パラレル005 マイナスゼロ


この間、

南野君に思い切って告白をしたら。

噂によると、彼はその場ではっきりと断ってくれちゃうということだったから

(噂が立つほど告られてるんだよこの人)、

もうその場で奈落に落ちるくらいの覚悟はしてた。

ところが。

「少し考えたいんだ…待ってくれる?」

なんて言うじゃない。

舞い上がるには充分だよ。

考えた末に振られるってこともあるけど、他の子よりは望みがあったってこと?

そう思ったら、悪くない、じゃない?

そうして今、私は彼の返事を待つ日々を悶々と過ごしているところ。

南野君と私は、同じ大学に通っている。

講義やらなにやら、一緒になることが多い人たちのグループが出来て…それが十人くらい。

そのなかに、私も彼も混じっている。

出身高校を聞いたら、ものすごい名門進学校の名前がさらっと告げられた。

あんなところから、こんな滑り止めの常連みたいな学校にどうして来たんだろう?

それも聞いたら、通いたい学科もあるからだけど、まぁ家から近いから…と言われた、なんて人。

その質問責めの様子を見ていて、グループの他のメンバーたちはしっかりと、

私の片想いを悟った…らしい。

みんなでそれと知られないようにお膳立てしようとしてくれる。

それで、この間もあんなことを言いだしたんだと思う。

「なぁ、アオイって昨日誕生日だったんだって?」

ひとりの男の子が聞いてきた。

このセリフだけじゃわからないと思うけど、アオイっていうのは名前じゃない、苗字だよ。

蒼井、アオイっていうの。

どっちも名前みたいでしょ。

そうだよと答えると、欲しいもんないか、なんて言われた。

「みんなでにプレゼントしようよー。それとも飲みにでも行く?」

ものすごいお酒に強い子が楽しそうに言った。

その目線の先には南野君がいる…仕組もうとしてくれちゃってるってことが、その目でわかった。

いいよ、やめてよと言う前に、みんながわぁっと盛り上がってしまった。

「南野も行くだろ、今日の夜な」

さりげなくそう聞かれて、南野君はじっと読んでいた本からやっと目を上げる。

珍しい、眼鏡なんてかけてる。

それを外しながら、彼はちょっと苦い笑いを浮かべると。

「すまない、今日はちょっと用があって」

告白に対しての断りじゃないのがわかっても、その言葉はずきん、、と胸を突いた。

もう聞きたくないよ。

立ち上がって帰ろうとする南野君に、更に少し慌て気味の声がかかる。

「じゃあなんか置いてけ、プレゼントになるもん」

いいよ、もう帰してあげようよ。

私がつらいんだもん。

誕生日プレゼントなんか、いいよ。

帰ろうとして立ち止まった南野君を直視することなんて出来ない。

彼はうーん、と考え込んで、やがてつかつかと私のほうに歩み寄ってきた。

みんなが、大学の誇る秀才がどんな行動に出るかを見守ってる。

「これ、あげる」

彼はペンケースから、水性のフェルトペンを取り出した。

わけがわからずにきょとんとするみんなに構いもせず、南野君はペンのふたをぽんと開けると、

おもむろに私の左手をとった。

「な、なに!?」

「水性だからすぐ落ちちゃうかな。消える前にわかるといいね」

「え?」

「君が欲しがってるものだと思うけど。わかったら教えて、答え合わせをしよう」

そう言って手の甲に書いた。



−0



「…………」

「ちょっとした謎だよね…マイナスゼロ、あげる。じゃあ、今日はこれで」

そう言うときちんとペンをしまい込んでから、南野君はにっこりして背を向ける。

「マイナスゼロ…?」

手の甲のたった二文字のプレゼントを、ちんぷんかんぷんのままで見つめるより他はなかった。

その日は南野君抜きだけれど、みんなが飲みに連れていってくれて、

くたくたになるまで連れ回されて帰ってきた。

夜中の三時、ひどい時間。

シャワーを浴びたいけど、手の甲のマイナスゼロが消えてしまいそう。

かなり迷ったけど結局髪に残った煙草や居酒屋独特の匂いが鼻について、

とにかく左手をかばいながら思い切ってシャワーを浴びたら肩が凝ってしまった。

飲み会の最中も、みんなで秀才が残した謎について考えた。

でも、全然わからなくて。

お酒が入り始めると、思考回路さえ熱に浮かされたようになってしまって。

結局答えがわからないまま数日が経って、−0の文字は少しずつ薄くなってきてる。

誕生日プレゼント。

私が欲しいもの。

普通の計算式でマイナスゼロっていうのは…たとえば5マイナス0イコール………5?

引いても変化はないよね。

ゼロってことは何もないってことで。

マイナスとかプラスとか、行動? を示す記号がくっついたとしても、

答えにはなんの変化もないんだ。

そもそも、プレゼントでしょ?

じゃあ、せめてプラスなんじゃないの?

空き教室でひとり、レポートに取り組んでいたはずがそっちに思考を絡め取られてしまった。

わかんないよ。

消える前に答え合わせ、出来ないかも。

あんな頭のいい人に、結局私みたいな普通の女の子はつりあわないってこと?

南野君はそう言いたいのかな。

南野君、私が欲しいのは、あなた自身だよ。

もうちょっと可愛く生まれてたら、もうちょっと頭が良かったら、

もうちょっと…自分に自信の持てること、なんでもいい、あったらいいのに。

そう思ったって仕方ないんだ。

私は私。

蒼井という私自身からは、どう足掻いたって逃れようがないもの。

「…レポート終わらなかったんだ?」

「うわぁ!」

いきなり当の南野君が、ぬっと目の前に現れた。

「…そんなびっくりしなくても。手伝おうか?」

目の前の席に座る。

「いいよ、これくらい…自分で出来なきゃダメだもん」

特に、あなたの手だけは借りちゃいけないと思った。

つりあうとかつりあわないとか、本当はそんなこと問題じゃないと思うけど、

でも…これは私が自分で頑張ることだから。

南野君の目線をびしばしと感じながら、知らないふりでレポートに向かうのはすっごく厳しい。

ふいに、彼の人差し指が、私の手の甲をつついた。

「…わかった?」

聞いてくる。

わかんないよ。

首を横に振った。

「…一世一代の大決心だったんだけどな…」

どういう意味?

顔を上げると、やれやれといったように頬杖をついて目をそらす南野君。

「ちょっと気取りすぎたかな」

「わ、わかんないよ…みんなで考えたけど」

「…みんなで? それはまずいよ」

彼はそう言って目をしかめると、ちょっといい、と聞いて白紙のレポート用紙を一枚千切る。

「単純な式だよ。答えも、まぁ、ねぇ」

ペンをとると、南野君はさらさらと綺麗な文字を綴っていく。



アオイ


「…これが君でしょ。ここからゼロを引くんだよ」



アオイ −0



「イコール、わかる?」

「…わかんない。言ってよ答え」

「…面と向かって言えないからこんな回りくどい方法を選んでるのに…」

「どういう意味よ…」

南野君はそれには答えないで、書いた文字のまた少し下に、新たに書き足した。



AOI



ローマ字で、アオイ。

全部母音だから、ローマ字で自分の名前を書くときは少しあっけなく思うこともある。

「ローマ字に直してみると、こうだ。ここからゼロを引いたら…今度は、わかって、くれる?」

「………」

彼のほうに向いたままの逆さの自分の名前を凝視して…はっとした瞬間、

思い切りのけぞって後ずさってしまった、座ったまま。

「!!???!!」

「………そんなびっくりしなくてもって…」

オーバーリアクションに南野君は呆れたように少しだけ笑う。



AOI −0 = AI …アイ、愛、……………愛!?



「…あの告白の日からずいぶん時間が経ってしまって、言うにも言えなかったっていうか…」

ぽつりと、南野君がそう言った。

「な、なんでよ…めちゃくちゃ告られ慣れてるくせに!!」

「…あのね。自惚れで言うんじゃないけど、言われて断るのにはパターンが出来るくらい慣れちゃったよ。

 でもね、好きな子がそう言ってくれるなんてことそんなにしょっちゅうあると思う?」

ないよと彼は言う。

ふてくされたように頬を赤くしたりして。

「…どう答えたらいいのか、わからなくて」

「…………」

「…………」

「…………」

「…恥ずかしいな…なにか言ってよ。空気が痛い」

その言いように思わずぷっと吹きだしてしまう。

「…オレ何か可笑しいこと言った? もうタイム・リミットとか?」

「そ、んなことない…嬉しい」

まだ笑いが止まらない、なんだ、本当気取っちゃって。

変な人、でも、嬉しいよ、本当に?

しばらく笑い続ける私を、ばつの悪そうな顔で見つめる南野君。

こんな顔初めて見た。

「…こっちは大まじめなんですけど。」

「ご、ごめんなさい…」

やっと笑うのが止まっても、目に涙すら浮かんじゃって。

あああ、頭のいい人のやることって、ときどき難しすぎちゃう。

「まったく、君が気付いてくれるまでどれくらいかかるかなって感じでさ。

 けしかけたはいいけど、…ここ数日気が気じゃなかったよ」

お互いに返事を待ち合っていたなんて思いもしなかった。

「結局は気付いていなかったなんて、今度からはストレートに言うことにするよ、もう」

「ご、ごめん…」

「好きだよ」





「…………はい?」

「だから…言ったそばからわかってもらえないなんて」

「え?」

ストレートに言うって言ったじゃないと、ちょっと怒ったくらいの顔で南野君は言った。

「と、唐突すぎ!」

「…すみませんね、慣れてないもんで」

タイミング悪い、噛み合わないと彼はぐちぐち言っている。

「あ、あの、南野君、」

「なに?」

「レポート、手伝って…!」

「…自分で頑張るんじゃなかったっけ」

「だって、早く終わったらその分早く一緒に遊べるし!」

「………」

呆気にとられたような顔がまたちょっと赤い南野君。

慣れてないっていうの、本当なんだ。

「あの、手伝うんじゃなくてもいいの、話がしたいの!」

あなたのことをもっと知りたい。

「…いいよ。レポート手伝ってもいいし。懇切丁寧に教授して差し上げましょう」

「あ、ありがと…」

じわ、と嬉しい気持ちが胸一杯に広がった気がした。

それから毎日講義が終わったあとに、南野君は必ず付き合ってくれるようになった。

問題のレポートは手元でちっとも進まなくて、おしゃべりだけに時間が費やされていく。

ひとこと交わすたびに、ひとつ南野君のことを知っていく。

あなたのことだけで埋め尽くしたレポートくらい作れそう。

左手の −0 の文字はもう消えてしまったけど、

その答えを今はいつでも南野君本人がくれるから、大丈夫。

それでも遠まわしで回りくどい私たちは、お互いを直視して大好きとは、まだ言えない。


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