my graduation


「おめでとう」
「おめでとうございます」
「おめでとう」
列をなして会場をあとにする卒業生たちを、先生方や列席した父兄の面々、在校生たちが送り出す。
盟王高校の卒業式。
式典の内容自体は毎年行われる卒業式とまったく変わらないというのに、
今年だけは在校生の…特に女生徒の涙する姿がやけに目立った。
それが、さっきの式の途中…送辞に答えるため壇上に上がる南野君に向けられたものだというのは、
言われなくたってわかった。
普通は生徒会長が答辞を読み上げるものなのだろうけど、今年は一般生徒の南野君がその役を担う。
多分成績で決まったんだろうなと思った。
彼が壇上に上がると女の子たちの悲鳴に近い声があちこちから上がって、先生方も父兄も目を丸くしていた。
けれど何より、当の南野君本人が面食らっているみたいだった。
…こういう目立ち方、彼、嫌いだろうな。
「…ね、は言わないの」
後ろの席の友達が、小声で私に聞いてきた。
同じように声をひそめて聞き返す。
「何を?」
「『好きです』とか」
「…まさか」
同じクラスになったこともないし、ろくに話もしたことがないのに。
「じゃあ、『第二ボタンください』とか」
南野君の制服の第二ボタンかぁ…競争率が高すぎてめまいがしそう。
そう思ったけれど、そもそもうちの学校の学生服ってボタンついてないじゃない。
「からかってるでしょ」
そう言って肩越しに後ろの友達を軽く睨むと、彼女はいたずらっぽく笑って見せた。
南野君の答辞は、当たり前みたいだけど完璧に聞こえた。
彼がやることなら何でも完璧で当たり前みたいに思えてしまうけど。
みんなは南野君がやれば絶対間違いがないって疑いもしていないけど、
きっと彼は彼なりに頑張ってるところがあると私は思ってる。
でも、彼自身がきちんと周りに答えようとしてしまうみたいだから。
本当の南野君を見たことのある人って、そんなにいないんじゃないかな、
この学校にはひとりもいないかもしれない、そう思う。
そして、壇上から降りる南野君を、今度は女の子たちの泣き叫ぶ声が迎えた。
ウンザリしてるように見えたのは、私だけ、なのかな。
「おめでとうございます!」
ふいに、目の前をなにかが遮った。
会場の入り口付近で、生徒会のメンバーたちが卒業生に一輪ずつ花を渡している。
ビニールでくるりと包まれて、紅白の細いリボンをかけられた、ばらの蕾。
綺麗な薄紅色の花びらに、水滴が丸く散っていた。
「ありがとう」
ぼんやりと考え事なんてしてるときじゃないはずだけど。
ばらの花を受け取って、私は会場をあとにした。
もう、全部が全部、おしまい。
授業も教室も先生も、部活もクラスメイトも、学校祭も体育祭も、…伝える勇気の出なかった恋も。
教室に戻って、最後のホームルーム。
担任の先生は新米だったから、私たちが一番最初にクラスを受け持った生徒。
いろいろなことを思い出したみたいで、最後の話の途中で泣き出してしまった。
私も他の女子たちも、つられて泣いてしまって。
教室の中はとっても、別れの雰囲気に包まれてしまった。
寂しいのとも悲しいのともきっと違う、たぶん、名残惜しい涙なんだと思った。
教室から出ていく前に記念写真を撮って、先生と握手をして別れる。
この教室は明日からはもう、私たちのものじゃないんだ。
みんなとのクラスメイトっていう特別な繋がりは、終わってしまうんだ。
そう思ったら、やっぱり涙があふれてきてしまう。
もう少しここにいたいと、列席していた両親に断って、先に帰ってもらった。
出ていく人と見送る人でごった返す玄関を抜けて、特別教室の棟に向かう。
今日みたいな日に、もちろんこんな場所には誰もいない。
職員室も体育館もちょっと離れている。
遠くに聞こえるざわめきに背を向けて、私が向かったのは小さな講義室だった。
多目的に使える教室で、特別な器具や装置も置かれていない、普通教室と変わらない内装。
金曜日の最終授業はいつもこの教室で数学のドリルをやらされたっけ。
思い出して懐かしいため息をつく。
金曜日は二月のあたままでは普通に毎週巡ってきていたのに、もう懐かしいなんて。
通り過ぎてしまったんだってことを、今更のように実感した。
窓際の前から三番目の席が私の定位置だった。
もう二度とつくことのないその席に、最後に一度だけ座ってみる。
外はいい天気。
卒業式、って感じの一日。
この窓は私にとって、特別大切な窓だった。
ここから、南野君のいる席が見えるから。
金曜日の最後の授業なんて疲れているし、次の日がお休みだからなんだか焦らされているようでみんな嫌いだった。
でも、ここからは彼の姿がいつも見えるから。
だから私は、金曜日の最後の授業が一番好きだった。
お休みを前に焦らされているなんて思えなかった。
南野君のこと、遠くから見ていることすらできなくなっちゃう。
今は誰もいない、教室の窓たちを眺めた。
ここでの思い出も、もう繋がっていくことはないんだなぁ。
でも、泣きそうにはならなかった。
遠くから見てるだけでドキドキして、嬉しくて、苦手な数学だって待ち遠しかった。
私はいつもこの窓から、あなたのことを見てた。
いつもこの席で、あなたに恋をしていた。
憧れのままだけど、それでもいいの。
十分幸せだったから。
自然と漏れる笑みを、人目を気にして抑える必要も今はない。
のんびりと席にもたれかかった、そのとき。
がらり、と勢いよく教室の戸が開いた。
「あ」
肩で息をしながら、そこに立っている…南野君が。
さん? なにしてるの」
「え、私…」
「ちょっと匿って、」
彼はそう言うと滑り込むように教室に入ってきて、後ろ手に戸を閉めた。
廊下で女の子たちが騒ぐ声が聞こえる。
彼は素早く教卓の陰にかがみ込むと、私のほうを向いてしぃっ、という仕草をした。
廊下で騒いでいた女の子たちが、教室の戸を開けた。
「あの、南野先輩、どこに行ったか知りませんか?」
私は黙って首を横に振ることしかできなかった。
南野君は教卓の陰にかがみ込んだままで、息を詰めて女の子たちの様子をうかがっている。
そのあたりは教室の戸のあたりからは完全な死角だから。
…追いかけられてたんだ、南野君。
そういえば、学生服の胸元が広く開いていて、中に着ているシャツのボタンが取れそうになってる。
そこまでしようとする女の子たちが相手なら、逃げたくも隠れたくも、なるよね。
女の子たちは返事もしないできびすを返すと、ばたばたとあらぬ方向へ走っていった。
足音が完全に聞こえなくなるまで、南野君はそのままそこで動かなかった。
「…助かったよ、ありがとう」
やっとそう言って立ち上がると、ふっと息をついた。
「…人気者も大変だね…」
「そう?」
彼は不本意そうに、自嘲気味に笑った。
さんは、そこで何してるの?」
「え、これは…」
いきなりそんなこと聞かれても、あなたを見てたことを思い出してましたなんて、言えるわけがない。
急にうろたえた私を見て、南野君はくすっと笑った。
「…あの、南野君…」
「ん?」
「私のこと、知ってるの? 話もしたことないのに、名前…」
「え? ああ、まぁ」
今度は彼が言いづらそうにそっぽを向いてしまった。
なにか変なこと聞いちゃったかな、私。
「…制服、大変だね」
誤魔化すようなわざとらしい口調になっちゃったけど、彼は変に思わないかな。
「そうだね、もう着ることはないと思うけど…ああ、こんなにしてくれちゃって」
ぐったりとため息をつく南野君がなんだかちょっと可愛らしく見えて、クスリと笑いが漏れた。
「制服、ボタンないのにね」
「え? あるよ?」
「え、だって」
「ほら」
彼は制服の内側をめくって見せてくれた。
もう引きちぎられそうになっているけど、内側で留まるらしいボタンが並んでいた。
「外からは見えないデザインらしいね。それはいいけど、ものすごく着づらい」
みんななんでこんなもの欲しがるかなと、南野君は上から二つ目のボタンを引きちぎった。
「…さんも」
「え?」
さんに好きな奴がいたとして、そいつの制服のボタン、欲しいと思う?」
「えー…っと…」
それを、あなたに聞かれて、あなたに言えっていうの?
「あ、その反応は…いるんだ、好きな奴が」
へぇ、と彼はにやりと笑った。
鏡を見てるわけじゃないのに、顔が赤くなってるのがよくわかる。
南野君はさっき引きちぎったボタンを投げては受け取って弄んでいる。
「…南野君は誰にもあげなかったんだね」
競争率、すごく高いんだよと言うと。
あげたい人はいるんだけどね、と返ってきた。
胸の内側に鋭い痛みが走る。
南野君、好きな人、いるんだ…
誰?
なんて、恐くて聞けない。
「その子を探そうと思って玄関に行ったらものすごい人に囲まれて、脱がされそうになってさ」
何となく想像がついた。
でも、平静な気持ちで聞いているのは難しい。
なんだかいたたまれなくて、すぐにこの教室を出てしまいたかった。
「ボタン欲しいって言って、無理矢理ちぎろうとするから。死守した」
はぁ、と南野君は重い息をついた。
その子がもらってくれるかどうかはわからないし、本当はこんなものに意味があるとは思えないんだけど。
気持ちだからと、彼は言った。
さん」
「………」
今彼の顔を直視したら、泣いてしまいそう。
俯いて黙っていることしかできない自分が情けなかった。
「こっちむいて」
「…む、無理…」
南野君はちょっとのあいだ黙って、机のそばにしゃがみ込んでしまった。
ちょうど目線の先あたりに彼の肩元が見える。
南野君は私の顔をのぞき込むようにして、どうしたの、と聞いた。
もう首を横に振ることしかできなくて、涙が出そうで、その場にいたくなくて。
好きな人が目の前にいるのに、どうしようもなかった。
「…もしかしてオレ、困らせてる?」
ううん、違うの。
「あのさ、そのままでいいから、もうちょっと聞いてくれる?」
南野君は少しまじめな声になって、そう言った。
「…金曜日の最後の時間、いつもさん、この席に座って外を見てたでしょ」
「………!」
「うん、それがさ、いつも目が合ってるような気がしてて。
 最初は君が誰なのかも知らなかったんだけど、金曜日のあの時間にこの教室を使う人を調べて」
そんなことしてたの?
私はおそるおそる顔を上げた。
南野君の目線とぶつかる。
彼は優しく、笑ってくれた。
「それで、君のことを知ったんだ。さん」
もう泣きそうになっている私に、少しだけ、困ったような顔をして。
右手を差し出した。
「これ、もらってくれたりしない?」
好きな人に渡したくて、死守した…なんて言っていた、あのボタンが手のひらに載っている。
「………」
「いらないならいいんだ。口実だから」
「いえ、いります、ください!」
ものすごく事務的な口調でそう言って、手を差し出してしまった。
南野君はいきなりの私の変わり様に一瞬きょとんとした。
次の瞬間、笑い出す。
なんだか子供みたいな笑顔で、本当の南野君の姿をひとつ知ったんだって、思った。
さんを探そうとして玄関に行ったら追いかけられる羽目になって、焦ったよ」
はい、と言って、彼は私の手のひらに小さなそのボタンを載せた。
そうしてまた立ち上がると。
「この教室になら、もしかしたらさんいるんじゃないかなって思って」
「…………」
「卒業式にこういうこと言うのもどうかと思うんだけど」
ああ、嘘、夢なの?
彼が何を言おうとしているのかがわかってしまって、
心臓がばくばく言っているのが外側から耳に届くみたい。
南野君に聞かれてたら、すっごい恥ずかしいんだけど。
「君のことが気になって仕方なかったんだ。
 好きなんだって気づくのに、しばらくかかっちゃったんだけど」
南野君はそう言うと、照れたように顔を背けた。
「…言いづらいね」
「え?」
「告白って」
「…………」
それはもう告白しちゃってるのと同じだと思うんだけど…
なんだかおかしくて、つい笑ってしまう。
「えーと、…君が好きです。今更なんだけど、オレと付き合ってください」
ストレートな告白。
笑顔でそれを受け取れたことが嬉しかった。
「…オレはめいっぱい緊張してるんだけど。そんなに笑わないでよ」
おかしい?
南野君は拗ねたような顔を見せる。
これもきっと、あなたの本当の姿。
「嬉しい、ありがとう…」
そう言うと、南野君はばつの悪そうな顔をした。
「私、いつもここから南野君のことを見てたの…」
窓の外に目をやった。
「あの席だったでしょ」
「…うん、そうだ」
「金曜日のあの時間が、一番幸せだったと思う」
「…そっか」
「………ありがとう」
「…うん」
彼がくれたボタンを、大切に握りしめた。
一緒に教室を出て、もう誰もいない玄関まで行って。
途中、意外なほど誰にも会うことはなかった。
本当に終わっちゃったんだなぁ、そう思うとまた涙があふれてくる。
「…泣き虫だね、さん」
「だって」
うーん、と彼は少し考え込むような仕草をして。
靴を履くのに座り込んでいる私の正面にしゃがみ込んで、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
そのまましばらくそうしているので、何事かと思ったら。
彼はもう一歩そばに寄ってきて、一瞬触れるだけのキスをした。
「涙が止まるおまじない…って思ったら、逆効果だったか」
滝のように流れる涙を止めることができなくて、私も、たぶん彼もひたすら焦った。
っていうか、何!?
今の何!!?
それしか考えられなくて。
彼は困ったように首を傾げたけれど、その顔はほんの少し、微笑んでいる。
「仲良くなるのには時間がかかりそうかなぁ」
そう言って苦笑する。
「…ゴメンナサイ」
「いいよ。じゃあまずは入門編ということで」
南野君はそっと私の手を取って私を立たせると、手を繋いだままで歩き出した。
「…正直さ、卒業前にこういうことするとあとが恐かったんだよね」
一回カノジョと手を繋いで帰るっていうの、やってみたかったんだけどと彼は言った。
「学校は今日で卒業だけど」
門の前で立ち止まって、そう言った。
とは、今日からよろしく」
彼は初めて、私のことを名前で呼んだ。
「…心臓が爆発しないように気をつけます…」
「うん、オレも爆発させないように気をつけるよ」
ほんの少しはおさまった心臓の音も、
胸ポケットにしまった第二ボタンにだけはきっと聞こえていたに違いない、と思った。
卒業、惜しまれる涙だけをいっぱい流したと思ったけれど、嬉しい涙もあった。
本当は何もかもすべてが、今日から始まる。




■やこの妹ちゃんが3月1日に高校卒業だったので触発されて。
 舞台は高校だけれど、小学校、中学校、高校、大学、専門学校…いろいろ、
 卒業生の皆さん、おめでとうございます。




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