パラレル001 高校教師×女子高生


、15歳、女子高生。

恋に焦がれるお年頃とはよく言うけれど、私の場合、そんなに簡単に言えてしまうものじゃない。



どさぁ。

ぎりぎりの時間に登校して、靴箱の扉を開けると、手紙の束が落ちてきた。

玄関にはすでに生徒の姿はない。

「う、…」

どれもこれもラブレターなのだ。

ちょっとおてんばで蓮っ葉なところはあるが、可愛らしさと気遣いの細やかな優しい性格が補って余りあるだ。

学校中の男子生徒にも、女子生徒にも人気があった。

(ど、どうしよう、こんなに…)

好きな相手じゃなくても、気持ちを込めて書いてくれたものだとわかっているとどうにも捨てられない。

ウンウンと唸りながら逡巡しているに声がかかる。

「おはよう。相変わらずすごい量だな」

苦笑気味のハスキーな声は、のよく知る相手のものだ。

「お、おはようございます、南野先生…」

振り返ると、出席簿と難しそうな本とを小脇に抱えた担任教師。

科学と生物との両教科を担当する、この学校では一番若い教員だ。

赤い髪が胸元でわずかに揺れ、深い緑の瞳がじっとをとらえる。

この玲瓏なマスクに、この声に、惹かれない女子生徒はこの学校にいない。

彼はゆったりとした足取りで、未だ玄関からあがってこられていないへ近づいてきた。

と、チャイムの音が校内に響く。

「わぁ! いけない…!!」

焦るの腕を捕まえると、彼はの耳元にそっと唇を寄せる。

「…他に人がいないときは蔵馬でいいよ、って言ったよね?」

「…う…はい…」

「で、なんだって?」

が真っ赤になって俯くと、ポニーテールにされた栗茶色の髪がひとすじ、さらりとの頬に落ちる。

こうなると彼がてこでも動かないことは、ここ数か月でよくわかっていた。

「お、はよう、…………蔵馬」

「はい、よろしい。おはよう、

彼は満足した様子で、の頬にキスを贈る。

はさらに真っ赤になってしまった。

それどころか、たまらず彼を押しのけてしまう。

「はは、可愛いなぁ。ほら、遅刻するよ? ちょっとだったら待っててあげる」

「…え」

「オレより先に教室に入れたらセーフ。ほら、手紙」

蔵馬はの足下に散らばった手紙を拾い集めた。

「はい」

手渡すと、は俯いたままおずおずと手を出した。

「…これ、困るの」

「困る?」

「…お断りするしかないんだけど、捨てるわけにもいかないし…」

「……ふぅん」

困った顔のまま、しかし手紙の束をきちんと鞄に納めるを見て、蔵馬はふむ、と考えに至る。

「じゃ、じゃあ、先に教室に行きます…」

「…甘い、

「………え?」

「いい? オレはここで10秒数える間待っていてあげる。はその間教室まで全力疾走」

「えぇえ〜〜〜!!?」

「途中で抜かされたら遅刻だよ? じゃあ、数えるからね。1…」

「わぁ! 南野先生の意地悪っ」

は後も振り返らずに教室までの最短廊下をダッシュしたが、人並み以上にずば抜けた運動神経を持つ蔵馬に勝てるわけがなかった。

後ろから腕を捕まれて、はつんのめって倒れそうになる。

それを、すらりと背の高い蔵馬がちゃんと支えてくれる。

「ほら、追いついた」

「う…遅刻ですか…?」

息を切らして、急に走ったことでちょっと涙目のに、蔵馬はめまいを覚えた。

(ほんとに、どうしてこんなに可愛いんだか…参ったなぁ)

蔵馬は息をつくと、またの耳元でささやく。

「キスをくれたら。いいよ、わざとゆっくり歩いてあげる」

「え…」

はまた真っ赤になって、泣きそうな顔。

「む、無理です…」

「どうして」

「…恥ずかしいよ……」

俯いてぎゅっと目を閉じてしまう

可愛らしくてたまらなく愛しいのだが、もうちょっと意地悪を言っていたい気持ちが蔵馬のブレーキを鈍らせる。

「そう? ところで。さっき追いかけっこする直前に、またオレのことを南野先生、って呼んだの、覚えてる?」

「………!!」

とどめを刺されたことに、は本気で背筋が凍る思いだった。

「それとも、ここじゃ嫌なのかな? もうちょっと行けば職員室から見えるスレスレの位置だね?」

「う………」

「それとも、たくさんいるライバルたちの前で見せつけてあげようか……」

本当はちょっと悪ふざけが過ぎていることもわかっている。

が、困惑した表情のは、普段の幼さの残る姿よりも少しセクシーに見えて、蔵馬の中の何かを無性にかき立てるのだ。

「……わかった、じゃあ、ちょっとだけで我慢しておこう」

本当に泣き出さんばかりのを見て、蔵馬はできうる限り優しい口調でそう言うと、

愛しい小さな恋人の唇に、そっと触れるだけのキスをした。



が教室に入ると、仲の良い友人たちが次々におはよう、と声をかけてくる。

赤くなった目を見られたくなくて、は終始俯き加減だ。

「遅かったね〜。まだ先生来てないよ」

セーフじゃん、と友人たちは笑う。

知ってます、とはさすがに言えなくて、一緒に笑ってごまかすだ。

やがて、わざとゆっくり歩いてやってきた蔵馬が教室へ入ってきて、波乱の朝は幕を引く。



からの、ほとんど玉砕覚悟の告白が受け入れられたのは、その年の春のこと。

普段蔵馬が職員室よりも頻繁に出入りする科学準備教室で、開いた窓から桜の花が見えていた。

入学したてのの、いったい何が気に入られているのかはいまだにわからない。

でも、蔵馬はを大切に扱ってくれる。

教師と生徒、という現在の立場上、恋愛関係を誰かに話すことはできない。

それでなくても学校のアイドル的存在のカリスマ教師を独り占めしてます、などと言えば、

ラブレターの代わりに靴箱に何が投げ入れられたものだかわかりゃしないのだ。



「六限目の科学だけど、今日は水溶液の実験が入るって言ってあったよね。日直は少し早めに来て準備をすること」

蔵馬は担当教科の連絡を済ませると、教室を出ていった。

恥ずかしい思いをさせられても、目が彼を追いかけてしまう。

引き戸を閉める瞬間の彼とふと目が合って、は呼吸困難に陥った。



六限目、どういう符合か日直はである。

(今日はきっと先生とすごーく縁がある日なんだ)

それは、良くも悪くも。

ちょっと気持ちが重い。

ついでに荷物も重い。

六限目に担任の授業が入るときは、そのままホームルームを移動教室で済ませてしまうことがある。

それで、たちのクラスはみんな、科学室まで鞄を引きずってくるだろう。

も入学時に揃えたばかりの鞄を肩に背負い直す。

科学室にいったん荷物を置いて、は準備室への扉をノックした。

「先生、です。授業の準備に来ました」

程なく扉は開かれる。

「ご苦労様。どうぞ」

招き入れられて、は数歩進んだところで所在なく立ちすくむ。

蔵馬がその後ろで、しっかりとドアを閉めてしまったことには気付かない。

「今日はみんな鞄を持ってくるのかな?」

「…たぶん」

「君も?」

「…はい」

「…まだあの手紙の束が入ったまま?」

「……………」

嫌な予感がして振り返れない

蔵馬はわざとコツ、と足音を立てての前に回り込んだ。両手で肩を捕まえる。

にはオレという恋人がいるのに、それでも他の人をきっぱり切り捨てることはできないんだ?」

「…だって…」

「だって、じゃない」

緑の瞳に怒りの色が混じるのを、は直に見て取った。

「ごめんなさい」

「反省して」

「…してます」

「本当?」

「本当です…」

がおびえかけているのに気付くと、蔵馬は腕の力を少しだけ緩めてやった。

「ちゃんと断ってくれる? 態度で示せる?」

「…はい。そうします…」

は素直だ。

「…よし。じゃあ、今回はこれで許してあげる」

蔵馬はにやりと、かすかに悪魔的な香りすらする笑みを浮かべる。

「え…?」

にわかに不安を覚えて、は逃げようと身を翻すが、長くて華奢な指に簡単に捕まえられてしまう。

「逃げないで」

を向き直らせると、蔵馬はすっと身をかがめる。

キスを予想してはうっと身構えたが、彼の唇は少し違う方へそれた。

男の人のそれとは思えないほど綺麗な指が、のセーラー服の襟元をぬぐって、左の肩を露わにしようとしている。

「……! やぁっ……」

は抵抗しようとしたが、彼にかなうはずがなかった。

押さえつけられた指が震え出す。

「…大丈夫…」

蔵馬はの首筋のあたりでそうささやいた。

瞬間、鎖骨の上あたりに柔らかなぬくもりと、小さな痛みが落ちてきた。

「!」

蔵馬は顔を上げると、乱したの制服を丁寧に整えた。

「こっちにおいで」

蔵馬の示す方には、小さな鏡が置いてある。

「見てごらん」

言われるままに鏡を覗き込むと、先ほど口づけられた場所に、赤い跡がくっきりと残されている。

それは、セーラー服の襟元でぎりぎり隠れるか隠れないかというきわどい場所だった。

「…が、オレのものだっていう、しるしだよ」

「……」

「大っぴらに言いふらせないっていうのは、オレにはつらいんだよ。君は無防備だし、誰にでも優しくしてしまうからね」

は恥ずかしさの余り、鏡の中の自分の顔も見ていることができない。

蔵馬は鏡の前で目を伏せた恋人を後ろから優しく抱きしめて、そっとささやく。

「いいね? オレにやきもちを焼かせた、これはそのお仕置きだよ…」

もう言葉にもならないだが、かろうじてかすかに頷いた。

(参ったな、こんな意地悪にまで素直に従われちゃったら)

蔵馬は軽い罪悪感におそわれたが、それが何とも言えず快感であるということを知った。

(この子は、オレのものだ。他の誰も、簡単に指を触れることは、許さない…)

途端に、自分の意地悪に苦しめられているだというのに、その苦しみから守ってやらなければ、と思う自分に気付く。

どうしようもない愛おしさが急にこみ上げて、蔵馬はを抱きしめる腕に力を込めた。



跳ね上がる鼓動を懸命に沈めて、何とか授業の準備を終わらせただが、さすがに残されたキスマークが気になって仕方ない。

高く結い上げていた髪を下ろすと、何とか誤魔化しがきいたように見えた。

「…じゃあ、塩酸とBTB溶液、水酸化ナトリウム水溶液をそれぞれ取りに来て」

実験の説明がされる間も、は同じ班の友人たちにばれやしないかと冷や汗をかいていた。



「えっ…」

「聞いてたー? 水溶液は私が取ってくるから、はバーナー使う準備して?」

「あ、うん…」

先ほど自分で各班の机に配った器具の箱の中から着火器具を取り出して、机に備え付けられたバーナーを点検する。

気持ちがぼーっとしていても、ひとつ間違ったら事故になりかねない。

はブルブルと頭を振ると、気持ちを切り替えた。

授業は滞りなく進んでいく。

2パーセントに薄めた塩酸にBTB溶液を数滴加え、

やはり2%に薄めた水酸化ナトリウム水溶液を2立方センチメートルずつ足していく。

色の変化を観察したあと、スライドガラスに水溶液を一滴とり、バーナーの火で熱して蒸発させる。

塩酸はなかなか色の変化を見せてくれなかった。

「はい、もう一回足してー」

はこまごめピペットで水酸化ナトリウム水溶液を吸い上げて塩酸の入ったビーカーに足した。

さん、」

後ろから、聞き慣れたハスキーな声が、少し不自然な呼び方でを呼んだ。

「さっきまで髪、結んでいたよね? どうしたの」

「えっ…」

(そんなの、わかってるくせに…)

はすがるような目で蔵馬を見上げるが、彼はにこにこと変わらぬ笑顔だ。

いや、少し意地の悪い表情にも見える。

他の生徒たちは、このわずかな差には気付くことはできないだろう。

「薄めているとはいえ水溶液は危険なものばかりだし、火も使う実験なんだから。

 …結びなおしなさい」

(蔵馬の意地悪…)

は泣きそうになるのを友人たちの手前ぐっとこらえて、ミナミノセンセイが見ている前で髪をきちんと後ろに束ねなおした。

「はい、よろしい」

朝も聞いた台詞を言うと、ぽんとの頭をなでて、彼は他の班の様子を見に行ってしまった。

はぁ、とあからさまに重い息をつく

(恥ずかしくて死にそう…)

涙があふれそうになるのを一心にこらえ続ける。

早く授業が終わってしまえばいい、とばかりは願った。

実験はスライドガラスを熱するところまで進んでいた。

、ちょっと、バーナーの火、付けてくれない?

 前に失敗しちゃってからちょっと怖くて」

友人たちがお願い、というのを聞いて、は襟元を意識しながらバーナーに近づいた。

指が震えていることに、友人たちは気付かないだろうか。

はぎりっと力を入れて、無理矢理震えを押さえ込んだ。

ふたつ重なったねじはきつくて、更に力を込めてもなかなか回ってくれない。

「んん…」

は力任せにぎゅ、とねじをひねりきった。

そこに、着火器具を持って待機していた男子生徒がすかさず火を近づけた。


ボォオッ、


勢いよく大きな火が上がり、火を付けた男子生徒はうわぁ、と声を上げて着火器具を放り投げてしまう。

「キャア!!」

は自分の手元で大きな火が燃え上がるのを見て、思わず悲鳴を上げてしまった。

!!」

床にしりもちをついたに友人たちが駆け寄った。

すぐに蔵馬も駆けつけて、あわてて机の上の大惨事を片づける。

「何をやったんだ!!」

滅多に聞くことのない担任教師の怒鳴り声に皆が黙り込んでしまった。

「…さん、怪我は」

「あ、ありません…」

「そう、君は」

火を付けた男子生徒にも問う。

生徒たちに被害はないということを確認すると、机の上はそのままでいいからと言い置いて、

たちの班のメンバーを他の班にそれぞれ紛れさせて実験を続けさせた。

(蔵馬の怒ったところ、初めて見た…)

自分の失敗で蔵馬を怒らせてしまったということに、は傷つき・自己嫌悪していた。

実験のレポートはさんざんな結果だ。



ホームルームを科学室でそのまま終えて、クラスメイトたちのレポート用紙を集めると、

は足取りも重く科学準備室で待つ蔵馬の元に提出に向かった。

「…先生、です…」

「…入って」

を迎えた蔵馬は、ホームルームの間中と同じ、不機嫌そうな表情だった。

「これ、レポートです」

机の上にプリントの束を置く。

蔵馬がいつまでも黙ったままでいるので、はいたたまれなくなって思わず振り向いた。

蔵馬は相変わらず沈痛な面もちでただそこに立っていた。

「ごめんなさい! あんなこと、私…!!」

は深々と頭を下げて、蔵馬に心底から謝罪する。

「………いいんだよ。…顔を上げて」

頭上から降ってきた声が、いつものように優しいものだったことには少し驚いた。

「元はと言えば、オレの悪戯のせいなんだろうし…」

に顔を上げさせると、先ほど自らが残した跡を優しく撫でる。

「自己嫌悪だよ。…悪かったね、嫌な思いをさせた…」

蔵馬は困ったような顔でに謝ると、できうる限り優しく、を抱き寄せた。

「…せんせ…」

驚いて身じろぎしただが、蔵馬の体温がすぐにじわりと伝わってきて、その心地よさに目を閉じる。

ふたりきりの空間で、先生、と呼んでも彼は怒らず、優しくの髪をなで続けてくれた。

「…よかった」

「…え?」

「君が無事で、よかった」

「………くらま…」

消え入りそうなか細い声で呼ばれて、蔵馬はを抱き寄せていた腕を緩めると、の唇に自分のそれをゆっくりと重ねた。

しばらく幼い恋人の唇を優しく吸い続けたあと、ほんの少しだけ離れて呼吸を許す。

「…これからしばらくは、悪戯は控えようかなぁ…」

殆ど唇が触れそうになりながら、彼は苦笑気味にそんなことを漏らす。

が返答に詰まって目を伏せたのを合図に、蔵馬はまたに繰り返し優しいキスを降らせ続けたのだった。



数日ののち。

あの実験のレポートが返却された。

一人ひとり名前を呼ばれて、蔵馬から直接プリントを受け取った。

さん」

ひどい点数がついているであろうことが予想できて、の表情は限りなく暗い。

「…ちょっとアクシデントがあったからね…点数におまけはしないけど、まぁ大目に見ましょう」

蔵馬はニコリとそうコメントすると、にレポート用紙を手渡した。

点数が怖いはレポート用紙を即座にふたつに折り畳むと、ウンウン唸りながら席まで戻っていった。

レポートを覗きたがる友人たちを退けて、こっそりとひとりでレポートを開く姿が微笑ましい。

は返されたそれを見て目をみはった。

点数は見られたものではなかったが、その数字の下に几帳面な文字で一行、文章が綴られていた。



のことが、大好きだよ。あと一年、悪戯なしで待てるかどうかはわからないけど」



その意味を認めた途端、かぁっと頬が赤くなるのがわかった。

あと一年、って、もしかして、そういうこと?

あの日以来、靴箱に入っていたラブレターには情けをかけないようにつとめているだが、

いくらひどい点数であろうとも、このたった一行の手紙のために、レポートを捨てることは出来なさそうだった。



、15歳、女子高生。

ただいま、ちょっとスリルある恋の真っ最中。





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