせ、落ち着かせようと日本茶をいれた。

食欲のないときにコーヒーは良くないかもしれないとなんとなく思えたのだった。

「はい、少しゆっくりしよ? 眠い?」

の言葉に、曖昧に頷く程度で蔵馬はあまり反応をしない。

気を取られている。

さっき感じたイライラがまだ募っている。

目の前には愛おしい恋人ひとり。

八つ当たりの対象は他にない。

受け取った湯呑みにちょっと口をつけただけで、蔵馬はすぐそれをテーブルに置いてしまった。

「具合悪い? 大丈夫?」

「怪我は何ともないよ…心配いらない」

「そんなこと言っても…痛むでしょ?」

「痛くないよ」

静かな受け答えの内に、どうしようもないほど激しく駆けめぐる葛藤を秘めたまま。

自分がどうかしている、この怒りもイライラも飲み込めばおさまるから耐えろと何かがわめく反面、

変わりばえのしない問いを飽きるまで繰り返すに焦点は次第に定まっていってしまう。

自身はそんなことを知る由もない。

「ねぇ、蔵馬…今日なんか様子がおかしいよ…なにかあったなら言って」

どうしてそんなにオレを掻き乱すことばかりを君は言う!

一瞬で蔵馬の気配が研ぎ澄まされたことにが気付いたときには遅かった。

左手で腕を掴まれ、無理矢理引きずられてそのまま、力ずくではベッドの上に引き倒されてしまった。

「…蔵馬!」

無理をしないで、と叫ぼうとするの唇を、蔵馬は強引に奪った。

「…、いや、」

こんなふうに触れられるのは嫌だ、、、そう思いながら、

無理に抵抗をすれば蔵馬の怪我に響くと気付いては彼を押しのけようとした手をゆるめてしまった。

「やめて…!」

心だけは抗いながら、蔵馬の怪我を思うとろくろく動くこともできなかった。

左手だけが器用にの肌のうえを這っていく。

耳元に熱い吐息を感じて、はびくりと身をすくめた。

黙っているうちにいつの間にか少しずつ服を脱がされ、肩があらわにされた。

「いや、蔵馬…」

顔を背けて、泣きそうな声でが自分を呼んだのを知って…蔵馬はゆっくりと身を起こした。

「…抵抗すれば」

「で、できるわけないじゃない!」

そんな大怪我をしているのに、と言ったの目からぽろりと大粒の涙がこぼれた。

「…バカみたいだ」

の涙に勢いを削がれて、蔵馬は息をつくとからさっさと離れてベッドの端に腰掛けた。

涙を拭いながら乱された服を整え、は少し怯えながら蔵馬のほうを見つめた。

彼はのほうを向かない。

「………、蔵馬…」

「本当、バカみたいだよ。右の手が動かないくらいで…」

蔵馬がなにを言いたいのかがわからなくて、はそっと彼に寄り添った。

もう一度聞かせてと、しかし黙ったままで願う。

「いつもなら当たり前なのに。両手でを抱きしめられるのに」

「な、に?」

「悔しい…」

絞り出すようにそう言って、蔵馬は唇を引き結ぶ。

「蔵馬…」

「他の誰でも、意識しないくらい当たり前に両手でに触れられるのに。

 転びそうになったところを支えるのも、一緒に荷物を運ぶのも、なんでも…

 そんなことに嫉妬してるなんて」

「え?」

「…笑えば」

蔵馬は投げやりにそう言った。

笑えば、などと。

「バカみたいだってだって思っただろう」

怪我だって待てば治るのだから、そうすれば蔵馬だって当たり前に両手でに触れられるのに。

「そ、そんなこと…!」

呆れ半分、もう半分はなんだ、そんなこと…と思いながらは蔵馬の左腕に抱きついた。

そんなこと、心配しなくてもいいのに。

動かせない右腕分、伝わる愛情が減ったわけではないのに。

「やきもちやきの狐さん」

ちょっとからかうように、しかしなんだか微笑ましくて苦笑しながらは蔵馬の頬をつついた。

「いつも余裕ぶってすましてるくせにあんなに慌てちゃって。びっくりさせないで」

「………」

ごめん、とも言えなくて、蔵馬はぶすっとしたまま黙り込んだ。

「本当はそんなに余裕なんかじゃないでしょ?」

言いながら蔵馬の左腕のなかに滑り込むと、怪我に響かないよう気をつけながら彼を抱きしめる。

今は引いているはずの熱が戻ったように、蔵馬の身体はあたたかかった。

「ねぇ、本当のこと言って。なんでもほんとのことだけ言って。

 誤魔化してるのがわかるから何度も同じことを心配しちゃうんだから」

蔵馬はまだしばらく黙ったあと…吐息混じりに囁いた。

「…痛いよ」

「そうでしょ」

「死にそう」

それは大げさなんじゃ、と苦笑するの肩に、蔵馬は頭を預けた。

「…がいてくれなきゃ、、、困る」

「うふふ。そうでしょ」

そういう言葉が聞きたかったのと、の声は嬉しそうだ。

「だから今は私が蔵馬のことを助けて守ってあげたいの。いつも蔵馬がそうしてくれるみたいにね」

またたまらなくなって、蔵馬は左手だけでを抱きしめた。

やっぱり今の自分には両手でを抱きしめることができない。

守るときも左手でしか守ることができない。

それを思うと疼くのは右腕の怪我ではなかったけれど、でも今はが蔵馬を守ってくれるのだという。

「いいの、なんでも聞かせて。蔵馬の考えてること、もっと知りたい」

「…うん」

「もっと甘えて」

「……うん」

の両腕に抱きしめられながら、あれほど振り払えなかったイライラがすっと溶けていくのを蔵馬は感じた。

は子どもにするように蔵馬の髪を優しく撫でている。

心地よさに蔵馬は目を閉じた。

「我慢しないで」

「うん」

「蔵馬の心配いらないって言葉は、だから信じらんないんだからね」

「…そう」

言われて、蔵馬はちょっとだけ笑った。

まだの肩に頭を預けたまま、彼女のするにまかせていると芯から安らいでくるのがわかる。

改めて蔵馬は恋人の持つ得体の知れない力に驚かされた。

別に、特殊な能力とか、そんなものではない。

怒りも苛立ちも瞬時にといてしまう、不思議な包容感とでも言おうか。

「痛くないっていうのも、バレバレ!」

「…はい」

「あとは?」

他に誤魔化してることはないのと聞かれて、蔵馬は半分くらいは無意識に口を開いていた。

「好きだ」

ハッキリと断言されて、自分の問いから引き出された言葉ながら、は硬直してしまった。

「…言わないで誤魔化してた。が好きだ」

はしばらく蔵馬の左腕の中でおろおろとしながら、やがて諦めたように小さく頷く。

蔵馬の耳元に、が小さな声で囁いた「嬉しい」という言葉がいつまでも残る。

満ち足りた、ミルクのような甘い思いを抱いて、

本当に痛みも引いたような錯覚を覚えながら、蔵馬はを抱きしめる左の腕に力を込めるのだった。


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