どこまでも否定して


電話とは当たり前だが言葉の応酬で成り立っているものである。

音声というものは人間が頭で考える以上に相手に物事を伝えるらしい。

アクセントやらちょっとした言い回しの違いやらで、その意味にどれだけの違いが生じることか。

恋人同士の男と女がいたとして、

女が愛する男に何か言葉を求めたとして、それは

愛情と慈しみに満ちみちた、甘くかぐわしい言葉が望ましいのだろう。

と、

蔵馬は常々、そこまで堅苦しくないにしてもそういう思考を持つように心がけており、

それらの思考から生まれた言動をあまさずに実践するようにしている。

おかげで彼の恋人は他の男に目もくれず、人三化七を越えつつある蔵馬を愛し続けてくれている。

彼女から寄せられる愛に疑いを抱くことも、

不安になるということもないというのがかえって恐ろしく思われるほどだ。

毎日のように電話をして、メールを送り、会える日は気が済むまでそばにいた。

今日は、お互いの時間がすれ違ってしまった。

だから電話をしている。

の声は少し疲れている。

忙しい時期なのだと平気と明るいあきらめを装った声が言った。

本当はすぐにでも走っていって会うなり抱きしめたいという衝動がある。

しかし自分は今仕事の残業の合間を縫って休憩に出ているところであり、

彼女は彼女で、自分が組み込まれている社会という枠に懸命に合わせようと奮闘しているところだ。

この場所に生きている人間たちはいつもみな無理をしているが、

人間生活をなぞることで蔵馬からはそれを一方的に責めようなどという心地は消え失せていたのだった。

誰しもなんらか、抱えているものがある。

理由とか、事情とか、そういう名の。

それは、ある角度からすれば確実に正当である。

疲れたときには甘いものとは良く言ったもので、代表格はチョコレートであろうが、

「恋人の甘い囁き」などというものは特に格別の効果をもたらすことがある。

厄介なのはかすかな媚薬効果で、あまり摂取しすぎるとやる気を失って痛い目に遭う。

しかし今はお互いのためにほんの少し。

次に会ったときにその続きを楽しむために。

そんな打算があってのことではもちろんないが、直に触れることの出来ない恋人を思い、

蔵馬は携帯電話に向かって睦言を繰り返し続けていた。

の声が嬉しそうに響くのを心地よく受け止めながら、

ふつふつと浮き上がる邪な熱を夜の風にさらして冷ましてみる。

焦燥はつのるばかり。

『あら、でも、チョコレートにも媚薬効果はあるんだって聞いたけど』

思ったことを素直に伝えると、はそう言ってちょっと笑ったようだった。

『なぁに? 疲れを癒してくれるの?』

「オレに出来るのなら、喜んで」

企むような声色に、は受話器の向こうでくすくすと笑った。

『真夜中でも会いに来てって言ったら?』

「いいよ…ただで済むとは思わないで欲しいけどね」

『そういうことばっかり』

含み笑いを残して、は蔵馬が仄めかしたことをうやむやにしてしまった。

「…どれくらい会ってないのかな」

『ほんの二日よ、もう寂しいの?』

「うん…が欲しいよ」

『まーさっきから率直ですこと』

少し呆れ気味な声が返ったが、あまり嫌そうではなかった。

口で嫌そうなことを言っても、すげない態度をとっていても、

はそうして蔵馬にすみずみまで愛されることを楽しんでいる。

言葉の奥に見え隠れするの本音をこそ、蔵馬はこの上なく信じている。

その声の端はしに、ちゃんとの愛が聞こえる。

『おやすみが合うまであと一日よ、我慢して』

「いっそのこと一緒に暮らさない?」

『…蔵馬』

「そうしたら毎日だって会えるし」

の声が急に不機嫌な色を帯びた。

『空気を読んで欲しかったわ』

女性がシチュエーションに敏感なのは承知だったが、そんな場合ではない。

頭の中が何千歳だろうと、彼のその身体は二十歳そこそこだ。

一度満足してもまたすぐに飢えては求めてしまう。

それをきっぱりと拒否できてしまうところがの強みであり、蔵馬の痛いところだった。

気が乗らなければ指一本触れさせてはくれない、気高い女王様のような恋人。

『私は私を大事にしてくれる人が一番好きよ。

 私の気持ちを考えて、優しく気の利く人が理想なの。実用性は二の次よ、今のところ』

きついセリフも吐きながらは意外に夢見がちで、

まるで物語のような、ロマンティックの過ぎるくらいの恋愛がお好みらしい。

が幸せそうにしてくれるのがただ嬉しくて、蔵馬もをそうしてもてなしてやることは厭わない。

「毎日必ず会える方がいいじゃない?」

『忙しくても真夜中でも、会いたいからってだけで会いに来てくれるのがいいんでしょう?

 もういや、夢がない、蔵馬』

わがままはの得手とするところだ。

の言葉のすべて、その裏にかいま見える真実を必ず信じると蔵馬は思っているのに、

もういや、の一言からそれ以上の意味を見出すことが出来なかった。

愛想を尽かした、という意味でないことだけはわかるのだが。

『私をそうして愛してくれない人なら、いつ別れたって構わないのよ』

「え…ちょっと待ってよ、どうしてそこまで話が飛ぶ?」

『あなたはもてるじゃないの。補えないところがあるならさっさとこんな面倒な女見捨てて、

 あなたの思うとおりに従ってくれる女を見繕えばそれでいいわ、そうでしょう』

「いや、だから、そういうことじゃなくて」

『一緒に暮らしてもくれるでしょうし、わがままも言わないし、好きなときに抱かせてくれるわよ』

まくし立てられて蔵馬は少し混乱していた。

待て、の言葉に秘められた本音を感じ取ることは出来ていても、

自分の言葉の裏にある意味をがどうとるかということにまでは気を配っていなかったかもしれない?

恋人に「一緒に暮らそう」と言われて喜ばない女がいるか? (いや、いないだろう)

しかしが好まない状況で軽々しくそれを言ってしまったことは認めなければならない。

そのことだけがを不機嫌にさせてしまったのだろうか。

いやいや、たぶん違う、そうではなくて、

さっきからそのつもりはなくても「が欲しい」というところだけ妙に強調された話になっていないか?

その前に一言でも愛しているとか言ったか? 言ったか? 言っていない、恐らく。

これは即座に弁明を試みる必要がある。

そもそも、男と女の脳には大差があるし、身体の仕組みにも大差があるし、

そうだ、女は気持ちが先に来るはずだ、それも長い時間をかけてゆっくりと。

身体に作用するのはかなり後なのに男はそこに時間はかからないのだ。

男のペースでけしかけてその気になるはずがない、いや何を考えている、ちょっと落ち着こう。

待て、まずになにを言えばいい。

謝るべきか?

率直にすぐ愛していると告げるべきか?

いや、今言ったら言い訳がましく聞こえはしないだろうか?

なにかの御機嫌とりが出来る言葉があるはずだ。

恋人の甘いささやきほど効く媚薬はない。

ところで蔵馬がこれだけのことを考えている間、は待ちぼうけを食らっていた。

『…ちょっと』

「う、あ…ごめん」

当の本人を放っておいてしまっていたことに蔵馬はやっと気がついた。

言い訳がましくならないセリフを考えていたところ急に覚醒して、即座にごめんと謝ってしまった。

不覚。

もっと効果的なセリフがあるはずだったのにと蔵馬は根拠のないその勢いを少し削がれてしまった。

『もしかして本気にしてるの? いつ別れてもいいなんて』

「いや、それはないけど…焦るでしょう、あんなに一度に言われたら」

『…否定して欲しいのに』

「は?」

『別れてもいいんだからと言ったら、絶対に別れないって言って欲しかったのに』

それはまるで合い言葉のような、絶対の響きを持った反論。

『嫌だって、絶対離してたまるかって言って欲しかったのに』

「………」

『言い訳よりも説明よりも、有無を言わさないくらいどこまでも否定し続けて欲しかったのに。ばか』

の声から、拗ねている気配が伺えた。

今謝ったらそれこそ言い訳で、今更の言うような「否定」をしたところですでに遅い。

言われる前に気付かなければ意味がないのだ。

蔵馬はまたしても無意識に「ごめん」と呟いていた。

呟いたあとでまた不覚、と思わされてうなだれた。

なにか言わなければ。

は蔵馬の言葉を待っているのだ。

期待通りのセリフを聞かせてくれることを願っている。

しびれを切らしたのか、呆れたのか、のほうが先に口を開いた。

『もういいわ。休憩終わっちゃうし…あんまり遅くまでやってちゃだめよ』

「待って、…!!」

『……なに?』

「いや…えーと…」

特に何も思いついていなかったというのに、蔵馬はとっさにを引き留めてしまった。

何も言わないわけにはいかなかった。

「…大事に思ってるよ…の理想通りとはいかないかもしれないけど、」

やっとのことで出たセリフがそんなもので、蔵馬は自分の言葉ながらひねりのなさに落ち込みたくなった。

『…セリフは合格点一歩手前ね』

いつもなら苦笑で返すところが、今は苦くも笑えない。

落ち込みに拍車がかかりそうだった。

『何をしょげてるの? もう、子どもみたいよ』

「…オレも自分で馬鹿馬鹿しいなと思うよ」

『いいのよ。私のために馬鹿馬鹿しいことも真剣にやってくれる蔵馬が好き』

「………」

『仕事が終わったら、メールしてね。待ってる』

それだけ言うと、蔵馬の返事を待たずには電話を切ってしまった。

無慈悲な電子音が恋人の不在を告げる携帯電話をじっと見下ろして、蔵馬はため息をつく。

──どこまでも否定して。

愛する恋人が蔵馬に求めたそれは、意味こそ甘い何かを秘めてはいるものの、

恋人の言葉をはっきりと覆すというそのこと、だった。

普段と逆じゃないか。

まったく、女心というやつは。

突き詰めて考えると、実にシンプルなこと。

何をおいても、辻褄が合っていなくても、君が欲しいというその感情、ひたすら。

口先だけでも、君しか見えない、君のためなら何にだってなろう、

はそんな言葉をきっと待っているのだ。

そして、蔵馬はそれに応えることができる。

彼は携帯電話の画面をやっと待受に戻し、ポケットに無造作に突っ込んだ。

恋人の待ち望む言葉をじかに聞かせてやるために、まずは山積みの仕事を片付けるべく、

踵を返してデスクへと戻るのだった。


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