パラレル003 科学者と人間


汚れた路地裏、角を曲がって、奥の奥の奥。

普通の人ならまず迷い込むことのなさそうなそこに、いかにも不似合いな風情の青年が立っていた。

「…何をしているの?」

彼は問う。

くろいくろい壁を背景に、彼の赤い髪は鮮やかに色を添えた。

空には満天の星。

世界中の誰もが焦がれて見上げるその星も、こんな路地裏に暮らす貧相な少女を祝福などしない。

青年はかがみ込み、廃墟が更に崩れたようなその壁の向こうに手を伸べた。

「…今日はクリスマスだよ…」

「…クリスマスなんか!」

壁の向こうでしきりに青年を警戒し続けるのは、ぼろぼろの衣をまとった少女。

彼女は初めて、そうして彼に口をきいた。

「オレの名前は、…蔵馬。君は?」

「………名前なんか…」

そう言って少女は目を伏せた。

「君はここで、ひとりなの?」

少女は答えない。

「………オレもひとりなんだ。生涯ずぅっと、ね…」

青年が少し寂しげな笑みでそう言ったのを聞いて、少女ははじかれたように顔を上げる。

「ああ、もう、今日が終わる。ねぇ」

彼は提案をした。

「贈り物をしよう。今日という日くらい、ひとりとひとりが贈り物をしあって、

 ふたりになってもいいと思うんだ」

どう? 青年…蔵馬は、そう言って微笑んだ。

少女はそうして、彼の手を取った。

それが始まりだ。





「蔵馬。お茶が入りました。まだお仕事ですか?」

熱いコーヒーのカップを載せた盆を危なっかしく支えながら、

「勝手に入らないように」という札の下がったドアの前に立つ少女がひとり。

いつかの路地裏で出会った彼女はすっかり美しく身なりを整えられ、蔵馬と一緒に暮らしている。

彼が人間嫌いの著名な科学研究者であるということは、

彼がひとりで住んでいるという大屋敷に連れてこられて初めて知った。

内側からドアが開けられる。

少女を迎え入れたのは、金属の顔と電気コードの血管、コンピュータの脳を持つアンドロイドだった。

少女はアンドロイドが苦手だった。

限りなく人間に近い、人間ではないもの。

ただそれだけで、なにとはなしに、怖かった。

「御主人様ハアチラニ」

機械質の声も嫌い! 

身震いをすると、少女はコーヒーがこぼれるのにも気づかぬほど夢中になって、早足で部屋の奥へと入っていった。

「ああ、…? どうしたの」

、とは蔵馬が少女に与えた名前だ。

その読みをアナグラムで別単語にすると、古代サン・ミシュカ言語で「気高い」という意味になるとか。

回りくどい名付け方は、いかにも偏屈の科学者らしいとには思えた。

少し眠そうな目で蔵馬が聞いたのは、の持つ盆からしたたり落ちる薄黒い液体のためだ。

「…こぼしちゃいました」

ごめんなさい、とうなだれる。

「いいよ、こっちにおいで」

招かれて、は素直に蔵馬のすぐそばまで歩み寄る。

コーヒーを盆ごと受け取ってデスクへ置くと、を抱き寄せて自分の膝へと座らせた。

まるで親が子供にするようなその仕草にも、はそろそろ慣れてきた。

のつやつやとした黒い髪を撫でる彼の指はまるで彫刻のようで、とても美しい。

「アンドロイド…ロボットは恐いかい?」

は正直に頷いた。

「オレはね、人間の方が恐いと思ったんだ。だからこの屋敷に仕える数十のものたちは、皆アンドロイドなんだ」

執事も、メイドも、庭師も、コックも、みーんな。

「生きた人間はオレと君だけなんだよ」

そう言って、まだほっそりとやせたの身体を抱きしめた。

「路地裏で会った頃とは別人だね…頬がばら色だよ」

蔵馬は嬉しそうに笑う。

「蔵馬は、人間が嫌いなんですか」

「…そうだね、嫌いというのとは少し違うかもしれないけれど」

「じゃあ、どうして私を拾ったんですか」

が物怖じしない目でまっすぐに蔵馬を射ると、彼は困ったように微笑んだ。

「…お茶をいただくよ。上手になったね、

この屋敷に来てからというもの、蔵馬にコーヒーを入れるのだけがの仕事だ。

彼の世話も自分の世話も、屋敷の世話すらアンドロイドたちがやるから、人間様は暇を持て余す。

そうして彼はよりいっそう部屋にこもりがちになり、好きなだけ好きな研究に没頭することができる。

そのあいだは恐い生きないものたちのあいだに放っておかれる。

たまらなくなって蔵馬に助けを求めようとしても、「勝手に入らないように」の札に遮られてしまう。

路地裏で誰にも知られぬまま死ぬことと、ここにいて計算ずくの作られた生命のあいだで孤独に生きることと。

比べたら、どちらがより不幸なのだろう? どちらがより幸福なのだろう?

コーヒーを一口含んで、蔵馬は息をついた。

「美味しいよ。ありがとう、

彼は笑った。

ここにいてもひとりで孤独であったとしても、彼が望むならそれでいいとは思った。

ひとりとひとりがふたりになってもいいと、も思った。





に与えられた部屋は少女のそれらしくカラフルに明るく彩られて、

この屋敷の中でおそらく一番人間らしい生活臭のする部屋だろう。

ひとりで眠るにしては広すぎる、天蓋とカーテンのついた可愛らしいベッドには横たわり、

蔵馬はその横にいて、やはり親が子供にするようにの髪を撫で続けてやっている。

彼はいつも、が眠るまでそうしてそばにいてくれて、不思議な寝物語を聞かせてくれる。



どこまで話したかな…ああそうだ、洞窟に入って等身大のテレビゲームをやったところまでだね。

「彼」はふたりの仲間と一緒に…そう、仲間の名前は幽助と飛影といった。

もうひとり、敵にさらわれた仲間…彼は桑原という名前で…彼を助けるために洞窟の奥へ入っていったんだ。

敵の中心人物は人間が嫌いでね…

−−蔵馬がそこまで話すと、が横から「蔵馬と同じですね」と口を挟んだ

同じかな、そうかな、…そうかもしれない。

敵はとっても強くてね、幽助はそいつにやられてしまう…

それを、「彼」と飛影、桑原…他にも何人かいたんだけどね、皆見ていることしかできなかった。

わかるかい、親しい人が目の前で死んでしまう…それを何もできずに見ているつらさが。

−−でも、「彼」は昔、お母さんを死なせないために頑張ろうとしたでしょう

そう…魔法のような方法でね…

けれどこのとき、「彼」には何もすることができなかった。

怒りにまかせて、幽助を殺した敵に向かって八つ当たることくらいしか。

それでも敵はとっても強かったからね、「彼」は敵にかなわなくて更なる無力感におそわれながら、

その裏でいつものように計算をしていた。

「魔界ではそれがすべてだ」と。

自分が死ぬのも当たり前だと、どこかではそう思っていた。

けれど「彼」は死ななかった。

幽助が、もっともっと強い妖怪になって生き返って…敵を倒したから。

−−殺したんですか

そう、結果だけ言えば、そう

−−妖怪も恐いです

…そうか…妖怪も恐いかな…



もうおやすみ、との額にキスをして、蔵馬は立ち上がる。

「蔵馬」

が蔵馬を呼び止めた。

「蔵馬は目の前で人が死ぬのがつらくて嫌だから、ひとりでいたんですか」

「………そうかもしれない」

は頭がいいね。

もう一度おやすみと言うと、彼はの部屋をそっと出ていった。

本当は、もうひとつ繰り返し聞きたいことが、にはあった。

−−じゃあ、どうして私を拾ったんですか。

彼は一度も、この問いに答えてくれたことはない。





蔵馬は研究の他に、たったひとつ自分でやることを持っていた。

広大な庭の一部に、これもまた大きな温室がある。

中央には小さなテーブルと椅子とが据えられていて、午後のお茶はそこでいただくことになっていた。

蔵馬はがお茶の時間だと呼びに来るとやっと研究室から這い出して、真昼の太陽の下に一日ぶりに身を晒す。

これが雨だと救いがない。

そうしてが入れたコーヒーと菓子とを味わい、他愛ない話をし、温室の植物の手入れをする。

温室の中だけはアンドロイドの庭師になど任せておけないと言うのだ。

彼は時折、魔法を見せよう、と言ってを温室の奥へ招く。

そこにはきまって日陰になってひっそりと、まだ開かない花の蕾があった。

蔵馬はその蕾に優しく指先を触れてやる。

すると、その花がゆっくりと眠りから覚めるように開いてゆくのだ。

その光景を初めて見たときのの驚きように、蔵馬は満足そうに微笑んでいたものだ。

今日も彼は魔法を見せようと言って、小さな種を取りだした。

それに指を触れると、やがて硬い表皮が割れて小さな芽がするするとのびてきた。

いつもながら仕組みがわからず、は嘆息をついた。

「蔵馬の研究はこのことなんですか」

「まさか! オレの研究はいかに人間を遠ざけて暮らせるかというひとつに尽きるよ」

などと、冗談めかした答えが返る。

はそれを聞いて黙り込んでしまった。

? お茶が冷めるよ」

コーヒーが飲めないは自分用の紅茶も用意する。

「…蔵馬は、私がここへ来る前はひとりでどんな風に暮らしていたんですか」

唐突な問いに、蔵馬は一瞬目をぱちくりとさせると。

「…あまり変わらないかもね。研究室にこもって、食べたいときにアンドロイドを呼びつけて食事して、

 眠りたいときに追い出して眠って、好きなときに起きて好きなことをした。

 …コーヒーはあまり美味しいと思って飲めなかったかな」

そう言ってクスリと笑って見せるが、の表情は少し重いままだ。

「それなら、蔵馬…私が来る前と変わらない暮らしをしているなら」

は勢い、立ち上がる。

「私がここにいる意味は、なんですか…?」

その目に初めて見る涙が浮かんでいるのを見て、蔵馬はただうろたえた。

…」

「私はあなたのためにできることなんかなにもありません。コーヒーを」

唇をかみしめる。

うつむくと、前髪のあいだからぽろりと涙が一粒落ちるのが見えた。

「コーヒーを入れるだけです。そんなこと、私じゃなくたってできる」



「どうして私を拾ったんですか」

どうして、と繰り返すを、蔵馬は力ずくで引き寄せて抱きしめていた。

苦しげにがうめく。

「言うな…」

蔵馬がこれほど苦しそうに言葉を継ぐのを、は初めて聞いた。

「人間が嫌いなわけじゃない…オレはずるい狐だったから、恐いものからは逃げた。

 逃げるための技術も力もあったから、ひとりになるのは容易かった」

そうしてアンドロイドをつくり、自らをその中に隠して暮らした。

誰とも会わず、誰とも話さず、たったひとりで。

「蔵馬…」

が耳元で吐息に混じった声で呼ぶまで、彼はただきつくを抱きしめ続けていた。

「離してください」

我に返ってそっとその腕をゆるめると。

は踵を返して温室から走り去った。

蔵馬はただ呆然とその後ろ姿を、出ていったあとのガラス張りのドアを見つめていた。

そうしてどさりと、糸の切れた操り人形のように椅子に身を預ける。

「そうして…」

そうしてみんなが、オレから離れていく。





その夜、の寝室に蔵馬が現れると、は泣きはらしたであろう赤い目で彼を見上げた。

彼はいつものようにのそばに横になるとの髪を撫でながら、話し始めた。



オレの最初の家族はもう覚えていない…もう千何百年も昔に死んだだろう。

二番目の家族は人間の両親。

父親はオレが高校生になる前に死に、母親も体が弱くて間もなく死の淵に立たされた…

オレは母親をまるで魔法のような方法で助けようとした。

そのときにオレは死ぬはずだったけれど…助かった。

どういう運命か、オレは死んでは生き、死のうとしては生き…いつもいつも生かされる。

そうして今まで。

…三番目の家族は、命が助かった母親と、全く知らない男性とその息子。

血のつながりのない家族ができた。

兄弟も、初めて。

オレはそのときもう内側の精神があるひとつのかたちにできあがってしまっていたから、

もめごとを起こさずに他人と家族でいる演技をするのはそう難しくなかった。

家族を思うのとは別に、同じくらい…それはそれは大切にしている人たちがいた。

オレはその人たちを仲間と呼んだ。

幽助、桑原君、飛影。

幽助と飛影は人間じゃなく、妖怪という相容れない種族だ。

幽助はまぁ…最初は人間だったんだけどね。

−−はこれまで蔵馬に寝物語に聞かされたすべての話を思い出した

妖怪は人間よりもずっと長く生きる…それこそ何百年、何千年…

−−は蔵馬の寝物語の主人公「彼」が誰であったかを悟った

いろいろな騒ぎがおさまって、オレは人間界で人間として暮らした。

けれど妖怪であるオレはいつか、この世界とは確実に相容れない存在となってゆく。

その当時はそうでなくても、いつかはいつか、やってくる。

いつかが来るまでに、まず母親が死んだ。

次に義父が。次に人間だった桑原君が。次に義弟が。

大切にしていた人間たちはみんな、オレよりもずっと先に死んだ。

幽助と飛影は、今も生きている。

魔界でね。

けれどオレは今は魔界では暮らせない。

…どういうわけか、この身体はとても複雑で不安定にできていてね…

妖怪らしく老いが緩やかになりやがては止まり…

そうして人間界で生きるにはとても不都合な性質に到達してしまったのに、

人間らしく…妖気と呼ばれる妖怪特有のオーラが消えてしまった。

ふたつの種族が混じり合って、こんな生き物ができてしまった。

これはオレの罪に対する、緩やかな罰なのかもしれない。

一緒に時間を共有することのできる妖怪たちとともにあることは赦されず…

相容れないはずの人間たちの世界で、人間に混じって生きていく。

そうして生きることは、まるでゆっくり死んでいるのととても似ているんだ。

だからオレは、オレだけが生きる世界を作ることにした…ここだ。

この外に一歩出れば、時間が周りのすべてをさらっていくんだ。

街も森も、生き物も全部。

愛しても嫌っても、そんなことまるでなかったように平等に…

−−蔵馬、人間が嫌いなんじゃないんですね

−−人間が、好きなんですね

−−の言葉に、蔵馬は苦々しく唇をかんだ

−−震えるような声で

そうだ…

みんなみんな、愛していた。

愛していたのに。

−−時間も種族も、何もかもは蔵馬に残酷だった

−−それは愛することすら彼に禁じた

時々、たまらなくなるんだ。

そうして街に出ても、人に出会うのは恐かった。

もしもが起きるかもしれない。

まるで人間のようで、けれど年をとらないアンドロイドにまぎれて暮らすのは、とても…楽だった。

生きるために楽な道を選ぶということも、まるでゆっくり死んでいるのと似ているんだ。

−−そうして蔵馬が世界を飛び出したその日にもしもは起きた

−−その日はクリスマス

−−奇跡が起きるといわれる日だった

オレは恐かった。

君がオレの手を取るのが、本当は恐かった。

名前を付けて側におくのが、本当は恐かった。

愛してしまいそうで…恐かった。

−−蔵馬、泣いているんですか

−−が聞いた

−−蔵馬はしばらく黙って目元を手で押さえていたが…やがて息をついてこう答えた

…そう、泣いてる…

泣き方なんか忘れてしまったと思っていたのにね。

苦しくて、のどがつかえているようだ。

ああでも、とても…人間らしいな、今のオレは。



蔵馬は涙を止めることができずに、それ以上話すこともできずにいた。

は半身を起こして、まるで親が子供にするように、蔵馬の髪を撫でた。

「大丈夫です、蔵馬」

何が大丈夫なのかは自身にもわからなかったが、とにかく蔵馬を安心させてやりたかった。

「私がそばにいます。いつかはきっとあなたより先に死んでしまうけれど、今はそばにいます」

理由も必要もなく、けれどの目から涙が溢れ、こぼれた。

「いつかはきっとあなたより先に死んでしまうけれど、私の心は、あなたのそばに、いつでもいます」

きっと。

は涙を拭うこともせずに、続けた。

「あなたは恐いと思ったのに、私に手を差し出してくれた。

 ひとりとひとりがふたりになってもいいと思うと言った。

 あなたはそれでも…愛したいと願った、だから」

そこで言葉に詰まって、は黙ってうつむいた。

ふたりのあいだに、永遠と思えるほどの沈黙が横たわる。

やがて、蔵馬がかすれた声で囁いた。

「…ありがとう」





次の日から、何事もなかったように、これまで通りの生活が再開された。

お互いに泣きはらして真っ赤な目をしていたことには気づかないことにした。

アンドロイドたちは相変わらずせかせかとプログラム通りの仕事をこなしている。

彼らもまた、蔵馬の孤独を埋めるために作られたものだった。

それを思うと、これまでただ恐いとしか思わなかった機械たちに、もっと違う感情を覚える。

その感情が何という名前かは、にはわからない。

ある日、蔵馬は午後のお茶の時間にリボンを一本、持って現れた。

何の真似事かと訝しむの後ろにまわって、蔵馬はその髪にリボンを結んでやった。

「なんですか、蔵馬」

「若い女の子が、少しくらい飾ってみてもいいでしょう?」

その日を始まりに、蔵馬は毎日のようににささやかな贈り物をするようになった。

ある日はバラの花束を。

ある日は旧時代のメディアのひとつであった「本」というものを。

ある日はの代わりに紅茶を入れてくれた。

あまり頻繁に続くので、毎日がクリスマスじゃあるまいし、などとは蔵馬に言ってみたが無駄だった。

ある日などは、いつ着るんだと聞き返したくなるような、レースをふんだんに使ったワンピースを持ってきた。

「こんなものどこに持っているんですか?」

「…それは、企業秘密」

あきれた顔のに、着て見せて、と蔵馬は言った。

アンドロイドに目はあっても視力はないから、見せる相手も他にいない。

はそんなふうにぶつぶつと愚痴りながら、隣の部屋へと着替えに消える。

やがて、真っ白なレースに身を包んだが戻ってくると、蔵馬は嬉しそうに目を細めてみせる。

「よく似合うよ。オレの目に間違いはないな」

そう言って、これもどこに用意していたのか、すぽりと帽子をかぶせる。

の手を取って。

「さぁ、…行こうか」

どこへ、と問うと、わからないけれど、と返ってくる。

「生きるものらしく生きるために、かな」

そう言うと、の手を引いて玄関の扉を開けた。

明るい日差しが目に刺さる。

広い庭を並んで歩いた。

ここへ来て以来は一度も歩いたことのないその道は、

が蔵馬に連れてこられたその日に逆向きに歩いてきた道だった。

「…また愛することをためしてみようかと思うんだ」

歩きながら、彼は言う。

の手を取る蔵馬の手はとてもあたたかだ。

「外は、どんな世界だろうね…」

そう言う蔵馬の顔はとても晴れやかだが、その指がわずかに緊張しているのがにはわかった。

「蔵馬、私が一緒にいます」

「そうだね。一緒にいよう」

彼は笑って、の手を力強く握り直した。

錆び付いた門扉を押す。

そこは容易く外へと開けた。

一面に広がる大地の緑、空の青。

吹き込んでくる新鮮な風に、髪がさらりと流れる。

は手で帽子を押さえた。

蔵馬は振り返らない。

「さ、行くよ。…一緒に生きるんだよ」

「はい、蔵馬」

微笑みあうと、ふたりは一歩を踏み出した。

その後ろに、すべての計算とすべての孤独とすべての止まった時間を捨て置いて。

世界はめまぐるしくまわる。

足取りも軽く、蔵馬ととは笑いながら歩いた。

ゆくさきなど知らない。

旅立ったはずのふたりに、なにかの声がおかえりと囁いた。

−−おかえり、こどもたち。

−−愛しているよ。

世界はいつでもいつでもまわっているから、時間が愛することを奪っても、いつでもいつでも。

自分がまだ生かされているうちは愛され続けていることを、蔵馬は初めて知った。

そうして、自分が生きているうちは愛してもいいのだということも。

内側からこみ上げる喩えようのない感情に背中を押されて、蔵馬はを抱きしめた。

初めてその唇にキスをした。

はきょとんとしていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。

「…愛してるよ、

「はい、蔵馬。私もです」

孤独を埋めるために孤独になってゆく必要などもはやない。

お互いがいればそれでいい。

赦されるあいだは、ただずっとそばにいて、愛し続けよう。

流れる時間を、一緒にすごそう。

それでいい。

それで。

−−おかえり、こどもたち。

−−愛しているよ。






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言い訳は制作裏話にて。