エスメラルダ


いったい、どんな言葉を尽くし、どんなものを贈ればお前は微笑むことを覚えるのか。

ちょっとでも振動が起きれば雪崩れること請け合いの古書の山に埋もれ、

銀の狐はため息混じりにそんなことを呟いた。

埃っぽい書斎にいて、蔵馬からその言葉を向けられたのはまったくの人型の妖怪だった。

見た目から判断して人間と何が違うかというと何も違わないのだが、確かに微弱ながら妖気を纏っている。

美しい女の姿をしたそのあやかしは名をといい、

妖狐蔵馬率いる盗賊一味に奪われた宝の中では最上級と呼べる一品だった。

元は稀少鉱石、は種族を持たない単体の妖怪だ。

完全なる人間型ではあるが、蔵馬の言葉にゆっくりと振り向いたその目に宿るのは、

光を鈍く照り返す鉱石の表面のようなどこか凍り付いた淡い緑色で…

それを認めただけで、確かにこの娘は人間ではあり得ないと誰もが思うような不思議に満ちていた。

「盗品を贈られて喜ぶ女がいますか」

表情ひとつ変えずにそう言ったに、蔵馬は再び諦めに近い軽いため息をついた。

そこでとりあえずこの話題が尽きたことを知ると、はまたゆっくりと彼から目を背けた。

今、盗賊一味はを連れたままで魔界の層を深く深く降りていこうとしているところだった。

潜伏できそうな場所はどこでも臨時にアジトとして使う。

とうの昔に滅びた小国の崩れかけた城塞には思わぬ貴重品がごろごろと転がっていて、

早く移動しようと口を揃えて言う部下を後目に、頭の妖狐はいつになく愉快そうに書斎に入り浸っている。

この場所にいったん落ち着いてもうすぐひと月も経とうかという頃だ。

あかりとりの小さな窓のそばには椅子をひとつ寄せて、何をするでもなくじっと外を眺めている。

自分が今いる場所が極悪非道と呼ばれる盗賊たちのあいだと知れば、

大抵の女たちは泣いてわめいてどうにか逃げようとしたり、助けを請うて媚びを売ったりと

ずいぶん取り乱したものだが、にはいっさいそんな様子は見受けられなかった。

感情を映さない冷たい緑色は、逆に男たちの感情をかき立てる。

しかし、近づくことも躊躇われるような美しさの前に彼らは立ちすくみ、

手を出すことができずにいるのだった。

唯一臆することがないのは頭の妖狐蔵馬と遠慮を知らない黄泉という男だけだったのだが、

当の本人はその二人に対しても優しく振る舞うということがないようだった。

「あなたの言うことにはとても精巧な嘘が多いのです」

視線を戻さぬままにがそう言った。

また古代文字の上を往来していた蔵馬の視線は、またのほうに引き戻される。

のほうから話しかけられることなど滅多になかったのだ。

「私は本当の言葉しか信じません」

「…慎重なことだな」

「そういうものです。嘘はすぐにわかるものです」

実際には蔵馬は誰を相手にしようと嘘を見抜かれたことなどなかったのだが、

に対して口にしてきたごく些細な嘘をすべて見透かされていたことをそのとき悟った。

この女には嘘はない──確証はなくとも、それが事実であると蔵馬は知る。

「あなたの言うこと…愛だとか、特にそういう言葉には、あまり重みがありません」

「…そうか」

率直に言われても特に打撃はなかったが、なんとなく自分の内側が空虚になったのを蔵馬は感じた。

「適当に人に寄せてはいけない言葉もありましょう」

「そのようだな…生きるためには嘘も必要だとオレは思うが」

「生きるためにあなたがわざわざ私に嘘をつくことも必要と思われるのですか?」

問いのように響いた言葉はしかし、蔵馬が否と答えることをすでに知っていた。

「私は本当の言葉しか信じません」

はもう一度、それを繰り返して言った。

何か伝えようとしてはいるのだろう。

蔵馬がに伝えた一条の言葉はの中で反芻されて…嘘と響いた。

美しい宝石もその中で、あびた光を何度も反射し分解する…まったく、

なんとも自分の性質に正直な娘ではないか。

いくら精巧に作られていても、イミテーションならすぐにわかるのだそうだ。

蔵馬は膝の上に開いていた本を、傷を付けぬよう慎重に閉じて床に置いた。

立ち上がり、窓際の女のほうへと歩み寄る。

すぐそばに立った蔵馬を、はゆっくりと見上げた。

窓から差し込む日の光が、その瞳の中であやしく揺れた。

「私、あなたの言葉は嘘と知っています…けれど」

「なんだ」

銀の狐は少し不満げに首を傾げてみせる。

絹糸のようにつやつやとした髪が彼の肩から腕へと滑り落ちた。

沈みかけた夕日を照り返す銀糸はまるでお伽話のように儚く美しくの目に映った。

「あなたは言葉を膨らませ過ぎるのでしょう。そのお心までが嘘とは思いません」

「…ほう」

「素直な言葉を届けてくだされば、私だって嬉しいのだと思います」

「なるほど…いやちょっと待て」

まるで自分がひねくれているような言い方をされて、蔵馬は心外と言いたげに眉をひそめる。

その小さなしぐさひとつとっても芸術のように完成された美しさを伴っていた。

「信頼や愛情…が育つまでに何が必要でしょうか」

問われたわけではなかったが、蔵馬は少し考え、口を開く。

「時間、か? たとえばの話だが」

「恐らく時間は関係ありません。あなたは私に一目惚れしたから私を奪ったのでしょう」

反論の余地はなかった。

はただただ美しかった。

「あなたは先程私にこう言いました…どんなに言葉を尽くし、どんなものを贈れば…と、でも」

でも、ともう一度小さく繰り返してはいったん言葉を切る。

「きっとそんなことすらも必要ないのでしょう。ありのままのものさえ見ることが叶えば」

「…お前の考え方は少々固いようだな」

何気なく蔵馬はそう言ったのだが、はその言葉にわずかに反応して目を見開いた、ように見えた。

いつものように動じることなく聞き流されると思っていた蔵馬は不意打ちを食らった格好だ。

「…ごめんなさい」

はそのまま表情を変えずにひとこと謝る。

何を謝ったのかと訝る蔵馬の視線の先で、は初めて感情らしい感情を表情にのせた。

少し恥じらったように視線をそらし、やがて目を伏せると。

「私は嘘をつくのが下手なのです」

そのまま如何ともし難いというように黙り込んでしまうを見つめながら、

蔵馬は呆然としながらもじわじわと染みいるような感動を覚えていた。

蔵馬から出た言葉が初めての内側でなにか響いたのだ。

は初めて蔵馬の目の前で輝いた…恥じらい、という色ではあったが。

「驚いたな」

「…なにがですか?」

はまだ少し桃色に染まった頬のまま顔を上げる。

「…そんな顔もできるんじゃないか」

え、とは意外そうに顔を上げた。

「張り付いたような無表情よりは、よっぽど良い」

蔵馬はそう言って、口元に控えめな笑みを浮かべた。

笑って見せようとしたのでなく、ただ嬉しくて無意識がそうさせたものとにはすぐにわかった。

極悪非道だの冷酷無比だのと言われる妖狐の、これがその素顔のひとつとは誰も想像し得ないだろう。

は素直にその笑みに見蕩れた。

「どうした…何をそんなに見ている?」

「あなたのほうこそ」

笑みをこらえるようにわざとらしく口元をひき結んではかろうじてそう答えた。

ちょっと気を抜けばたちまち花のように微笑むであろうその口元が奇妙に愛おしく、

蔵馬はそっとその頬に指をあてた。

指先に感じる初々しい果実のような肌、そこに感じる熱がいやにリアルだった。

正体が鉱物でもこの娘は蔵馬の指先にいて生きている。

大きな瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返すのを見つめるうちに、蔵馬は無意識にの唇にキスをしようとしていた。

一瞬、指先の気配が驚いて揺らぎ、躊躇い、半ば諦めたようにではあるが、長い睫毛が伏せられたのがわかった。

唇が触れ合うだけの軽いキスを何度か繰り返し、ほんの少し離れて、

はまだ少し躊躇いがちに…やっと、蔵馬の目の前で微笑んだ。

「そうだ」

蔵馬は満足そうにそう言った。

「そういう顔をしている方がずっといい」

蔵馬は今度は少し強引にの唇を奪った。

細い身体を抱き寄せる。

蔵馬の腕の中に閉じこめられて、は身動きもとれずにされるがままになっている。

キスの雨嵐から解放されて、はそれでも蔵馬の腕から逃れることは許されなかった。

胸元に頭を預け、震える唇から吐息を漏らす。

蔵馬はいつになく慈しみに満ちたしぐさでに触れ続けた…すべらかな肌を、華奢なそのラインを。

「…今言えば、信じるか?」

は無言のままに顔を上げる。

銀色の髪、獣の耳、何もかもを射止めるようなその視線。

沈み行く夕日の逆光を浴びたその姿はこの世のものとは思えないほど神々しく美しかった。

「あなたはきれいな人ね」

「…何の話だ」

噛み合わない返事をされて、蔵馬は苦く笑う。

「…あなたのそばにはたくさんの人がいるわ…あなたのことを信ずるに足るとわかるのでしょうね」

部下たちのことだろうか。

蔵馬は黙っての言葉の続きを待った。

「そうしてそばにいる人たちの中で、それでもあなたの心からの言葉を聞ける人がいるのかしら」

きっといないだろうという反語をしっかりと秘めた口調ではそう言った。

「少なくとも、ここにひとりいる…」

蔵馬は笑いながら、の額に口づけた。

「お前の言いたい意味が分かってきたようだ」

「そんなに難しいことは申し上げていませんけれど」

反論する唇をまた奪った。

もうからは躊躇いは感じられなかった。

「あなたは偽りようのないものを巧く模造して見せるのが得手でしょう」

「…返す言葉もないな」

「嘘はわかります。私は本当の言葉だけをあなたから聞きたかった」

「…慣れぬな」

ばつの悪そうな顔をする狐に、は微笑ましいというように目を細める。

「これまでも嘘を言ってきた覚えはないが」

「本当のことをまるで冗談のように仰るからよ」

なるほど、とため息にも近い呟きを漏らし、妖狐蔵馬はの耳元にそっと唇を寄せる。

を愛している」

わかるか、と問われ、はちいさく頷いた。

「…これからも私を連れ歩いてくださるおつもり?」

「出来うる限りはそうしよう」

誠意を込めて言ったその一言に、は少し寂しそうな微笑みを残したのだった。





「…蔵馬。おーい。お頭さんよー。…ったくなぁ…」

眠ってしまったらしい妖狐を起こすべきか放り出しておくべきか、

黄泉は立ちつくして逡巡していた。

書斎へ入っていくのを見た者はいたが、書斎から出てくるのを見た者はいなかった。

とっぷりと夜も更けた今になって、黄泉はもしやと書斎に足を踏み入れたのだ。

あかりひとつつけずに、蔵馬は古書の山の中に埋もれるようにして座ったまま眠っていた。

尾だけが時折、覚醒しているかのようにぴくりと動く。

「埃っぽいところだ…」

けほ、と黄泉が小さく咳をした拍子に、傍らに積んであった本がどさどさと崩れ落ちた。

「…! 黄泉…なにをしている」

目を覚まし、開口一番蔵馬は事態を把握し黄泉を責めた。

「そりゃオレのセリフだ。なにをしているかと思えば真っ暗な中で寝こけているだと?」

冗談も大概にしろと、黄泉は大げさな身振りで手を左右に広げる…その手がまた別の本の山にぶつかった。

埃をもうもうと立てて、また本が雪崩れ落ちる。

「…古書の価値を知れ、黄泉…」

「大抵の闇商人はこんなもんにビタ一文払いやしねぇよ」

「本じゃない、中身だ」

言いながら蔵馬は辺りを見回した。

調べものをしていたのだった。

先だって奪った稀少な淡いグリーンの宝石、それに込められた「呪い」とやらの術の正体。

「わかったのか?」

古風な照明に火を灯して、黄泉は腕組みをしながら壁によりかかる。

「ああ…おおよそはな…」

本当は呪いなどという曖昧さ極まるものが込められているわけではない。

過去に誰やらが吹き込んだ言葉をそのまま記憶している石なのだ。

叩きつけて割れば封じ込められたままにその声を聞くことが出来るはずだが、これも貴重品だ。

「割るのか?」

「いや…」

どちらともつかないニュアンスで、蔵馬は視線の先に転がる宝石を見つめた。

「これは返す」

「ハァ!?」

いきなり何を言い出す、と黄泉は思わず身を乗り出した。

「…女だ」

「聞かないでなんでわかるんだよ」

「わかるさ」

なにやら含みを持たせた言い方をして、蔵馬はその宝石を拾い上げた。

…かつて、まだ今の部下たちとも出会う前の頃…

その美しさに惹かれ、ひとりの女を奪ったことがあった。

気が遠くなるような長い時間をかけて、少しずつ命が削られる単体の妖怪。

鉱石に魂が宿り、人型を得て、死ぬときにまた鉱石に戻る…

その輪廻を経た宝石は、想いの込められたものだけに妖しいほどに美しく、多くの者の心を惑わせる。

数多の妖怪の手を渡り、この石が割られずに無事であったことはまるで奇跡だった。

「…本当の言葉しか信じない…か」

「あ? なんつった?」

「いや…なんでもないさ」

ふと浮かんだ笑みは、ほんの少し自虐の色すらにじんでいた。

愛した者を危険に巻き込むのはつらかった。

別離を望む理由をでっちあげるのは蔵馬にとっていともたやすく、苦労は必要なかった。

蔵馬の言葉に耳を傾け、その女は表情ひとつ変えずに言った。

──嘘はわかります

     私は本当の言葉しか信じません

愛が冷めたなんて馬鹿馬鹿しいセリフも見透かされているとは、女の目を見ればすぐにわかる。

嘘とわかっていても良いから、離れなければならないと蔵馬はそのとき心に決めていた。

数百年を経て、手に入れた宝石はまぎれもないの瞳と同じ色をしている。

その目で見つめられ、よく言われたものだ。

嘘のない本当の言葉で、愛していると言って欲しいと。

蔵馬は立ち上がり、手の上の宝石をしばし眺めて手の中に包み込むように握りしめた。

「明日にはここを発つ」

「…ああ、じゃあ伝令を回しておく」

「オレは今から出るが、共はいらん。朝には帰る」

黄泉の返事を待たずに、蔵馬は城塞を出ると夜の樹海へ足を踏み入れた。

かつてこの小国が栄えていた頃、樹海の奥地には国の財源となる鉱山があった。

今もまだそのあとは生々しく残り、岩壁にいくつもの洞穴が出来上がっている。

そのうちのひとつに蔵馬は進んだ。

ひやりと冷えた空気と、反響する足音、秘めやかな衣擦れの音すら耳障りに聞こえる。

洞穴の突き当たりまで進むと、蔵馬は周りの岩のあいだをぐるりと見渡した。

入り口から入ってくるわずかな光が、岩の奥深くにまだ数多の鉱石が眠っていることを知らせていた。

「ここなら、良いだろう」

生まれる前にいた場所に限りなく近いところだ。

本当は、鉱石となったその中に込められている言葉を聞いてみたい気もしていた。

だが聞けたところで今の蔵馬にはどうしようもない。

本当の言葉をどんなに連ねようとも、に届くわけではなかった。

夢の中でに会い、伝えられたのだからそれでいいのだ。

出来うる限り連れて歩こうと約束したが、ここに置いていくことに決めた。

今は、に背を向けても自分は歩いていくことが出来る。

本心をそのまま聞くことをは好んだ、言い訳を並べて置いていくと言ってもにはお見通しだ。

「二度と来ることはないだろう」

返事は返らないが。

「夢でも、会えて良かった。やっと言えたようだ」

にねだられた言葉を。

「…お前も、安らかな夢を、な…」

そっと美しい緑の肌を撫で、蔵馬は岩壁の突出部分に宝石を置いた。

指が離れる瞬間は名残惜しそうに、しかし蔵馬はきびすを返すと振り返らずに歩き始めた。

が最後に込めた想いも言葉も知らぬままに去っていくその背に迷いの気配が漂うことは

もう、ない。


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